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がんの薬 巻の一 がんを哲学する



ご隠居さん 長い間,ゴソゴソ熱心に記事を書いておられましたね。
いったい,何の話?

がんの薬 について,専門家のご意見を伺うことにしました。

これまで,2回にわたって,日本で最大手の製薬会社の一つである第一三共(株)で,新薬開発の陣頭指揮をとってこられた平岡哲夫博士に,日本の創薬について,お話を伺いました。

創薬 日本の現状と将来 Ⅰ-Ⅵ (2011年6月執筆)



創薬・新版(2016) 日本の現状と将来 巻の1,巻の2 (2016年12月執筆)



いずれの記事も好評を博しました。

そこで,多くの人が関心を持っておられる がんの薬 の現況について,【創薬】,【創薬・新版】の場合と同じように,質疑応答のかたちで問題を取り上げることにしました。

今回は春山英幸博士(第一三共 Global Head of Research,日本製薬工業協会・研究開発委員会委員長を歴任後,現在は,第一三共 常勤監査役)に,私(荒田)の質問に答えていただくようお願いしました。その結果を,春山さんのコメントを伺いながら,私が編集し 【 がんの薬 巻の二 これまで・現在・これから Ⅰ,Ⅱ 】 として掲載します。

【 がんの薬 巻の一  がんを哲学する 】 は,がんの薬について,詳しい質疑応答を掲載するに当たっての,” 前座 ” に相当する部分です。私自身が執筆しました。

それでは, 【 がんの薬 巻の一 がんを哲学する に進みます。


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1)敵を知り,己を知る


敵を知るには,まず,守るべき味方を知らねばなりません。がんの薬について知るためには,がん そのものについての最小限の知識が必要です。

医師による診察と向き合う一般の人々には,がんとは何か,現代の科学ががんとどう向き合っているのか,今後の展望はどうかなど,がんに関する教養を身に付けたいと希望している方が少なくありません。

事実,一般読者を対象として,がん の著書が数知れず出版されています。これらの著書は全て医師によって執筆されたものです。私は可能な限りこれらの著書に目を通しましたが,残念ながら,一般読者の疑問に応えうるものに出会うことはありませんでした。私自身の結論は,医学と薬学の関係の原点に立ち返り,がんの生物学について,徹底的に熟慮することなくければ,先が見えてこないということです。

私は,がんについて長年勉強し,一冊の本を書きました。書くからには基礎的な知識を徹底的に身に着け,自分の身にしみこませることが必須です。

私は,大学の基礎課程に在籍中,同じクラスにいた青木幹雄君と友達になりました。この偶然が,私が がんの生物学に熱中するきっかけになりました。その後,青木君は吉田富三門下で病理学を専攻し,私は薬学部に進学しました。

私が何故,がんの生物学に熱中することになったのか。それは,がんをストーリーとして語る 青木君の類ない才能でした。日本中を探してもこんな医学者はいませんよ。

中村君による 「蒟蒻問答 古典を輪切りにする,万葉集,古事記」 の記事でも書きましたが,物事の本質に迫るには,直感とズバリと指摘する ”直感派の発言” が本質的です。青木君は,古典に示した中村君の同じ意味で,直感派の巨匠であると,私は深く尊敬しているのです。

最初に言葉を交わして以来,今日まで60年余り,時々会ってお茶を飲みながら雑談をしたのですが,気が付いてみると,いつの間にか がんの話になっていました。青木君のちょっとした話に,好奇心の強い私が突っ込む,漫才でいう,ボケ(青木)と突っ込み(荒田)を延々と続けてきました。

その結果,出来上がったのが

荒田洋治『がんとがん医療に関する23話  がん細胞の振る舞いから がん を考える』(薬事日報社,2009)

です。自分でいうのはおかしいかもしれませんが,この小冊子を手元に置いておかれれば,がん の薬の話を聞く場合の理解に役立つと思います。

この小冊が,理系であれ,文系であれ,がん に関する広い意味での教養を身につけたいと考えておられる読者のお役に立つことを願っています。

ここで,最近の統計データを引用しておきます。

国立がん研究センターがん情報サービス

をご覧ください。

例えば,男性,女性,男性・女性の合計

2013年のデータ
胃がん,乳がん,胃がん

2015年のデータ
肺がん,大腸がん,肺がん

となっています。がんも時代とともに変わるようですね。

詳しいことは,がんセンターの資料を熟読してください。

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2018年2月22日 追記

医学専門雑誌・ランセットの最近号に,国際規模で集められた極めて重要な統計データが収録されています。ぜひ,目を通してください。

Global surveillance of trends in cancer survival 2000–14
(CONCORD-3): analysis of individual records for
37 513 025 patients diagnosed with one of 18 cancers from
322 population-based registries in 71 countries

国立がん研究センター がん生存率の推移に関する大規模国際共同研究2000-2014年に診断された3,750万症例の5年生存率を公表 もご覧ください。

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2)人類と病気との闘い


地球に誕生して以来,人類はありとあらゆる病気に悩まされ続けてきました。人類と病気の闘いは,さながらモグラたたきのようです。コレラ,チフス,ペストなどの急性伝染病,梅毒,結核などの慢性伝染病をその時その時で何とか押さえ込んだ今,気が付いてみると,あたかも引き潮になって姿をみせる昆布や岩のように,海底で長い間出番を待っていた脳梗塞,心筋梗塞,そしてがんが我々の前につぎつぎに姿を現す事態となりました。

がんは先史時代から人々を悩ませていたようです。ジャワ原人の骨やスイスのミュンジンゲンで発見された新石器時代の戦士の上腕骨に「骨肉腫」(骨の悪性腫瘍)の痕跡が認められるということです [→ ピエール・ダルモン(河原誠三郎,鈴木秀治,田川光照訳)『癌の歴史』(新評論,1997,29-30ページ)] 。

2千年以上も前に生きたギリシャの哲学者ヒポクラテスによる著作には,すでに乳がんについての記載がみられます [→ ヒポクラテス(小川政恭訳)『古い医術について 他八篇』(岩波文庫,1963)]。体の表面に出来た乳がんのかたちが,甲羅から足を伸ばしたカニのかたちに似ているところから,カニを語源とするcancer(英語), Krebs(ドイツ語),Carcinoma(ラテン語)が用いられることになったといわれています。


3)がんとは何か

腫瘍は,地理的にはある国の一部でありながら,独立を主張し,その国の憲法を全く無視して勝手気ままに行動して勢力を拡大していく “革命自治政府” のようなものです。

腫瘍は,“ 新生物 ” と “ 悪性新生物 ” に分類されます。新生物は,腫瘍が発生した部位の正常の細胞と姿,かたちがほとんど変わらない細胞から成り立っています。

