ご隠居さん。かねがね,野球少年だということは聞いていたけど,映画少年もやっていたの? そうです。野球と同じくらいにね。 映画とは,私にとっては,日本映画が90%以上を占めるけどね。理由はいろいろあるけど,要するに,心が,心底応答するのは,日本だからね。 野球のこと,映画のことを,自由にしゃべってよいというなら,一日中喋っていますよ。 それでは,際限なく続くので,映画に興味のない人には迷惑だろうから,まず,戦争中,国民学校(現在の小学校)の高学年から中学入学を経て大学まで,1970年代の初め頃までの経験を出来る限り簡潔に話すつもりです。 何故,1970年なの。 この先を読んでください。 中学から,高校2年までの私の楽しみは,近くの川で泳ぐ夏の水泳のほかは,野球と映画だったんだ。夜は夕食後,映画館に通ったよ。 父は皮膚科・泌尿器科の看板を掲げた町医者。父の診察室は,医院というより,よろず相談所。やくざの親分のようなおじさん,正体不明の女,川向こうの「赤線地帯」のおねえさん達の溜り場でワイワイ騒いでいたよ。町のほとんどすべての映画館の招待券が我が家にいつもあったのは,このためなんだ。言ってみれば,連中の「手土産」のようなものだったんだね。 小さな町でだから,どの映画館にも歩いて行くことができました。同じ映画を何度も繰り返して見たりで,高校二年の冬は,十二夜連続で映画館に通ったことがあるよ。高校三年になってからは,映画少年としての活動は多少控えめだったけどね。 私のあまりの熱心さに母親があきれていたよ。それでも,勉強しなさいという言葉は一度も聞いたことがないんだ。隣のおばさんに,悪い遊びを覚えるより,どれほど良いか分からないと言っていた記憶があります。これは,有り難かったね。映画少年・荒田洋治があるのは,母親の理解の賜物です。 君は,何故,1970年の初め頃かと聞いたけど, 私にとって,この頃,映画 が終わったんだよ。 第69回カンヌ映画祭(2016年5月22日)では,最高賞パルムドールに英国のケン・ローチ監督の「ダニエル・ブレイク」が選ばれたよ。熟年労働者のダニエル・ブレイクが弱者に厳しい社会と闘う物語です。 他の部門でも,日本映画に該当作品はなかったよ。日本からも,多くの映画関係者が,賑賑しく乗り込んだというところまでは新聞で読んだよ。だけど,そのあとのことは,どこにも書いてないんだ。想像すると,多分全員あえなく討ち死したんだ。 映画の内容自身が,国際的に評価されるレベルに達していないんじゃないの。私自身は,作品の 哲学 の問題だと思うよ。 これまで私の見た映画の数は,殆ど ”無限” です。感想であれ,評価であれ,書き出すと止まらくなることは必定だから,ほんの少しだけ,「私と映画」について書いてみたいと思います。 ほんの少し竹と言いながら,どんどん膨らむと思うけど,ご容赦あれ。 日本映画の歴史に残る巨匠たちについては,国内外の専門家が,山のように書いているけど,ここでは,私自身の切り口で,二,三の点を書いてみるよ。 溝口健二 1898年5月16日-1956年8月24日 (享年58) 『雨月物語』(1953) 1953年製作。監督溝口健二。「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の2編を川口松太郎と依田義賢が脚色。出演は京マチ子,水戸光子,田中絹代,森雅之,小沢栄ほか。舞台は近江国と京に設定されています。この映画は,ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞しました。また,スタッフも文部省芸術選奨を,そしてエディンバラ映画祭においてデヴィッド・O・セルズニック賞を受賞しました。日本映画の歴史の残る素晴らしい作品です。 この映画について,弟子の新藤兼人が書いた一文。 