2013年 06月 07日 ( 2 )

ザメンホフの夢



眼科医でもあり,言語学者でもあったザメンホフ(1859-1917)は,世界中のひとが共通に使うことのできる人工の国際語 「エスペラント」 を創り,それを普及させることを夢見ていた。

ザメンホフは帝政ロシア領時代のポーランドの小都市リトアニアに生まれた。この地方は,ヨーロッパの四つの端,スカンジナビアからコーカサス,ウラルからイベリアを結ぶ線の交叉点にあたり,古来,ヨーロッパ列強の影響のもと,さまざまな民族がひしめきあい,絶え間のない抗争が続いた不幸な地域だった。しかし,この地域からは,コペルニクス,カント,ショパン,キュリー夫人,ローザ・ルクセンブルグなど,歴史に名を残す多くの人々がでている。ザメンホフの夢には,この地に生まれたことが大きく影響している。

ラテン語の sperare(希望)に由来するエスペラント(Esperanto)は,はじめはザメンホフのペンネームだった。エスペラントはその後,ザメンホフが創った「国際語」そのものを指すのに用いられるようになった。ザメンホフは,自分の国の言葉と文化を大切にしながら,言葉と文化を異にする人々が国を越えて交流することを目的として,ヨーロッパ諸国の言語を基本とし,文法を整理してエスペラントを創った。


a0181566_20353039.jpg

ザメンホフ
伊東三郎『エスペラントの父 ザメンホフ』岩波新書より




ザメンホフは28歳の1887年,『エスペラント博士著 国際語 序論ならびに学習全書』を発表した。現在のB6版より少し大きい40ページの薄い本だったという。そのなかで,ザメンホフはつぎのように書いている。


人々はいろんな言語に自分の時間をさかれて,そのうち一つにしっかり身を入れることができず,
そのために一面では自分の国語さえも完全にはつかんでいないようです。

それゆえ,言語も,十分に磨かれず,私たちは自分の母語で話ながら,外国の人々の言葉やいいまわしを借りなければならなかったり,
さもなくば,言語が不完全なため,自分を不正確にいいあらわしたりして,
考え方までがかたわになりがちです。

もし私たちがみんな,
ただ一つの言語だけを持つなら事情はすっかり変わってくるでしょう。

そうなれば,これらの言語そのものはもっとよく磨かれ,完全なものにされ,
言語がいま目のまえにあるありさまよりも,
もっとずっと高度なものとなるでしょう。・・・・・


伊東三郎『エスペラントの父 ザメンホフ』岩波新書より



この文章を読むと,ザメンホフの理想が大変によく理解できる。ザメンホフの生まれたリトアニアがそうであったように,エスペラントはヨーロッパ列強の狭間に翻弄された。ザメンホフがユダヤ人であったこともあって,エスペラントはナチスドイツの弾圧にあった。しかし,ザメンホフの目指した理想が多くのひとびとの共感をよび,エスペラントは次第に世界に浸透していった。ザメンホフのほかにも,国際語,世界語を創ることを試みた人が大勢いたようであるが,あとに残ったのはエスペラントだけである。

明治39(1906)年には,日本エスペラント協会が発足した。会員の数は必ずしも多くはなかったが,熱狂的なエスペラントの支持者が日本にも生まれた。各都市に設立された日本エスペラント協会の支部は,エスペラントの普及に尽力した。

町医者であった私の父親もエスペラントに熱中し,学生,若いおじさんたちを毎週自分の家に集めて,会を開いていた。会話はすべてエスペラント。筆者は,その会の熱気に驚くとともに,大願成就は熱心さによってはじめてもたらされるのだと子供心に実感したことを記憶している。

現在でも,エスペラントの熱烈な支持者は世界中にいる。しかし,英語があまりにも強力な“国際語”になってしまったことはいまや何人も否定できない。例えば,20世紀の前半までは,ドイツ医学が世界を席巻していた。そのため,医師であるためにはドイツ語を身に付けることが必須の条件だった。当然,診察記録を記すカルテの記載にはドイツ語が使われた。

