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文学作品 における プライオリティー  吉村昭 と 菊池寛



ご隠居さん 今日は,やけに改まった話のようだね。


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そうでもないんだけど,私が何故この記事を書くのか,最後まで読んでもらえば,君にも分ってもってもらえると思うよ。

自然科学でも,社会科学でも,そのアイディアを誰が最初に出したのか,つまりプライオリティーは誰に属するかは,物事の本質に関わる大事な問題だよね。



以前,このブログに  『吉村昭,菊池寛,永井荷風』  を書いたけど,覚えている。


このブログで書いたことを念頭に置いて,プライオリティーの観点から,改めて考えてみたいんだ。


まず,問題のブログから,今日の話題と直接関係のある部分を,要約するよ。


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吉村昭は1974年, 『冬の鷹』 を出版しました(新潮文庫)。この作品は,『解体新書』 の翻訳・出版に至るまでのいきさつを,一日も早く 『ターフェル・アナトミア』 の翻訳・出版に漕ぎ着けたいという,極論すれば営業マンのような男・杉田玄白,翻訳出版に協力しつつも,これを機会に,オランダの文化など,蘭学から学ぶべき哲学などを含めたより広い視点で日本に紹介すべきだとして,杉田と対峙する前野良沢の確執を見事に描き,大きな評価を得たんだ。


一方,菊池寛は,1947年, 『蘭學事始』 を春陽堂より出版しているよ。私は,この春陽堂版をネットの 「日本の古本屋」 から購入したんだ。念のため,菊池寛 『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』 (新潮文庫,1970)に収録されている 『蘭学事始』 と比較し,字句の用法のほかは,両者が完全に同一であることを確認しました。


筆者が読む限り,『蘭學事始』に述べられて菊池寛の論旨は,吉村昭の著作と全く変わりがないんだ。

以下,『蘭学事始』 (新潮文庫版) の192-195ページから 引用します。


 ・・・・・ 最初,一二年は,良沢と玄白との間に,何等意見の扞格(かんかく)もなかった。が,彼らの力が進むに従って二人はいつも同じような口諍(くちあらそ)いを続けていた。

「この処の文意はよく解り申した。いざ先へ進もうでは御座らぬか」

玄白は常に先を急いでいた。が,良沢は,悠揚(ゆうよう)として落着いていた。

「いや,お待ちなされい。文意は通じても,語義が通じ申さぬ。凡(およ)そ,語義が通じ申さないで,文意のみが通じるのは,当推量(あてずいりょう)と申すもので御座る。

良沢は,頑(がん)として動かなかった。

四年の月日は過ぎた。

玄白は、ターヘル・アナトミアの稿を更えること十二回に及んだ。が、篇中、未解の場所五カ所,難解の場所十七カ所があった。玄白は、ひたすらに上梓を急いだ。が,良沢は、未解難解の場所を解するまではとて,上梓を肯(がえ)んじなかった。

良沢と玄白とは,それに就(つい)て幾度も論じ合った。が,二人は幾何(いくら)論じ合っても,一致点を見出(みいだ)さなかった。それは,二人の蘭学に対する態度の根本的な相違だった。

玄白は、とうとう自分一人の名前で,ターヘル・アナトミアの翻訳たる解体新書を上梓する決心をした。

が、さすがに彼は,良沢の名を無視するわけにはいかなかった。翻訳の筆記こそ,玄白の手に依(よ)って行われたものの,翻訳の功は,半ば良沢に帰すべきものだったから。

玄白は,良沢を訪(おとの)うて序文を懇願した。が,良沢は序文をも,次のようにいって断った。

「いや,拙者かつて九州を歴遊いたした折,太宰府の天満宮へ参詣いたした節,斯様(かよう)に申して起誓したことが御座る。良沢が蘭学に志を立て申したは,真の道理を究めよう為で,名聞利益(みょうもんりやく)のためでは御座らぬゆえ,この学問の成就するよう冥護(みょうご)を垂れたまえと,斯様に祈り申したのじゃ。この誓いにも背(そむ)き申すゆえ,序文の儀は平に許させられい!」

それをきいた玄白は,寂しかった。が,彼は自分の態度を卑下する気には,少しもなれなかった。彼は良沢の態度を尊敬した。が,それと同時に,彼は自分の態度を肯定せずにはおられなかった。

