中村泰男君 『荘子』を“テツガク”する
巻の一(万葉集),巻の二(古事記)に続いて,中国の古典『荘子』を中村泰男君が輪切りにします。なお今回は,万葉集,古事記の場合と異なり,中村君の“独演”です。 岩波文庫には,『荘子』三十三篇の全訳(金谷治訳注)が四冊にわけて収載されています。 第一冊 「内篇」七篇 第二冊 「外篇」十篇 第三冊 「外篇」及び「雑篇」八篇 第四冊 「雑篇」八篇
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● はじめに 私の色眼鏡を通じ『荘子』を紹介しようと思います。 最初に,書物としての荘子のあらましを手短に記し,ついで,その“主要な筆者”とされる荘周の人物像を述べることにします。そのあと,荘周の思想が色濃く反映されている(といわれる)部分について,私の感想も含めて紹介することにします。
● 荘子 と 荘周 書物としての荘子は「そうじ」,荘周の尊称としての荘子は「そうし」と読まれるのが慣例のようです。ここでは混乱を避けるため,「荘子」は書物名とし,人物名は「荘周」と記すことにします。
● 荘子 という 書物 現在われわれが手にすることができる荘子という書物は,おおよそ以下のような経緯により出来上がったもののようです。 すなわち,荘周(B.C.370年ごろ誕生)と彼の後継者(特定されていない)による著作物群(漢書によると52篇とされる)が,前漢成立前後(B.C.206年)までに存在していました。これを郭象という名の学者(4世紀)が整理し,現在伝わる「荘子」33篇に編集したようです。 このうち荘周自身の思想を色濃く反映しているのは「内篇」だといわれています。また,「外篇」・「雑編」は荘周以外の手によると考えられており,「内篇」と矛盾する内容も多いのですが,荘周をめぐるエピソード集という側面もあります。したがって,以下に記す荘周の人物像は「外篇」・「雑篇」の説話によっています。
● 私(中村)の荘子体験 最初の出会いは高校の漢文授業。「鵬の飛翔」,「混沌」などが扱われていました。また,Z会の添削(提出したことは殆どない)では「莫逆(ばくぎゃく)の友」が出題された記憶があります。そして,大学受験(1971年)の英語では「轍鮒」の和文英訳が出題されました。 いま思い返すと,高校生の頃からそれなりに,荘子に触れていたと思います。ただ,ここまでの荘子に対する認識は,「面白い話を集めた中国古典」といった程度でした。大学二年になり,人文科学(漢文)に荘子が開講されたので受講しました。この授業は土曜の1時間目という,長距離通学生にとっては出席しにくいコマだったので,ほとんど出席していません。しかし,それでは試験に通らないので,友人から福永光次訳の荘子を借り受け勉強しました。この訳本がとても「個性的」だったせいもあり,その内容は充分に理解できなかったものの,「荘子は面白話の単なる寄せ集めではなく,万物斉同 をはじめとする奥深い哲学書らしい」ということは納得できました。 その後,荘子との付き合いは一旦希薄になりましたが,1985年に,本業の研究実験がうまくゆかず落ち込んだ際,金谷治訳の荘子をなぜか手にしたのです。読んでいるうちに,心が「すとん」と落ち着くのを感じたのです(失敗したっていいんだ・・・どうせ全ては宇宙のチリさ)。 以来,仕事(出勤)前のひと時,緑茶をすすりながら荘子の一節を眺めることをルーチンにしています。
貧乏,自由人,妻子・弟子あり
1 轍鮒(雑編 外物 第2節) (要約) 荘周は貧乏だった。そこである時,土地の殿さまに米を借りに出かけた。 殿様:「わかった。あと一週間もすれば税金が入るから,三百金貸してあげよう。」 荘周はムッとして答えた:「こちらに来る途中,誰か呼びかけるものがありました。声の方向を見ると,鮒が轍の水たまりで苦しそうにしているのです。そして『すみません,少しの水を持ってきて,私を元気づけてくれませんか?』と言うのです。私は答えました『了解!私はもうじき南に旅行する予定だから,その時,長江の水をたくさん汲んできてあげよう』。鮒は怒って顔つきを変え,『今,ほんの少しの水さえあれば私は元気になれるのに,あなたはなんとも悠長なことをおっしゃる。そのうち乾物屋に行って,干物になった私を探してください。」
