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ゆくりなき人のことばの,ふと耳にとまりて



ブログを書き始めて2年近くになるが,題材の選択にあたっては不断の努力が必要である。そのためには,日頃から,頭の中に “材料”を蓄えておかなければならない。筆者は,長年にわたって教職にあり,その関係で,講義,講演,セミナーなど人前で話をすることを生業としてきた。

ふと思いついたことをメモとして蓄え,つぎにあるかもしれない機会に本能的に備えてきた。何ヶ月も先に予定されている学会の講演の場合も,ふと思いついた事柄を紙切れにメモしておくのが習慣になった。

ここで,日本で最初の近代国語辞典 『言海』 を完成した大槻文彦について書いておきたい。高田宏 『言葉の海へ』 には,手帳を四六時中はなさず,耳に聞くこと,幼少時から記憶したことを思い出すたびに書きつける大槻文彦の言葉が再録されている。

酒宴談笑歌吹のあいだにも,ゆくりなき人のことばの,
ふと耳にとまりて,はたと膝打ち,
さなりさなりと覚りて,手帳にかいつけなどして,
人のあやしみをうけ,・・・・・
高田宏『言葉の海へ』岩波同時代ライブラリー(215ページ,1998)


大槻文彦は,杉田玄白,前野良沢を師として,日本の近代化の曙の時代を蘭学とともに歩んだ大槻玄沢の孫にあたる。ふたたび,高田宏 『言葉の海へ』 より引用する。文彦は,祖父玄沢の言葉


およそ,事業は,みだりに興こすことあるべからず,思ひさだめて興すことあらば,遂げずばやまじ,の精神なかるべからず


を座右の銘とし,寝食を忘れて辞書の完成に取り組んだ。苦闘の末に完成した 『言海』 の跋文に,大槻文彦は

おのれ,不肖にはあれど,平生,この誡語かいご服膺ふくよう

と書いている。

大槻文彦は六十六歳から,『言海』 の改訂版 『大言海』 に十年以上も取り組んだが,完成をみることなく他界した。助手を務めた大久保初男によって,十年後の昭和十七年に完成した 『大言海』は,大槻文彦 『縮刷版 新編大言海』 (冨山房) として現在でも入手することができる。

言葉の説明を単に機械的に求めるのであれば,書店に並んだ国語辞典のなかから手ごろなものを購入すれば目的を達する。これで何も困ることはない。しかし,読むほどに興味がつきない 『言海』,『大言海』 からは,

思ひさだめて興すことあらば,遂げずばやまじ

を座右の銘として辞書つくりに打ち込んだ大槻文彦の肉声が聞こえてくる思いがする。

大槻文彦の辞書は,“作った辞書”ではなく,“できた辞書” である。この点は,辞書に限らず,世の中一般に通じることである。日本は今後50年間で30個のノーベル賞を目指そう,そのために必要なお金は国が出そうといった政治家がいる。ノーベル賞もまた,お金を出して作るものではなく,努力の結果として気がついて見ればできているものであることを,この政治家はまったく理解しておられないようである。
# by yojiarata | 2013-01-11 23:35

乾いた花



中学,高校,大学の間,数知れない数の映画を観た。

その中に,いまだに気になる作品がある。

『乾いた花』 (篠田正浩監督,昭和39(1964)年公開,松竹)。映画雑誌には,池部良主演のやくざ映画とだけ記されている。原作は石原慎太郎の短編小説である。公開前に(配給)会社側から難解という理由で 8ヶ月間 お蔵入りとなった後,反社会的という理由で成人映画に指定されたというが,筆者にはそんなことはどうでもよい。


私の書いた小説は数多く映画化されたが,満足した作品は数少ない。
『乾いた花』は自負している作品の一つだが念願かなって篠田監督の手で映画ならではの再表現となった。
現代の人間が芯に抱えている虚無感を見事に描き出している。
コッポラが自分のフィルムライブラリーにこれを加えたのは,むべなるかなと思う。

『乾いた花』原作
石原慎太郎(東京都知事)


ここで,2011年5月17日に英題 "Pale Flower" として DVD とブルーレイがクライテリオン・コレクションから全米発売されたことを付け加えておきたい。

