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第七話  兎 と 亀 の 話





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「全集 6」
兎と亀との話
317-318 ページ

『太陽』雑誌の新年号へ「兎に関する民俗と伝説」という長編を書いたが,ここには『太陽』に出さなんだことばかりを書く。第一に,小学児童が熟(よく)知った亀と兎の競争の話について述べよう。これは『イソップ物語』に出たものだ。イソップはギリシャの人で,耶蘇紀元前五六〇年ごろ生きておった名高い教訓家だが,今(いま)世に伝われる『イソップ物語』は決してそんな古いものでなく,ずっと後の人がイソップに托(ことづ)けて書き集めたものという。しかし,何に致せ西洋話本(はなしほん)の親方として,その名声を争うものはない。

「亀と兎の競争の話」は,この物語に出た諸話の中もっとも名高い物で,根気よく辛抱して励めば非常の困難をも凌いで事業を成就し得ることを示したものだから,気力ある若い人々が世間へ出る始めに,この話を額の立物(たてもの)と戴き,真向(まっこう)に保持して進撃すべしと西洋でいう。この話に種々の異態がある。しかし,普通英国等で持囃(もてはや)すのはこうである。


いわく,兎が亀に会うて自分の足疾(はや)きに誇り亀の歩み遅きを嘲ると,亀対(こた)えて然らば汝と競争(かけっこ)するとして,里程は五里,賭は五ポンド(五十円)と定めよう,さてそこに聞いておる狐を審判役としようと言うと,兎が承知した。よって双方走り出したが,兎は固(もと)より啑疾(あしばや)だから,亀が見えぬほど遠く駆け抜けた,ところで少し疲れたらしい。よって路傍の羊歯叢中(しだくさむら)に座ってうとうとと眠る。おのれの耳が長いから,亀がゴトゴト通る音を聞くが最期,たちまち跳(は)ね起きてまた走り抜けやるつもりだった。しかるに,あまり侮り過ぎて眠り過ぎた間に,亀は遅いものの一心不乱に歩み来たって到頭目的点へ着いたので,兎の眼が覚めた時はすでに負けおった。


欧州外にもこれに似た話があるが,件(くだん) の話と異(かわ)り,辛抱の力で遅い奴が疾い奴に勝ったのではなくて,もっぱら智力の働きで勝ったとしておる。サー・アレキサンダー・ブルドンがフィジー島民から聴き取った話にいわく,鶴と蟹とがどちらが捷いと相論(そうろん)した。蟹が言うには,何と鶴が言っても己が捷い,すなわち己が浜を伝うて向こうに達するあいだに,鶴は今相論しおる場所から真直に飛んで向うへやっと達し得る,と言った。鶴,然らば競争を試(や)って見ようと言うと,蟹が応じたので,二人一斉に一二三と言い畢って,鶴が一目散に飛び出す。蟹は徐(しず)かに穴に入って己(おれ)の眷属が到処(どこまでも)充満しおるから,鶴はそれを己一人と惟うて騙されることと笑いおる。鶴が飛んでおるうち,どこへ往っても蟹の穴があるのおを見て,さては己より前に蟹がそこへ来てはや穴を掘って住んでいやがるのかと不審して,そこへ下りて耳を穴に当てて聴いて見ると,ブツブツと蟹の沫吹く音がする。また飛び上がって少し前へ往くと,また蟹の穴が見えるのでまた下りて聴くと沫の音する。はや蟹がここまで来て穴を掘っていると思うて,何度も何度も飛んでは聴き聴いてはまた飛び上がり,あまり疲れてついに海に落ちて鶴は死んで了(しま)った。



筆者追記

熊楠が冒頭に書いている長編 「兎に関する民俗と伝説」 は,「全集 1」 『十二支考』 の 65-81 ページに掲載されています。




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by yojiarata | 2014-07-20 08:36
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