人気ブログランキング | 話題のタグを見る

南方熊楠  巻の九  イギリス に 在って イギリス と闘う



ご隠居さん 「闘う」 とタイトルに書いてあるんだけど,熊楠は物理的に,喧嘩したの?


***



その通りだよ。喧嘩速い,癇癪持ちで変人の熊楠先生の 「武勇伝」 が面白,おかしく伝えられているよ。だけど,話半分としておいた方が良いよ。


南方熊楠全集7 書簡Ⅰ(昭和46年8月9日,初版)
18-19ページ



大和魂



・・・・・ 小生大英博物館に或るうち,独人膠州湾をとりしことあり。東洋人の気焔すこぶる昂(あが)らず。その時館内にて小生を軽侮せるものありしを,小生五百人ばかり読書する中において烈しくその鼻を打ちしことあり。それがため小生は館内出入を禁ぜられしが,学問もっとも惜しむべき者なりとて,小生は二ヵ月ばかりの後また参観せり。当時このこと『タイムス』その外に出て,日本人を悪(にく)むもの,畏(おそ)るるもの,打たれたものは自業自得というもの,その説さまざまなりし。小生はそのころ日本人がわずかに清国に勝ちしのみで,概して洋人より劣等視せらるるを遺憾に思い,議論文章に動作に,しばしば洋人と闘って打ち勝てり。




オランダ人学者との論争とその結末




オランダ第一の支那学者グスタヴ・シュレッゲルと『正字通』の落斯馬という獣の何たるを論じてより,見苦しき国民攻撃となり,ついに降参せしめて謝状をとり今も所持せり。(これは謝状を出さずば双方の論文を公開してシュレッゲルの拙劣を公示すべしといいやりしなり。)落斯馬(ロスマ)と申すは Ros Mar (ロス マール)「もともとルビです!」(馬 海の)というノルウェー語の支那訳なり。十七世紀に支那にありし Verbiest (南懐仁という支那名をつけし天守僧なり)の『坤輿図説』という書に始めて出づ。」これを,その文を倉皇読んで Nar Whal(ナル ウワル)(死白の 鯨)(一角魚(ウニコール))とシュレッゲル言いしなり。これより先ライデンより出す『人類学雑誌』(Archiv für Ethnologie )にて,シュレッゲル毎々小生がロンドンにて出す論文に蛇足の評を加うるを小生面白からず思いおりしゆえ,右の落斯馬の解の誤りを正しやりしなり。しかるに,わざと不服を唱えていろいろの難題を持ち出だせしを小生ことごとく解しやりしなり。

さていわく,汝シュレッゲルが毎度秘書らしく名を蔵(かく)して引用する(実は日本ではありふれたる書『和漢三才図絵』に,オランダ人は小便する時片足を挙げてすること犬のごとし,とある。むかしギリシアに,座敷が綺麗で唾をはく所なしとて主人の顔に唾吐きしものあり。主人これを咎むると,汝の驕傲(きょうごう)を懲らすといえり。その時主人,汝みずからそのわれよりも驕傲なるに気づかざるといえり。汝は日本人に向かって議論を吹きかけながら,負けかかりたりとて勝つ者に無礼よばわるをする。実は片足挙げて小便する犬同様の人間だけありて(欧米人は股引(ももひき)をゆえ片足を開かねば小便できず,このところ犬に似たり),自分で自分の無礼を気づかざるものなり,と。いわゆる人を気死せしめるやり方で,ずいぶん残念ながらも謝状を出したことと思う。


また前述ジキンスのすすめにより帰朝後『方丈記』を共訳せり。『皇立亜細亜協会雑誌(ロヤル・アジアチック・ソサイエチー)』(一九〇五年四月)に出す。従来日本人と英人との合作は必ず英人を先に名のるを常とせるを,小生のちから,居多なれば,小生の名を前に出さしめ A Japanese Thireau of the 12th Century, by クマグス・ミナカタおよび F.Victor Dickins と掲げしめたり。しかるに英人の根性太き,後年グラスゴウのゴワン会社の万国名著文庫にこの 『方丈記』 を収め出板するに及び,誰がしたものか,ジキンスの名のみを存し小生の名を削れり。) しかるに小生かねて万一に備うるため,本文中ちょっと目につかぬ所に小生がこの訳の主要なる作者たることを明記しておきたるを,果たしてちょっとちょっと気づかずそのまま出したゆえ小生の原訳たることが少しも損ぜられずにおる。




方丈記の英語訳



前年遠州に 『方丈記』 専門の学者あり。その異本写本はもとより,いかなる断紙でも 『方丈記』 に関するものはみな集めたり。この人小生に書をおくりて件(くだん)の 『亜細亜(アジア)協会雑誌』 に出でたる 『方丈記』 は夏目漱石の訳と聞くが,果たして小生らの訳なりやと問わる。よって小生とジキンスの訳たる由を明答し,万国袖珍文庫本の寸法から出板年記,出版会社の名を答えおきぬ。またこの人の手より出でしにや,『日本及日本人』 に漱石の伝を書いて,その訳するところの 『方丈記』 はロンドンの『亜細亜協会雑誌』に出づ,とありし。大正十一年小生上京中,政教社の三田村鳶魚(えんぎょ)氏来訪されしおり,原物を示して正誤せしめたり。大毎社へ聞き合わせしに,漱石の訳本は未刊にて,氏死すとき筐底に留めありし,と。小生は決して漱石氏が生前かかる法螺を吹きたりとは思わざるも,わが邦人が今少しく海外における邦人の動作に注意されたきことなり。