新生物は良性腫瘍と同義語です。良性腫瘍の細胞は増殖が遅く,腫瘍が一定の大きさに達すると増殖が止まります。その結果として腫瘍は局所にとどまり,浸潤も転移も起きません。良性腫瘍は,必要なら手術によって摘出することも可能です。特別の場合を除いては,良性腫瘍が致命的になることはありません。よく知られた例外は脳腫瘍です。硬くて狭い閉鎖空間に発生した腫瘍は,たとえ良性であっても一命に関わることがあります。

一方,悪性新生物すなわち悪性腫瘍は,自らの周りの組織を破壊しながら増殖を続け,さらに血液,リンパ,体腔などを介して身体の様々な場所に飛び火します。悪性新生物,悪性腫瘍,がんは全て同義語です。


がんの多発地帯:体の表面

人の身体の至るところから がんが発生します。しかし,はっきりといえることがあります。それは,結合組織や支持組織などからも,がんは発生するけれど,ほとんどのがんは身体の表面を覆っている上皮組織から発生するという経験的事実です。すなわち,身体の “表面” は,がんの多発地帯なのです。

つぎのような仮想の実験を想像してください。

体内の組織に触っても傷つけないように注意して作った細くて軟らかいプラスティックの長い棒を口からそっと差し込んでみます。この棒は食道から,胃,小腸,大腸,肛門を通って身体の外に出ます。すなわち,食道から肛門にいたる消化管の上皮組織はすべて身体の表面です。

肝臓細胞も上皮細胞すなわち表面です。お酒が過ぎると,胃液や胃の内容物と一緒に,胆汁を吐きます。肝臓細胞が口につながっているからです。人の身体からは尿も出れば,汗も鼻水も出ます。体液が出てくるところは,すべて表面です。

似たような状況を想定すれば,子宮頸部,子宮体部の上皮組織はいずれも表面であることが理解していただけるでしょう。子宮体部の上皮組織を形成する子宮内膜は,生理のたびに剥がれ落ちて,血液とともに体外に流れ出ます。

別の例を挙げれば乳管です。母乳を作る乳管細胞が乳頭を通って外に繋がっていなければ,おなかを空かせた赤ちゃんの口に母乳は入りません。肺の上皮組織も表面でその機能を発揮します。酸素を取り込み,二酸化炭素を吐き出すためには,肺胞の表面が口,鼻につながってなければなりませんから。


実質とストローマ

上皮組織は,たとえば胃では粘膜上皮組織として,消化酵素の分泌などに関わっています。このように,ひとつの塊となって,生きていくための機能を発揮する細胞の集団を “実質” とよびます。

一方,結合組織は身体が出来上がっていく過程で生じた細胞間の空隙を埋め,身体を支える役割を果たします。ここで注意していただきたいのは,上皮細胞には,自分自身の活動を支えていくために必要な酸素と栄養の補給路が備わっていないということです。このため,上皮細胞の生存に必要な酸素と栄養は,結合組織に大量に存在する血管によって供給されています。

結合組織は “間質あるいは “ストローマ” と総称されます。以後,ストローマを用いることにします。ストローマは,実質が心おきなくその使命を実行するために用意された,普遍的かつ必要不可欠な組織です。

強調しておきたいことは,“上皮のあるところにストローマあり” ということです。すなわち,上皮とストローマはつねに一組のセットとして考えるべき存在です。“基底膜” によって隔てられた “上皮” と “ストローマ” の関係は,正常組織の場合であっても,悪性腫瘍の組織であっても概念的には変わりはありません。

組織の空隙を埋め,実質を支え,実質を構成する細胞に血管を通じて酸素,栄養を供給する働きをするのがストローマです。たとえてみれば,
登山する部隊(実質)の食料などを備蓄してそれを支える役割を受け持つのがストローマです。


“癌”と“がん”と“ガン”

現在,書籍,新聞などでは,“癌”と “がん”と “ガン” という風に,漢字と平仮名と片仮名を見かけます。言語学的に根拠はないと思うのですが,平仮名で “がん”と 書くと,癌と肉腫の両方を含むということになっているようです。

“国立がんセンター” は,癌という字を使わず,あえて平仮名で“がん”と書いています。以前,大塚にあった“癌研”(財団法人癌研究会癌研究所)では,漢字の “癌” を使っていました。癌研は,吉田富三先生が所長をしておられた頃から,癌には肉腫が入らないから困るといって,気にされていたということです。片仮名の “ガン” は病理の専門家は使わないようです。


良性と悪性

良性と悪性は,言葉の上では明確に区別がついているといえばついているのですが,現実的には必ずしもそうとも限りません。良性にもいろいろな種類があり,良性腫瘍が悪性化することもあります。さらに困ったことに,組織全体をみると,一部が良性,一部が悪性という場合さえ知られています。当然といえば当然ですが,生物の理解の難しい点です。

診察を受ける側にとっては,良性と悪性の区別は極めて重い意味をもちます。がん検診で,“ 腫瘍がありますが,幸い良性です ”と告げられれば安心します。しかし,実際には,良性と悪性の区別は微妙なことが少なくありません。診断した医師から,「現在のところ心配はありませんが,半年か一年したら,念のためもう一度検査しましょう」と告げられることもあります。その時,その時で,担当の医師から納得がいくまで説明を聞いていただきたいと思います。


がんは “どうにもとまらない”

がんの特徴を直感的に理解するには,がんと炎症を比較してみるのがよいと思います。炎症は,日常生活でも何となく使われているのですが,医学の定義は必ずしも明確ではないようです。赤くなって,熱をもち,燃えるような感じがすることから,ドイツ語でも英語でも,燃えているという意味の言葉を使います。このため,日本語でも,漢字の “炎” をあてることになったのでしょう。

炎症は肺炎,腹膜炎,虫垂炎,腱鞘炎などのように炎という語尾で終わっているもののほかに,炎とは関わりない名前でよばれている結核,梅毒などの伝染性の疾患にも認められます。我々が遭遇する病気の多くが炎症を伴います。結核や梅毒の病巣が,初期の段階から全身に拡がっていく有様は,がんの場合と驚くほど似ています。がんも炎症も,病気の舞台が同じ人体であることを考えれば,当然といえば当然です。

しかし,炎症はその原因を取り除けば消えてなくなります。これに対して,がんは,原因が何であれ,いったん進行が始まると,“どうにもとまらない”のです。ここが,がんと炎症が決定的に違う点です。


4)がんの治療

がんの治療には,外科手術,放射線療法,化学療法が用いられます。しかし,がんが進行してしまった場合,少なくとも現在では,化学療法が最後の “命綱” です。身体の方々に散らばってしまったがん細胞を殲滅するには,相手の居場所を特定して行う外科手術,放射線療法は無力だからです。


巻の二 がんの薬 これまで・現在・これから(Ⅰ) 


に続きます。
























by yojiarata | 2018-02-09 22:00 | Comments(0)

