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1971年1月,アメリカ・カリフォルニア州パロアルトに到着。それから2年間,スタンフォード大学医学部薬理学科のオレッグ・ジャーデツキー教授の研究室に客員助教授として滞在した。 アメリカ滞在の2年間の間に,満足すべき研究成果は得られなかったが,その一方で,アメリカを含めた西欧先進国の文化についてかけがえのない多くのことを学んだ。 1) エコ ロジー 最初に住んだアパートの駐車場で Ecology Now のステッカーを貼った自動車を見た。今では誰一人として知らない人のない エコロジー(エコ) なる言葉を知ったのは,この時が最初である。 しかし,今振り返ってみると,この大学では エコ どころではなかった。実験に使った後の溶媒のベンゼンを何処へ捨てるのか同僚(大学院学生)に聞いてみると,ここと言って流しを指差した。日本では既に,廃液の処理が問題になり始めていたので,同僚に,そんなことをしていると貴殿の大切な大地が汚染されるではないかといってみたが,彼氏はそんなことは考えたこともないと悠然としていた。 駐車場の自動車の持ち主はどのように考えて,あの巨大なステッカーを貼ったのか聞いてみたかったが,結局その機会を逸してしまった。 あれから40年以上が経過し,アメリカ大統領の掛け声の下,地球の汚染に政治的な配慮が払われ,それが雇用の創出に繋がっている。 2) 英語の表現 筆者は,大学院学生の頃から英語に興味をもち,自分では人並みに英語ができると思っていた。これは全くの思い違いであることをすぐに気が付いた。今思えば,当たり前のことであるが,英語に限らず言葉は生きている。 倉石武四郎 『中国語五十年』(岩波新書,1973) 平野敬一 『マザー・グースの唄 イギリスの伝承童謡』(中公新書,1972) カンザス出身のスタン,現在テキサス大学の生化学の教授をしているキャッシー,レバノン生まれ,ハーバード大学出身のラジャには,毎日のように,生きた英語を教わった。彼らも,基本的には英語ができるけれど,生きた英語が全く駄目な小生に,喜んで付き合ってくれた。 思い出したので,余事ながら付け加えておくと,実験室や廊下を裸足で歩き回るキャッシーに,危ないから止したほうがといってみたが,全く,われ関せずであった。 「わが英語の先生方」から学んだことは数知れないが,ここでは,ほんの少しだけ書く。 Presumably 研究室のミーティングで,Presumably は何度も聞くのだが,自分の理解としては,Presumably が probably, possibly とどう違うのか全く解からないのには当惑し,先生方に質問を繰り返した。 例えは,英和辞典で,Presumably をひいてみるとよい。 adv 思うに, たぶん (probably). The report is presumably correct. その報道はおそらく正確であろう. presume の項には,推定する,思い込む,【法】《反証がないとき》真実と推定する。想像する,・・・と思う,考える。想定[仮定]する, 含意する [株式会社研究社 リーダーズ+プラスV2] これでは何のことか,理解不能である。研究室のミーティングで,あるポスドクが,presumably ・・・ と発言する。別のポスドクが直ちに, There is no reason to presume, Jim.! 切り返す。この国では,年功序列という概念は研究の場にはない,大げさに言えば闘わなければ生き残れないのである。 何度も先生方に食い下がった結果,私が遂に納得できたのは,キャッシーの次の説明である。 ある会社の重役である女性(当然,毎日出勤して重役室にいる)に関する問答を想定。 Presumably she is in her office at the present time. But I don't know how probable this is. Because it is possible that she is temporarily out of her office to meet some other person. Yes か,No か 貴殿は,これが一体何だかわかるでしょう? You know what this is. はい,わかりますよ。 