人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗 を読む  巻の十二



昭和21年



一月初一。


貼れて風もなし。またとはなき好き元日なるべし。 ・・・・・ 世の噂によれば 会社の株配当金 も去年六月以後は皆無となりし上 今年は個人の資産にも二割以上の税かゝるといふ。

今日まで余の生計は,会社の配当金にて安全なりしが今年よりは売文にて餬口の道を求めねばならぬやうになるなり。去秋以来収入なきにあらねどそは皆戦争中徒然のあまりに筆とりし草稿,幸に焼けざりしを售 りしがためなり。

七十近くになりし今日より以後余は果して文明を編輯せし頃の如く筆持つことを得るや否や。六十前後に死せざりしは此上もなき不幸なりき。 老朽餓死の行末 思へば身の毛もよだつばかりなり。

朝飯を莭するため辱中に書をよみ,正午に近くなるを待ち階下の台所に行き葱と人参とを煮,麦飯の粥をつくりて食う。飯後炭火なければ再び寝床に入り西洋紙に鉛筆もて売文の草稿をつくる。


一月十六日。

晴。早朝荷物をトラックに積む。五叟の妻長男娘これに乗り朝十一時過 熱海 をさる。余は五叟その次男及田中老人等と一時四十分熱海発臨時列車に乗る。夕方六時 市川 の駅に着す。

日既に暮る。歩みて菅野二五八番地の借家に至る。トラックを来るを待てども来らず。八時過に及び五叟の細君来りトラック途中にて屡故障を生じたれば横浜より省線電車にて来れりと言う。 ・・・・・

夜具も米もなければ俄にこれを隣家の人に借り 哀れなる一夜 を明したり。


一月十九日。


晴。寒気甚しからず。荷物を解き諸物を整理す。午後省線電車場前に露店多く出ると聞き,行きてみる。

帰途京成電車踏切近くなる門構の家に 汁粉 一円四十五銭との貼札出したるを見,入りて食するに片栗粉を団子のやうになし汁は薄甘き葛湯なり。 汁粉をいふ語も追々本来の意を失ひ行くものゝごとし。


一月廿二日。

晴。暖春の如し。 疥癬愈甚し ければ午前近巷の医師を尋ねて治を請ふに伝染せし当初なればさして治しがたき病にもあらねど,かく全身に蔓衍しては最早や薬の能くすべきところならず。硫黄を含む温泉に浴するより外に道なしと言へり。医師また言ふ。これ帰還兵の戦地より持ちかへりし病にて国内伝染の患者甚多しと。

病院を出て駅前の市場にて惣菜物蜜柑等を購い京成線路踏切を超え松林欝々たる小径を歩む。人家少く閑地多し。林間遥に一帯の丘陵を望む。通行の人なければ樹下の草に座し鳥語をききつゝ独り蜜柑を食ふ。風静にして日の光暖なれば覚えず瞑想に沈みて時の移るを忘る。 ・・・・・


一月廿四日。

・・・・・ 熱海より転送の郵便物到着す。 進駐軍開封検閲の痕 あり。 ・・・・・


二月初二。

・・・・・ 病院の帰途駅前に至り見るに雪後の泥路をいとはず露店の賑平日の如し。 甘藷は禁止 になりしとて売るものなし。菓子ぱん 一枚一円 五六片を購ひ京成電車道に沿へる静なる林下の砂道を歩みながら之を食ふ。 家なき乞食 になりしが如き心地して我ながら哀れなり。


二月初三 日曜日。

晴れて風寒し。午近く飯の代りに 片栗粉の汁粉 啜りて飢を凌がむと,それを売る家まで至り見しに,二月中当分休みの札を出したり。

市川に移り住みてより数日の後,京成電車通にふと此店を見つけ,初は少しく悪臭あるに苦しみしが寒さをしのぐにもよければ毎日のように行きて食ふやうになりしなり。何事も其日その場かぎり長つづきせぬは今の世の中是非なき事なるべし。

続かずともよきにいつ直るとも知れぬはわが病のみなり。  ・・・・・


二月初五。

晴。午前扶桑書房主人来話。 ・・・・・ 晡下 川端康成,鎌倉文庫社員来話。 ・・・・・


二月十七日 日曜日。

晴。梅花開く。 新貨幣発行及び本日より銀行預金払戻停止等の布令 出づ。突然の発布なれば人心騒然たり。 ・・・・・


二月廿四日 日曜日。

・・・・・ 此日 正午より水道断水。 隣家より水を貰ひて飯を炊ぐ。夜雨蕭々。


二月廿六日。

陰。銀行預金封鎖の為生活費の都合により 中央公論社顧問嘱託 となる。右に付同社より電報来る。燈刻近藤国手来診。病荏苒たり。


三月初一。

雨蕭々。町会より 紙幣に貼る印紙 一人に付百円づゝ を配布す。


三月初二。

陰。 旧紙幣通用 本日限り。銀行郵便局前群集列をなすこと二,三丁なり。

駅前の露店雑貨を売るものばかり,飲食店は一軒もなし。肴屋八百屋 さかなややおや も跡を断ちたり。

汁粉売るもの一軒目にとまりたれば一椀を喫して帰るに,五叟 ごそう の家人 かじん あたかも新聞を前に 汁粉にて死したるもの あり。甘味に毒物を用ひしがためなりと語り合へるところなり。