がんの薬 巻の二  これまで・現在・これから(Ⅰ)



以下,抗がん剤の名称,キーワードといえる重要な概念などは,文中,赤字で表示します。




抗がん剤の変遷


荒田

そもそも,薬という概念が歴史に登場するのは,いつ頃でしょうか。


春山

中国最古の薬物書として「神農本草経」が知られています。本草とは今で言えば生薬のことで,この本には365種の薬物が記載されています。後漢から三国時代に当たる,1世紀から3世紀頃までに編纂されたと考えられています。神農(しんのう)というのは中国の古代伝説上の存在で,百草を嘗めて効能を確かめ緒人に医薬と農耕の術を教えた神とされています。

「神農本草経」を編纂した実在の人物というわけではありませんが,中国文明発祥の時から,薬というものの存在は意識されていたということなのではないかと思います。

また,メソポタミアでは,B..3000年頃には,芥子(けし)が栽培されていたことを示す記録が出土しています。ギリシャ時代になると,その樹液から得られたアヘンが鎮痛剤として用いられていました。西洋医学の祖とされるヒポクラテスは,セイヨウシロヤナギの樹皮を熱や痛みを和らげるために,また葉は分娩時の痛みの軽減に用いていたと言われています。そうすると,なぜ効くかということはともかく,古代文明発祥の時から薬というものの存在は認識されていたのだろうと考えます。

余談ですが,セイヨウシロヤナギの示す鎮痛作用の本体は,19世紀に入ってからサリチル酸であることが明らかにされました。サリチル酸で問題となっていた胃腸障害を軽減した鎮痛剤としてアセチルサリチル酸がみいだされ,アスピリンの商品名でバイエル社から発売されたのは,1899年です。

荒田
初めに,現在使われているがんの薬について,最新の治療薬までに,どのような変遷を遂げていたかを簡単にたどっていただけませんか。


私(荒田)の知る限り,シスプラチン がありますね。ウェブには次のような記述があります。

シスプラチンは,1845年にイタリアの化学者ミケーレ・ペイローネ(MichelePeyrone,1813-1883年)により錯体の研究材料として合成され,「ペイロン塩(Peyrone's salt)」とよばれた。


1965年,アメリカ合衆国のバーネット・ローゼンバーグ(Barnett Rosenberg)らは,細菌に対して電場が及ぼす影響を調べている時に,偶然プラチナ電極の分解産物が大腸菌の増殖を抑制し,フィラメントを形成させることを発見した。その後1969年には,ローゼンバーグらにより白金化合物の大腸菌に対する細胞分裂阻止作用を応用して癌細胞の分裂抑制に対する研究が行われ,その結果ペイロン塩,つまりシスプラチンが動物腫瘍において比較的広い抗腫瘍スペクトルを有する化合物であることが判明した。


1972年にはアメリカ国立癌研究所(NCI)の指導で臨床試験が開始されたが,強い腎毒性のため,いったんは開発が中断された。しかし,その後シスプラチン投与時に大量の水分負荷と,さらに利尿薬を使用することによって腎障害を軽減することが可能となった。その後の臨床開発により,1978年にカナダ,アメリカ等で承認され,1983年に日本で承認された。

荒田

抗がん剤全般については,如何でしょうか?

春山

抗がん剤の開発の歴史を網羅的に語ることは,私の能力を超えますので,私自身,抗がん剤の進化のマイルストーンとなったと考えている代表的な薬剤について時系列的に述べることによって,いささかなりともご質問の回答になるよう努めたいと思います。

シスプラチン の発見の経緯は先ほど引用されたネット上に書かれている通りです。その抗がん効果は,DNA上で近接するグアニン残基同士を化学的に架橋することによって,細胞分裂を停止させることに由来します。

同じように,DNA鎖を架橋することによって細胞分裂を停止させる薬物にシクロフォスファミドがありますが,この薬物の起源をたどれば,第一次世界大戦中に毒ガスとして開発されたマスタードガスに行き着きます。

開発時期が白金製剤と同じ頃の他の薬剤の例をもう少し示しましょう。例えば,急性骨髄性白血病の標準治療に用いられているシタラビン商標名 キロサイド,以下,カッコ内に商標名を記します)はヌクレオシドのアナログで,DNA鎖中に取り込まれたところで,複製中のDNA鎖の伸張が停止します。また,パクリタキセル(タキソール)は,微小管を安定化させることで微小管のダイナミクスを抑制し,正常な細胞分裂の進行を妨げます。


抗がん薬の種類と作用機序
化学療法剤,分子標的薬,免疫チェックポイント阻害剤


 化学療法剤

20世紀中に開発・上市された抗がん剤は,作用点は異なっても,細胞分裂を停止させるという点では,共通の機構によって抗がん効果を示す薬剤でした。これらの薬剤は,現在でも臨床で用いられていますが,次に述べる分子標的薬との対比において,化学療法剤とよばれています。

【荒田注,上市(じょうし),新製品を初めて市場に出すこと。[広辞苑第六版]

● 分子標的薬

遺伝子操作技術が医薬品の探索研究に本格的に導入されたのは,1980年代になってからだと思います。その成果の一つとして,細胞増殖シグナルの分子機構の詳細が解明されました。正常な細胞増殖は,生物の発生・分化に重要な役割を果たしていますが,がん化した細胞では,遺伝子変異により,増殖シグナルが常にオンになっています。この無秩序な増殖シグナルを遮断することにより,抗がん作用を示す薬物を分子標的薬といいます。二つの例を示します。

最初に紹介したいのは,ハーセプチン(一般名;トラスツズマブ)です。ハーセプチンは,受容体型チロシンキナーゼに属するHer2 タンパク質を認識する抗体医薬で,1992年から臨床開発が開始され,FDA 承認は1998年,日本では2001年に,「HER2過剰発現が確認された転移性乳がん」に対する治療薬として承認されました。Her2 は1986年に,ヒト上皮細胞成長因子受容体に類似の受容体型チロシンキナーゼとしてクローニングされました。

一般に,受容体型チロシンキナーゼに属するタンパク質は,共通の機能部分から構成されています。細胞膜を貫通する形で存在していて,細胞の外表面から突出した部分は外部刺激を受ける部分で細胞内の部分は,タンパク質にリン酸基を付加する酵素活性(キナーゼといいます)をもっています。休止状態では単量体として存在していますが,外部刺激に反応して二量体を形成します。二量体化が引き金となって,キナーゼ活性が惹起され,細胞質内の特定部位に存在するアミノ酸のチロシンがリン酸化されます。チロシンがリン酸化されると,まるでドミノ倒しのように一連のキナーゼの連鎖反応が開始され,細胞増殖が引き起こされることになります。

