人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗 を読む  巻の六



昭和18年 つづき



九月九日。


晴。 ・・・・・ 帰途月色奇明。虫声雨の如し。

上野動物園の猛獣 はこのほど毒殺せられたり。帝都修羅の巷となるべきことを予期せしがためなりといふ。
 
夕刊紙に 伊太利亜政府無条件にて英米軍に降伏 せし事を載す。秘密にしてはをられぬためなるべし。

[欄外朱書] 英米軍伊国ヲ征服ス。


九月十二日 日曜日。

・・・・・ 電車の中の広告に 野依秀一著日本は天皇道の国なり と大きく書きたり。曾て短刀を携へ銀行会社をゆすり歩みし者が豹変して此の如き著書を售る。滑稽と謂ふべし。


九月十九日 日曜日。

・・・・・ 先日来白米の配給少くなり其代りとして 干饂飩 うどん また小麦粉 を配給す。

満足に米の飯の食へる日は一月の中十七八にて残りの十二三日は代用食にて飢をしのがねばならぬ由。鄰家の人のはなしなり。余は 一食の米一合弱 にて足るが故,殊に夕飯は新橋また浅草にて食するが故幸にして代用食は口にせずしてすむなり。



【 荷風は,この年(数えで)六十五歳,かなりの大食漢です。米一合といえば,普通のお茶碗にして二杯余りです。ほかに,お汁粉などの間食をしています。執筆活動の結果,経済的に問題のない荷風は,新橋や浅草で,戦時中としては上等な食事を楽しんでいたようです。それにしては太らないのは,朝から晩まで,散歩,それもかなり長距離の散歩を日課としていたからでしょう。

例えば,『日和下駄』 (岩波文庫,荷風随筆集(上),1997年 第18刷) を御覧ください。 】




九月廿九日。

晴。晩に陰。来十月中には米国飛行機必ず来襲すべしとの風説あり。上野両国の停車場は両三日この方避難の人達にて俄に雑遝し初めたりと云。余が友人中には 田舎に行くがよし と勧告するもあり。

著書及草稿だけにても田舎へ送りたまへと言ふもあり。生きてゐたりとて面白くなき国なれば焼死するもよし,とは言ひながら,また生きのびて 武断政府の末路 を目撃するも一興ならむと,さまざま思ひわづらひ未去留を決すること能はざるなり。


十月初三 日曜日。

・・・・・  瓦斯風呂許可の届書 を出すべし と言はれ風雨の後空霽 れしを幸に赤坂新町の瓦斯会社出張所に赴く。むかし桐畠といひしあたりなり。


十月初六。

陰。午後三菱銀行に行く。今まで受付口に取付けたりし 金属製の格子 の如きもの悉く取徐かれ,又支払収納など和英両国の文字にて窓口に掲げし札も取換へられ 和字のみ となれり。

行員も大半変りて顔なじみの人は一人も居ず。若き女事務員俄に多くなれり。去年発布せられし新令直ちに実施せられしものと見えたり。

輪行の電車に乗り合羽橋より浅草公園に至り オペラ館楽屋に憩ふ。こゝのみはいつ来て見ても依然として別天地なり。  ・・・・・

余が老懐を慰るところ今は東京市中此の浅草あるのみ。観音堂に賽するに四方の階段下に据置かれし大なる鉄の水盤その半は取去られたり。仁王門内に立ちし唐金の燈台も亦無し。


十月初九。

・・・・・ 窓に倚りて庭を見るに潦水河の如く虫の鳴音も絶勝ちなり。家の中暝きこと薄暮の如し。燈刻再び出でゝ金兵衛に飰す。相磯凌霜子に逢う。朝鮮海峡また津軽海峡にて 日本運送船撃沈 せられし由。米穀いよいよ不足の由。


十月十六日。

食料の欠乏 日にまし甚しくれり。今日鄰組よりとゞけ来りし野菜は胡瓜わづかに三本なり。これにて今明日二日間の惣菜となすなり。青物の配給一人分三十匁にて二日置なり。

子供のあるいえにては 母親 米飯を子供に与ふるが為おのれは南瓜をゆで塩をつけて飢をしのぐ事多しと云。 ・・・・・


十月念三。

くもりて暝 くら き日なり。 ・・・・・ ひそか に思ふに 人間の事業の中 うち 学問芸術の研究の至難なるに秘して戦争といひ専制政治といふものほど容易なるはなし。治下の人民を威嚇して 奴隷牛馬 の如くならしむればそれにて事足るなり。

ナポレオンの事業とワグネルの楽劇 とを比較せば思半 おもいなかば に過るものあるべし。 ・・・・・


十月念五。

・・・・・ 晡下瓦斯会社の男来り警察署より 民家の瓦斯風呂いよいよ禁止 の令ありし由を告ぐ。終夜雨声淋鈴。


十月念六。


街談録

この度 突然実施せられし徴兵令の事 につき,その犠牲となりし人々の悲惨なるはなしは,全く地獄同様にて聞くに堪えざるものなり

大学を卒業して後銀行会社に入り年も四十ぢかくになれば地位もやや進みて一部の長となり,家には中学に通ふ児女もあり。

然る突然徴兵令にて軍需工場の職工になりさがり石炭鉄片などの運搬の手つだひに追ひつかはれ,苦役に堪え得ずして病死するもの,また負傷して廃人となりしものも尠 すくな からず。 ・・・・・

