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サトウハチロー  母の詩



ご隠居さん 今日はサトウハチローさんの話ですか。


たまには,日本の総理大臣の顔を思い出さなくてよい時間を過ごしたいからね。


ハチローさんは,文字通り,波乱にとんだ一生を送ったんだけど,私は,ハチローさんの大ファンです。


何故かって?


これから書く記事を読んで下さい。



*



詩人,作詞家の サトウハチローさん が遺した作品には,子供の頃に,父・紅緑に離縁され若くして世を去った母親・ハルの面影が色濃く反映しています。


ハチローさんについては,ハチローさんの異母妹である佐藤愛子さんが,『血族』 に詳しく書いておられます。これは,実の妹でなければ絶対に書けない著作です。とくに,ハチローさんと母・ハナの心理的葛藤の描写は見事と言うほかありません。私も,若くして母を亡くしていますので,よくわかる部分が少なからずあり,いたく感銘を受けました。『血族』は,佐藤愛子さんの最高の作品です。

佐藤愛子 『 血族 』 (文春文庫,上,中,下,2005)



生い立ち



父親の佐藤洽六 (紅緑) (1874-1949) は,メチャメチャな男で,サトウハチロー,作家の佐藤愛子,脚本家で劇作家の大垣肇の父。3人とも母親が違うのです。


別居していた肇以外の子供,長男ハチローをはじめ4人の息子たちは,そろいもそろって,手のつけられない道楽者の不良少年。


両親の不和が思春期のハチロー少年に影響を及ぼし,早稲田中学1年で退学。立教中学に入りなおし,また退学,早稲田,立教と何度も転入学を繰り返し,警察沙汰を起こして一度ならず留置所送り。


ハチローは,詩人,作詞家,仏文学者である西條 八十 さいじょう やそ (1892年(明治25年)- 1970年(昭和45年))に弟子入りして,後に詩人として一家をなしたけど,他の3人の息子は乱脈な生活を続けた生活無能力者だったようです。


次男・節 たかし は,愛人と廣島で原爆に遭い死去。三男・弥 わたる は,五歳で叔父の家に送られ,フィリピンで戦死,四男・久 ひさし は,十九歳で女と心中。紅緑は生涯,彼らの借金の返済に追われたということです。

次に,『血脈』上,下から,何か所か引用させていただきます。赤字で,ページ番号を付してあります。



*



ハッチャン と 八郎君






『血脈』上,237-238

(佐藤家にあって,紅緑の絶大な信頼を受け,佐藤家の厄介事の始末を引き受けた)福士幸次郎のことば。



 「ハッチャンはね,ハッチャンは悪い子じゃないんだよ。悪い子じゃないけど悪いことをしてしまうんだなあ」

と幸次郎はいった。

「悪い子だから悪いことするんだろ?」

「ちがうんだよ。悪い子じゃないんだけど,悪いことをしてしまうんだよ」

「悪いことをするのは悪い子じゃないか」

「ちがうんだよ。ちがうんだよ。悪い子じゃないのに,悪いことをしてしまうんだよ」

幸次郎はそういったが,洽六(筆者注 ハチローの父・紅緑)はあんな奴はダメだ,徹底的に懲らしめてやるといって勘当をいい渡した。

「帰れというまで帰ってくるな」といい,

「父島には感化院(筆者注 児童自立支援施設の旧称,広辞苑第六版 による)がある。丁度いい,そこへ入っちまえ!」

と叫んで,八郎を殴った。殴られることには馴れていたが,感化院という言葉は父の拳固よりも応えた。泣きながら福士幸次郎に訴えると,幸次郎はいった。

「ではハッチャン,こうしよう。ぼくも一緒に父島へ行こう」

「福士さんも感化院へ一緒に入ってくれるのかい」

すが る思いでそういうと,幸次郎は笑った。


「感化院なんていうのはお父さんの脅 おど しだよ。ぼくと一緒に父島へ行ってみようじゃないか。きっといろんな発見があると思うよ。今までの生活とは違う生活に入ってみるというのも面白いものだ。そこには汚れていない自然,人の手が加わっていないありのままの自然がある。素晴らしいじゃないか!そこで原始の暮しを偲ぼうよ。きっと何か,素晴らしいものが見つかるよ ・・・・・ 」



だけど,ハチロー少年は,小笠原諸島の生活を楽しんだようですよ。ハチローが後年発表した詩には,”青い空” という表現が頻繁に出てきますが,これはどうやら,小笠原諸島で見た青い空のことのようです。


幸次郎は話しかける時,

「ハッチャン,ハッチャン」

と,必ず名前を二度呼ぶのが癖でした。ハッチャンは怒り狂って,幸次郎とよく喧嘩をしました。

よくよく腹に据えかねる時,幸次郎は 「ハッチャン,ハッチャン」 といわずに,「八郎君」と呼んでいたそうです。





*



母の涙




『血脈』下,268-274


 ・・・・・ 片柳忠男は広告代理店オリオン社の社長で,五年前にTBSの連続ドラマ「おかあさん」のイントロで流す「お母さんの詩」を八郎に依頼したのが評判になり,詩集を作って出版すると爆発的に売れた。一集,二集と版を重ね,近々三集が出る予定である。

・・・・・

夏になって第三集が発行された詩集「おかあさん」は印刷が間に合わないほど売れた。



詩集の中のひとつ。



一番苦手なのは

 おふくろの涙です

何もいわずに

 こっちを見ている

          涙です


その涙に

 灯りが

 ゆれたりしていると


そうして

 灯りが

 ふくらんでくると ・・・・・

 ・・・・・ これが一番苦手です




この詩に感動したという読者と道で会った。プラタナスの影からふとふり向いて,「ハチロー先生でしょう」と声をかけてきた中年の女だった。このハチロー先生の気持ちは私の気持ちとぴったり同じです。そういっただけで女の目から涙が流れた。