乳がん患者,あるいは胃がん患者の約2割で,がん組織におけるHer2の過剰発現,恒常的な活性化が観察され,ハーセプチン はこのような患者に対して有効です。

ハーセプチン は,抗体分子ですので,標的細胞の細胞表面部分に結合することによって,細胞内への増殖シグナルの伝達を遮断します。一方,低分子医薬の場合には,細胞の中に入って,細胞増殖に関与しているキナーゼの連鎖反応を阻害することが可能です。

そのような例として慢性骨髄性白血病の治療に用いられているグリベック(一般名;イマチニブ)を紹介します。1998年から臨床開発が開始され,欧米で2001年に承認を取得しました。日本では,慢性骨髄性白血病等を効能として2005年に承認・上市されました。

白血病には幾つかの種類がありますが,慢性骨髄性白血病は成人白血病患者の15~20%を占めています。比較的ゆっくり進行しますが,平均4年程度で急性転化期に移行し,予後不良となります。慢性骨髄性白血病患者の骨髄細胞にはフィラデルフィア染色体とよばれる異常な染色体が観察されることが,既に1960年に報告されていました。

1973年には,フィラデルフィア染色体が,後天的な9番染色体と22番染色体の転座によって生じ,結果としてBCR/ABL融合タンパク質が生成されること,そして,この異常染色体は慢性骨髄性白血病患者の95%に観察されることが明らかになりました。

そして,BCR/ABL融合タンパク質がチロシンキーゼ活性を有し,慢性骨髄性白血病患者では,このチロシンキナーゼ活性が恒常的にオンになっていることが病因であることが証明されたのは,1990年のことです。グリベックは,この知見に基づき,BCR/ABLチロシンキナーゼの阻害剤として開発された薬剤です。

化学療法剤については,対象となるがん種を示していませんでしたが,分子標的薬についての説明では,対象となるがん種を明示しました。その理由は,がん化を引き起こすキナーゼの異常は,がん種ごとに異なっているからです。一対一対応というわけではありませんが,細胞増殖に係わる,どのキナーゼの変異が,どのようながんを生じさせるかということは,昨今の遺伝子解析技術の進歩とともに詳細があきらかになってきています。

最近では,特定の細胞のがん化を引き起こす遺伝子変異は,ドライバー変異とよばれていますが,分子標的薬の探索研究においてドライバー遺伝子の特定は重要な出発点です。それと同時に,個々の患者さんがどのような遺伝子変異を有しているのかということは,抗がん剤選択の重要な手がかりとなっています。

ヒトを含む動物の体内に侵入した細菌やウイルスなどの病原体は,異物(=自己の体を構成する細胞や組織ではないもの,非自己)として認識され,免疫機構により排除されます。

大学院を終えて製薬会社に就職した1980年当時,私にとって免疫学は,何の脈絡もない現象論の集積でしかなく,途方にくれるばかりでしたが,この状況は,免疫学への遺伝子操作技術の適用によって大きく変化しました。

1990年代に入ると,免疫現象に関与する多彩な細胞を秩序立てて分類し,免疫現象を免疫細胞表面の受容体とリガンドの相互作用で説明することが可能になったからです。

この学問分野を分子免疫学といいます。自己,非自己の識別機構の理解も,分子免疫学の進展により深まりました。そのような成果の一つが,今日,T細胞活性化の共刺激モデルとよばれるものです。

共刺激モデルとは,異物排除の主役であるT細胞(リンパ球の一種です)が細胞障害活性を獲得するには,異物の存在を示すシグナルに加え,共刺激とよばれる追加のシグナルが必要とされるというモデルです。

共刺激には,活性化を促すシグナル(正のシグナル)と抑制するシグナル(負のシグナル)の両方があり,T細胞が活性化されるためには,二段階目で正のシグナルを受け取る必要があります。逆に,負のシグナルを受け取るとT細胞の活性化は起こりません。T細胞が成熟していく過程では,自己を誤って認識して障害する不良品のT細胞が生成する可能性があり,これらを徹底的に取り除く仕組みが別に存在しています。それでも,最終段階において,「攻撃してよいか」の見極めをする仕組みといえることから,免疫チェックポイントとよばれています。

共刺激モデルは,がん細胞が免疫機構によって異物として排除されない理由も明らかにしました。がん細胞に共刺激モデルを当てはめた場合,負の共刺激シグナルの伝達に関与していたのは,がん細胞表面に発現しているPD-L1PD-L2というタンパク質とT細胞上のPD-1とよばれるタンパク質との相互作用でした。この相互作用により,せっかくT細胞が,がん細胞を発見しても,最終段階で攻撃中止のシグナルが送られてしまうことになります。この機構の解明には日本の研究グループが大きな貢献をしています。PD-1 は,1992年に京都大学・本庶佑教授 の研究室で発見され,その機能の解明も同研究室で行われました。

この成果を受け,小野薬品は,本庶教授と共同で抗PD-1抗体の研究開発に着手しました。免疫チェックポイントにおける負のシグナルを阻害し,T細胞の細胞障害活性を高めようという戦略です。その結果,誕生したのが,2014年に根治切除不能な悪性黒色腫の治療薬として承認を取得した オプジーボ(一般名;ニボルマブ)です。オプジーボは,世界初の免疫チェックポイント阻害剤として上市されました。現在,抗PD-1 抗体医薬としては他に一剤が日米欧で上市されています。

PD-L1 抗体としては3剤が上市済みですが,日本で上市されている抗 PD-L1 抗体は バベンチオ(一般名;アベルマブ)の一剤のみです。また作用機序は多少異なりますが,抗CTLA-4 抗体であるヤーボイ(一般名;イピリムマブ)も日本で上市されており,この薬剤も免疫チェックポイント阻害剤に分類されています。

以上,化学療法剤,分子標的薬,免疫チェックポイント阻害剤 について説明しました。これらの薬剤の着想から開発の過程は,同時に,がんというものの分子生物学的実態がより詳細に理解されてきた過程であったということがご理解いただけたでしょうか。では,これからの抗がん剤の開発はどのように進展するかということをお話したいと思います。どうも,二つの大きな流れがあるようです。

一つは,治療ツールとしての高機能化の方向です。免疫チェックポイント阻害剤は,免疫機能のブレーキをはずして,生体に備わった免疫機能を高める治療法ですが,この考えをさらに進めれば,T細胞を人工的に改変して,スマート爆弾のようにがん細胞上の目印を手がかりに,がん細胞のみを攻撃することが考えられます。これがCAR-T療法で,既に実用化されています。また,人工的に改変したウイルスを腫瘍特異的に感染させ,がん細胞を破壊する腫瘍溶解性ウイルス療法も,このカテゴリーに入るでしょう。

もう一つの方向は,がん細胞の生態に注目して,新たな治療戦略を立案するという方法です。例えば,最近,がん細胞は,周囲の非がん細胞との相互作用によって,がん細胞が住みやすい環境(がん微小環境,あるいはニッチといいます)を整えていることがわかってきています。このことに注目して,その環境を破壊するという方法もあり得る戦略の一つではないでしょうか。

