正月一日。 炭を惜しむがため正午になるを待ち起出で台所にて毘炉 こんろ に火をおこす。焚付けは割箸の古きものまたは庭木の枯枝を用ゆ。 暖き日に庭を歩み枯枝を拾ひ集むる事も仙人めきて興味なきに非らず。 毘炉に炭火のおこるを待ち米一合とぎてかしぐなり。惣菜は芋もしくは大根蕪 かぶ のたぐひのみなり。時には町にて買ひし菜漬沢庵漬を食ふこともあり。 されど水にて洗ふがいかにも辛し。 とかくして飯くひ終れば午後となり,室内を掃除して顔洗ふ時はいつか三時を過ぎ,煙草など呑みゐる中 う ち 日は傾きて忽ち暗くなるなり。 これ去年十二月以後の生活。 唯生きてゐるといふのみなり。 正月三ヶ日は金兵衛の店も休みなれば今日は配給の餅をやきて夕飯の代りとなせり。 ・・・・・ 正月七日。 晴。 ・・・・・ 暮方突然胃に奇異なる痛を覚え気分頓にあしくなりしが須臾にして歇む。之がため食事に出でず床敷きのべて臥す。 ・・・・・ 正月八日。 晴。午後土州橋の病院に至り診察を請ふ。昨夜の胃痛は胃酸過多のためなれば甚しく憂ふに及ばざる由なり。河風もさほどに寒からねば箱崎川の岸に沿ひ歩みて新大橋に出づ。 乗合の汽舩にて永代橋に至らむとするに桟橋も札売場も取払はれて跡なし。岸の上に立ちて川下川上を見渡すに曳舩の石炭舩をひき行くのみにしてかの 一銭蒸汽 の形は見えず。こゝに於て此れも時勢のために廃滅せし事を始めて知り得たり。 一銭蒸汽は 明治時代のなつかしき形見 なりしにさてもさても惜しむべき事なり。 ・・・・・ 正月十八日 晴。 [欄外朱書] 廿五銭の巻烟四十五銭となる。 正月十九日。 晴。午後浅草に行く。坊間流言あり。 侵魯の独逸軍 甚振はず。また北阿遠征の米軍地中海より伊国をおびやかしつつありと。 ・・・・・ 正月三十日。 晴。午睡中 突然臍のあたりに痒さ をおぼゑしが夜に至り痒さ全身に渡り顔面も殊に眉毛のあたり手足の指先まで赤くなり悪寒を催すに至れり。されど体温は平常に異らず。曾て覚えしことなき奇病といふべし。夜半に及び痒さ次第に去れり。 二月初三 雨ふる。 電話局よりわが家の電話三月卅一日かぎり取上げべき由通知書来る。 また町会より本年中隔月に百五六十円債券押売の事を申来れり。 和寇の災害 いよいよ身辺に迫り来れり。 二月十三日 片割月漸くまどかになりたれば箪笥町崖下の横町も夜かへる時歩みよくなりぬ。 去年十二月頃より街燈点ぜず 月なき夜は往々石につまづき転ぶことありしなり。 二月十九日。 陰。薄暮綾瀬川堀切辺散策。 噂のききがき 荏原区馬込あたりにては良家の妻子年廿才より四十歳までのものを駆り出し 落下傘米軍爆撃を防禦する訓練 をなしたる由。その方法は女らめいめいに竹槍をつくりこれを携え米兵落下傘にて地上に降立つとき,竹槍にて米兵の眉間を突く計畧 なりといふ。 軍部より竹槍の教師来り三日間朝十時より午後三時休まず稽古をなしたりといふ。怪我せし女もありし由なり。良家の妻子に槍でつくけいこをさせるとは滑稽至極。 何やら猥褻なる小咄をきくやうなり。 二月廿一日 日曜日。 ・・・・・ 舗時五叟来話。共に出でゝ金兵衛に飲む。 炭欠乏して肴を焼く事能はず とて料理は悉く煮たるものばかり。今宵も月よし。 三月初一 晴。 タキシ 夜九時切上。電車 十一時半頃切上となり,世間益暗黒に陥る。