がん細胞 に 聴く  吉田富三・門人 との 対話 を もとに  巻のⅠ




ご隠居さん。お汁粉の次は何の話?

「がん」について書くよ。

ご隠居さん。高齢のため,アタマのほうに少々問題が出てきたんじゃないの。だって,ご隠居さんは,化学が専門でしょう。お医者さんでもないご隠居さんが,がんの話をするのは,滑稽で,とんでもないお門違いじゃありませんか。

ところが,そうでもないんだよ。

科学一般を専攻した人でないと書けない部分があるんですよ。私の頭に問題があるかどうかは,今から書く記事を読んでから決めて下さい。



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その一 がんと日本人


がんは1980年頃を境として,日本人の死亡原因の第1位になり,その後も増加の一途を辿っています。現在では,日本人の死亡原因の1/3にはがんが直接,間接に関わっているといわれています。現代に生きる我々は,がんと無縁ではありえないのです。

詳細な統計データが,厚生労働省のウェッブ・ページに掲載されています。篤とご覧ください。



平成26年度 人口動態統計特殊報告
「日本における人口動態 -外国人を含む人口動態統計-」の概況
(厚生労働省)



このような状況にあって,多くの人が,がんとは何か,現代の科学ががんとどう向き合っているのか,今後の展望はどうかなど,がんに関する教養を身に付けたいと希望しているのではないでしょうか。

事実,一般読者を対象として,がんの著書が数知れず出版されています。これらの著書は全て医師によって執筆されたものです。私は可能な限りこれらの著書に目を通しましたが,残念ながら,一般読者の疑問に応えうるものに出会うことはありませんでした。



その二 歴史のなかのがん


がんは先史時代から人々を悩ませていたようです。ジャワ原人の骨やスイスのミュンジンゲンで発見された新石器時代の戦士の上腕骨に「骨肉腫」(骨の悪性腫瘍)の痕跡が認められるということです [→ ピエール・ダルモン(河原誠三郎,鈴木秀治,田川光照訳)『癌の歴史』(新評論,1997,29-30ページ)] 。


医学の祖あるいは医術の父と称される 古代ギリシアの医師 ヒポクラテス (前460頃ー前375頃)の著作には,すでに 乳がん についての記述があります。『ヒポクラテス(小川政僑訳)古い医術について 他八編』(岩波文庫,1963)。

体の表面に出来た 乳がん のかたちが,甲羅から足を伸ばしたカニのかたちに似ているところから,カニを語源とする cancer(英語), Krebs(ドイツ語),Carcinoma(ラテン語)が用いられることになったようです。



その三 腫瘍とは何か


腫瘍(tumor)とは,読んで字の如く「はれもの」です。細胞分裂時の突然変異によって発生した腫瘍細胞が,免疫系の監視を潜り抜けて,生体から排除されることなく分裂を繰り返し増殖し,はれものとなります。健康な人の細胞が備えるべき秩序が失われると,細胞が闇雲に突っ走る結果として腫瘍が形成されるのです。

腫瘍(tumor)は,地理的にはある国の一部でありながら,独立を主張し,その国の憲法を全く無視して勝手気ままに勢力を拡大していく 革命自治政府 のようなものです。


腫瘍は,“新生物”(neoplasm)と “悪性新生物”(malignant neoplasm)に分類されます。


新生物は,腫瘍が発生した部位の正常の細胞と姿,かたちがほとんど変わらない細胞から成り立っています。新生物は 良性腫瘍(benign tumor)と同義語です。

良性腫瘍の細胞は増殖が遅く,腫瘍が一定の大きさに達すると増殖が止まります。その結果として腫瘍は局所にとどまり,浸潤も転移も起きません。

良性腫瘍は,必要なら手術によって摘出することも可能です。特別の場合を除いては,良性腫瘍が致命的になることはありません。よく知られた例外は脳腫瘍です。硬くて狭い閉鎖空間に発生した腫瘍は,たとえ良性であっても一命に関わることがあります。

一方,悪性新生物すなわち 悪性腫瘍 は,自らの周りの組織を破壊しながら増殖を続け,さらに血液,リンパ,体腔などを介して身体の様々な場所に飛び火します。悪性新生物,悪性腫瘍(malignant tumor),がん(cancer)は全て同義語です。