現在,がんという病態は,大変にヘテロで,かつ常に動的に変化し続けるものであると認識されるようになってきています。ですので,がんの征圧のためには,万能の特効薬を期待するというよりは,多様な治療選択肢を用意しておくほうが現実的であると私は考えています。


抗がん剤の副作用


荒田

薬には何らかの 副作用 がつきものですが,何だか恐ろしいですね。日本でも使われているのでしょうか。

春山

今,ご紹介した薬物は,全て日本国内で使用されています。まず一般論ですが,副作用には,作用機序の延長線上にあるものと,薬剤の化学的性質に由来するものの2種類があります。

例えば,血液をさらさらに保つ抗凝固剤は,血栓症の予防に必要な薬剤ですが,投与量が多すぎれば,同じ作用の延長線上に,出血という副作用が生じます。化学的性質に由来する副作用の例としては,低分子医薬の化学構造に由来する心臓や肝臓に対する毒性があります。これらの副作用の可能性については,安全性試験の過程で排除しなければなりません。また,どの程度の副作用が許容されるかは,対象疾患の重篤さによって考える必要があります。特に,抗がん剤の場合には,がんという疾患の重篤さを考慮の上,患者にとってのベネフィットと,許容し得るリスクの程度を判断する必要があります。糖尿病薬のような薬剤で肝障害などの副作用が発生した場合には,即刻,投薬中止となります。

一方,抗がん剤の場合には,必ずしもそうはなりません。専門医の判断により,治療効果が期待できると考えられる限り,副作用をコントロールしつつ,投与が継続されることになります。

分子標的薬 は,化学療法剤 に比べ,副作用が少ないような印象をもたれるかもしれませんが,そうでもありません。血液毒性に加えて,下痢などの消化管症状,発熱,嘔吐,吐き気などは,抗がん剤一般に観察される副作用です。ただ,分子標的薬,免疫チェックポイント阻害薬は,作用点が特定されているという点で,有効性が高く的確な副作用対策が立てやすいと言えるかもしれません。

免疫チェックポイント阻害剤 の副作用として,頻度は低いものの,重症筋無力症や,1型糖尿病が報告されています。これらの疾患は,自己障害活性T細胞が活性化された結果ですから,作用機作の延長上に十分に予想された副作用といえます。また,ハーセプチンの副作用として心機能障害がありますが,これも作用機序の延長上にある副作用です。アジア人は,分子標的薬で間質性肺炎を起こしやすい ので注意が必要です。

荒田

過去に起きた薬害の例を挙げていただけませんか。

春山

先ほど,お話ししたように,抗がん剤は末期がんの患者に用いられることが多く,専門医によって,想定される副作用と期待される効果のバランスを考慮の上,薬剤が選択され,投与されるのが原則です。

では,薬害が皆無かといえば,不幸にして過去に分子標的薬であるイレッサ(一般名;ゲフィチニブ)についての薬害訴訟がありました。原告側の敗訴とはなりましたが,得られた教訓は貴重であり,その後の抗がん剤治療に生かされていると思います。

荒田

副作用,specificity などについてまとめていただけませんか?

春山
まとめると,次のようになるでしょう。特異性が向上し,著効を示す薬剤も出てきましたが,作用機序に由来する副作用の可能性は減っていません。分子標的薬や免疫チェックポイント薬がより安全な薬かといえば,そうは言えないということになるかと思います。副作用を最小化し,最大の効果を得るためには,抗がん剤の薬剤の特性を熟知した専門医の厳重な管理下で使用される必要があります。

荒田

薬業界の努力,大学との共同研究による進歩についてお考えをお聞かせください。研究・開発に要する時間,経費などについても触れていただけませんか。

春山

新規医薬品の創製を,1)病態の解明に基づく創薬標的の同定・検証,2)選択された創薬標的に作用するモダリティー(低分子化合物,抗体医薬,あるいはその他)の創製と評価,3)臨床試験の実施と承認の取得,4)承認を受けた医薬品の安定供給と品質確保を可能にする生産体制の確立の四段階に分けた場合,製薬会社が得意とするのは2)以降であり,1)の部分は,アカデミアとの連携なくしてはなし得ないことは,先に概観した抗がん剤の変遷の歴史から明らかだと思います。また,2)から4)に関連する技術についても,その革新にはアカデミアとの連携が必須です。


抗がん剤の価格について


荒田

患者側にとって,薬価が手の届かない額であることが悩みの種ですね。なぜそんなに高額なのですか。

春山

薬価という点では,抗がん剤は,高血圧の薬などよりは,確かに高価と言えるでしょう。特に昨今は,オプジーボの薬価の問題 が,一般紙や週刊誌で取り上げられていますので,皆さんの関心も高いことと思います。ですが,個人負担という意味では,日本は国民皆保険制度が整備されていますし,医療費が高額になる場合には,高額療養費制度というものが利用できますので,手が届かない薬剤という訳ではありません。

米国のように製薬会社が市場原理に従って自由に薬価を決めることのできる国もありますが,日本を含む多くの国々では,薬価決定に国が関与しています。製薬会社が日本国内で新製品を発売しようとする場合には,薬事承認を取得するだけではだめで,薬価収載申請を行って,その製品が薬価収載される必要があります。

皆さんの多くが医療機関を受診した際に窓口で支払っているのは,実際にかかった医療費の3割です。残り7割は健康保険などの公的保険から医療機関や薬局に支払われるわけですが,薬剤費の場合,保険の支払い対象になるのは,薬価基準リストに収載された薬剤のみとなるからです。



つづく








by yojiarata | 2018-02-06 21:00 | Comments(0)

がんの薬 巻の二  これまで・現在・これから(Ⅱ)


春山

薬価算定プロセスの詳細については,私自身に実務経験がないので詳細には触れませんが,類似薬のある場合には,先行する薬剤の価格を参考にする類似薬効比較方式,このブログで紹介している オプジーボ,ハーセプチン などのように承認を取得した時点で,先行薬がない新薬については原価計算方式で算定されるとなっています。また,薬価は市場の実態に即して,原則2年に1回改訂されるルールになっていて,改訂の度に価格は下がっていきます。大局的には,薬価制度は製薬会社に革新的な医薬品開発のインセンティブを与えつつ,医療費の適正化を促進するしくみであると理解できますが,製薬会社の経営にあたえる影響は小さくありません。