突如として映画界に現れた加賀まりこは驚きであった。映画の撮影時,彼女は10代だったはずである。

賭博場で平然と大金を賭ける冴子(加賀まりこ),村木(池部良)による殺しを無言で見つめる冴子の大きな瞳,バックに流れる武満徹の音楽,冴子は賭博場の隅に,いつも黙って座っていた葉(藤木孝)との情痴の果てに惨殺される。

つい先日,ラジオで篠田監督の講演を聴いた。大変面白い講演であったが,篠田監督は,この映画について,全く触れられなかった。しかし,大切なものと思っておられることは確かだと思う。以前,テレビ番組のインタビューに出演された時,彼の人の後ろの本箱の真ん中に 『乾いた花』 の VHS が置かれていた。

筆者も 同じビデオを所蔵している。気になるので,時々取り出して観ている。
# by yojiarata | 2013-01-09 23:30

青春



はじめに,二人の日本人が中学生時代に書いた次の文章を読んでいただきたい。

ケムブリッヂのバックスの樹立に立ち,鏡のようなカム川に倒影を投げて春浅い灰色の空に聳えているキングス・カレ-ジの禮拝堂を仰いだ時の,あの深い感動は人間の一生にもそうたびたびあるものではないと思う。二十幾つのカレ-ジの禮拝堂から一齊に響き渡る,無数の天使が大空に翔る様を思わせるあの急調子の鐘の音をききながら,緑の芝生を廻って堂内に入り,端の席に坐ってパイプ・オルガンを演奏をきく。この同じ地球の上にこのようなものがあることを知らずに今まで過ごしてきたのか。長い年月の間に高い文化に育まれた人間の精神は,遂にこの世にこのようなものを造り上げていたのか。啓示という言葉がある。獨断かも知れないが,それはこのような場合に使われるのであろう。より雄大な,より豐富なアメリカの事物に接しても感じ得なかったこの強い感銘は何によるものであるか。それは古来この學園に傳った學問の力が背景となっているからであろう,と中學生は自問自答する。そしてその學問に對し,限りない畏怖の気持を感じたことを記憶している。

池田潔『自由と規律』岩波新書


池田潔は,第一次世界大戦の直後,中学在学中にイギリスに渡り,リ-ス・スク-ルに3年,ケンブリッジ大学に5年,ドイツに移ってハイデルベルグ大学で3年を過ごした。科学の歴史に偉大な足跡を遺したキャベンディシュの業績を讃えてケンブリッジ大学に設置されたキャベンディシュ研究所からは自然科学の歴史を変える業績が続々と生み出されてきた。この文章からは,イギリスが長年にわたって培った伝統の重みに瑞々しい感性をもって反応した中学生の池田少年の感動が率直に伝わってくる。

***


日本の博物学の歴史に偉大な足跡を残した南方熊楠について,柳田國男は 『さゝやかなる春 南方熊楠』 のなかでつぎのように書いている。

非凡超凡といふ言葉を,此頃の人はやたらと使いたがるが,何かちつとばかりはた者と変つて居るといふ程度の偉人ならば,むしろ今日は有りふれてゐる時代だといってもよい。現に私なんかの仲間では,骨を折って最も凡庸なるものを,見つけ出そうとしてゐる。ところが我が南方先生ばかりは,どこの隅を尋ねて見ても,是だけが世間並みをいふものが,ちょっと捜し出せそうにも無いのである。七十何年の一生の殆ど全部が,普通の人の為し得ないことのみを以て構成せられて居る。私などは是を日本人の可能性の極限かとも思ひ,又時としては更にそれよりもなほ一つ向ふかと思ふことさへある。・・・・・