「わたし,いけない娘だったもんですから」

女の涙を見てハチローは涙ぐんだ。しみじみと嬉しかった。それが彼の空想の産物であることを忘れ,本当にそんな時があったような気がしているのだった。




ハチローさんの詩は,” 空想の産物 ” だったかもしれないけれど,愛子さんは,次のように書いておられます。



『血脈』下,274-277


誰も知らないが八郎の胸の底には,長い間埋めてきた古甕 ふるがめ がある。いつそれを埋めたのか,八郎には思い出せない。しっかり密閉して,埋めてきりにしてしる。


だが時々その甕の蓋がうっすらと開きそうになる時があって,そんな時は慌てて押さえた。中を見てはならなかった。忘れてしまいたかった。そんなもの,なかったことにしたかったのだ。


甕の中に押さえ込んだものは,誰からも愛されなかった「哀れな母」だった。父からうとんじられ,子供の誰からも慕われなかった。いつもグチグチこぼしてばかりいて,口を開けば父さんの悪口をいう母だった。

・・・・・

そんな母が嫌いだった。ヤキモチで頭の中が一杯になっていて,子供のことなんか考えなかった母。八郎の悪戯を叱る気さえなく,何をしてもただ溜息をつくだけで,だから八郎はもっともっとと悪戯をしまくったのだ。

・・・・・

足袋が八文 やもん 半。背丈は五尺足らず。体重は八貫か,九貫か。

・・・・・

ふと気がつくと ・・・・・ 甕の中にいる筈の「ちいさい人」が立っていた。・・・・・ 

甕に戻そうとしてももう遅かった。・・・・・

「ちいさいちいさい人でした。・・・・・ ほんとにちいさい母でした」

ひとりでに,そんな言葉が流れ出てきた。 


・・・・・

それから何日かして,八郎は 「ちいさい母のうた」 を書いた。


ちいさい ちいさい人でした

ほんとに ちいさい母でした

それより ちいさいぼくでした

おっぱいのんでる ボクでした

   かいぐり かいぐり とっとのめ

   おつむてんてん いないいないバア





私は,佐藤愛子さんが書いておられる 「古甕」 の話は,何だか分るような気がします。「甕の蓋」 が私の心の奥にもあって,その蓋がうっすらと開きそうになる時がありました。そんな時は,ハチローさんと同じように,慌てて押さえたものです。


私の場合には,ハチローさんの場合とは違います。異母兄弟・異母姉妹がいるわけでもないし。だけど,私の「ちいさい母」も,何かというとすぐ泣くのには閉口しました。大学に入った頃を境に,母と疎遠になってしまったのはそのせいだったように思います。優しくて周りの誰からも慕われていた母を,もう少し優しくしてやればよかったのにと,超後期高齢者になった今でも,後悔の念と共に,ふと,50年前を思い出すことがあります。
 


もしよかったら, 2011年にこのブログに書いた 柞葉 ははそば の母小雨の丘 を読んで下さい。


ハチローさんの処女詩集 「爪色の雨」には,母を偲ぶ三つの詩が載っています。その内の一つ。


『血脈』上,382-383




「亡き母よ ・・・・・ 一」


足にくづれる白い砂

ゑりあしに

しみる松の匂い


あゝ

風は吹く 風は吹く

風ぞ吹く


子守唄は

二つとなきものぞ

亡き母よ
  





小雨の丘
(サトウハチロー作詞,作曲 服部良一,昭和15年, YouTube より)には,ハチローさんの思いが,ストレートに表現されています。1940年(昭和15年)に,当時の宝塚のトップスター・小夜 さ よ 福子さんによって吹き込まれた絶品です。SP盤からの音声の復元は見事です。写真もきれいに再現されています。この曲はその後,実に大勢の歌手によってレコード化されていますが,私に言わせれば,100年以上も前に生まれた小夜福子さんの作品を凌ぐものはありません。




ハチローさんの 『爪色の雨』 (1926年,大正15年)に 伊藤翁介 が曲を付けた 『爪色の雨』 (歌 ボニージャックス) も YouTube で聴くことが出来ます。


ハチローさんは,大正十五年五月,父親・紅緑にこの詩集を送っています。この時,ハチローさんは23歳。


『血脈』 上,380


「お父さん。

僕の生まれてはじめての詩集ができました。 ・・・・・ 出版記念会をみんながしてくれ,(今)東光さんをはじめ西条(八十 やそ )さん,宇野(浩二)さん,北原(白秋)さんらが来てくれました。白秋さんは 『爪色の雨』 とは新しい色の発見だといって褒めてくれました」


*



「長崎の鐘 (サトウハチロー作詞,古関 裕而作曲,1946年,GHQの許可が下りた1948年 (昭和24年) に発表)」のあとは,ハチローさんは童謡以外の詩は書いていません。


残されている童謡は,


「ちいさい秋みつけた」



「かわいいかくれんぼ」



「とんとんともだち」



「夕方のお母さん」



など,(いずれの曲も,作曲は中田喜直),” 日本人に生まれて良かった!” と思う歌ばかりです。” 日本人に生まれて良かった!” だなんて,むかし流行った三木のり平のコマーシャルみたいだけど。YouTube にリンクが張ってありますので,聴いてください。

ただし,YouTube にアップされている曲は,突然消えてしまうことがよくあるので,その時には,ネットで曲名を入力して検索してください。







つづく

by yojiarata | 2015-06-08 13:13
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