では実際,今,オプジーボ はいくらかというと,2017年2月に当初価格の半分に薬価が引き下げられて,100mgバイアル1本の薬価は約36万5千円です。オプジーボは,当初,根治切除不能な 悪性黒色腫(メラノーマ)だけの適応でしたが,効能が追加されて,今では末期の肺がんや腎臓がんなどにも使用が認められています。どのように使われるかというと,いずれのがんでも,1回につき体重1kgあたり3mgを2週間間隔で点滴静注します。体重60kgとすると,1回に必要な量は180mgとなりますから,一月の薬剤費は,約131万4千円です。3割が自己負担分ですから,概算で毎月約39万4千円支払う必要がありますが,高額療養費制度というものを利用すると,一定限度額以上の個人負担は後で補填を受けることができます。個人負担の上限額は,申請する人の年齢と年収によりますから,制度の詳細については,全国健康保険協会などのホームページを参照してください。例えば働き盛り50歳台の方で,年収が,この世代の平均である661万円であるとすると,上限額は概算で9万円です。窓口で支払った39万4千円のうち30万円程度は,後で返ってくることになります。さらに,治療が3ヶ月以上継続する場合は,個人負担額は,44,400円まで減額されます。ですから,基本的に,日本では誰でも オプジーボの治療は受けることができるのです。

まずは,一安心というところですが,皆さんに考えていただきたいことがあります。それは,このような充実した医療保障を続けていくことが可能なのかという問題です。IPS細胞の再生医療への応用に期待が高まっていますが,がんの領域に限らず細胞治療などの高度な医療技術の導入は,医療コストの更なる増加を伴うでしょう。一方で,少子高齢化は着実に進行しています。そのような環境変化の中で,現行の充実した医療・福祉制度を継続することができるのか,また可能とするには,どうしていくべきなのか,真剣な議論が必要な時期に来ていると,私は思います。

荒田

高額になる理由の一つは,これらの新薬が モノクローナル抗体であることと関連がると,素人の私は感じています。大学の現役時代,安定同位体で標識したモノクローナル抗体を作っていたのですが,ミリグラム単位て作るのに,何万円オーダーの研究費が必要でした。

春山

確かに,技術革新は,医療の分野においても,コスト低減の重要な要因です。抗体の商用生産の現場では,従来はステンレス製の培養槽を用いてバッチ生産が行なわれていました。このシステムの欠点の一つは配管部分の洗浄で,洗浄が不十分で雑菌が混入した場合には,そのバッチを丸ごと廃棄しなければならず,歩留まりの悪さが原価に悪影響を与えていました。今では,シングルユースバッグというプラスチック製の大きな袋(最大で2000Lまであります)を培養に使うシステムが一般化しています。この袋は使い捨てですので,洗浄工程が不要で工数が削減でき,かつ雑菌の混入事故も減少して,歩留まりが向上しました。その結果,生産細胞の生産量が同じであっても,コストは約四分の一となっています。

需要の拡大が生産技術の革新を生み,コストが大幅に削減されることは,どの産業の歴史を見ても明らかです。1941年にオックスフォード大学で ペニシリン が初めて6人の患者に投与された時,投与されたペニシリンの総量は約200万単位でした。製造には二人の大学教授を含む7名の研究者と10名の技術助手がかかり切りで数ヶ月かかったことが フレミングの伝記(「奇跡の薬―ペニシリンとフレミングの神話」グウィン・マクファーレン著,北村次郎訳,平凡社1990年)に記されています。

それが1944年には,月産6450億単位に達し,100万単位あたりの原価が200ドル,さらに1945年には6ドルにまで下がっています(前掲書)。今後,同じようなことが,今,姿を現し始めた新しい医療技術に起こることは必然でしょう。私は,技術革新によるコスト削減に関しては,楽観的な見通しを持っています。

体外から細菌など(抗原)が進入すると動物本来の生体防御システムとして抗体が産生されます。ただ,抗原となるタンパク質分子をウサギなどの動物に注射して,動物の血清から抗体を調製すると,抗原分子の異なる部位(エピトープ)を認識する多種類の抗体分子の混合物になってしまいます。

これは,モノクローナル抗体 に対して,ポリクローナル抗体 とよばれますが,個別には1種類の抗体分子のみを産生している抗体産生細胞が多数共存した状態となっているためです。このような混合物の状態から1種類の抗体産生細胞を分離し増殖させる方法としてミルシュタインらによって ハイブリドーマ法 が開発されたのは1975年のことです。この技術は単一のエピトープを認識する抗体(モノクローナル抗体)を効率よく得ることを可能にし,抗体分子を医薬品として応用する道筋が開かれました。

この技術を用いて,世界で最初にFDA承認を得た抗体医薬は,1985年に臓器移植時の免疫抑制を適応症として開発された ムロモナブ という抗体です。ところが,この抗体はヒト由来の抗原タンパク質をマウスに免疫して得られたマウスの抗体であったため,ヒトの免疫系により異物として認識され,抗抗体(マウス由来のタンパク質であるムロモナブに対する抗体)が出現してしまうという課題が残りました。以後,抗体医薬の技術開発は,マウス由来の抗体を如何にヒトの抗体らしくみせて,薬効の低下や,アナフィラキーショックを引き起こす可能性のある抗抗体の出現を回避するという点に集中されました。

最初に試みられた方法は,マウスに作らせた抗体分子のうち,抗原を認識する可変領域とよばれる部位だけを残して,ヒト抗体由来の定常領域に結合するという方法で,このようにして作成された抗体は キメラ抗体 とよばれました。キメラ抗体では,マウス由来の配列部分は全体の30%程度です。さらにマウス由来部位を10%程度にまで低下させ方法として,可変領域の構造のなかでも,実際に抗原の認識に関係する相補性決定領域のみ,その立体構造を保持するような工夫をしながらヒト由来の抗体に埋め込むヒト化抗体という方法が開発されました。ハーセプチン はこの技術を用いたヒト化抗体です。ハーセプチンは,ジェネンテックで開発されましたが,ヒト化の技術はPDLという別のベンチャー企業の技術を使っています。

さらには,ヒトの免疫系を移植したトランスジェニックマウスや,ヒトの抗体分子のレパートリーを再現したファージライブラリーを用いるなどして,完全なヒト抗体を作成する技術が開発されました。これらの技術を用いて作成された抗体はヒト型抗体とよばれています。免疫チェックポイント阻害剤 である オブジーボ は,ヒト型抗体に分類されます。

荒田

本当に効くのでしょうか? 生存率(統計データ)は公開されていますか?