(つけたし)この説話,大学入試の英作文に出題されたと最近まで信じていたが,同期生3人に聞いても誰も覚えていなかった。もしかすると私の妄想かもしれない。
2 尾を泥中に曳く(外篇 秋水 第5節) (要約) ある時,荘周が川で釣り糸を垂れていると,楚の国の家老が現れ,「我が国の政治顧問になっていただけませんか?」と彼をヘッドハンティングした。 荘周は浮子を見つめたまま答える:「楚の霊廟には神霊の宿った亀が大事に祀られているそうですね。でも,亀の立場からすると,殺されて有難く祀られるのと,泥の中で尾を引きずっているのとどっちが幸せですかねえ?」 家老:「そりゃあ,泥の中で『のそのそ』しているほうがいいでしょう。」 荘周:「私も尾を泥の中で引きずっていましょう。お引き取りください。」
3 無用の用 (雑編 外物 第7節) (要約) 恵施が荘周に言った:「君の話は(面白いけど)まったく役に立たない(無用)よね。」 荘周は答える:「『無用』がどういうことかわかって初めて『役に立つ』とはどういうことかが判るんだぜ。大体,地面は広いけれど,人が歩くところは足で踏むところだけだよね。それなら効率第一で,人が歩かない(役に立たない)場所は黄泉に至るまで掘り取ってしまったら君は歩けるかい?」 恵施:「いやいや,そんな怖いことはできないよ。」 荘周:「ほら,『無用』が役に立っていることが判るだろ。」
(つけたし)恵施は当時の超秀才。詭弁の達人。荘子の中で,荘周との掛け合いがしばしば展開される。恵施が突っ込み,荘周がボケる。また,無用の用は荘子の中でしばしば登場するテーマでもある。そこでは「利用不能な巨大樹木」「超巨大カボチャ」「痔主」「せむし」などが無用を代表する。
4 鼓盆 (外篇 至楽 第2節) (要約) 荘周の妻が亡くなった。恵施がお弔いに行くと,荘周は胡坐をかき,土の瓶(かめ:盆)をたたき(鼓)ながら歌をうたっていた(「チャンチキおけさ」がイメージ的には望ましい)。 恵施:「長いこと一緒に暮らし,子を育てて歳をとり,あの世に逝った奥さんだ。それなのに,泣き叫ぶこと(「哭」:当時のお約束らしい)もせず,ましてや瓶をたたいてチャンチキおけさとは,ひどいんじゃないかい?」 荘周:「俺もアレが逝ったときには『がっくし』きたさ。でも元をただせば,宇宙のチリが集まってアレになり,今また宇宙のチリに帰ってゆくだけのことではないか。アレが静かに宇宙空間に戻ってゆこうとしているのに,いつまでも泣き叫ぶというのは運命の道理に通じないことだと思って泣くのをやめたのさ。」
5 荘周の死(雑編 列御寇 第17節) (要約) 荘周の臨終のとき,弟子たちは(あんな師匠だけれど)手厚く葬ってあげようと思っていた。 荘周(苦しい息の下):「私の死体処理の件だけど,天地を棺桶,日月を大きな宝石,星々を様々な珠,万物を副葬品とすれば,葬具一式完備するよね(そのへんに打ち棄てといてくれ)。」 弟子たち:「それでは先生のお身体が烏や鳶の餌食になってしまうではありませんか(やはり土中のほうが・・・)」 荘周:「烏の餌を横取りして蟻や螻(おけら)の餌にするというのは,地中の生物への『えこひいき』が過ぎるんじゃないかい(野ざらしでいいよ)。」
1 鵬の飛翔(内編 逍遥遊 第1節)荘子のイントロ (要約) 北の暗い海に「鯤」(こん:魚卵,たらこ)と呼ばれる巨大魚が棲んでいた。ある時,鯤は変身を遂げて「鵬」という名の巨大な鳥となった。海が大きく荒れる時,鵬は海面を疾走し,飛び立つや上昇気流に乗って九万里の高みにまで駆け上り,風にうちまたがって(培風)南の深い海(南冥)を目指したという。
蜩(ひぐらし)と小鳩は鵬の飛翔を見て笑う:「俺たちは向こうの木の枝を目指して飛び立っても,時には届かず不時着することもある。これでも,俺たちにとっては最大限の飛翔なんだが,鵬の奴はなんだって九万里まで駆け上って,わざわざ南を目指すんだろう。(奴さんは壮大な無駄をやってるのじゃないかね・・・もしかしてバカ?)」。