余覚えず 戦慄 す。惜しからぬ命もいざとなれば惜しくなるも可笑 し。


三月初四。

陰. 汁粉の毒 に当りはせぬかと一昨日より心配しゐたりしが今に至るも別条なきが如し。

但し数日前より面部の浮腫去らず。身体何となく疲労す。



【 荷風は,殆ど 「お汁粉中毒」 といってよい状態でした。一時は,寒さの厳しい日を除いて殆んど毎日食したことが日記に書かれています。


例えば,昭和九(1934)年正月 の断腸亭日乗。


【正月二十日 ・・・ 諸氏と共に仲通の汁粉屋柳家に立寄りてかへる。】

【正月廿一日 ・・・ 柳家にて汁粉を食してかへる。両三日寒気稍寛なり。】

【正月廿二日 ・・・ 風吹き出でゝ寒気日中の寛なるに似ず遽に厳しくなりぬ。いつもより早く家に帰り。沐浴して寝に就く。】

【正月廿三日 ・・・ 燈刻銀座に食しキユウペルに憩い夜半柳家に汁粉を食して帰る。】

【正月廿四日 ・・・ 柳家にて諸氏と共に汁粉を食してかへる。】

【正月廿五日 ・・・ 風なけれど寒気甚だしければ銀座通も今宵は人出少し。黒パンを購い直に家に帰る。】

【正月廿六日 ・・・ 柳家にて汁粉を食してかへる。】

【正月廿七日 ・・・ 帰途諸子と共に今夜も柳家に立ち寄り汁粉を食す。寒月夜毎に明なり。】


お汁粉は更に続く。

荷風がお汁粉を賞味するのは,さんざん飲んだり,食べたりの後の帰宅前の深夜近く,それも殆んど毎日。何しろ,この方は,やることが徹底しています。これでは腹痛が持病の身体に良いわけがありません。

日記には,腹痛のため,七転八倒,” 円タク ” で掛かりつけの医者宅に急行したことが何度も書かれています。 】



三月初九。

・・・・・  新円発行後 物資依然として低落の兆なし。四五月頃には再度インフレの結果私財没収の事起こるべしと云。去年此日の夜半 偏奇館焼亡 蔵書灰となる。


三月十日 日曜日。

くもりて正午のころより雪ふり出せり。新聞紙に米国製の烟草壜詰を所有するもの 米国憲兵 の知るところとなれば捕縛せらるべき由の記載あり。 ・・・・・ 

午後凌霜子来り館柳湾が林園月令を貸与せらる。又 疥癬の妙薬 を恵まる。雪歇まず。


三月十四日。

・・・・・ 余の初て玉川堂の名を聞きしは一番町に在りしことなれば四十余年のむかしなり。思ふに現在の店もむかし在りし処なるべし。其頃店の裏に子庭を前にせし貸席ありて,俳諧謡曲の会などの催しをなすものありき。余は荒木竹翁につきて 琴古流の尺八 を学びゐたれば翁父子及び門下の人々と一二度さらひの会に赴きしこともありしなり。

其頃の事を思返せば三崎町の静なる横町に庭ひろき薬湯ありて閑人等浴後半日碁など打ちゐたるを見しこともありしなり。 往時茫茫都て夢のごとし。


三月十五日。

晴。春風嫋々。停車場前の闇市にて老婆のふかしたる里芋 衣かつぎなり を売りゐたるを見たれば,何となく花見頃のむかしを思出でゝこれを購う。但し一つ一円とは驚くべし。

木戸氏来書,畠中氏来書。生活費の事につき懇切に心配すべき由しるされたり。午後朝日新聞記者来訪,夕刊紙上連載の長編小説がほしき由。


三月十七日 日曜日。


雨まじりの雪朝まだきより歇まざるに,電気も来らず電気焜炉も使用すること能はざれば炭火にて粥を炊ぐ。戦後生活の不便思ふべし。午後小川氏来話。 午後電気復旧。


三月十九日。

晴。暖。町会にて 蚊帳 を買う。金拾参円なり。


三月二十日。

雨。正午扶桑書房主人来り新円弐千円および米国製食料品を贈らる。午後小瀧氏来り中央公論社顧問給料金五百円を贈らる。頃日 郵便物検閲の為遅延数日に及ぶ と云。川端康成氏来り辞書言泉を贈らる。


三月廿四日 日曜日。

晴。東京にてはいよいよ 米の配給 なくなり粗悪なるパンにて人民露命をつなぐやうになりしとの噂なり。川一筋隔てしのみなれば市川辺も遠からずこの憂目に逢ふべし。 ・・・・・


