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『火はわが胸中にあり』 ― 忘れられた近衛兵士の叛乱  竹橋事件 




昭和7年五月十五日

この日の日記( 断腸亭日乗 ) に,永井荷風は 五・一五事件 について次のように書いています。


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晴れていよいよ暑くなりぬ。晡下銀座に往きて夕飯を食す。日曜日なれば街上の賑ひ一層盛なる折から号外売の声俄に聞出しぬ。五時半頃陸海軍の士官五六名首相官邸に乱入し 犬養を射殺 せしと云ふ。警視庁及政友会本部にも同刻に軍人乱入したる由。

初更の頃家に帰るに市兵衛町表通横町の角々に巡査刑事二三名づゝ佇立み,東久邇宮鄭門前には七八名立ち居たり。如何なるわけあるにや。

近年頻に暗殺の行はるゝこと維新前後の時に劣らず。然れども凶漢は大抵政党の壮士又は血気の書生等にして,今回の如く軍人の共謀によりしものは,明治十二年 竹橋騒動 以後曾て見ざりし珍事なり。


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【 ここで,荷風が ”珍事” と書いている「竹橋騒動」は,明治十二年に近衛兵士がおこした反乱を指し,のちに 「竹橋事件」 とよばれることになります。


明治初期,徴兵制や悪化する待遇に不満を抱く近衛兵士が叛乱を起こしました。しかし,事が事前に露見し,五十余名もが処刑されました。この事件は,その後の日本の100年以上にわたる軍国政治において重大な意味をもっています。すなわち,天皇への忠節を至上命題とする「軍人勅諭」を始め,大日本帝国陸軍の完成へと利用されていくことになりました。

1960年代半ば,澤地久枝は,二・二六事件の連座者の一人で銃殺刑となった青年将校安藤輝三の言葉に,初めて「竹橋事件」を意識したと書いておられます。

待遇の悪化や徴兵制そのものに対する素朴な不満を抱え,天皇への強訴を企図したものの,それは何者かによって圧殺され,逆に天皇への忠誠を絶対とする「大日本帝国陸軍」の完成へと利用された。・・・・・ 無残にも殺された青年たちは,どのような人間であり,どのような改革の火を胸に秘めていたのか。

裁判の口供書を読み込み,わずかな手がかりを元に菩提寺を探しては,遺族に伝わる話を聞きだして,現在では散らばってしまっている事実の断片を繋ぎ合わせ,気の遠くなるような作業ののち,100年前に非業の死を遂げた男たちを,人間のドラマとしてよみがえらせました。


澤地久枝の力作『火はわが胸中にあり 忘れられた近衛兵士の反乱 竹橋事件』 は,角川書店より1978年7月に出版されましたが絶版。その後復刻された文春文庫(1987年初版)も絶版になってしまいました。しかし,過去に出版された重要な書物の一冊に選ばれ,岩波現代文庫の一冊として復刻されています。】



『火はわが胸中にあり』 ―    忘れられた近衛兵士の叛乱     竹橋事件 _a0181566_2181762.jpg

2008年9月17日発行(在庫僅少とのことです。平成28年2月初旬現在)



この本の表紙は,近衛砲兵・広瀬喜市.生家の位牌に埋め込まれているのを見つけ,著者が男たちを生身の人間として描く励みとしたという写真です。


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「火はわが胸中にあり 忘れられた近衛兵士の反乱 竹橋事件」は,次のように始まります。


1.埋葬

その墓がみつかったのは,一九七七年(昭和五十二年)十一月の末であった。〈旧近衛鎮台砲兵之墓〉と刻まれた方形の石の高さは,五尺三寸ほどある。

東京青山墓地の西端,青山通りから霞町へぬける道路にそってめぐらされたフェンスの内側の,低く窪地になったような位置に,西を向く形で墓は建っていた。

墓碑の背面には,〈大赦明治二十二年二月十一日〉とあり,左の側面には小さな文字で二行〈祭主福井清介 世話人墓地関係一同〉と読まれる.墓はヒイラギの樹の下にある。

これが,一八七八年(明治十一年)八月二十三日夜の竹橋事件の結果,同年十月十五日に銃殺刑になった五十三人の兵士の墓であった。日本の陸軍史上に例のない,近衛砲兵大隊兵士の叛乱である.東京鎮台予備砲隊にも,近衛歩兵連隊の中にも同調者があり,処刑者が出ている。

埋葬のもとの位置は,現在の都立赤坂高校正門のあたり。明治憲法の発布に際する特赦により,名目上は赦された男たちの墓を建てた祭主福井清介とは,事件とどんなかかわりのある人物なのか,いまのところ,まったく不明である。



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上記の墓は第二次世界大戦中に行方不明になったままであったが,著者の追跡のなかで所在が確かめられた。その墓は現在も同じたたずまいのまま青山墓地にある。右横には,1987年に遺族会や「竹橋事件の真相を明らかにする会」によって建てられた,事件の概要を伝える碑(撰文澤地久枝)があり,軍隊とは何かを今に問いかけている。

「日本陸軍史上,唯一の反乱」を追いつめて,一冊の本にまとめ上げた澤地久枝は,自分にとっても「特に愛着の深い本」と語っています。


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本書(岩波版,364ページ)によると,資料としては,銃殺刑になった人々を主とする口供書(国立公文書館蔵)しかない。陸軍裁判所の口供書と,事件処理の諸手つづきの記録,それらを土台にして書かれた「近衛砲隊暴動始末」,「陸軍卿建白」(三条実美文書,国立国会図書館憲政資料室蔵)などが,公的資料としては唯一のものであり,すべて裁いた側による記録である。


澤地久枝は,さらに続けて次のように書いています。

徴兵という新しい賦役のあり方を批判するだけでなく,のちの自由民権思想に近い考えをもつ兵士が,竹橋事件の中心的な核をなしていたらしいことは,「近衛砲隊暴動始末」にはっきり述べられ,口供書の文脈からも探り得る。

本の出版から間もない一夜,内藤さんという名の男性から電話がかかってきた。七十二歳だということであった。その男性の父君は,西南戦争に乃木希典の部下として参戦した内藤源作であること,源作は竹橋事件の銃殺刑の際,引き金をひいた兵士の一人であったことを電話で話した。その時,数え年二十三歳であった源作は,七十過ぎて亡くなるまで,忘れかねるように大雨の降る日の刑執行を語っては涙を流したという。

射たれる者も射った者も,同じ「徴兵制度」によって軍服を着せられた若者たちであった。

明治初年の天皇の位置,ごく初期の帝国陸軍の姿を知ることは,現在の私たちに有効な多くの示唆をふくんでいよう。反乱を起こして銃殺刑になった男たちの多くは,農家の二,三男であった。彼らは,私たちが求めれば,若々しい姿と声で多くを語りかけるはずである。



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岩波現代文庫版あとがき は,

「日本の軍隊」がまたもや現実の重みで迫ってくる現在の事態にあって,竹橋事件は,現在の私たちに血脈のつながる事件と人であると思う。もの書きとなって三十六年,特に愛着の深いこの本の旅立ちを喜びつつ,よき前途を心から祈ってやまない。

事件から百三十年 二00八年八月

澤地久枝

で終わります。




by yojiarata | 2016-02-07 23:05
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