所詮小さな知恵は大きな智慧には及ばない(どうして蜩たちに鵬の意図がわかろうか)。
(感想)要約では表現できない圧倒的な迫力である。そして,巨大魚を『たらこ』と名付けるこのセンス!世間の秀才を蜩に,鵬を(荘子流の)理想人(至人:自らに執着しない人)になぞらえていることは,この後の文脈から判る。なお,「蜩と鵬の間に『差』(優劣)を認めることは,荘周哲学の基本である『万物斉同』の理念に反するのではないか」という議論もなされたようだが,目くじらを立てることはないと私は思う。荘周が一杯機嫌で,ホラを吹きまくっているというイメージである。
(つけたし)この一節は古来有名で,様々な局面で引用されている。二所ノ関部屋の納谷幸喜少年(のちの大横綱)が十両に昇進した際,漢籍好きの親方が「これは大物だ。鵬のように大きく育て」と四股名「大鵬」を与えた話は特に有名。また,科学書の出版社「培風館」の名前もここに由来する(と思われる)。さらに,野球で有名な仙台育英高校の校歌の出だしは「南冥遥か天翔ける・・・」であり,鵬の飛翔を歌っている。
2 万物斉同(内編 斉物論 第4節) (要約)私たちは物事に対して「然」(そうだ)とか「不然」(そうじゃない),あるいは「可」(よし)とか「不可」(だめ)といった判断を下す。しかし,その判断は所詮,主観に縛られたものに過ぎないのではなかろうか。一方,(「道」‐自然の理法のようなもの?‐の立場からは)すべての物事は「然」であり「可」でもあり,否定されるものは何もない。 さらに,こうした道の立場からは,ライ病(金谷治訳注の原文のまま)患者と絶世の美女といった奇怪な取り合わせも(対立が消えて)ひとしく一つのものである。そして,人生の達人だけがこれをわきまえ,ことさらなことをせず,ただただ(自然の流れの中の)ありきたりの日常に身を任せてゆくのだ。
(感想)「ヘッポコ海洋研究者(中村君自身,荒田注)もアインシュタインも,みんな素粒子の集合体だぁ!」というところだろうか。劣等感にさいなまれるときはこの節を思い出すようにしている。そして朝,仏壇に茶を供えるときには,日常生活での「可」「不可」由来の「心のゆらぎ」をできるかぎり小さくしよう思うのだけれど,なかなかね・・・ というのが実情である。
荘子の本文全体を見渡すと,鵬の飛翔で蜩を「小知」としたり,荘周自身が気色ばむ場面(例:轍鮒の話)が見受けられる。もしかすると荘周自身もこの「なかなかね・・・感」を抱いていたのではなかろうか。そして「達人だけがこれをわきまえ」との表現は,このことの反映なのかもしれない。
(つけたし)「達人だけが道の立場をわきまえ,自然の日常に身を任せる」という上述の内容は,荘子の他の部分(特に内編)にもみうけられる。たとえば「宅(心の持ちよう)を一にして 已むを得ざるに寓すれば すなわち畿し」(内編 人間世 第1節),「その奈何ともすべからざるを知り,これに安んじ命に従うは 有徳者のみ これを能くする」(内編 徳充符 第2節)など。個人の力ではどうしようもないこと(=已むを得ざる,如何ともすべからざること)には,身を任せることが重要なことが強調されている。
また「道」を表現する言葉としては「万物の係るところにして 一化の待つところ」(大宗師 第2節:万物がかかわり,どんな変化も依拠しているところ)が私には最もしっくりくる。
3 足切りの前科者が開く塾(内編 徳充符 第1節) (要約) 孔子のホームグラウンドの魯の国に王駘という兀者(足切りの刑にあった前科者)が塾を開いていた。この塾は大人気で,門下生の数は孔子の塾と肩を並べるほど。取り立てて何かを教えるわけでもなく,活発な議論をするわけでもない。それでも塾生は空っぽで出かけ,満たされて戻るという評判であった。ある時,常季という男が孔子に尋ねた「王駘は兀者のくせに,彼の塾はなんであんなに人気なんでしょう?」。孔子は答える「あの方は実は聖人だよ。人間にとって生死は最重要事項だけれども,あの人はそれに左右されることがない。