再び喧嘩について



(上村蓊 南方先生を偲ぶ座談会)
笠井清 『人物叢書 南方熊楠』(日本歴史学会編集)(吉川弘文館,昭和57年12月10日 5版発行)
「六 在英時代」 

喧嘩したのは二度ほどで,その一ペンは相手は大英博物館にいる学位をもった役人で,若い学士タムソンであった。なんでもサンスクリットに関する問題とかで,その時にもやっぱり南方先生に見事にやっつけられ,ぐうの音も出なかったという。ところがこの時のことをいつまでも根にもって,何かにつけて意地悪な御殿女中がいぢめのような,それはもう我慢のならぬ仕打ちをして先生をいぢめつけはじめた。で,とうとう先生は,「この野郎,生かしちゃ置けぬ」とばかり,酒の気も手伝い,いきなり相手の鼻に嚙(か)みついて,いやという程高い鼻をいためつけてやったという。日本でも昔はその様な奴は伝家の一刀をもって成敗したものだ。


・・・・・

二回目の追放後,小説家アーサー = モリソン が,熊楠の学才を惜しむあまり,同館の評議員である英皇太子(後のエドワード七世)・カンタベリー大僧正・ロンドン市長の三人に歎訴状を出し,また東洋部長ダグラスも百方尽力してくれて,復館することが出来たが,その条件として,熊楠はダグラスの部屋で読書し,他の閲覧者と同列させないということであったので(これはまた暴行事件を生じない予防策であったろう),彼は「ダグラス男監視の下に読書せしむるは,発狂のおそれあるものと見てのこと」と不快に思い,ついにダグラスに一書を呈して大英博物館から永久に去って行ったという。




スアレス,かみつき認め謝罪 サッカーW杯ブラジル大会


2014年7月2日

試合中にイタリア代表DFキエリーニにかみつき,国際サッカー連盟(FIFA)から 9 試合出場停止と4カ月間のサッカー活動全面禁止などの処分を受けたウルグアイ代表のFWスアレスが6月30日,ツイッターで自らの行為を認めて謝罪した。

・・・・・

スアレスは過去にもクラブで2度,かみつき行為による処分を受けた。(時事)



*



なお,喧嘩の件は,熊楠自身の手によって柳田國男宛の書簡に次のように書かれているよ。

柳田國男宛書簡
南方熊楠全集 第八巻 書簡Ⅲ
昭和四十七年四月二〇日 初版発行

437-438 ページ

大正3年6月


小生在英のころ,アーサー・モリソンという人を交わり厚し。小生大英博物館で大喧嘩し抛り出されたとき,即日,南ケンシントンへ世話して技手にしてくれた人なり。小生,毎々動物園へつれゆき動物の講釈するに,その礼なりとて,サベージクラブで饗応さる。往って見ると,昨日小生座りし処に,プリンス・オヴ・ウェールス(今より見れば前皇エドワード七世)座し,当日このクラブへ招きし北氷洋探検家ナンセンに頼み,小生の眼前なる柱に小刀でその名をきりこませたりとて示さる。小生何のことやら分らず,モリソンごときつまらぬものが英皇と等しくこのクラブ員たること合点行かざりし。しかるに,一昨々年新板の 『大英類典』 を見るに,従来の例を破り,まだ死なぬ人もよほど高名の人は伝を出すことにしあり。その内に,モリソン伝短くながらあり。よほど有名な小説家と見えたり。

小生と三年ばかり親交し,小生毎々その宅へ歌麿の浮世絵などの詞書をよみやりに行きし。しかるに,この人一語も自分のことをいわず。ただわれはもと八百屋とかの丁稚なりし,外国語は一つ知らず,詩も作り得ず,算術だけは汝にまけずと言われしのみなり。小生誰にも敬語などを用いぬ男なるが,ことにこの人の服装まるで商家の番頭ごときゆえ,一切平凡扱いにせし。只今『大英類典』に死なぬうちにその伝あるを見て,始めてその人非凡と知れり。(『金椏篇』 のフレザーすら,かく有名なるに,その書は多く引かれながら,その伝は見えず。)

この人,平生小生の英文を見,ロンドンにある外人中,貴公ごとく苦辛して英文を書くものはあるまじ(これは小生一文作るに,必ず字書をしばしば見,なるべく同意味の語に異文字を多くつかうなり。かくせざれば長文は人が見あくなり),今十年も修燎せば大文章家とあるべし,マクス・ミュラルなど学問はえらいが,英文は軽忽にかくゆえ,熊楠の文ほど練れおらずとて,その例を示されし長文の状,今も保存す。



*



大英博物館での一連の出来事の遠因となった人種問題について,熊楠はまた,明治44年10月の柳田宛の書簡に次のように書いているよ。

213ページ


 ・・・・・ 欧人の足長くキリギリスのごとし。日本人は,足短し。これらのことはおのおの長短あり。みずから我執して他を醜とするは公論にあらず。南ケンシントン美術館に,むかしの大名の乗り物に幽艶きわまれる三十歳前後ぼ宮女の美婦が懐剣を持ち,紫紅澯爛たる絹衣をきて正座せる像あり。これらはさすがの欧人も感称措く能わざるところなり。要は,日本流に座し,日本流の装いせば日本人の方観美を極め,欧人欧装して欧行すれば欧人の方美なりと知るべし。







つづく

by yojiarata | 2014-07-20 13:03
<< 南方熊楠  巻の十  日本 の 教育 第Ⅱ部  南方熊楠 著作・抜読み >>