春山

本当に効くのかという,ご質問ですが,どのように回答したらよいのか悩ましいものがあります。おそらく一般になじみがあるのは,再発もなく5年間生存していることを意味する5年間生存率だと思います。早期に発見され,転移がなく外科的に切除可能ながんの場合はまず,外科的切除を行い,適宜抗がん剤による補助療法を行うというのが一般的な治療戦略となり,その場合の5年間生存率は,すい臓がんのような例外もありますが,概ね9割を超えています。では,抗がん剤がどこで用いられるかといえば,固形がんの場合は切除不能な末期がんの治療あるいは,外科手術後の補助療法ということになります。

抗がん剤に限った話ではありませんが,医薬品は承認を取って上市した後も,安全性監視が義務付けられています。市販後の臨床試験を通じて,有効性の確認や,治験の中では発見できなかった副作用(有害事象)の発見がなされます。ハーセプチンや,グリベック のような上市後,長い期間が経過した薬剤については5年間生存率に関するデータが得られています。

術後補助療法としての ハーセプチン の 効果 についてはいくつかの論文が発表されています。その一つであるHERA研究の結果を紹介しましょう。この試験では,乳癌の術後1年間ハーセプチン投与を行い,ハーセプチン投与を行わないグループを対照群として8年間の追跡を行っています。その結果を8年間生存率で比較すると,対照群の79.8%に対して,ハーセプチン群は83.3%となり,ハーセプチン投与の効果が統計的に証明される結果となりました。実際の人数で示すと,対照群では1698名中350名が死亡,ハーセプチン群では1703名中278名が死亡ということになります。血液がんの場合には,外科的切除ができませんから,抗がん剤に依存することになります。グリベックの投与を受けた慢性骨髄性白血病患者の5年間生存率 は89%と報告されていて,固形がんの外科手術並みの成績です。

一方,承認申請のために長期の経過観察は現実的ではないので,がんの縮小の程度,生存期間の延長の程度を対照薬と比較して,開発薬物の優劣を判断しています。がんの大きさを測る方法から,延命期間の計り方に至るまで,すべての用語の定義が厳密に定められていますし,統計解析の手順も決まっていますので,その判断基準に従って,対照薬に対して統計的な優位性を示すことのできた薬物は,効いたということになります。

オプジーボのメラノーマ患者を対象とした第3相試験の一例CA209066試験)の結果を紹介します。第3相試験は,統計的な有意差が期待できる数の患者数を確保して,対照薬との比較を行う試験で,この試験結果を以って,承認申請の可否を判断する重要な試験です。対象は,根治切除不能な末期のメラノーマで,今までに化学療法剤の治療を受けていない患者です。210名の患者さんにはオプジーボを,208名の患者には,シクロフォスファミドと同じくアルキル化剤に分類される化学療法剤のダカルバジンが投与され,1年間の経過観察が行われました。評価指標は,二つです。一つは全生存期間といって,投与開始から原因の如何によらず死亡するまでの期間で,その中央値で示されます。もう一つの指標は無増悪生存期間といって,がんが更に大きくなることなく安定している期間のことで,同じく中央値で示されます。

その結果,無増悪生存期間の中央値は,オプジーボ の治療を受けたグループでは5.1ヶ月でしたが,ダカルバジン治療を受けたグループでは2.2ヶ月でした。全生存期間の中央値で比較すると,ダカルバジン投与のグループでは,10.8ヶ月でしたが,オプジーボの投与を受けたグループでは,中央値が算出できませんでした。というのも,経過観察を終了した約17ヶ月後の時点でも,オプジーボ投与を受けた70%の患者さんが生存しているという結果だったためです。なるほど「効いている」という実感を持っていただけたかどうかわかりませんが,これはかなり良好な結果といえます。今後の市販後臨床などを通じて,オプジーボの実力 が明らかになっていくことが期待されます。

荒田

厚生労働省は,何らかの哲学をもって,ことにあたっているのでしょうか?

春山

個人の見解ではありますが,私の実務経験を踏まえると,薬事行政の基本方針は,国民が最新の薬剤にアクセスできるようにすることと,知識集約型産業としての医薬品産業の振興の二つにあるのではないかと思います。ただ,この二つの方針の両立は,時に困難をともなうのも事実ですが。

日本の薬価制度や,高額療養費制度なども,国民が広く最新の薬剤を使用できるようにするための取組みですが,ドラッグラグの解消にも取り組んできています。ドラッグラグとは,日本以外では承認され販売されている薬剤が,日本では承認されていないか,あるいは承認に時間がかかっているという問題です。実際,2010年に世界の医薬品市場での売上高上位100品目のうち,自国で未承認の医薬品がいくつあるかを調査したところ,日本で未承認の品目が11品目ありましたが,米国や英国では2品目だけでした。また,世界のいずれかの国で初承認を受けた薬剤が,自国において承認を取得するまでの時間差を調査したデータでは,米英独が1.2~1.4年程度であるに対して,日本では4.7年という結果でした。

この状況の改善のため,三つの施策が展開されました。国内の治験が効率的に行えるように環境整備を進めること,審査機関である医薬品医療機器総合機構の体制を強化して,迅速な審査を可能とすること,そして,次に紹介するICHの取組みとも関係するのですが,国際共同治験の促進でした。これらの施策によって,現在では,審査期間に関して欧米と同等の迅速化が達成されたといえます。また,日本の製薬企業もICHの合意に従って日米欧3極での同時申請が可能になりましたから,産業政策としても有効であったと思います。

医薬品規制調和国際会議(ICH)は,日本を含む製薬会社のグローバル化に伴い,医薬品の審査・承認規準の統一が課題となってきたことを受け,1990年に組織されました。ICHは,日米欧の医薬品規制当局と製薬業界の代表者が協働して,医薬品規制に関するガイドラインを科学的・技術的な観点から作成する国際会議で,今までに品質,有効性及び,安全性の評価基準の多くが合意され,また,申請書類の書式の統一なども達成されています。その結果,国際共同治験の円滑な推進,最新の科学的根拠に基づく適正な審査が実践されることとなりました。高品質で安全性の高い医薬品の流通をグローバルレベルで保証するしくみともいえるかと思います。

このブログをお読みの皆さんに知っていただきたいことの一つは,創薬標的の探索から新薬の開発・上市まで,独力で達成できる国は,そう多くないという事実です。最近の資料によれば,米国,日本,スイス,イギリス,ドイツの5ヶ国で,世界中で使用されている医薬品の75%超が創出されています。医薬品の創製には,広範な基礎医学はもとより,様々な分野の技術基盤が必要だからです。かつて,アスピリンやペニシリンがそうであったように,基礎緒科学の進歩の成果の上に各時代を画する医薬品が生まれ,その営みが今も繰り返されていることは,これまでお話してきたとおりです。

医薬品産業の振興には,産官学の協力が極めて重要です。産学連携の推進において,2015年に設立された日本医療研究開発機構(AMED)の活動が注目されています。AMEDによって,それまで文科,厚労,経産などの省庁に分散していた医療分野の研究開発支援の取組みを,政府一体となって推進する体制が確立しました。モデルとなったのは,米国において,産学の連携を統括する米国衛生研究所(NIH)です。日本円にして約3兆強の予算を持ち,傘下の27の研究所・研究センターを直接運営すると同時に,予算の80%を研究グラントとして全米2500以上の大学を含む30万人の研究者を支援しています。AMEDの活動については,同機構のホームページを参照してみてください。

