八月十日 日曜日。 細雨烟の如し。秋海棠 しゅうかいどう の花満開なり。 東京市教育界疑獄 の噂高し。・・・・・ 当然あるべきはずなれど秘して新聞にはかかせぬなるべし。燈刻大雨雷鳴。 八月念九。 薄く曇りて風涼し。深夜初めて 蛼 こおろぎ の鳴くをきく。 八月卅一日。 微雨。秋冷窓紗を侵す。昨来虫声俄に多くなりぬ。日曜日。 九月初一 旧七月十日。 晴また陰。写真フィルム品切。煙草もこの二,三にち品切なり。町の噂に近き中 民家にて使用する 鉄銅器 を召上げらるるとて,鉄瓶釜の如きものは今の中古道具屋に売るもの尠からぬ由なり. 刻烟草 きざみタバコ のむ烟管 キセル も隠さねばならぬ世とはなれり。 [欄外朱書] 市中ノタキシ車数 半分位ニナルトイフ。 九月初三。 晴。 日米開戦 の噂しきりなり。 新聞紙上の雑説殊に陸軍情報局とやらの暴論の如き馬鹿々々しくて読むに堪えず。 九月七日 日曜日。 秋風涼爽。銀座夜歩。街頭の集会広告にこの頃は新に 殉国精神 なる文字を用出したり。愛国だの御奉公だの御国のためなぞでは一向きき目なかりし故ならん歟 か 。 人民悉く殉死せば のこるものは老人と女のみ となるべし。呵々 かか 。 十月十八日。 ・・・・・ この日内閣変りて人心更に恟々たり。日米開戦の噂益盛なり。 十月卅一日。 夜八時頃浅草より帰る時,地下鉄道の乗客中に特種の風俗をなしたる美人を見たり。年廿歳ばかり。丸顔にて色白くきめ細にして額広く鼻低からず,黒目勝の眼涼しく少しく剣あり。 ・・・・・ 着物半纏ともに筒袖なり。着物のきこなしより髪の撫付様凡て手綺麗にて洗練せられたる風采,今日街上にて見る婦女子の比にあらず。 おぼえず見取るゝばかりなり。 琉球の女にあらずばアイヌの美人ならむ歟。 ・・・・・ ![]() 十一月八日。 世の噂をきくに本年九月以来軍人政府は迷信打破と称し 太陰暦の印刷を禁じ 酉の市草市などの事を新聞紙に記載することをも禁じたる由。今夜十二時より一の酉なれど新聞には出ず。十月中日本橋 べったら市 のことも新聞紙は一斉に記載せざりしといふ。 十二月初六。 ・・・・・ 海苔屋葉茶乾物屋 の店先にはいづこも買手行列をなせり。 十二月初七。 この冬は 瓦斯暖炉 も使用すること能はずなりたれば,火鉢あんか置炬燵など一ツづつ物置の奥より取出され四畳半の一間むかしめきし冬支度漸くととのひ来りぬ。・・・・・ ながらへてまた見る火桶二十年 十二月八日。 褥中小説 『浮沈 うきしずみ 』 第一回起草。 ・・・・・ 日米開戦 の号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中 燈火管制 となる。街頭商店の灯は追々に消え行きしが電車自動車は灯を消さず。省線 しょうせん は如何にや。・・・・ 十二月九日。 曇りて午後より雨。 開戦の号外 出でてより近鄰物静になり。来訪者もなければ半日心やすく午睡することを得たり 夜小説執筆。雨声瀟々しょうしょう たり。 十二月十一日。 晴。後に陰。日米開戦以来世の中火の消えたるやうに物静なり。浅草辺の様子 いかがならむと午後に往きて見る。 六区の人出平日と変わりなくオペラ館踊子の雑談また平日の如く,不平もなく感激もなく無事平安なり。 余が如き不平家の眼より見れば浅草の人たちは尭舜 ぎょうしゅん の民の如し。仲店にて食料品をあがない昏暮に帰る。 十二月十二日。 開戦布告と共に街上電車その他到処に掲示せられし広告文を見るに, 屠れ英米我らの敵だ進め一億火の玉だ とあり。 ・・・・・ 【 ” 一億火の玉だ ” なんて聞くと,我らが総理が,新しい内閣で作った 「一億担当大臣」 ・・ とかいう,訳の分からない省庁と大臣のことを思い出してしまうよ。馬鹿馬鹿しくも滑稽極まりない話だよね。】 十二月廿九日。 晴れて寒し。午後日本橋三井銀行に至るに支払口に 人押合ひ たり。丸の内三菱銀行も同じ景況なり。如何なる故にや。 町の辻々には戦争だ年末年始虚礼廃止とや書きたる立札あれど銀座通の露店には新年ならでは用いざるさまざまの物多く並べられたり。も組の横町にも注連飾 しめかざり 売るものあり。花屋には輪柳 福寿草 も見えたり。 ・・・・・ 十二月卅一日。晴。 厳寒昨日の如し。夜浅草に至り物買ひて後金兵衛に夕餉を喫す。 電車終夜運転 のはずなりしに今日に至り俄に中止の由,貼紙あり。何の故なるを知らず。朝令暮改の世の中笑ふべき事のみなり。 過日は唱歌蛍の光は英国の民謡なれば以後禁止の由言伝へられしがこれも忽改められ従前通りとなれり。 帰宅後執筆。寒月窓を照す。寝に就かむとする時机上の時計を見るに十二時五分を過ぎたるばかりなれど 除夜の鐘の鳴るをきかず。これまた戦乱のためなるか。恐るべし恐るべし。
by yojiarata
| 2015-12-23 22:27
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