Yes, I do. いいえ,わかりません。 No, I don't. つぎに, 貴殿は,これが一体何だかわからないでしょう? You don't know what this is. 肯定するなら,日本語では,はい。解かりません。 英語では,No. と答えなければばらない。 つまり,日本語では,肯定,否定と並ぶことが許されるが,英語では,否定の次は否定が続き, No, I don't.でなければならない。 逆に,わかりますよ,と言いたければ, 日本語では,いいえ,わかりますよ 英語では,Yes, I do.となる。 更に厄介なのは, 貴殿は昨日彼女に会わなかったでしょう? You did not meet her yesterday? はい,会いませんでしたよ。 No, I did not. いいえ,会いましたよ。 Yes, I did. 一言で言えば,英語では, Yes の後には肯定の文が,No のあとには否定の文が続かねばならない。 つまり, Yes, I did not. No, I did. とは決してならないのである。 映画 『告発の行方』(1988)に次の会話がある。事件の現場にいた学生ケンに,裁判で証人に立つことを依頼する弁護士キャサリン。ケンが,友人の身を守るため,断ろうとする場面。 ケン:僕は現場にはいなかった。I was NOT there at that time. キャサリン:いいえ,貴方はいました。Yes, you WERE! 当たり前のことをクドクド書くなと仰る方は,実践で腕を見せて欲しいと思います。 #
by yojiarata
| 2011-04-17 18:11
このブログでも書いたが,私は大学院博士課程の学生の頃から現在に至るまでの50年余り,核磁気共鳴(NMR)を友として研究生活を送ってきた。この間,数多くの素晴らしい友人に恵まれ,この上もなく幸せであった。
今日,その友人の一人から新しい本(2011年4月22日発行)が届いた。一気に読み通した後,大きな感動を味わった。 ![]() 一言にしていえば,行間から執筆者の肉声が,熱気が,聴こえるのである。 NMRをテーマとして,これまでに数多くの著書が執筆されているが,このような著書にこれまでに出会ったことはない。 このような著書が出来上がったのは,編集を担当された朝倉哲郎博士(東京農工大学教授)のアイディアによるところが大である。その特長は以下の通りである。 1)40人の執筆者を選び,それぞれの執筆者に,印刷4ページで,自分が最も興味を持ち,研究を続けているテーマを簡潔にまとめる。 2)各項目の最後には,数行の[最後のひと言]が付けられる。 3)合成高分子・先端材料,生体分子,医療・医薬,分析・NMRの進歩の4部門に,それぞれ10名の執筆者が,割り当てられている。 多くの執筆者の作品を単に並べて印刷することは容易である。しかし,この本は違う。執筆者個人,個人の肉声が行間から伝わってくるのである。とくに,[最後のひと言]からは,研究者としての熱烈な思いが手に取るように伝わってくる。 仕事に熱中している内に,気が付いてみれば夜が明け,コーヒーを飲みながら,研究者を続けていてよかったとしみじみ思う[ひと言],新しい研究が成功し,その後,次のアイディアを夢中になって考えている内に,何日も眠れなない夜が続く経験を語る[ひと言]。 感動がつぎの研究を生む。 これまでに出会ったことのない類いまれな著書をもたらしたのは,編集を担当された朝倉博士のNMRに対する熱い思いである。朝倉博士,40人の執筆者の方々に心から敬意を表したい。 #
by yojiarata
| 2011-04-14 21:15