待合茶屋勘定税金二十割と云。 三月初三 晴れて風甚寒し。午後土州橋より浅草に行く。露店の古本屋にて 文政天保年間の綴暦十余冊 を獲たり。 ・・・・・ 三月初五。 池上辺にては庭木も軈 やが て材木にするため強制的に伐り倒さるゝ虞あるに至れりと云。帰宅後火鉢にて豆を煮ながら花鏡をよむ。 ・・・・・ 三月十日 風猶寒し。早朝より飛行機の音轟然たり。今日は市民一般外出の際は男は糞色服にゲートル。女は百姓袴 もんぺ を着用すべき由 其筋より御触 ありし由なり。 ・・・・・ 三月十八日。 晴。ある人の需 もとめ によりて画賛 がさん の発句 ほっく をつくる 山村耕花筆 茄子の画に 家中のすずみどころや勝手口 自画賛 とんぼうや何を見るとて その目玉 ・・・・・ 五月雨に雀のぞくや勝手口 三月廿五日。 ・・・・・ 午後土州橋に行き薬および診断書を求めてかへる。瓦斯風呂を焚くために 医師の診断書必要 なればなり。 三月卅一日。 ・・・・・ 去年中オペラ館の舞台に出でゐたる男の俳優某 徴兵令 にて職工となり 右手の五指 を失ひたるものに逢ふ。兵卒なりせば名誉の負傷者として過分の手当にもありつくべきに工場より解雇せられ甚困窮せりと云。 ・・・・・ 四月初七。 ・・・・・ 平安堂鳩居堂其他の筆屋にも真書毛筆一本もなきやうになれり。毛筆にすべき羊毛支那より来らざるが為と云。 日本文化滅亡の時 いよいよ迫り来れるなり。 わが家には平安堂の毛筆猶七八本残れり。尚二三年間はこの日記にものかく事を得べし。 四月九日。 鄰家の婆来りて言う。近鄰の噂によれば霊南坂上森村といふ人の屋敷は無理やりに 間貸をなすべきやう政府より命令せられたり。 また市兵衛町長長与男爵の屋敷も遠からず同じ悲運に陥るならん。先生のお家も御用心なさるがよろしからんとの事なり。 兼てより覚悟せしことながら憂悶に堪えず。 ・・・・・ 空襲警報この夜解除の報あり。帰途町の灯のあかるきに空も晴れわたりて上弦の月泛出でぬ。帰宅後コレットの小説 『漂泊の女』 をよみて黎明に至る。 四月十四日。 ・・・・・ 午後向嶋に行く。 ・・・・・ 帰途また新橋の金兵衛に立寄りて夕餉を食す。 仙台より来りし人のはなしに,塩釜海辺の漁夫沖合にて 米国飛行機また潜水艦 に襲はるるもの甚多し。東京の市場に魚類の乏しきはけだし当前の事ならんと。 四月十六日。 陰。庭を掃き石蕗 つわぶき を移植す。既に蚊柱 かばしら の立つを見る。深夜また雨。 蚊ばしらに夏早く来る庵 いおり かな。 四月十七日 晴。午後土州橋より浅草に行く。オペラ館の踊子等に誘はれ松竹座となり西洋映画館の映画を見る。モスコーの一夜といふ題にてトーキーは仏蘭西語なり。偶然かゝる処にて 仏蘭西語を耳にせしよろこび 譬へむに物なし。 四月二十日 ・・・・・ 午後丸の内用事。それより浅草に至る。言問橋の欄干其他 鉄製と見ゆるもの 悉く取はづされたり。日本橋を始め市中の橋梁も皆同じ憂目にあへりと云。隅田公園の花は既に散りたり。 五月十七日。 細雨烟 けむり のごとし。 ・・・・・ 浅草 に行き帰途芝口の金兵衛に憩ふ。おかみさん配給の玄米を一升壜に入れて竹の棒にて搗 つ きゐたり。一時間あまりかくする時は精白米になるといへり。 