空が落ち地面がひっくり返ってもびくともしない。借り物でない真実(無仮:道?)をみつめ,物事に流されず,事物の変化をさだめ(命)として,現象の根本に我が身を置いているのだよ」。「どういうことでしょうか」と常季は問い返す。孔子「万物斉同を実感しているあの人は,万物を貫く一つのものを見るばかり。物が無くなるなんて事は全然気にかからないから,自分の足が無くなることなど,土塊がそのあたりに落ちたぐらいにしか感じていないのさ」。常季「彼の心の持ちようが素晴らしいのは判るような気がするのですけれど,でもどうして,そうした人の周りに人が集まるのでしょう?」孔子「人は流れている水に自分の姿を映すことはしないで,静止した水面を鏡とするだろ。水が止まっているからこそ物の姿がちゃんと映る。あの人の静かな心と向き合っていると,周囲の者も自分の心が映し出される(自分も静かで満ち足りた気分になる)のだよ」。
(感想)ここにも荘周流の理想人のあり方が示されている。しかしその境地は,私にはとてつもなく遠い存在である。そのくせ,この一節に強く惹かれるのはなぜだろうか?おそらくは,この節自体が「鏡」として働き,心の揺らぎを少しだけ小さくする方向に働かせてくれているせいなのだろう。
(つけたし)荘子の中には兀者,せむし,醜男などがしばしば登場する。そして,社会的に低く見られがちの人々を通じて,「道」や生き方が説かれる(しかも,それらの話が面白い)。また,雑編の外物篇にはこんな説話もある。ある男に「道」のありかを問われた荘周は「虫けらにもあるよ」と答える。男が「ずいぶん変なものにあるんですな」と返すと,荘周は「そこいらの瓦礫や,うんこ・しっこにもあるよ」と続ける。これを聞いた男は黙りこくってしまった。「汚いもの,変なもの」を強調するのは荘子の大きな特徴でもある。
この節では孔子が「解説者」として登場している。荘子の本文中,孔子の出演頻度は著しく高い。その役割は「解説者」以外に,荘子流の道を説く達人,道を教えられる生徒,頑迷な道学者としてやり込められる道化などさまざまである。しかし,(荘周の哲学が強く反映しているとされる)内編では道化として貶められることは殆どなく,むしろ著者(おそらくは荘周自身)が孔子に敬意を払っているとさえ感じられる。こうしたことから,荘周は(孔子由来の)儒家の流れをくむのではないかという人もいる(出典は忘れた)。私もこの考えに従いたい。
4 莫逆の友(内篇 大宗師 第5節) (要約)ある時4人の男 (A - D) が座を囲み,誰ともなく話し始めた:「『無』を頭,『生』を背,『死』を尻とするような感じで,死生存亡が一体であることを弁えるものがいるだろうか?そういう人と友になりたいものだ」。4人は顔を見合わせ,にっこり笑い,心から打ち解けて(莫逆於心:心に逆らうなく)お互い友となった。(中略:AとBの間でのやり取り)。そうした中,Dが死の病にかかり危篤状態となった。Cはこれを聞くとDの元に駆け付けて言った。「偉大なものだね,造化(道)の働きは。この後,君をネズミの肝としようとしているのかね。それとも虫の腕としようとしているのかね」。Dは苦しい息の下で答えた。「偉大な鋳物師が金物を鋳るときに,溶けた金が飛び出してきて『絶対,俺は莫邪(ばくや)の名剣になるぞ』と叫んだら,鋳物師は『縁起でもない金だ』と思うだろ。同じように俺が『いつまでも人間でいたい』と言ったら,あの造化者(自然の理法を擬人化したもの)はきっと不吉な人間だと思うだろうよ。いま,天地の広がりを大きな鑢(るつぼ)とみたて,造化者を鋳物師と考えるなら,どんな形にされたって不都合なことは何もない。(死ねというなら)静かに寝るだけだし,(生きろというなら)ぱっと目を覚ますだけだ」。
(感想)7年前に胃がんにかかり,胃袋の 2/3 を切除する手術を受けた。この一節を胸に手術に臨んだが,やはり不安で一杯だった。一方わたしの父の場合,癌で余命半年と宣告された際に最初に発した言葉が「(半年後の)アテネオリンピックがみられるかな」だった。周りの者はこの言葉に脱力したが,こうした感じで死んでゆけたらと思う。