彼は,晩年蘭学興隆の世に会った時の手記に,自分の態度を,次のように主張した。

『翁(おう)は,元来疎慢にして不学なるゆゑ,可成りに蘭説を翻訳しても,人のはやく理解し,暁解するの益あるようになすべき力はなく,されども人に託しては,我本意も通じがたく,やむことなく拙陋(せつろう)を顧みずして,自ら書き綴れり。其(その)中に精密の微義もあるべしと思えるところも,解しがたきところは強(し)いて解せず,ただ意の達したるところを挙げ置けるのみ。

譬(たと)へば,京へ上らんと思ふには,東海東山二道あるを知り,西へ西へと行けば,終(つい)には京へ上りつくと云うところを,第一とすべし。その道筋を教える迄(まで)なりと思へば,その荒増しあらましを唱へ出せしなり。首(はじ)めて唱る時に当りては,なかなか後の譏(そしり)を恐るるようなる碌々(ろくろく)たる了見にて企事(くわだてごと)はできぬものなり。くれぐれも大体に本(もと)づき,合点の行くところを訳せし迄なり。梵訳(ぼんやく)の四十二章経も,漸(ようや)く今の一切経に及べり。之が,翁が,その頃よりの宿志にして企望せしところなり。世に良沢と云う人なくば,此道開くべからず。されど翁のごとき,素意大略の人なければ,此道かく速かに開くべからず,是もまた天助なるべし。』 ・・・・・ 



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菊池寛の著書と吉村昭の著書の発表には,30年近くの時間しか経過していないんだ。にもかかわらず,吉村昭の新潮文庫版には,「あとがき」 を含めて,菊池寛 『蘭學事始』 について,一言も言及もされてないんだよ。どうしてなんだろう。不思議だね。


ただ,巻末の「解説」(上田三四二による)に次のように書かれているよ。

 ・・・・・ 玄白には,晩年になって当時を回顧した『蘭学事始』(蘭東事始)があって広く読まれており,・・・・・ 中学の国語の教科書に出ていた記憶がかえってくる。

菊池寛が同じ題をもつ短編小説を書き,玄白と良沢の,仕事をとおしてかもしだされる心理上の葛藤を取り上げたことでも知られている。 ・・・・・ 


些か歯切れが悪いと印象をもつのは,私の偏見だろうかね。


断っておくけど,吉村昭に悪意があったとは,これっぽっちも思ってないよ。

吉村昭の大のファンの友人によると,吉村昭が 『冬の鷹』 を書いていた頃,山のような資料が持ち込まれていたと言うんだよ。友人が,実際にその現場を見たのかどうかは聞いてないけど。


しかし,もしも 『冬の鷹』 で菊池寛の著作に一言の言及もされていないとすれば,結果において菊池寛に礼を失したことになるのではありませんかね。


吉村昭が大作家であることは,完全に認めるよ。吉村にも言いたいことがあると思うんだけど,今やこの世にない吉村に確かめるすべはないよ。


ちなみに,吉村昭は,1973年に 「菊池寛賞」 を受賞しています。


二,三付け加えておきたいことがあるよ。


ブログ 『吉村昭,菊池寛,永井荷風』 に書いただけど,永井荷風は,菊池寛のことをメチャメチャに貶すんだ。だけど,私は,そうは思わないよ。例えば,『恩讐の彼方に』 は素晴らしいじゃありませんか。逆に,少なくとも個人的には,日記,エッセイを除くと,荷風の世界には近づきたくないね。



以下,ウェブから,二三の記事を引用するよ。

菊池寛は,太平洋戦争中,文芸銃後運動を発案し,翼賛運動の一翼を担ったために,戦後は公職追放の憂き目に遭い,1948年(昭和23年)に失意のうちに没した。享年59。


「我々は誰にしても戦争に反対だ。然し,いざ戦争になってしまえば協力して勝利を願うのは,当然の国民の感情だろう」 とは戦後の本人の弁である。


将棋にいれこんでいた菊池寛は,「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」 という詞を書き残しているそうだよ。


付け加えておきたいんだけれど,菊池寛は,1923年(大正12年)に私費で雑誌『文藝春秋』を創刊し,日本文藝家協会を設立。芥川賞,直木賞の設立者でもあるよ。広い範囲で,貢献大だね。






未完

by yojiarata | 2015-03-03 18:28
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