荒田

遺伝子解析の現状と今後についてコメントお願いいたします。

春山

ヒトゲノムは30億塩基対ありますが,国際協力により,世界初のヒトゲノム全配列の解析が完成したのは,2004年です。古典的なサンガー法を用い,13年の歳月と30億ドルの費用がかかりました。その後,従来と全く異なる原理で動作する次世代シーケンサーの技術開発が進められましたが,目標の一つが,ヒト全ゲノム解析コストを1000ドル以下にすることでした。2010年の段階ですでに解析コストは4000ドルまで低下してきていましたが,遂に,この目標は,2014年に達成され,解析所要時間も数日に短縮されました。その結果,複数のがん患者の全ゲノム配列を比較する,あるいは,一人のがん患者のがん組織の異なる部位のゲノム配列を比較するという研究が可能になりました。

その結果わかってきたことは,患者ごとに,また一人の患者の腫瘍内においてもがん化した細胞の遺伝子変異の状態は極めて不均一であるということです。患者ごとにドライバー変異が異なるという事実は,個別化医療の必要性を示していますし,腫瘍内での不均一性は,治療抵抗性や薬剤耐性,再発などの原因になっていると考えられます。なお,多数の患者から得られた試料の遺伝子解析結果は,TCGA(The Cancer Genome Atlas)やICGC(InternationalCancer Genome Consortium)などのデータベースにまとめられていて,研究に活用されています。

荒田

2017年11月3日金曜日の朝日新聞の朝刊に,日本癌学会が開いた市民公開講座 「がん治療 一人ひとりに寄り添う」 に関する記事が載っていました。


例えば,国立がん研究センターの呼吸器内科長の後藤功一さんの「異常な遺伝子調べ 最適な薬の選択」には,進行肺がんの薬物療法としての分子標的薬 云々 とあります。また別の先生は,「DNAのさびつき測り 超早期診断 云々」と仰っておられます。学会のウエブサイトから動画で見ることができるとあります。


がんの診断も治療も,いずれは,遺伝子になるのでしょうか?

春山

そういう方向に動いています。直近の話題としては,厚生労働省から,がんゲノム医療中核拠点病院構想というものが公表されています。中核病院は遺伝子解析の拠点で,連携病院からの依頼により100種類程度の遺伝子変異を一括解析し,連携病院はその結果を受けて遺伝子変異に応じた薬剤を選択して治療を行うというものです。2018年度から整備が開始され,中核病院と連携病院を併せ100施設程度が指定を受けることになるようです。

実際のところ,遺伝子解析にもとづく治療は既に実践されています。既にお話したハーセプチンの場合がそうです。添付文書の効能効果の項には,Her2過剰発現が確認された乳がん,Her2 過剰発現が確認された治癒切除不能な進行・再発の胃がんと記されていますので,治療を開始する前に Her2 発現の有無を調べる必要があります。

具体的には,がん組織中のHer2遺伝子を蛍光標識したDNA相補鎖を用いて検出するFISH法,あるいは,Her2 タンパク質を認識する抗体を用いて免疫染色を行うIHC法などが一般的に用いられています。また,現在開発中の抗がん剤については,対象患者を特定するための遺伝子変異を検出する手法の開発を,同時並行で進めることが,承認要件となっています。これをコンパニオン診断薬といいます。

荒田

それにしても,がんは途轍もなく多様なものだと思うのですが。

春山

その途方もない多様性の実態が遺伝子配列技術の進展によって明らかになってきています。直線的なクローンの進化を経て悪性度の高いクローナルな細胞集団としてがんが形成されるというモデルの見直しが必要になっています。

荒田

仮にがんを制圧,コントロールできたとして,次の相手は何者でしょうか?

春山

精神疾患,老齢に伴うアルツハイマー病の克服ではないかと考えています。自分が何者であるか,ゆくゆくは死するものであるという認識をすら失った場合,それは生きているということにはならないのではないでしょうか。

荒田

結局,生きるとは何かの永遠のテーマに行き着くことになりますね。

 

春山

黒澤明監督の映画「生きる」のことを思い出しました。志村喬演じる市役所の市民課長は胃の具合が悪く,医者に行くと胃潰瘍といわれますが,本当は胃がんであることを知ってしまいます。

この映画は1952年の封切りですが,当時は,そういう言い方をするのが普通だったのですね。のみならず,比較的最近まで,がんを告知することの是非については大激論があったと記憶しています。

この物語の主人公は,それまでの平々凡々たる無気力な生き方をかなぐり捨てて,最後の仕事として市民公園の設置に万難を排して,それこそ命がけで取り組みます。そして完成した公園のブランコに乗りながら「命短し,恋せよ乙女・・」とつぶやきながら息絶えるわけです。今や,還暦を過ぎた私には,泣ける場面です。

胃潰瘍と言われてから5ヶ月ということなので,末期がんだったのでしょう。ただ,市民課長の年齢設定は,確か50歳だったと記憶するのですが,今から見ると,相当におじいさんです。ちなみに,当時の男性の平均寿命は約55歳でした。

20世紀以降,生命諸科学の進歩に支えられて,治療法を全く変革してしまう革新的医薬品が生み出されてきました。私たちは,感染症を克服し,高血圧や脂質異常症などの循環代謝異常もかなり上手く制御できるようになりました。がん治療は,まだその域に達していませんが,今後,細胞治療などの医療技術が進歩していくと,早晩,がんでは人がめったに死なないという日がくるのではないかと思います。その時「生きる」という映画のメッセージ性は価値を失うのでしょうか。私は,そうは思いません。「よりよく生きるとはどういうことか」という命題は,ヒトが「死」というもの,すなわち,命は有限であるということを理解可能な存在であるかぎり,絶えず自らに問いかけ続ける命題であると考えるからです。

最近,オプジーボなど抗がん剤の価格問題が大きく取り上げられていますが,これからの細胞治療は,もっと高価格になるかもしれません。この問題を理解し解決を図るには,高薬価という切り口からだけでは不十分で,がん医療体制全体として,持続可能なシステムの最適化を図るという視点が必要です。

がんという病態の遺伝子変異の複雑さを考えると,固形がんの確実な治療法は,当面の間,切除可能な早期の段階に発見して,外科的に処置することであり続けることであろうと思います。そのためには,今以上に高感度に早期がんを検出することが可能で,患者さんの負担の少ない診断技術の開発が重要でしょう。また,がん患者さんが仕事を続けながら治療を受けることができる社会システムの整備も合わせて考えていく必要があります。その根底には,「皆が,よりよく生きるとはどういうことか」という問いかけがなければならないと思います。


荒田

大変お忙しいところ,このブログ作成のために貴重な時間を割いていただき,極めて有益な記事を作ることができました。心より感謝申し上げます。







by yojiarata | 2018-02-06 20:00 | Comments(0)