この度の戦争は 奴隷制度を復活 せしむるに至りしなり。軍人輩はこれを以て 大東亜共栄圏の美学 となすなり ・・・・・


十月念七。

晴れて好き日なり。ふと 鷗外先生の墓 を掃かむと思ひ立ちて午後一時頃渋谷より吉祥寺行の電車に乗りぬ。先生の墓碣 ぼけつ は震災後向嶋興福寺よりかしこに移されしが,道遠きのみならずその頃は電車の雑踏甚しかりを以て遂に今日まで一たびも行きて香花を手向けしこともなかりしなり。

歳月人を待たず。先生逝き給ひしより早くもここに二十余年とはなれり。  ・・・・・

檜の生垣をめぐらしたる正面に先生の墓,その左に夫人しげ子の墓,右に先考 せんこう の墓,その次に令弟及幼児の墓あり。夫人の石を除きて皆かつて向嶋にて見しものなり。香花を供へて後門を出でて来路を歩す。 ・・・・・

帰路電車沿線の田園斜陽を浴び秋色一段の佳麗を添ふ。渋谷の駅に至れば暮色忽蒼然たり。 ・・・・・・

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十月三十日。

小春のよき日なり。午後駿河台下図書倶楽部洋本売立会に行く。 中江兆民編仏和辞典 其他を買ふ。


十一月十四日 日曜日。


快晴。 ・・・・・ 某氏に送りし手紙の末に

  雨蛙

雨蛙は青し青し。
草よりもみどりに。
木の葉よりも青し。

科学者曰く
これ動物の保護色なり。
その身を守るころもなり。

借問 しゃくもん す。人の世に
みをまもるころもありや。
あらばとく着よ。

着て歩め
長安の大道を。

傘さして人皆行かば
汝もゆけ傘さして
空は照るとも
くもるとも。


十一月十八日

連日華氏六十度の暖気なり。乏しき火鉢の火全く灰となるをも心つかず毎夜深更に至るまで書斎の机に憑ることを得るなり。 ・・・・・

[欄外朱書]  徳田秋声 没年七十三


十二月初二。

昨夜読書の興津々として尽きず。辱中書巻を手にして暁の来るを知らざりしほどなり。(書巻はワラスの著 ドビュシイとその時代 なり。) ・・・・・ 小説執筆二三葉。ドビュシイの伝をひらくこと昨宵の如し。


十二月初四

晴。相磯凌霜来話。

   街談録

 一 ガス風呂禁ぜられまたコークス薪等の配給もなくなりし為 銭湯の混雑甚しく 且板の間かせぎも激増せり。銭湯にては午後四時より営業の札をかけ表口をあげざる前内々にて お屋敷の奥様達を裏口より入れる ところ尠からず。 闇湯 の噂頻なると云。銭湯の闇値段山の手にては三十銭の由。

 一 徴用令にて職工にせらるゝ者これまでは四十歳かぎりなりしが昨今四十五歳になりし由。やがて五十歳になるべしと云。


十二月初六。

陰後に晴。晩間烏森の混堂に浴して金兵衛酒店に少憩す。 伯林の市街再び英国空軍に襲撃 せられしと云。帰途月おぼろなり。


十二月二十日。


晴。晡下日本橋白木屋前赤木屋に至り去年買はされたる 債券 四百円を売る。帰途金兵衛に飰す。凌霜子の来るに逢ふ。


十二月念二。

晴。午後落葉を焚く。小堀四郎氏来りて野菜を饋 おく らる。世田ヶ谷の庭にて自ら作られしものなりと言う。今年まだ四十三なれば職工にさせられはせぬかと心配して居らるゝと言ふ。凌霜子来りてオランヂの砂糖煮を饋らる。

世間の噂をきくにいかほど職工を増加しても資材欠乏するが故いづこの 軍需工場 にても夜間業務をなさず。仕事は平時と同じく昼間だけなり。この様子にて行けば来年六月までには戦争はいやでも応でも終局を告ぐるに至るべし。若しまたそれより長くなる時は 経済的に自滅 すべしと。


十二月念八。

・・・・・ 晡下漫歩浅草に至る。市内の掘割にかゝりし橋の欄干にて鉄製のものは悉く取去られその跡に縄をひきたり。大川筋の橋はいかゞするにや。夜中はいよいよ 歩かれぬ都 となれり。 ・・・・・

煙草昨日よりまたまた 値上げ。五十銭のもの七十五銭となれり。


十二月卅一日


今秋国民兵募集以来 軍人専制政治の害毒 いよいよ社会の各方面に波及するに至れり。

親は四十四五才にて祖先伝来の家業を失ひて職工となり,其子は十六七才より学業をすて職工より兵卒となりて戦地に死し,母は食物なく幼児の養育に苦しむ。国を挙げて各人皆重税の負担に堪えざらむとす。今は勝敗を問はず唯一日も早く 戦争の終了 をまつのみなり。

然れども余窃に思ふに戦争終局を告ぐるに至る時は政治は今より猶甚しく 横暴残忍 となるべし。今日の軍人政府の為すところは秦の始皇帝の政治に似たり。国内の文学藝術の撲滅をなしたる後は必づ劇場閉鎖を断行し債券を焼き私有財産の取上げをなさでは止まさるべし。斯くして日本の国家は滅亡するなるべし。

[欄外朱書]  疎開 ト云フ新語流行ス。民家取払ノコトナリ



つづく

by yojiarata | 2015-12-23 22:24 | Comments(0)
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