九月朔 忽爽 こつそう 雨歇みしが風猶 なお 烈し。空折々掻曇りて細雨烟の来るが如し。日将に午ならむとする時天地忽鳴動す。予書架の下に座し嚶鳴館遺草を読みゐたりしが,架上の書帙書帙 しょちつ 頭上に落来るに驚き,立って窗を開く。 門外塵烟濛々殆咫尺 しせき を辦せず。児女鶏犬の声頻なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるが為なり。予も亦徐 おもむろ に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまゝ表の戸を排 おしひら いて庭に出でたり。数分間にしてまた震動す。身体の動揺 さながら船上に立つが如し。 門に倚 よ りておそるおそる吾家を顧るに,屋瓦少しく滑りしのみにて窗の扉も落ちず。稍安堵の思をなす。 昼餉をなさむとて表通りなる山形ホテルに至るに,食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二三の外客椅子に坐したり。食後家に帰りしが震動歇まざるを以て内に入ること能はず。庭上に座して唯戦々兢々たるのみ。 物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ,半輪の月出でたり。ホテルにて夕餉をなし,愛宕山に登り市中の火を観望す。十時過江戸見坂を上り家に帰らむとするに,赤坂溜池の火は既に葵橋に及べり。 河原崎長十郎一家来りて予の家に露宿す。葵橋の火は霊南坂を上り,大村伯爵家の鄰地にて熄 や む。吾廬を去ること僅に一町ほどなり。 九月二日 昨夜は長十郎と庭上に月を眺めて暁の来るを待ちたり。長十郎は老母を扶け赤坂一木なる権十郎の家に行きぬ。夕餉の馳走になり,九時頃家に帰り樹下に露宿す。地震ふこと幾回なるを知らず。 九月三日 微雨。白昼処々に 放火 するものありとて人心恟々たり。各戸人を出し交代して警備をなす。・・・・・ 九月十日 ・・・・・ 電車 昨日より山の手の処々運転を再開す。 ・・・・・ 九月十二日 窗外の胡枝花開き初む。 九月十五日 時々驟雨。余震猶歇まず。 九月十七日 両三日前より麻布谷町通 風呂屋開業 せり。今村令嬢平沢生と倶に行きて浴す。心気頗爽快を覚ゆ。 九月廿三日 ・・・・・ 曇りて風寒し。少しく腹痛あり。夜電燈点火せず,平沢夫婦今村母子一同と湯殿の前なる四畳半の一室に集り,膝を接して暗き燭火の下に雑談す。窗外風雨の声頻なり。 ・・・・・ 九月廿四日 昨来の風雨終日歇まず。寒冷初冬の如し。夜のふくるに従ひ風雨いよいよ烈しくなりぬ。偏奇館屋瓦崩れ落ちたる後,修葺未十分ならず。雨漏甚し。 九月廿五日 昨夜の風雨にて庭のプラタン樹一株倒れたり。その他別に被害なし。 ・・・・・ 此日一天拭ふが如く日光清澄なり。夜に入り月光また清奇水の如し。暦を見るに 八月十五夜 なり。災後偶然この良夜に遇う。感慨なき能はず。 十月三日 快晴始めて百舌の鳴くを聞く。午後丸の内三菱銀行に赴かむとて日比谷公園を過ぐ。林間に仮小屋建ち連り,糞尿の臭気堪ふ可からず。公園を出るに爆裂弾にて警視庁及近傍焼残の建物を取壊中往来留となれり。・・・・・ 帰途銀座に出で烏森を過ぎ,愛宕下より江戸見坂を登る。坂上に立って来路を顧れば 一望唯渺々 びょうびょう たる焦土 にして,房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。 されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば,所謂山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば,灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢 しゃしきょうまん ,貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば,この度の災禍は実に天罰なりと謂ふ可し。 何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失ひ国帑 こくど 亦空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即此の如し。自業自得天罰覿面 てきめん といふべきのみ。 十月四日 快晴。・・・・・ 初更強震 あり。 十月八日 雨纔 わずか に歇む。午後下六番町楠氏方に養はるゝ大沼嘉年刀自 とうじ を訪ひ,震前借来りし大沼家過去帳を返璧す。刀自は枕山先生の女,芳樹と号し詩を善くす。年六十三になられし由。この度の震災にも別条なく平生の如く立働きて居られたり。 旧時の教育を受けたる婦人の性行は到底昨今新婦人の及ぶべき所にあらず。 ・・・・・ 十一月五日 払暁強震。午後丹波谷の中村を訪ふ。震災後私娼大繁盛の由。 十一月十一日 吾家の門前より崖づたひに谷町に至る坂上に道源寺といふ浄土宗の小寺あり。朝谷町に煙草買ひに行く時,寺僧人足を雇ひ墓地の石垣の崩れたるを修復せしめ居たり。石垣の上には寒竹猗々として繁茂せるを,惜し気なく掘捨て地ならしをなす。 予通りかゞに之を見,住職に請ひ人足には銭を与へて,其一叢書を我庭に移し植えさせたり。寒竹は立冬の頃筍を生ずるものにて,其の頃に植れば枯れざる由。曾て種樹家より聞きし事あり。 ・・・・・ 十二月十二日 ・・・・・ 外濠の電車一昨日十日より運転す。 十二月卅一日 午後三菱銀行に往き銀座を歩みて帰る。日比谷より下町へかけて塵埃烟の如く,自動車来るや咫尺を辦せず。況んや連日の晴天,路上人馬絡繹,黄塵濛々たり。帰宅の後炉辺に桜痴先生の懐往事談を読む。 晩飯を喫して後お栄を伴ひ,山形ほてるに松莚子を訪ふ。荒次郎,長十郎,鶴男等来る。細君福茶を煮る。款語の中除夜の鐘を聞き辞して帰る。
by yojiarata
| 2016-02-22 21:29
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