西岡剛が左足を痛めて故障者リストに入った。走攻守揃った西岡にかける期待が大きかった。滑り出しの7試合で順調に大リーグになじんでいただけに残念である。 西岡負傷の報に接し,60年以上も前の中学3年の頃を突然思い出した。我々野球少年は午前6時に全員が集まった練習に夢中になっていた。今でいうタブロイド誌には,一面にいつも野球の記事と大きな写真が掲載されていた。誰かが必ずこの新聞を買ってきた。別当薫は我々の憧れのスターであった。 1942年,慶応大学を東京六大学リーグの優勝に導いた別当薫は,1948年,再開された東京六大学リーグで,慶應の主将として優勝に貢献した。 一時,都市対抗野球に加わった別当は,1948年,景浦将が在籍していた大阪タイガース(現在の阪神タイガース)に入団した。その活躍は華々しく,我々を熱狂させた。 首位打者を目前にしていた時,無念の故障によって別当薫は残りのシーズンを棒にふった。我々野球少年にとって大ショックであった別当の故障の詳細は,残念ながら思い出せない。ウェブで調べてみると,別当薫はこの年,89試合に出場,打率.328,ホームラン13本の記録を残している。 翌年の1949年には,別当薫は完全復活,137試合に出場,ホームラン39本,打率.322の記録を残した。 1950年,毎日オリオンズに移籍,この年,最多安打,ホームラン王,打点王,最優秀選手,日本シリーズ最高殊勲選手となる。 別当薫は,生涯で,ベストナイン6回,オールスターゲーム出場6回の記録を残し,1988年には野球殿堂入りを果たしている。 あれから60年有余,故障者リスト入りの西岡は,本拠地のミネソタでの開幕戦のセレモニーに松葉杖姿で現われた。ファンからの暖かい声援に接し,”いいチームにこられた。・・・ 自分を見失わず一日でも早く治したいなと思います”と語っている。 私は,西岡剛は間違いなく,第2の別当薫になると信じている。 #
by yojiarata
| 2011-04-09 18:15
学生時代,都電の線路を渡った向こう側の本郷西片町のあたりをふらふら歩き回ることがよくあった。途中のパン屋さんで大好物のあんパンを買う楽しみもあった。ある時ふと見るとサトーハチローと表札の掛かった家がある。ア これが,あのサトーハチローの家かと思った。 当時テレビはこの世に無く,ラジオの全盛時代であった。放送は NHK の第一,第二のみ。現在のテレビと同様,ラジオに出演する常連がいた。『話の泉』には,サトーハチローのほか,堀内敬三(音楽評論家),徳川夢声(漫談家),山本 嘉次郎(映画監督),太田黒元雄(音楽評論家),春山行夫(詩人,随筆家),渡辺紳一郎の諸氏が出演して,薀蓄を傾けていた。子供の頃もっとも印象に残る番組であった。司会は最初の司会者は和田信賢,後の司会者では高橋圭三が記憶に新しい。 サトー八ローの父は佐藤紅緑,少年小説を書いていた。そのなかにあった野球小説が,筆者が野球少年になる切っ掛けの一つだったように思う。70年前でありながら,剛速球の投手(名前は桜井だったと記憶している)を如何にして打つかの少年の心境があの頃の私の心を捉えた。【桜井の手から離れたボールに夕日が当たり,キラッと光るボールに向かうバッター】,筆者の記憶はここで途切れる。 佐藤紅緑は結婚と離婚を繰り返し,生活が目茶目茶な男で,数々の奇談を残している。ちなみに,紅緑の最初の妻がハチローの母である。その間の事情は,八ローの異母妹である佐藤愛子の大著『血脈』に詳しい。この小説を基にドラマ化された 『ハチロー 母の詩 父の詩』 が平成17(2005)年,1月から3月にかけて9回に分けて放送(NHK)された。ハチローの母は紅緑に離縁され,仙台の実家で病死した。紅緑(原田芳雄)の宴会の席で,八チロー(唐沢寿明)が『小雨の丘』(サトーハチロー作詞,服部良一作曲,昭和15(1940)年)を歌う。号泣する紅緑。 私は,『小雨の丘』を聞くたびに,若くして他界した母を思い出す。現在,YouTube で,高峰三枝子,伍代夏子,中村美律子の歌でこの曲を聴くことができるが,演出も何も無くただ淡々と歌う小夜福子のオリジナル録音(昭和15(1940)年7月,『青春歌年鑑 戦前編④ 昭和15年~20年』)がとりわけ印象深い。 思い出すのは 黒澤明監督作品 『酔いどれ天使』 (昭和23(1948)年),当時は配給制の医師用アルコールまで飲んでしまう酔いどれ医師(志村喬)がヤクザ(三船敏郎)と喧嘩になり,手当たり次第にモノを投げつれる場面,志村喬が左利きであることを知った。病院の前に広がるどぶ池,毎晩そこにやってきてはギターを弾く若い男,曲は決まって 『小雨の丘』。 