国の再興を大いなる夢として,かつかつ生き続けて居る人々にとっては,南方熊楠は大切なる現象であり,又一つの事件でもあった。是だけは忘れてしまふことが出来ない。

『定本柳田國男集 第二十三巻』筑摩書房


南方熊楠は,ロンドンにあって,胸をはって日本を主張し続けた。イギリスの雑誌 Nature には,南方熊楠の研究成果が多数の論文として掲載されている。

是ヲ以テ人ノ父母タルモノ、子ニ旨味ヲ食ハシメ繍錦ヲ 着セシムル事ニ注意センヨリハ、
当ニ幼時ヨリ学術ヲ勉励セシメ、人道ヲ了知セシムル事ヲ務ムベキナリ。

『南方熊楠全集 第十巻』平凡社


この文章は,明治13年,十三歳一ヶ月の南方熊楠が和歌山中学校在学中に執筆した作文「教育ヲ主トスル文」の結びの部分である。

***


宮城道雄が筝曲の歴史上初めての表題音楽『水の変態』を発表したのは14歳の時であった。筆者は,このような素晴らしい先輩をもったことを日本人として大きな誇りに思う。



青春の詩

青春とは人生のある期間をいうのではなく,心の様相をいうのだ。
優れた創造力,たくましき意志,炎ゆる情熱,・・・・・
こういう様相を青春というのだ。
年を重ねただけでは人は老いない。・・・・・
歳月は皮膚のしわを増すが,情熱を失う時に精神はしぼむ。
人は信念とともに若く,疑惑とともに老いる。
人は自信とともに若く,恐怖とともに老いる。
希望ある限り若く,失望とともに老い朽ちる。

サムエル・ウルマン『青春』(岡田義夫訳)


いまから百年近くも前に書かれたこの詩は,世界中の多くの人々の共感をよび,いまも愛誦され続けている。信念を失って干からびた二十歳の老人がいてもおかしくないし,希望に燃える八十歳の青年がいてもおかしくないのだ。

宮澤次郎『感動の詩賦 青春』(糸井出版,第十一刷,1989)
# by yojiarata | 2013-01-08 21:40

東海林太郎 森鷗外を唄う



徳川時代,加茂川と並行して京都市内を流れる運河があった。加茂川から取水して作られたこの運河は高瀬川とよばれた。

高瀬舟は高瀬川を上下する小舟である。
遠島を申し渡された京都の罪人は高瀬舟に載せられて大阪に廻される。
高瀬舟に乗る罪人の過半は,いわゆる心得違のために,
想わぬ科を犯した人であった。
情死を謀って,相手の女を殺して,
自分だけ活き残った男というような類である。

そうゆう罪人を載せて,入相の鐘の鳴る頃に漕ぎ出された高瀬舟は
黒ずんだ京都の町の家々を両岸に見つつ,
東に走って,加茂川を横ぎって下るのであった。

知恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕に,これまで類のない,珍らしい罪人・喜助が高瀬舟に載せられた。

森鷗外


喜助が同心に語る身の上話を題材にして,森鷗外は短編『高瀬舟』を執筆し,中央公論(1916)に発表した。『高瀬舟』執筆の経緯を記した『附高瀬舟縁起』 とともに,岩波文庫に収められている。

『高瀬舟』は次の文で終わる。

次第に更けて行く朧夜に,沈黙の人二人を載せた高瀬舟は,
黒い水の面をすべって行った。


高瀬川は今は干上がり,昔を偲ぶ縁はない。


***



つい先日(12月12日),NHK ラジオ深夜便で,時雨 音羽作詞,長津 義司作曲,『高瀬舟』 (1937年)を東海林太郎が詠うのを聴き,いたく感銘を受けた。以下の歌詞は,筆者が聞き取れる限りの記録である。

人の情けもほそぼそと
今は名のみの高瀬川
のぼりくだりの小舟の夢を
今日も語るか水の音

いつの頃やら入相の
鐘に散る散る京の夢
罪と役目を一緒に積んで
難波下りの高瀬舟

水の流れも人の身も
ままにならない浮世草
暗い心と明るい心
空にきのうの月ひとつ


詩とメロディーの幽玄な美しさ。東海林太郎は低い声で,静かにゆっくりと鷗外を唄う。それまでの歌謡曲,その後の歌謡曲とは全く異質のものである。エレジーとでも言おうか。

『高瀬舟』は,2年後の1939年に発表され大ヒットとなった『名月赤城山』よりも,その後のどの作品よりも,際立っている。東海林太郎が遺した最高の作品だと思う。それどころか,日本の歌謡史に残る傑作である。是非とも読者に聴いていただきたいのであるが,NHK が所蔵する録音の他は,歌詞も何もかも,いまや手に入る記録は存在しない。





















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# by yojiarata | 2013-01-06 23:10

年賀




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大谷四郎『勘亭流のデザイン』(グラフィック社,1976,第三刷)より

# by yojiarata | 2013-01-01 00:00