宗教から 科学へと 変貌した がん免疫治療薬    巻の二






なぜ何十年,何万人の研究者が研究してもがんの特効薬を創出できないのか




平岡



(1) はじめに



20世紀半ば以降,科学は急速に大きな進歩をとげて人類の利便性や幸福度の向上に多大の貢献をしてきました。特に,ICチップ,コンピューターをはじめとする通信技術の進展は著しく,最近は IoT (Internet of Things),第四次産業革命などという言葉が新聞,雑誌に頻繁に現れるようになっています。


がんの治療に関してもそれなりの進歩はしてきましたが,小学生の子供を残して両親のどちらかが,がんで亡くなるというような不幸をゼロとすることが出来ないでいるのが現状です。


そこで,このブログの第二の表題でもある「がんの特効薬はなぜ作れないのか」について私なりの考えを述べてみたいと思います。


その前にまず表現としての「がん」と「癌」との違いにつきふれておく必要があります。これは単にひらがなと漢字の違いだけではなく医学的に意味のある相違です。「癌」は上皮細胞が悪性化したものを表します。例えば「胃癌」,「大腸癌」,「食道癌」,「膀胱癌」,「子宮癌」などです。一方,「がん」は上記の「癌」ばかりでなく上皮細胞以外の組織の異常増殖変異も広く含みます。例えば筋肉,骨,血液細胞,脳などの肉腫,骨腫,白血病,脳腫瘍なども含み「がん」と表現します。すなわち,「がん」という表現は「癌」より広い意味で使用されます。従ってこれ以降,著者は広い意味の「がん」という表現を使用することにします。



荒田



荒田洋治『がんとがん医療に関する23話 がん細胞の振る舞いからがんを考える』(薬事日報社,2009)に,この点を含めて,がんに関する基礎的なこと執筆しました。このブログ全体の理解にも役立つと思います。



平岡



(2) 現在のがん治療薬(概略)



現時点で用いられているがんの治療法は大きく分けて

(i) 手術

(ii) 放射線療法

(iii) 薬物療法

(iv) その他の方法が

用いられています。ここでは3番目の項目


抗がん剤


について,俯瞰をしてみましょう。


一つの病気に対して数種類の治療薬が存在するのは当然です。がんの場合には,がん全体で数百種類以上の薬が存在します。がんという病気は種々の個性を持って出現し,がんによる死者が減少しない現実からいえば完成度が低い状態と言わねばなりません。一種類の薬では完全にはなおらないので,多種類の制がん剤が出現しているのです。


代表的な制がん剤をメカニズム別に書き記してみると以下の如くになります。これは網羅的ではありませんが,それでも大変数が多いので,“お坊さんのお経”を聴いていると思って,この部分はさっと目を通すだけにとどめてください。


すなわち,アルキル化薬,白金化合物,葉酸代謝拮抗薬,ピリミジン代謝拮抗薬,プリン代謝阻害薬,リボヌクレオチドレダクターゼ阻害薬,ヌクレオチドアナローグ,トポイソメラー阻害薬,微小管重合阻害薬,微小管脱重合阻害薬,抗腫瘍性抗生物質,シグナル伝達系阻害薬,細胞周期阻害薬,血管新生阻害薬,プロテアソーム阻害薬,HDAC阻害薬(エピジェネティクス関連),スプライシング阻害薬,テロメラーゼ阻害薬,分子標的薬,抗体医薬,内分泌療法,ワクチン療法,siRNA利用療法など,数多くの制癌剤が過去に開発されてきました。


これらの各項目に対応する薬が数種類から十数種類あるわけですから全体では数百個の薬が存在することになり,他の分野の薬とは事情が異なります。


近年,がん組織の中に 1-2 % 前後のがん幹細胞という親玉ともいうべき特殊細胞が存在することが明らかになり,この細胞は薬に対しても耐性度が強く,薬だけではがんが完治しにくいので,次から次へと抗がん剤が開発されてきたのです。それ故,抗がん剤,制がん剤という単語は正確にその薬の性質を表しておりがん治癒剤ではないのです。


(3) がんは遺伝子変異による病気である


普通に病気と言われるものには,一つの原因に対して一種類の病名が対応している場合が多々あります。例えば,結核菌が肺で定着・増殖すれば肺結核,血中のインシュリン量が正常値以上の高い状態が続くと糖尿病,心臓の血管が細くなるか詰まれば心筋梗塞などです。