その四 ほとんどのがんは,体の「表面」から発生する


人の身体の至るところからがんが発生します。しかし,はっきりといえることがあります。それは,結合組織や支持組織などからも,がんは発生するけれど,ほとんどのがんは身体の表面を覆っている上皮組織から発生するという経験的事実です。

すなわち,身体の「表面」は,がんの多発地帯なのです。身体の表面は皮膚で覆われています。皮膚の驚くべき多様な機能については,傳田光洋『皮膚は考える』(岩波科学ライブラリー,2005)に興味深く綴られています。

ここで私がいっている表面は,皮膚のように,われわれが目で見たり手で触ったりして,直感的に理解できるものばかりではありません。つぎのような仮想の実験を想像してください。

体内の組織に触っても傷つけないように注意して作った細くて軟らかいプラスティックの長い棒を口からそっと差し込んでみます。この棒は食道から,胃,小腸,大腸,肛門を通って身体の外に出ます。棒の先端が接触できる食道から肛門にいたる消化管の上皮組織はすべて身体の表面です。

肝臓細胞も上皮細胞すなわち表面です。お酒が過ぎると,胃液や胃の内容物と一緒に,胆汁を吐きます。肝臓細胞が口につながっているからです。人の身体からは尿も出れば,汗も鼻水も出ます。体液が出てくるところは,すべて表面です。似たような状況を想定すれば,子宮頸部,子宮体部の上皮組織はいずれも表面であることが理解していただけるでしょう。子宮体部の上皮組織を形成する子宮内膜は,生理のたびに剥がれ落ちて,血液とともに体外に流れ出ます。

別の例を挙げれば乳管です。母乳を作る乳管細胞が乳頭を通って外に繋がっていなければ,おなかを空かせた赤ちゃんの口に母乳は入りません。肺の上皮組織も表面でその機能を発揮します。酸素を取り込み,二酸化炭素を吐き出すためには,肺胞の表面が口,鼻につながってなければなりませんから。

余談ですが,乳がんは男性にも発症します。立派に乳腺が存在しますから。もっとも,確率的には,女性の場合の 1/1000 程度です。



その五 実質とストローマ


上皮組織は,たとえば胃では粘膜上皮組織として,消化酵素の分泌などに関わっています。このように,ひとつの塊となって,生きていくための機能を発揮する細胞の集団を 実質 とよびます。

一方,結合組織は身体が出来上がっていく過程で生じた細胞間の空隙を埋め,身体を支える役割を果たします。ここで注意していただきたいのは,上皮細胞には,自分自身の活動を支えていくために必要な酸素と栄養の補給路が備わっていないということです。このため,上皮細胞の生存に必要な酸素と栄養は,結合組織に大量に存在する血管によって供給されています。

結合組織は 間質 あるいは ストローマ (stroma) と総称されます。以下の文章では,ストローマを統一して用いることにします。ストローマは,実質が心おきなくその使命を実行するために用意された,普遍的かつ必要不可欠な組織です。

例えて言えば,登山する部隊(実質)に食料などの支援をする基地に設置されたキャンプがストローマと考えればよいと思います。

上皮とストローマは,基底膜 とよばれる薄い膜によって隔てられています。電子顕微鏡で見ると,基底膜はコラーゲン,ラミニンなどの線維から作れている目の粗い網です。

強調しておきたいことは,「上皮のあるところにストローマあり」ということです。すなわち,上皮とストローマはつねに一組のセットとして考えるべき存在です。基底膜によって隔てられた 上皮とストローマ の関係は,正常組織の場合であっても,悪性腫瘍の組織であっても概念的には変わりはありません。

付け加えておきますと,今 筆者がブログを書いている PC には,オックスフォード英語辞典 の CD-ROM版がアップロードしてあります。そこには,stroma は「座ったり,寝そべったりするために拡げられた敷物」を意味するギリシャ語に由来するとあります。成程と納得させられる説明です。座ったり,寝そべったりするのは実質である上皮細胞,敷物は防波堤である基底膜を最前線に配備したストローマです。



その六 癌と肉腫


読者はすでに気にされていることと思いますが,これまでに,腫瘍,悪性腫瘍,良性腫瘍,がん,癌という表現をとくに断りなしに使ってきました。ここで,この点を整理しておきます。

