正月一日。旧十二月四日。 風なく晴れてあたたかなり。炭もガスも乏しければ 湯婆子 ゆたんぽ を抱き寝床の中に一日をおくりぬ。 ・・・・・ 思へば四畳半の女中部屋に自炊のくらしをなしてより早くも四年の歳月を過ごしたり。 始は物好きにてなせし事なれど去年の秋ごろより 軍人政府の専横 一層甚しく世の中遂に一変せし今日になりて見れば,むさくるしくまた不便なる自炊の生活その折々の感慨に適応し今はなかなか改めがたきまで嬉しき心地のせらるる事多くなり行けり。 ・・・・・ かくのごとき心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能はず。人の命のあるかぎり 自由 は滅びざるなり。 一月十日。 陰。 ・・・・・ 深夜 遺書 をしたためて従妹杵屋五叟の許におくる。左の如し。 ・・・・・ 【 荷風はこの時,数えで63歳。この身体の状態では,いつ死ぬか知れない,いつ死んでもおかしくないと,何度となく書いています。 昭和2年十月廿三日の日記に,次のように書いています。 余本年八月軽井沢に遊び山中の冷気に犯されてより健康何と云ふことなく平生の如くならず。余命いくばくもなきやうなる心地するなり。来年は五十歳なり。願くば今一年いきのびたし。四十九といふは五十年となす方勘定よろしければなり。 ・・・・・ 口癖というか,冗談というか,のべつ幕無しです。ただ,遺書の文章全体を日記に書き残したのはこの時だけです。】 一月十五日。 晴。晩間銀座竹葉亭に飰す。米不足なりとて芋をまぜたる飯をどんぶりに盛りて出す。 寄宿舎の食堂 の如し。 【 突如,変なことを思い出しました。 戦争中,私が国民学校の頃に流行った戯歌の断片です。曰く ♪ イヤジャアリマセンカ カワニシハ カネノチャワンニ タケノハシ ホトケサマデモ アルマイニ イチゼンメシトハ ナサケナイ 】 一月廿一日。 晴。午後杵屋五叟来話。 象牙の三味線バチ 去年来より製造禁止となりたれば現在の物なくなれえば其後は樫の木のバチより外にひくものなくなると云ふ。又 ピアノの製造並に販売 も既に禁止されたりと云ふ。 ・・・・・ 三越にてメリヤス肌着を購はむとするに品不足にて上下揃はず。 ・・・・・ 一月廿五日。 ・・・・・ 人の噂にこの頃東京市中いづこの家にてもに 米 すくなく,一度に五升より多くは売らぬゆゑ人数多き家にては毎日のやうに米屋に米買ひに行く由なり。 パン もまた朝の中一,二時間にていづこの店も売切れとなり, 饂飩 うどん も同じく手に入りがたしといふ。政府はこの 窮状 にもかかはらず独逸の手先をなり米国と砲火を交へんとす。笑うべくまた憂ふべきなり。 ・・・・・ 一月廿六日。 ・・・・・ 午後町会の爺会費を集めに来りて言う。三月より白米も 切符制 となるはずにて目下その支度中なり。労働者は一日一人につき二合九勺普通の人は二合半。女は二合の割当なるべしと。むかし捨扶持二合半と言ひしことも思合はされて哀れなり。 ・・・・・ 一月廿七日。 ・・・・・ 今日は陰暦の正月元日なれば急ぎて 浅草金龍山 に至る。 ・・・・・ 今日も既に四時過となりしが夕陽あきらかにして, 鳩の豆 売る婆四,五人,露台をかたづけ初めしのみ。豆も米もここは不自由せざるが如く鳩は皆胸をふくらませ鳴きつつ塒 ねぐら につかむとせり。国民は飢るとも鳩の餌に飽けるは大慈大悲の惠なるべし。 ・・・・・ 一月念八。 夕方物買ひにと銀座に行くに春近き冬の空猶暮れやらず尾張町あたりの人出祭日の午後の如し。 