5 混沌 (内編 応帝王 第7節) (要約) 南の帝王を儵(しゅく)といい,北の帝王の忽(こつ)といい,中央の帝王の混沌(こんとん)といった。あるとき儵と忽は混沌の国で会談したが,混沌は二人を手厚くもてなした。そこで二人は混沌にお礼をしようと相談し,こんな結論にいたった。「人の顔には目・耳・口・鼻の七つの穴があって,物を見,音を聞き,食事をし,息をしている。ところが混沌の顔には穴がひとつもない。(これでは人並みといえないから)穴をあけてあげよう」一日にひとつずつ穴をあけていったところ,7日目に混沌は死んでしまった。
(感想)この節は,人間の賢しらが,自然の純朴を破壊することを象徴的に説いたものとして,荘子寓話の中でも傑作である(金谷)。また,中間子理論でノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士が好まれていた寓話でもある。素粒子理論という「論理的思考(数学)に基づいて物質の本質を極めようとする学問」(のように私には思われる)に身を置きながら,博士はなぜ,「知」が自然を破壊するというこの話を好まれたのだろうか?論理では極めがたい自然の深淵を眺めておられたのだろうか?
(つけたし)大学2,3年の「分析化学」は藤原鎭男先生の担当だった。先生の講義は混沌としていて,きちんとしたノートを採ることは不可能だった。3年時の講義では,まじめなノートは最初から放棄し,ノート表紙に「混沌録」と書きつけて,先生が時折される化学関係の雑談をメモに取った。そんな私が卒業研究と大学院の選択では先生の門をたたいてしまった(後悔しておらず,むしろ幸いだった)。先生の「割り切れない世界」(不条理の世界?)に惹かれたのかもしれない。
● 安部内閣総理大臣と荘子:モリカケ以上に深い関係
昨年,加計学園による獣医学部新設問題が世間をにぎわせた。その際,学園理事長と安倍総理の親密な関係を表す言葉として「腹心の友」という言葉がしばしば用いられた。これは加計学園の式典で,安倍氏が加計理事長との関係をそう表現したことに由来している。最初この言葉に接したとき,「腹心の友」って聞きなれないよね,と感じた私は,ネットで調べてみた。すると,この表現は村岡花子訳の「赤毛のアン」(読んだことはない)に用いられていることが判明した。「さすが安倍総理‼重厚表現の王者‼」と一瞬は思ったのだけれども,学園の式典での映像がネットにアップされていたのでこれを確認した。すると,生来の活舌の悪さを差し引いても,この方は「バクシンの友」と発音しているではありませんか!おそらく,重厚に「莫逆の友」というべきところ,なぜかバクシンとなってしまったのであろう。そして周りの頭の良い人が,「あれはフクシンと発音しているのです」と庇ったと考えられる。「私は立法府の長」・「ご批判云々(でんでん)は当たらない」など,「??」な発言で知られるお方にはふさわしい表現かもしれない。また,国会で自ら弥次をとばして(2015年2月26日)野党から反発を受けた際,この方は「いまだ木鶏たりえず」と応じた。
この「木鶏」も荘子に由来している(=闘鶏の究極の姿は木鶏(木製の鶏)のようなもので,こうなると,全く心を乱さず静かな姿のため,相手が戦意を喪失してしまう;外篇 達生 第8節)。そして「いまだ木鶏たりえず」の出典は,角聖 双葉山の連勝が69でストップした際,双葉自らが後援者へあ)の文言であり,一瞬心を乱して敗れてしまったことを表現している。「待った」をせず,堂々と落ち着いた取り口の双葉山(私自身は見たわけではないが、大学相撲部出身の父がよく言っていた)にはふさわしい表現である。一方,安倍氏の場合,普段から「こんな人たち」とか,特定の新聞社に対する罵りを感情的に繰り返しているので,「木鶏たりえず」とのアンバランス感は余人をもって代えがたいと思う。わたしはこの 知的生命体 の重厚表現を楽しんでいる。
by yojiarata
| 2018-03-26 21:23
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