【 これは,戦乱に巻き込まれた貧しい庶民の話で,男(森雅之)は,町へ作った瀬戸物を売りに行って,妻(田中絹代)に別れ,魔性の女(京マチ子)に魅入られて故郷を忘れて逸楽の日を過すが,僧に危い命を助けられて,荒廃した故郷へ帰ってくる。 荒れはてた家には妻が待っている。妻は実は亡霊なのである。夫の帰りを待ちこがれた妻の魂が,仮りの姿をかりて,帰ってきた夫をやさしく迎えてねぎらう。 ・・・・・ 】 新藤兼人『ある映画監督 ー 溝口健二と日本映画』 岩波新書962 1979年 第4刷,51ページ 新藤兼人(本名 新藤 兼登 ) 1912年4月22日 ー 2012年5月29日(享年100) ともあれ,亡き妻の亡霊の住む建物の光と影,モノクロ画面の素晴らしい映像美,忘れ難いね。 上田 秋成(うえだ あきなり,享保19年6月25日(1734年7月25日)― 文化6年6月27日(1809年8月8日)は,江戸時代後期の読本作者,歌人,茶人,国学者,俳人。怪異小説『雨月物語』の作者として特に知られています。 『山椒大夫』山椒大夫(1959) 山椒大夫・高瀬舟 他四編 (岩波文庫 緑 5-7,2002年10月16日) この小説は中世の芸能であった説経節の「五説経」とよばれた演目の一つ「さんせう太夫」を原話として,1915年(大正4年),森鷗外によって「中央公論」に掲載されました。その時,森鷗外53歳。ただし,現在われわれが目にする作品は,鷗外によって原話が大々的に書きなおされたものだけどね。 安寿と厨子王と母親が,山椒大夫の手の者に連れ去られる湖の情景。 兄・厨子王の逃亡の足手纏いにならないようにと,近くの湖で入水する安寿。それを,遠くから見つめながら,手を合わせる老婆,墨絵のように幽玄な映像だったよ。 溝口のカメラワークには,右腕であったカメラマン・宮川一夫の功績が大きく,『雨月物語』,『山椒大夫』を始めとする溝口の黄金期の作品の撮影を担当しています。 宮川を起用したきっかけは,映画会社から当時新人であった宮川を使うよう命じられたためで,溝口はひどく立腹するんだけど,いざ仕事をしてみるとその才能を認めることになったんだ。溝口は宮川を右腕として信頼し,こと撮影に関しては彼の意見の多くを取り入れるほどだったと新藤兼人は書いているよ。 宮川一夫(1908 - 1999)の映像の技は世界が認める素晴らしさだったよ。 溝口作品以外の例を挙げると,黒澤明の『羅生門』(1950)。アップで木漏れ日を撮った映像。『用心棒』(1961)の最終場面。望遠レンズを使って撮った,北風の吹き荒れる「短剣の三船敏郎と,ピストルの仲代達也の決闘」の息をのむショット。忘れ難いね。 小津安二郎の『浮草』(1959)もいいね。 小津安二郎 1903年12月12日 ー 1963年12月12日(享年60) 終戦直後のシンガポールで,追い詰められた人々が,先を争って日本への「引き上げ船」に乗り込もうとしているとき,一人の男が,「俺はあとでいいよ」と言ったと新藤兼人が書いているよ。男は映画監督の小津安二郎。 小津作品の,誰にも真似のできない,曰く言い難い静かさは,「俺はあとでいいよ」の小津をそのまま映し出しでいるような気がするよ。 黒澤明 1910年3月23日 ー 1998年9月6日 (享年88) 黒澤映画というと,私が取り上げたいのは,重要な場面のバックに流れる音楽だね。 『酔いどれ天使』(1948) 「小雨の丘」をギターで弾くチンピラヤクザ 『羅生門』(1950) アップのカメラで撮る木漏れ日 早坂文雄のボレロ 『天国と地獄』(1963) 身代金と交換に人質を取り返した仲代仲代警部が,部下に。「犬になって追え」と号令する場面に流れるトランペット おわりに近く,深夜,犯人逮捕の場面,黒澤は『グリーン・スリーブス』を使うことにこだわったんだそだけど,版権の関係(当時)でこれが叶わず,泣く泣く『帰れ ソレントへ』と取り換えたと「映画雑誌」か何かで読んだ記憶があるよ。 『生きる』(1952) 亡き妻の葬儀に向かう車中 妻と一人息子・正雄との楽かった日々の回想。