街頭宣伝の立札 このごろは南進とやら太平洋政策とやら言ふ文字を用ひ出したり。支那は思ふやうに行はぬ故今度は馬来人を征伏せむとする心ならんか。 彼方をあらし此方をかぢり台処中あらし廻る 老鼠の悪戯 にも似たらずや。 二月初四。 立春 晴れてよき日なり。薄暮 浅草 に往きオペラ館踊子らと森永に夕餉を食す。楽屋に至るに朝鮮の踊子一座ありて日本の流行唄をうたふ。声がらに一種の哀愁あり。 朝鮮語にて朝鮮の民謡うたはせなば嘸 さ ぞよかるべしと思ひてその由を告げしに,公開の場所にて朝鮮語を用ひまた民謡を歌ふことは厳禁せられゐると荅 こた へさして憤慨する様子もなし。 余は言ひがたき 悲痛の感 に打たれざるを得ざりき。 彼国の王は東京に幽閉せられて再びその国にかへるの機会なく,その国民は祖先伝来の言語歌謡を禁止せらる。悲しむべきの限りにあらずや。 余は日本人の海外発展に対して歓喜の情を催すこと能はず。むしろ 嫌悪と恐怖 とを感じてやまざるなり。 余かって米国にありし時米国人はキューバ島の民のその国の言語を使用しその民謡を歌ふことを禁ぜざりし事を聞きぬ。余は自由の国に永遠の勝利と光栄とのあらむことを願ふものなり。 三月初三。 晴れて暖なり。午後鹿沼町の女突然尋ね来る。 ・・・・・ 只今は蠣殻町の待合 x x という家に住み込み,当分ここにてかぜぐつもりなりと言う。 ・・・・・ この待合の客筋には 警視庁特高課 の重立ちし役人,また 翼賛会の大立者 その名は比して言はず あれば手入れの心配は決してなしと語れり。 新体制の腐敗 早くも帝都の裏面にまで瀰漫 びまん せしなり。 ・・・・・ 三月初八。 ・・・・・ 夜谷町にてタオルを買はむとするに 配給の切符 なければ売らずと言へり。 三月廿九日。 ・・・・・ 町の噂に新内節師匠は去年御法度この方門口へ 師匠の看板 かけることを禁ぜられたりといふ。歌沢節も芝派寅派のさべつなくこれも御法度の由。されば,小唄も同様なるべく,薗八節は言ふまでもなき事なるべし。 或人は江戸俗曲の絶滅することを悲しめどもこは如何ともする事能はざるものならむ。新政府の法令なしとするも 江戸時代風雅の声曲 は今日の衆俗には喜ばざるものならず。 早晩絶滅 すべきものなればなり。 余が著述の如きもこれをようするに同じ運命に陥るべきものなるべし。 【 冒頭の 「浮世絵の鑑賞」 には,荷風の持論が明快に綴られています。 】 【 我邦 わがくに 現代における西洋文明模倣の状況を窺い うかがひ 見るに,都市の改築を始めとして家屋什器 じゅうき 庭園衣服に到るまで時代の趣味一般の趨勢に徴して,転 うた た余をして日本文華の末路を悲しましむるものあり。 ・・・・・ 】 四月初四。 ・・・・・ 新橋橋上のビラにもう一押だ我慢しろ 南進だ南進だ とあり。車夫の喧嘩の如し。日本語の下賤今は矯正するに道なし。 四月十三日 日曜日。 ・・・・・ 銀座食堂は平素客少ければ定刻まで米飯を出す。牛肉屋松喜も通りかゞりに様子を見れば米に飯を出すが如し。 四月念二。 くもりて暗きこと秋のごとし。・・・・・ 或人よりたのまれし画賛二首を書す。 椿の画に 朝がほにまさるあはれは咲くままの すがたもかへず散るつばきかな 人形の画に 物言はぬ土人形のゑがほこそ 世わたる道のしるべなるらめ 四月念四。 谷町通りの靴屋にて靴の直しをたのみしに 皮も配給 になり来月半頃まで皮なしと言へり。 ・・・・・ 四月念六。 ・・・・・ ある人の談をきくに官吏にて 赤化の疑 あるもの数十名捕へられたり。其中に高等官多しとなり。政府はこの程魯国と和親条約を結びし時突然この疑獄起る。世情混沌五里霧中に在るが如し。 四月三十日。 午後土州橋より亀井戸に至り菅廟に賽す。鳥居前の茶店皆店を閉め葛餅団子其他悉く 品切の札 を下げたるり。藤棚下の掛茶屋にては怪しげなる蜜豆サイダーを売りゐたり。 ・・・・・ 五月初八。 ・・・・・ [欄外朱書] 毎月八ノ日午牛豚鶏ヲ売ルコト料理店ニテ肉類ヲ出スコトヲ禁ズ 五月十日。 ・・・・・ 夜浅草に飰してオペラ館楽屋を訪ふ。踊子大部屋に左の如き紙片落ちてあり。滑稽なればこゝに転写して 笑を後世に伝る よすがとなす。 拝啓各位殿愈々御清祥の程賀奉ります。さて時局の進展は益藝能文化によって戦時国民生活を測衛するの急なるを感じます。吾等はこゝに時局認識をお互に徹底し職域奉公の誠を効す目的を以て今回文部省社会教育局長及聖戦遂行に日夜砕心せらるゝ陸海軍当局要路の方々依り御講話拝聴の会を左記次第にて開催致す事と相成ましたから是非共御来聴下さる様御通知申上げます。 藝能文化聯盟会長 伯爵 酒井忠正 東京興行者協会技藝者各団体 会員各位 藝能翼賛講演会次第 ・・・・・ [欄外朱書] 測衛トハ見慣レヌ語ナリ何人ノ作リシモノニヤ 五月十一日 日曜日。 ・・・・・ 頃日耳にしたる市中の風聞左の如し。 角力取 の家にはいづこも精米無尽蔵なり。南京米など食ふものは一人もなし。精白米は軍人の贔負客より貰ふなりと云。 五月十五日。 ・・・・・ [欄外朱筆] 陰茎切取りの淫婦阿部お定満期出獄 五月十九日。 ・・・・・ 土州橋医院事務員のはなしに病院にて試験に用る兎は其死骸を一手に買集むる者ありて,やがては 露店の焼鳥 となるとの事なれば用心せらるべしと云。 五月念三。 ・・・・・ 去月来食慾頓に減じ終日唯睡眠を催すのみ。土州橋に至り診察を請ふ。外米の被害なるべしとて 電気治療 をなす。新政の害毒遂に余が健康をおびやかすに至れり。可恐可恐。 六月初三。 ・・・・・ 夜芝口の金兵衛に夕飯を喫す。飲食店夜十一時かぎり燈を消さゞるところにはこの頃巡査入り来りて 客を抅引 する由。 ・・・・・ 六月八日 日曜日。 晴。晡下銀座を過るにこの日は牛肉屋休なれば天ぷら屋天国その他蕎麦屋の店口に散歩の家族男女事務員らしきもの列をなして押合へるを見る。全く餓鬼道の光景なり。 六月十三日。 ・・・・・ [欄外朱書] 去年コノ日巴里 独人ノ侵畧 ニ遭フ 六月十五日 日曜日。 ・・・・・ 日支今回の戦争は日本軍の 張作霖暗殺及び満州侵畧 に始まる。 日本軍は暴支膺懲 ぼうしようちょう と称して支那の領土を侵畧し始めしが,長期戦争に窮し果て俄に名目を変じて 聖戦 と称する無意味の語を用ひ出したり。 欧州戦乱以来英軍振はざるに乗し,日本政府は独伊の旗下に随従し 南洋進出 を企画するに至れるなり。然れどもこれは無知の軍人ら及獰悪なる壮士らの企るところにして一般人民のよろこぶところに非らず。国民一般の政府の命令に服従して南京米を喰ひて不平を言はざるは 恐怖の結果 なり。 ・・・・・ 今日にては忠孝を看板にし新政府の気に入るやうにして一儲けなさむと焦慮するがためなり。 元来日本人には理想なく強きものに従ひその日を気楽に送ることを第一となすなり。 今回の政治革新も戊辰のかくめいも一般の人民に取りては何らの差別こなし欧羅巴の天地に戦争歇む暁には日本の社会状態もまた自ら変転すべし。 今日は将来を予言すべき時にあらず。 