しかし,第二次大戦後は,ドイツ医学が衰退し,アメリカを中心とする新しい医学がこれにとってかわった。その結果,医学書も国際会議も,用いられる言語はすべて英語になった。誇り高く英語化の波に抵抗していたフランスでも,時代の流れとともに徐々に英語が勢力を拡大していった。


***



後日譚

もう30年以上も前のことになる。

山口大学医療短期大学部の緒方幡典先生に招待していただき,学生に筆者の専攻するNMRの講義をする機会があった。その時,父親がエスペラントに夢中になっていますとお話しした。

先月の5月24日,緒方先生から手紙がとどいた。そこに,次のように書いてあった。

先日受け取った日本エスペラント協会発行の2012年エスペラント運動年鑑の団体名鑑の中に,岡山エスペラント会の項目があり,この会は1920年に設立されたが戦時中に衰退し,1953年に再建された。初代会長は荒田一郎(皮膚科医)とありました。・・・・・

ひょっとするとこの方は,先生のお父様ではないかと思い,その部分をコピーしてお伺いしようと思い立ちました。・・・・・

a0181566_2135259.jpg

「岡山エスペラント会」(2012)より引用


さっそく返事を書いた。

緒方先生よりの返信(平成25年6月3日)

お葉書有難うございました。思った通りと納得いたしました。

お父様が初代会長として活躍されていた頃,私は佐賀大学で西洋史の西海太郎先生からエスペラントを教わりました。当時は時代的にも混沌としていましたし,教える先生も,習う生徒も何かを求めて真剣でした。恐らく先生のお父様もそのようだったと想像します。・・・・・ ひょっとすると岡山エスペラントの会の三代目会長の原田英樹先生も荒田一郎先生のお弟子の一人かもしれません。

・・・・・

今先生のお父様に西海太郎先生の面影と重ね合わせ当時を思い起こしております。


*


エスペラントによって,久しぶりに父親と再会した。
by yojiarata | 2013-06-07 22:11 | Comments(0)

オカリーナ と オーボエ



あれは昭和30(1955)年前後の頃だった。

何事にもすぐに熱中して,(お金もないくせに)それを買いたくなる悪癖はわが父方の家系である。

ある時,ふと聴いた音楽(オーケストラ)のなかで,オーボエの響きに感動して取りつかれてしまった。

次の日には,銀座ヤマハ楽器店を訪れた筆者は現実を知らされる。自分が想像していた値段より2桁高価であった。今考えれば,当たり前のことである。

それでも,店を去り難く,未練がましくガラスの陳列ケースを覗きこんでいると,ふと,それまで見たこともないヘンテコリンな形のものが目にはいった。何だろうと思ってじっと覗きこみつづけていると,女性の店員さんが,手に取ってご覧になりますかと,取り出した。ちょうど掌に載る大きさの,陶器製の物体であった。

これは何でしょうかと問うと,南米で生まれた楽器でオカリーナと申しますという。簡単に吹けますよ,と説明書も取り出す。吹いて見ろとおっしゃるから,吹いてみた。その瞬間これはすごいと興奮した。何とも不思議な優しい音色である。

値段を聞くと,700円とのこと。直ちに購入。

買うには買ったが,もともと音痴の上,楽譜など読めないをあとで思い知る。1オクターブ半の音域であったが,とくに高音の方がいけない。筆者が吹くと間が抜けた音が出て,自分でも情けなくなる。それに,穴を半分手で塞いで出す半音がどうにもうまくいかない。

結局,『埴生の宿』の ド・レ・ミ・ファ・ソ・ソ・ミ ・・・・・  で,夢は終わった。

今から60年前にはいなかった 「オカリナ宗次郎」のオカリナを時々聴きながら,当たり前のことながら,やはりプロは素晴らしいと思う。

あの時,仮に経済的に余裕があってオーボエを買っていたら,もっと悲惨な思いをしたことだろうと,今になって安堵している。

余計なことだが,筆者が購入した頃は,オカ リナではなく,「オカ リーナ」とよんでいた。
by yojiarata | 2013-06-07 22:10 | Comments(0)