この映画の音楽を担当した早坂文雄(1914-1955)は,16歳で父が出奔,17歳で母が病死した不幸な生い立ちの人である。もしかしたら,あの 『小雨の丘』 にも,早坂の思い出が込められているのかもしれないと思った。 永井荷風の母・恒は,荷風の兄・威三郎と同居。荷風は,その威三郎と絶交関係にあり,病床の母を訪ねることは最後まで無かった。昭和12(1937)年の日記から。 九月九日。晡下雷鳴り雨来る。坂井晴次来り母上昨夕六時こと切れたまひし由を告ぐ。 ・・・ 雑司が谷墓地永井氏塋域に葬す。享寿七十六。追悼。 [新版 断腸亭日乗,第四巻(岩波書店,2001)] 長谷川伸『瞼の母』より,番場の忠太郎と母・おはまの別れの場面 ![]() ・・・ こう上下の瞼を合せ,じいっと考えてりゃあ,逢わねぇ昔のおっかさんの俤が出てくるんだ ― それでいいんだ。(歩く)逢いたくなったら俺あ,眼をつぶろうよ。(永久に母子に会うまじと歩く) ・・・ #
by yojiarata
| 2011-02-23 20:22
母は,なにかというと泣いていた。子供の頃は,母親というものは,泣くものだと思っていた。小学校に入る前,母に連れられて,母の実家にたびたび行った。田舎の家の暗い土間で,母が祖母と額を寄せて泣いていた。あとになって,原因は,父親の素行らしいと知った。 小学校で,担任の先生が転任されることになり,母子が出席して送別会が開かれた。泣いていたのは私の母だけだった。母は映画と相撲のファンであった。というよりは,当時は,映画館に行って映画を見るのと,ラジオで聴く相撲くらいしか,楽しみがなかったのである。相撲と言えば,和田信賢さんだった。双葉山の70連勝が消えたときのアナウンサ-も,和田さんだったと聞いている。その和田さんが,昭和27(1952)年夏,パリで客死された。サトウハチローさんが自作の詩『和田信賢に捧ぐ』を朗読するラジオの前で母は泣いていた。 若いときに見たルドルフ・バレンチノを話す母の顔は,青春そのものであった。おそらく青春時代は,泣くことはなかったのであろう。母の涙はいつ頃から始まったのか分からない。気がついてみたら,母はいつも泣いていた。母は,女学校のとき聞きかじったらしい[結婚は恋愛の墓場である]という言葉をよく口にしていた。 母は,結婚後は好きな映画もほとんど見ていなかった。母と一緒に映画を2度だけ見たことがある。中学生になったばかりの頃の,イングリッド・バ-グマン,シャルル・ボワイエの『ガス燈』,グリア・ガ-スン,ロナルド・コールマンの『心の旅路』である。ロナルド・コールマンがグリア・ガースンのことを思い出すラストシーンでは,母はいかにも嬉しそうに小声で笑っていた。その後,映画も変わった。シネラマの巨大な画面を見て帰ってきて発した母の驚いた声は,いまでも覚えている。 デパ-トが好きだったが,エスカレ-タ-にはどうしても乗れなかった。運動神経ゼロという感じだった。女学校のときバレ-ボ-ルで親指を突き指し,指を曲げると痛いのは一生治らなかったようである。 大学を受験するため上京するとき,冷え性でよくおなかをこわした私のために,“白金懐炉”を買って来た。私が大学に入学したあとがまた,大変だった。当時,東京へは,夜行で14時間かかった。出発のときは,必ず駅まで見送りに来る。そして必ず泣くのである。これには閉口した。泣かれるのが面倒臭くなり,母と次第に疎遠になってしまった。母は,夏休みで帰郷した私を,ピョンピョン跳ねながら出迎えた。 母が59歳で他界した夜,ひとり朝まで母に付き添った。母はおでこが大きく,そのため眼がくぼんで見えたため,子供のときには“デボチンの眼ひっこみ”とからかわれていたという。夜中に,デボチンに自分の額を当ててみた。出棺前,母の胸に45回転のレコードを供えた。“あの曲を聞くと涙が出る”と母が言っていた『マドンナの宝石』が,近くのレコ-ド店で見つかったのは偶然としか言いようがない。蓋われた母を前にして,あのときの白金懐炉と冷たかったデボチンを思い出し,涙が襲った。母の一生分の涙が一時に出た。私はやはり母の子供だと思った。 #
by yojiarata
| 2011-02-19 03:03
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