六月念二 日曜日。 ・・・・・ 号外売 独露魯開戦 を報ず。 ・・・・・ 七月初五。 ・・・・・ 燈下徒然のあまり 近年世変の次第 を左に録して備忘となす。 一 毎月一日及七日奉公日とやら称して酒煙草を売る事を禁じ,待合料理屋を休みとなせしは昭和十四年七月七日を以て始めとなす。其の原因は戦地より帰来りし仕官発狂し東海道列車中にて剣を抜き同乗せし車内の旅客を斬りし事あり。 又浅草公園にて兵卒酒に酔ひて通行人を傷けし事ありし為,軍人への申訳にかくの如き禁欲日を設くるに至りしなり。以後この日は藝者と女給の休養日となり,・・・・・ 一 燈火管制という事は昭和八年七月より始まる。 一 煙草二割値上となる。ヒカリ十一銭なりしを十三銭となす。 一 十二月一日より市中飲食店半搗米を炊きて客に出す。 一 舶来の酒化粧品殆どなくなる 十二月中 一 市中自動車夜十一時限りとなる。 一 昭和十五年四月二日よりカフエ-飲食店夜十一時限り。遊郭及玉の井亀戸は十二時までとなる。 一 八月二日より砂糖マッチ切符制となる。七月六日奢侈品制造並に販売禁止の令出づ。 一 八月二日より市中飲食店夕飯は夕五時より八時頃迄。昼は十一時より二時頃迄。この時間以外には米飯を出さず。九月一日より酒は夕方ばかりなり。待合玉の井吉原あたる,夕五時より昼遊禁止となる。 一 十月より自動車は芝居の近処また盛場浅草公園付近にて客の乗降を禁ず。 一 十一月かぎり市中舞踏場閉止。 [欄外墨書] 一円タク 遠方に往かず夜十二時過客を断るやうになりしは十四年三四月頃よりなり 七月十六日。 陰。数日来市中に野菜果実なく,豆腐もまた品切にて,市民難渋する由。 ・・・・ 牛肉既になし。 この次は何がなくなるにや。 七月十七日。 ・・・・・ 連日の雨と冷気とに世間ひっそりとして何の活気もなし。新聞に 近衛内閣総辞職 の記事出でたれど誰一人その噂するものなし。 七月十八日。 今朝の新聞紙に 近衛一人残りて他の閣僚更迭 するに過ざる由見ゆ。初より計画したる 八百長 なるが如し。そはともかく以後軍部の専横益甚しく世間一層暗鬱に陥るなるべし。 ・・・・・ 余はブロワの知己朋友が戦場に行きて帰り来らざる多きを見るにつけ,余が孤独の身には親友と称すべきものもなく応集せられて骨を異郷の土に埋めしものもなきを思ひて,自ら幸なりとせざるべからず。 余はつくづく老後家庭なく朋友なく妻子なきことを喜ざるべからず。模倣ナチス政治の如きは老後の今日余の身には甚しく痛痒を感ぜしむることなし。 ・・・・・ 七月廿四日。 晴れて涼し。 ・・・・・ 下谷外神田辺の民家には昨今出征兵士宿泊す。いづれも冬支度なれば南洋に行くにはあらず 蒙古か西伯利亞 しべりあ に送らるるならんと云ふ. ・・・・・ 七月廿五日。 くもりて蒸暑し。・・・・・ この夜或人のはなしをきくに 日本軍は既に仏領印度と蘭領印度の二か所に侵入せり。 ・・・・・ この風説果して事実なりとすれば 日本軍の為す所は欧州の戦乱に乗じたる 火事場泥棒 に異らず。 人の弱みにつけ込んで私欲を逞しくするものにして 仁愛の心 全くなきものなり。 かくの如き無慈悲の行動はやがて 日本国内の各個人の性行に影響を及す こと尠からざるべし。暗に 強盗 をよしと教るがごときものなればなり。 ・・・・・
by yojiarata
| 2015-12-23 22:28
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