しかし,がんの場合は,多くの原因から細胞が異常増殖する「がん」という一種類の病気が発生します。例えば,紫外線の浴び過ぎ,放射線の過度の照射(被爆),多種類ある発がん物質の長期摂取,喫煙,過度の飲酒,加齢など多くの原因から,一つの結果である細胞の異常増殖という 「がん」 が発生します。


その理由を簡単に述べますと,がんは複数の遺伝子が異常になると発生するということが20世紀の半ば以降の多くの研究から判明したのです。さらに,重要なのは,一つの遺伝子が異常になったからといってすぐにがんになるわけではないのです。がん細胞は種々の特徴をもっていますが代表的な姿の二つをあげてみます。すなわち,


(i) 普通の細胞は細胞分裂をくり返しその数が増えて隣同士の細胞がお互いに圧力を感知すると分裂が止まります。一方,がん細胞は上記(i) の contact inhibition (接触阻害)と言われる現象が起こらずに,限りなく増殖しますので細胞が盛り上がって上部・下部などすべての方向に塊が増えていきます。


(ii) 普通の細胞では,一回分裂するたびに遺伝子の末端にあるテロメアという遺伝子部分の一部が切断され短くなり,それが繰り替えされて最少になると分裂が停止します。一方,がん細胞はこの切れて短くなったテロメア部分をテロメラーゼ (telomerase) という酵素を使用して元の長さに修復するので永遠に増殖を続けるのです(不死化)。


20世紀半ば以降,がんに関する種々の事象が明らかにされ,一種類の遺伝子の異常では細胞はがん化しないことはほぼ解明されていました。一方,実験室での試験管やシャーレ内では正常細胞のがん化には成功していませんでした。これを近代的な分子生物学を利用して人間の上皮細胞を使い初めて実現したのがマサチュセッツ工科大学のロバート・ワインバーク (Robert Allan Weinberg) 教授です (1999年)。


すなわち,(i) Telomerase(テロメア部分の修復酵素)の発現,(ii) large T 発がん遺伝子発現,(iii) H-ras 発がん遺伝子発現の3つの要因を同時に発現させ実験室レベルでの初めてがん化に成功しました(1999年,Nature誌に発表)。


すなわち,一つの遺伝子が壊れるか,一つの遺伝子が異常発現してもガンになる訳ではないのです。実際にひとのがんでは少なくとも数十以上の遺伝子変異があるといわれています。しかし,これはがんの発生とは関係ない加齢による遺伝子変異も含まれると推察されます。そこで,少なくとも三種類の人工的遺伝子操作でがんの発生を実験室で実現したワインバーグ教授の業績は大きいものがあります。過去にcancer initiator and promotorという言葉が使用されたのはがんが複数遺伝子の変異で発生するということを示唆しています。ちなみに現在,発がん遺伝子は100個以上(ras, erfB, mycなど),がん抑制遺伝子は数十個(p53, Rb, BRCA など)が知られています(人間の全遺伝子は2万―2万2千個)。


これらの事実を総合すると,次のようにまとめることが出来ます。

「がんは遺伝子の変異でおこる病気である」

「現在の科学技術では,壊れた,または異常をきたした遺伝子を正確に切り取り,正常遺伝子に置き換える技術を人間は持ち合わせていない」


あとで,「将来展望」の項目で述べますが,現在,この遺伝子修復技術に革新的技術が導入されつつあり,不可能が可能に変わりそうになっています。


いずれにしても遺伝子異常は新技術では修復可能になるかもしれませんが,薬では修理・修復することがほとんど不可能ですので「がんの特効薬は永遠に出現しない」ことになります。


勿論,がんに対処する新薬は今後もでてくると思われます。すなわち良い対処療法薬は病気の苦しみを和らげて寿命をのばすこととなり人類の幸福に多大の貢献することとなるでしょう。当然のことながら,科学は日進月歩の状態にあり,がんの早期手術以外の良い対処方法が創出されることも期待されます。


続いて,巻の三 で 述べる (4)将来展望を,「とばし読み」 ではなく,じっくりと読んでいただきたいと思います。




つづく

by yojiarata | 2015-09-30 20:20
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