【 『荷風全集』 第二十五巻,「五月念三」の項に, 顔を洗う石鹸もなくなり洗濯用石鹸のみとなりしため取分け女供はこまり果て糠を取るため玄米を壜に入れ棒にて搗くもの益々多くなりしと云一升の玄米四五十分にて白くなるよし。 と書かれています。図も載っています。】 ![]() 【 私も,戦後,居候していた母方の祖母の家で,同じことを手伝った記憶があります。 】 五月念七 近頃物品の闇相場きく所次の如し 一 砂糖 一貫目 金参拾円 一斤四円余 一 白米 一升 金参四円 ・・・・・ 六月初一。 晴。 電車 七銭のところ拾銭に値上となる。又酒肆及び割烹店にて酒を売ること此れまでは夕方五時よりなりしが此日より夕方六時に改められしと云。 街談録 頃日 けいじつ 南洋において 山本大将の戦死。 つづいて 北海の孤島 に上陸せし日本兵士の全滅に関して,一部の愛国者はこれ即楠公 なんこう が遺訓を実践せしものとなせり。 ・・・・・ 六月初六 日曜日。 陰。午後浅草に行く。 ・・・・・ オペラ館楽屋に少憩す。支配人田代氏来り公園は今だに 軍需景気 なりと言ふ。薄暮向嶋より玉の井を歩む。氏神の祭礼にて賑なり。 六月十三日 日曜日。 晴。石榴の花紫陽花うつホの花ひらく。蒲田大森辺水道再び水切となり 住民飲料水にも窮しつつあり と云。これでは防空防火演習もできまじとて喜び笑ふものもありと云。 ・・・・・ 六月十六日。 ・・・・・ 余大久保余丁町の家を売り築地の僑居より此の家に移りしも思へば昨日のやうなる心地するを。 歳月は実に人を待ず。二十余年の星霜は夢の如くに過ぎ去りしなり。 塀際に立てる椎の木の二三年前より俄に木立深くなり二階の屋根をも蔽ふに至りしも怪しむに及ばず。時勢も一変し余も今は日々 老の迫る を歎ずる身とはなれるなり。 ・・・・・ 六月十九日。 陰。午後土州橋脚気注射。 六月廿五日。 晴。 ・・・・・ 歌舞伎座にて 『 真景累ケ淵 』 も過日禁止 となりしがその理由は人の殺されて後化けて出るは 迷信にて,国策に反する のと言ふに在る由なり。 芸術上の論は姑 しばら く置きて,人心より迷信を一掃するは不可能の事なり。近年軍人政府の為す所を見るに事の大小に関せず 愚卑野卑 にして国家的品位を保つもの殆なし。 歴史ありて以来時として野蛮なる国家の存在せしことありしかど, 現代日本の如き低劣滑稽なる政治 の行はれしことはいまだかって一たびもその例なかりしなり。 かく如き国家と政府の行末はいかになるべきにや。 【 今から70年も前の1943年に書かれた荷風のコメントは,2015年末の現在の政治の現状とその結果を見ると,興味深いですね。 安倍晋三氏も,この記事をお読みになってはどうでしょうか。ま,読んでわかるような神経の持ち主なら,現状は全く変わっているでしょうけどね。 】 六月廿七日 日曜日。 ・・・・・ 午後五叟来話。長唄の藝人にも徴用令にて工場は送らるゝもの次第に多くなれり。 ・・・・・ また田園調布の辺は街頭の 追剥及強盗 の被害毎夜に及ぶ由。 ・・・・・ 七月初五。 晴。 ・・・・・ 冗談剰語 東京市を東京都と改称する由。何の為なるや。その意を得がたし。京都の東とか西とかいふやうに聞こえて滑稽なり。 ・・・・・ 近頃の流行言葉 大東亜 とは何のことなるや。 ・・・・・ 何事にも大々の大の字をつけたがるは北米人の癖なり。今時 北米人の真似 をするとは滑稽笑止の沙汰なるべし。 七月廿三日 ・・・・・ 浅草公園米作の店を窺ふにこゝも亦休業の札を下げたり。 ・・・・・ 帰途花川戸より新橋行の市電に乗る。夜はまだ八時過なるに沿道の商店大方戸を閉したれば街上暗黒,鼻をつまゝててもわからぬ程なり。蔵前より小伝馬町辺最暗く 一点の燈火を見ず。 銀座通は尾張町あたり露店の燈火かすかに散歩の人影を照すのみ。電車もさして混雑せず麻布谷町にて降るまで腰かけてゐられるも不思議といふべし。 七月廿七日。 ・・・・・ 日盛りに外務省に出仕する某々子訪来り米軍羅馬を襲ひ ムツソリニ内閣顛覆 せし由を語る。 七月卅一日。 晴。百合夾竹桃満開なり。銀河一夜ごとに鮮明となり深夜の風水の如し。土用半の秋風なるべし。 八月初三。 先月来町会よりの命令なりとて家々各縁の下または庭上に穴を掘れり。 空襲を受けたる時非難するためなりといふ。 されど夏は雨水溜りて蚊を生じ冬は霜柱のため土くづれのする事を知らざるものの如し。 去年は家の中の押入にかくれよと言ひ今年は穴を掘れを言ふ。 来年はどうするにや。一定の方針なきは笑ふべく憐れむべきなり。 八月十一日。 野依秀一 三木武吉 の両人飛行機献納資金募集の端書を送り来れり。彼等は刑余の不良民たること世の既に周知するところならずや。 国家存亡の危機 も遂に此等不良民が売名営利の方便となり終れる也。吾人はこの度の戦争につきて純粋なる感激を催し得べき機会なし。浩歎せざるべけんや。 此日晴れて残暑燃るが如く晡下始てつくつく法師の鳴くをきゝぬ。夜に入り月よし。蛼 こうろぎ いまだ鳴かず。 八月十七日。 風雨の後秋色俄にこまやかになりぬ。午後土州橋の医院に行く。院長のはなしに 妊婦の流産 するもの年々多くなれり。栄養の不足に加へて労働過度なるがその原因なるべしと云。 ・・・・・ 八月廿一日。 晩間驟雨一過。涼味襲ふが如し。 八月廿三日。 晴。涼風颯々たり。晡時土州橋医院に至り 瓦斯風呂使用に要する診断書 を求めそれより浅草に行き米作に夕飯を喫す。 ・・・・・ 八月廿六日。 ・・・・・ 深更雨滂浪 ぼうろう。 [欄外朱書] 小説家 島崎藤村 没享年七十二。 八月廿八日。 晴また陰。涼風あり残暑甚だいからず。芝口の金兵衛に夕飯を喫す。 ・・・・・ 金兵衛の西鄰なる 寿司屋千成は配給の酒魚類少なく燃料にも窮し度々闇取引にて罰金を取られしため当月に至り遂に廃業し 主人は既に夜逃げ したりという。・・・・・ 金兵衛の横町にて大和田といふ鰻屋も何か人知れぬ買出しの道ありしと見えいまだに店をあけをれり。 八月廿九日 日曜日。 晴。来月より 女子縮髪機械 は電力を費すが故政府にて買上げとなす由。従って 女子パーマネント縮髪は本年中には消滅する はずなりといふ。 九月初六。 晴。 ・・・・・ 八月中この後毎月八日には婦女必 百姓袴 もんぺ を着用すべき由お触 ふれ あり。また婦人日本服の裾を短くすべき由。 ・・・・・ ![]()
by yojiarata
| 2015-12-23 22:25
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