四月初一 日曜日。

晴。 封鎖預金 毎月三百円引出し得べき筈なりしに当月より金百円となる。政府に一定の方針なく朝令暮改の窮状笑ふべく憂ふべきなり。 ・・・・・


四月初四。

・・・・・ 省線停車場前繁華の四辻に立ちて 衆議院選挙候補者の演説 をなすものあり。人だかりにまじりて之を聞くに,其の言ふところ 西洋人向ホテルの番頭の挨拶 の如く,又明治のむかし横濱に在りし商館番頭のお世辞に異らず。一国の人民一たび戦に敗るゝやかくまで卑屈になり得るものかと覚えず 暗涙 を催さしむ。 ・・・・・


四月初六。


  噂のきゝがき

数日前のことなるべし。大坂にて警吏 朝鮮人の闇売 をなすもの多数を捕へしに,同国人之を取返さんとて警察署を襲ふ。警吏こゝに於て日々停車場前に開かるゝ 闇市を包囲 し誰彼の差別なく引致せんとす。闇屋の中には日本人も交りゐたりしがこれも朝鮮人の身方となりて警吏と争ひ,遂に双方ピストルを放つに至る。

この騒に米国憲兵の一隊事情に通ぜざれば 機関銃 を放ち乱闘する日鮮人及び警吏を追払ひたり。死傷者少からざりしと云。 此事件米人検閲 の為新聞紙には記載せられず。米人口には民政の自由を説くといへどもおのれに利なきことは之を 隠蔽 せんとす。笑ふべきなり。


四月十三日。

晴。知る人の世話にて八幡町の銭湯に入る。 裏口よりそっと入る なり。 闇価壱円   と云。

両三日前より 食塩品切。 醤油ソースの類いづれも塩気なし。已むことを得ず沢庵漬梅干等を買ひて惣菜の代りとなす。食塩一升の闇値は白米二升引替なりと云。戦争以来意想外の事多けれど 食塩一升百円以上 に上りし事も亦その中に数ふべし。


四月十五日。

・・・・・ 此頃 米兵暴行略奪 の噂頻なり。黄昏銀座通にて殴打せられし上紙入を奪はれしものありと云。 日本人の追剥 亦少らずと云。夜間外出は何処に限らず慎しむべしとなり。 ・・・・・


四月十七日。

雨。夜始めて 蛙声 あせい をきく。去年岡山の西郊にて聞き馴れしものとは少しく異なるところあり。人各 おのおの 郷音あるは言うに俟 たず。蛙声また土地によりてその調を異にするは今夜始めて知る所。 興味なしとせず。



【 私には,蛙に特別な思いがあります。2013年1月27日に書いたブログ 蛙とザリガニ を読んでみてください。 】



四月廿八日 日曜日。

晴。配給の煙草ますます粗悪となり今は殆喫するに堪えず。醤油には塩気乏しく味噌は悪臭を帯ぶ。

これ亡国の兆一歩々々顕著となりしを知らしむるものならずや。現代の日本人は戦敗を口実となし事に勤むるを好まず。 改善進歩の何たるかを忘るる に至れるなり。

日本の社会は 根底より堕落腐敗 しはじめしなり。今は既に救ふの道なけばやがては **人よりもなほ一層下等なる人種となるべし。[注 **は,筆者・荒田による]

その原因は何ぞ。 日本の文教は古今を通じて皆他国より借来 しものなるがためなるべし。支那の儒学も西洋の文化も日本人は唯 その皮相を学びし に過ぎず。遂にこれを咀嚼 そしゃく すること能はざりしなり。 ・・・・・


五月十九日 日曜日。

・・・・・ 午後門外を歩むに耕したる水田に鳥おどしの色紙片々として風に翻るを見る。稲の種蒔かれしなるべし。時に白鷺一二羽貯水池の蘆間より空高く飛去れり。

余の水田に白鷺を見,水流に 翡翠 かわせみ の飛ぶ を見たりしは 逗子の別墅 に在りし時,また早朝 吉原田圃 を歩みし比の事にして,共にこれ五十年に近きむかしなり。

今年齢七十に垂んとして偶然白鷺のとぶを見て 年少のむかし を憶ふ。市川の寓居遂に忘るべからざるものあり。


五月廿六日。

雨。一昨日 亡国の天子 ラヂオを通じて米穀欠乏の事につき人民に告るところありしと云。

有難がる者笑ふもの憤るもの巷説紛々たり。


五月廿八日。


陰。独活を煮て昼飯を食す。余老来好んで 菜蔬 を食す。蚕豆,茶碗豆,独活,慈姑の如きもの散策の際之を路傍の露店又は農家について購ふことを得。東京の人に比すれば遥に幸福なりと言はざるべからず。飯後出るでゝ鬼越の田間を歩す。梨畠多し。


六月十日

・・・・・ 八百屋の店頭に時新の野菜を見る。胡瓜一本五円,枇杷一粒二円ヅ丶なり。 配給米 五日間にてわづかに三合となる。夜雨。


六月十八日。

晴。溽蒸忍ぶべからず。今日より廿三日まで 日中水道断水 の由。





つづく

by yojiarata | 2015-12-23 22:17
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