 上皮細胞を故郷とする悪性腫瘍を癌とよぶ

上皮から発生する悪性腫瘍は漢字を使って と表現します。すなわち,癌細胞の故郷は上皮細胞です。悪性腫瘍の大半は上皮組織から発生します。すなわち,悪性腫瘍といえば,ほとんどの場合,癌を指すと考えてよいのです。

活発に分裂を繰り返しているあらゆる上皮細胞から癌が発生します。悪性化は1個の細胞から始まりますが,分裂しない細胞は悪性化しません。例えば,心筋細胞は分裂しませんから,心筋から悪性腫瘍が発生することはないのです。また,分化の進んだ上皮細胞ほど,悪性化し難いのも事実です。例えば,眼の角膜は分化が極度に進んでいて,核が存在しません。したがって癌にはならないのです。切っても痛くないことからわかるように,爪や髪の毛は死んだ細胞であり,やはり癌にはなりません。

癌はからだのあらゆる部分にできてもよさそうなものなのに,何故ことさら上皮から発生するのでしょうか。上皮は,外界との絶えざる接触に曝されている身体の「最前線」に配備された防人 さきもり であり,外界からのさまざまな刺激を受けて,何らかのトラブルがつねに発生している場であると考えてよいでしょう。


● 非上皮組織から発生する悪性腫瘍を肉腫とよぶ

上皮から発生する癌に対し,ストローマを含む非上皮組織(骨,軟骨,血管,筋肉,神経など)から発生する悪性腫瘍を 肉腫 とよびます。

一見悪そうに見えなくても,「悪い奴」であることには何らかわりがない,というのが肉腫の,なんともやっかいな点です。人間の社会でも,何となく頼りなげでしかも礼儀正しく,つい声をかけたくなる「二枚目」に,“ まさかあの人が ” というような場合がありますので,気を付けて下さい。

経験的には,肉腫は癌に比べて発生頻度が圧倒的に低いことが知られています。成人の場合,悪性腫瘍のなかで肉腫の占める割合は10%をはるかに下回ります。しかし,小児に限っていえば,何故か,肉腫は悪性腫瘍全体の15-20%に達します。



その七 癌 と がん と ガン


現在,書籍,新聞などでは,癌 と がん と ガン という風に,漢字と平仮名と片仮名を見かけます。

かって,東京の大塚にあった 癌研(財団法人癌研究会癌研究所)は,漢字の 癌 を使っていました。吉田富三先生が所長をしておられた頃から,癌には肉腫が入らないから困るといって,気にされていたということです。現在,癌研は東京都江東区有明に移転し,名前も 「がん研有明病院」と変わりました。

「国立がん研究センター」 は,中央病院が東京都中央区築地,東病院が千葉県柏市にあります。


つまり,現在では,癌と肉腫いずれの場合にも 「がん」 とよぶことに統一されました。

片仮名の「ガン」は病理の専門家は使いません。



その八 浸潤,転移,播種


がんはいったいどこから来て,どこへ行くのでしょうか。がん細胞が最初に発生する場所を 母地 ぼち とよびます。例えば,胃がんの発生母地は胃の腺上皮です。

発生母地 から,がんがストローマの中を拡がっていくのが 浸潤 しんじゅん です。浸潤 は発生母地から連続して起こります。あたかも,騎兵部隊(がん細胞)が 砂塵 ( ストローマ ) を巻き上げながら原野を駆け抜ける感があります。

転移 は,がん細胞が発生母地から非連続的に移動する現象です。非連続的というのは,血液,リンパの流れに乗って,遠く離れた場所へ飛び火することを意味します。

がん細胞は,最後に器官の壁を突き破って器官の外に散らばっていく場合があります。この現象は 播種 はしゅ とよばれます。

図には,がん細胞が浸潤に続き,胃壁を破って腹腔に拡がる播種が描かれています。播種によって,がん性腹膜炎が惹き起こされます。肺がんの場合も同様にして,がん細胞が胸腔内に拡がります。浸潤の究極の姿である播種への移行によって,がんは終幕へと進みます。


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播種の模式図:青木幹雄博士による


がんは何故,浸潤,転移するのでしょうか。あるいは,がんは何故,浸潤,転移しなければならないのでしょうか。吉田富三門下の佐藤春郎博士は次のように書いておられます [→ 佐藤春郎『がん細胞の営み』(朝日選書324,1987,113-124ページ)] 。