今は結婚して,同じ屋根の下に嫁と住む正雄。 ”正雄”と呟くように声を絞り出す志村喬 この場面で,突然,音楽が入る。印象的で忘れがたい場面だね。 志村 喬(しむら たかし、1905年(明治38年)3月12日 - 1982年(昭和57年)2月11日) ところで,私が最初に見た映画は,遠い記憶をたどってみると, にんじん だったよ。いつの頃だったか。どんな内容だったかも,全く記憶にありません。ただ,暗い画面に,少年が立っているカットだけは覚えているよ。 このブログを書くために,調べてみたところ, この映画は,ジュール・ルナールの少年小説をデュヴィヴェが演出した作品。 「にんじん」(1932) だとわかったよ。勿論,私は,デュヴィヴェが演出した作品だと知っていたわけではないよ。何の気なしに入った映画館で,たまたま観ただけだから。それに,私はまだ小学生だったからね。 私は,仕事の関係で,1971年1月から1973年3月の間,日本を不在にして,アメリカ・カリフォルニアに滞在していました。当時は,インターネットのない生活で,日本で起きていることを悉に知ることは,事実上不可能だったよ。 映画少年にとっては,この2年は致命的だったね。 日活は路線を大きく変更するし,大体,日本映画そのものの衰退がひどかったね。オイル・ショックで,トイレット・ペーパーはなくなって争奪戦が起こるし,映画どころじゃなくなったんだ。 映画に代わってテレビの安直なドラマによって,日本の映画産業が壊滅。映画の製作には,巨額の費用が掛かるからね。溝口,小津,黒澤などの巨匠の存在そのものが,経済的に成り立たなくなったんだよ。 ちょうどその頃(1973年初め)帰国した映画少年の私にとっては,大変なショックだったよ。 ところがこの時,映画少年を心底から揺さぶる映画に出会ったんだ。結論を先にいえば,映画少年・荒田洋治にとって,如何なる角度から見ても第1位に押すべき映画にぶつかることになるんだ。 深作欣二『仁義なき戦い』 1973年1月13日 劇場公開 帰国直後だったように記憶しているんだけど,「日本は2年間で何か変わったことがあったかな」と思い,銀座の裏通りを見物のため,ふらふら歩いていたんだ。何の気なしに,「並木座」(二番館,封切りのすんだ映画を,封切館の次に上映する映画館)に吸い寄せられるように入ったんだ。 二回続けて見て,並木通りを自宅行の地下鉄に乗る前,私は興奮のあまり,ぶつぶつ呟いていたよ。”物凄い迫力,物凄いねーー” 。ナレーションに重ねて流されるあの音楽。 映画少年を70年以上続けていてよかったと思ったよ。 この映画は,終戦直後,広島で実際にあった暴力団の抗争事件を,飯干晃一の原作,綿密に取材した笠原和夫の脚本がもとになっているんだ。 このブログを書くために資料を集めているとき,
が放映されました。 この番組を見て,「仁義なき戦い」のような類い稀な作品が,何故,生まれたのか,納得したよ。 ① この映画のプロデューサーの日下部五朗へのインタビュー それまで,深作はB級作品を撮っていたんだけど,日下部はかねがね,深作に注目していたんだ。 テンポの早さ。これはすごい。瞬きする間もなく,次のポイントに飛び移る。徹底的なリアリズムを目指した作品を創ろうとかねがね考えていた日下部にとっては,この上もない機会が到来したんだ。 徹底的なリアリズムを目指して,テンポとリアルさで勝負する作品を深作に期待したんだね。 日下部の決定によって,1972年秋,東映京都撮影所のスタジオに入った深作を壁が待ち受けていたのは,よそ者を排除しようというあからさまな雰囲気。 この壁を乗り越えたのは,誰とも平等に接する深作。主役も脇役も,1ミリの隔てなく接する深作の人柄に,スタッフ全員がついていくことになった。 深作欣二はこの時,42歳,この映画を作れるのは自分しかいないと公言して,撮影に入ったんだ。 ② 深作欣二の姿勢 自分が納得するまで,粘りに粘って次に進む徹底的なこだわり。 