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人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗を読む  巻の十三




昭和21年 つづき



七月初三。

時々雨。午後新小岩を歩む。雑誌店にて 戦災焼失東京地図 を買う。四円五拾銭。これを見るにわが生れたる小石川金冨町の家も先考の世を去りし余丁町の家も皆灰となりしが如し。夜近藤氏来話。


七月廿五日。


隣室のラヂオと炎暑との為に読書執筆共になすこと能はず。毎日午後家を出て葛飾八幡また白幡天神境内内の緑蔭に至り日の稍傾くころ帰る。ラヂオの歇むは夜も十時過なり。 この間の苦悩 実に言ふべからず。

今日はくもりて風すゞしく燈火漸く親しむべき思をなすと雖机に向ふを得ず。早く寝に就きて暁明の来るを待つのみ。

此日より 郵便三十銭葉書十五銭 に値上げ。



【 五月十六日,七月廿六日の日記に,当時の物価が書いてあります。 】



八月初二。


・・・・・ 昨日より 闇市取払 となり八百屋にも野菜少し。白幡祠畔の氷屋六平心やすければ立寄り其畠につくりし茄子胡瓜を買ってかへる。

鄰室のラヂオ 今夜も亦騒然たり。

封鎖預金いよいよ没収 の風聞あり。


八月初三。

晴又陰。午前 隣室のラヂオ 既に騒然たり。 頭痛 堪難ければ出でゝ小川氏を訪ふ。午後小川氏来り話す。夕飯後 机に向ふ に家内のラヂオ再び起る。

鉛筆手帳を携へ 諏訪神社の林下 に至り石に腰かけて数行を草する中夜色忽迫り来り蚊も亦集り来る。国道を歩み帰宅後 耳に綿をつめ 夜具敷延べて伏しぬ。

この有様にては五月以来執筆せし小説 『さち子』 の一篇も遂に脱稿の時なかるべし。悲しむべきなり。


八月初六。


陰。早朝より家内の ラヂオ轟然 たり。午後出でゝ小岩町を歩む。驟雨に逢ふ。


八月十二日。

月明昼の如し。旧七月の望なるべし。門外の松林を歩む。草間既に虫語をきく。蛼 こうろぎ か蟋蟀 きりぎりす かさだかならず。

多年東京にて聞馴れし蛼 とはその音色少しく異るところあり。


八月十三日。

晴。夜机に向はむとするに隣室のラヂオ 喧騒 を極む。苦痛に堪えず。門外に出るに明月松林の間に昇るを見る。ラヂオの歇みたるは十時過なり。其時まで 林下の小径を徘徊 するに露気肌に沁みて堪難く,虫の声は昨夜よりも多し。家にかへるに疲労して何事をも為す能はず。 悄然 燈を滅して寝に就く。


九月初七。

晴。夜九時隣室のラヂオに驚かされ耳を掩うて門外に出づ。十時頃の月松林の間に懸る。電車にて国府台に至り河上の月を賞す。


九月十日。


晴。早朝 鰯売の声 聞ゆ。 明治時代の東京 を思出さしむ。 ・・・・・


九月十三日。


陰。国府台上に売家ありときゝ朝十一時頃尋ね行きしが一歩おくれて買手きまりし後なりき。 ・・・・・


九月廿四日。

秋分。晴。 洋服 を注文す。洋服屋老人なり。もと深川冬木町に住し昨年三月罹災,現在小岩に住すと云。背広千五百円,外套二千五百円と云。


十月初八。

昨日よりラヂオ 同盟罷業 にて放送なし。家内静なれば海神に往かず。此日甚暑し。


十月十三日 日曜日。

晴れて暑し。 ・・・・・ 日暮海神に至るに主人あり。晩餐を馳走せらる。明月皎然。帰途電車沿線の風景絶佳なり。 海上に漁火 星の如し。腥き鰯とるなるべし。


十月廿二日。

雨。午後海神。夜十時過寝に就かむとするに隣室より絃歌の声起る。十一時になりても歇む様子なし。已むことを得ず 雨中暗夜の町を歩む。


十月廿六日。

晴。 ・・・・・ 夜九時隣室のラヂオ轟然たり。ラヂオ本月初より同盟罷業にて放送なく精神大に安静なりしが 今宵再びこの禍 あり。出でゝ小川氏を訪ふ。 ・・・・・


十一月廿六日。

快晴。暖。午後中山競馬場の附近を歩む。このあたり松林田疇の眺望最佳なり。それにつけても俗悪なる建造物いよいよ嫌ふべし。田間の一路を歩みて海神に至る。


十二月十日。

晴。昨来寒甚し。午後小西氏邸内の一室を借りて ラヂオ避難所 となす。晩間新小岩に行く。


十二月二十日。


晴。北風寒し。午後小西氏邸に至る。短篇 『畦道』 脱稿。燈刻家にかへるにかへるに中村光夫氏来りて待つ。来訪者印税残金弐万八千余円を交附せらる。 隣室のラヂオ連夜喧騒。


十二月廿六日。

晴。執筆興なし。午後小西氏方にて読書。燈刻家にかへるも 小児少女等の騒ぐ声 に何事もなすこと能はず早く寝に就く。これ市川に来りてより毎夜のことなり。


十二月卅一日。

陰,後に晴。正午扶桑書房主人来話。共に林屋に茶を喫す。小西氏方にて読書。不在中凌霜子来訪。餅を恵まる。

蓐中 じょくちゅう 読書。唯睡魔の来るを待つのみ。今年ほど面白からぬ年はわが生涯にかってなし。 貸間の生活 の読書詩作に適せざること今に至りて初てこれを経験したり。

言ふべき事記すべきことなし。隣室のラヂオに耳を掩うて 亡国の第二年目 を送らむのみ。






しばらく休憩します。

by yojiarata | 2015-12-23 22:16
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