《がんの転移を考えるとき,ふと海外への移民を連想することがある。・・・がんの細胞も生まれ故郷(原発巣)から遊離して体内を巡るが,転移巣を築くまでの一生は,まさに流浪の民といってもよい。定着して転移巣を形成できる“成功者”はどれくらいあるのだろうか。成功の条件は何なのか。・・・ がん細胞が故郷(原発部)を離れて,流浪の旅にのぼるのも,何かやむにやまれぬ理由があるのではないだろうか。・・・》

転移して別の臓器に移っても,がん細胞は故郷にいた頃の姿,形を保っていることが少なくありません。したがって,組織標本をみれば,この細胞はどこが故郷か,つまり,発生母地はどこかが分かります。遠く故郷を離れても,故郷のしきたりを守り続けるがん細胞の性質が,がんの診断に役に立つのです。

肝臓細胞は,胎児のときとがん化したときに限って,タンパク質・αフェトプロテインを作ります。したがって,がん化した肝臓細胞は,免疫染色によって区別できます。胃の上皮細胞は,たとえがん化しても,αフェトプロテインを作ることなど絶対にありません。ところが,肝臓へ転移したあと,もともとは胃の上皮細胞でありながら,αフェトプロテインを作りはじめることがあります。つまり,この細胞は,肝臓に移り住んだあとは,自らが胃上皮を故郷とすることを忘れてしまっているのです。このように,別の国に移り住んで,その国に同化していく場合もあります。これも移民の一つの姿かもしれません。

浸潤,転移があれば,がんだと断定できます。

吉田富三門下の友人の話ですが,組織標本を顕微鏡の下で傍若無人に浸潤,転移していくがん細胞をなすすべもなく見ていると,あの狂乱の時代に生きたアドルフ・ヒットラーのことがふと頭をよぎることがあるそうです。

浸潤とか転移は,場合によって,速かったり,遅かったりします。臓器によっても差があります。一般的にいって,自然科学では原理・原則をもとにものごとを考えます。ところが,困ったことに,がんの場合には,その原理・原則が見付からないのです。がんがどこにできて,そしてそのあと,一体どのように浸潤していくのか,どこに転移するのか,まったく予測がつかないのです。

肉腫は血管に入りやすい性質があります。従って,肉腫は血管を伝わって転移して行きます。これに対して,胃がん,子宮がん,乳がんなどはリンパ管を伝わって転移することが多いのです。乱暴に割り切っていえば,肉腫細胞は血管を好み,がん細胞はリンパ管を好みます。これは悪性腫瘍の病理学の大原則です。無論,御想像いただけるように例外は少なくありません。

ここで,転移について付け加えておきたいことがあります。脳腫瘍には,そのほかの悪性腫瘍にない特徴があります。脳の実質内に発生した悪性腫瘍は,脳の外へ転移することは極めて稀です。逆に,脳以外の臓器に発生した悪性腫瘍が脳へ転移する場合,脳血管への腫瘍塞栓が大半で,髄液を介して脳に直接浸潤することは極めて稀です。首から上に発生した副鼻腔がん、舌がん、唾液腺がんなどは、局所再発だけでなく,肺にも転移します。



その九 漢字の癌について


『安藤博 乳腺疾患の歴史 - 主に外科史を中心に -』(癌の臨床 別集21,篠原出版,1992)には,中野操博士の報告『癌という漢字について』(日本医事新報 No.2248,43ページ,1967)が引用されています。中野博士の報告の要点は以下の通りです。

 癌という文字は中国で最初に用いられた。

● 最古の例は,南宋の時代の1264年の文献にみられる。

● 日本での初出はそれより遙かにあとの寛文6年(1666)で,その頃には,岩,巌,癌の三通りの書き方が使われていた。

● その後,慶應から明治にかけて,医書のなかで癌に統一された。


小川鼎三『医学用語の起り』(東書選書,1990,23ページ)によると,華岡青洲(1760-1835)の著書の題名は『乳巌治験録』(1805)であり,広田憲寛の『改正増補訳鍵』(1857)には「乳岩の一種」という言葉が使われています。後で述べますが,乳がんが進行すると,乳房が岩のように硬くなります。岩と巌はともに,言い得て妙です。






つづく

by yojiarata | 2017-01-18 23:59
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