深作の口癖は,”微妙に違うんだな。もう一度やろう”。 その結果,徹夜の連続となる。深作組は, 深夜作業組 とよばれるようになったんだそうだよ。 それでも,スタッフ全員がついていったのは,偏に深作の人柄。あのおっちゃん「おもろい奴や」と言ってスタッフがついていったんだそうだ。 こうして,仁義なき戦いの第1作が完成する。手持ちカメラによる吉田貞次の縦横無尽のカメラワーク,一度聴いたら忘れ難い津島利章の音楽,小池朝雄によるナレーション,これらがあいまって作りだす臨場感,ドキュメンタリータッチで,映画は息つく間もなく,急流となって流れていく。 【 完全に横道にそれるけど,深作のこの姿勢は,実験科学を生業とする私自身が実行すべく努力していることだね。物事の達成のための姿勢には,分野は関係ないんだ。 】 ③ 深作欣二は,何故,この映画を撮ったのか? 深作欣二には,終戦直前に経験した恐怖の記憶があった。当時,15歳の深作は,米軍機による艦砲射撃を逃げ回った。 【 小学生だった私も, グラマン戦闘機による個人への射撃を経験したよ。操縦席に乗っているアメリカ人のパイロットの顔が見えるんだ。その恐ろしさ,君は想像できるかい。】 多くの友人が命を落とす。生き延びた深作は,20何人もの友人の亡骸を,誰も助けてくれないから,自分ひとりで,丁寧に,一つづつ拾い集める。 この経験をもとに,戦争の虚しさを実感し,自ら正しいと信じることを,一人で徹底的に遂行する深作欣二が出来上がったんだ。 ④ 暴力の行きつく果ての象徴 ー 原子爆弾 第1作の最初の画面は,原爆のキノコ雲をバックにした「仁義なき戦い」 第2部「広島死闘篇」から第5部「完結篇」まで,エンディングにはすべて,原爆ドームが使われているよ。 深作欣二にとって,共通するテーマは,反権力だね。 チーフ助監督・土橋亨の証言 第3作 「仁義なき戦い・代理戦争」 台本にはない,次のナレーションを,撮影現場で深作自身が付け加えている。深作の場合,映画の台本は,あってないようなものだったようだよ。撮影に夢中になると,台本をお尻のポケットにいれて,全軍を指揮することが稀ではなかったと土橋は言っています。 戦いが始まる時, さらに,続けて,土橋は言う。
深作欣二(ふかさく・きんじ) 本名同じ 黒澤明が降板したため,日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』(1970)の日本側監督を後任となった舛田利雄から懇願され共同監督を引き受けたりしていたんだけど,当時の深作は,創りたい映画を東映になかなか認めてもらえなかったようだよ。 1973年(昭和48年)から公開された『仁義なき戦いシリーズ』は日本映画史に残るヒットを記録。 深作はこのあと,きわめて幅広い分野で,よい仕事をしているよ。 『軍旗はためく下に』(1972),『柳生一族の陰謀』(1978),『復活の日』(小松左京が1964年に書き下ろしで発表した日本のSF小説)(1980),『魔界転生』(1981),『蒲田行進曲』(1982),『火宅の人』(1985),『華の乱』(1988),『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1994),『バトル・ロワイアル』(中学生の引き起こした殺人事件が題材。主人公と同じ中学生が観賞できない,社会問題になった作品)(2000)など,発表する作品の多くが大ヒットしたんだ。 これらの作品は高い評価を受け,作品賞,監督賞など数々の賞を受賞しているよ。 1997年(平成9年)紫綬褒章受章。 1930年7月3日 - 2003年1月12日(享年72) 出生地 茨城県緑岡村
by yojiarata
| 2016-06-10 13:15
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