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深沢七郎 を 読む



ご隠居さん 深沢七郎に興味をもっておられるのですか。


***



 学生時代から,ズッーとね。

なぜかだって?

だって面白いじゃありませんか。そもそも発想がユニークですよ。突拍子もないことを突然おっしゃるからね。五代目古今亭志ん生 に似ているんだ。私に言わせればね。


中央公論(1960年12月号)に書いた「三つの浪漫的小品より ― その(一)」がもとで,中央公論社の社長宅で不幸な事件が起き,深沢七郎は,3年間の放浪生活に入ったんだ。その時の体験を綴って文章が,たくさん残されているよ。

私は,

深沢七郎選集 1,2,3
大和書房(昭和四十三年四月一日 初版発行)

を大切に保管しています。他にも,七郎さんの著書を何冊も持っているよ。


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深沢七郎

埼玉県菖蒲町のラブ・ミー農場にて 1967年12月13日撮影
深沢七郎 『庶民列伝』 (新潮社,1970年6月5日,四刷)




エルヴィス・プレスリー と ベートーベン



深沢七郎が,ベートーベンについて,こんなことを言っていたのを今でも覚えているよ。私が,七郎さんに興味をもった理由の一つです。


ベートーベンの音楽には芸術家の思想があるなんていうけれど,

ミュージックに深刻な思想など盛り込まれたら,楽しくないはずだ



わき道にそれるようだけど,私のベートーベンとの付き合いは,年齢と共に大きく変化してきたよ。

ピアノ・ソナタを例にとると,若い頃 聴いた「ワルトシュタイン」や「熱情」が年齢とともに,うっとうしくなったあと,「作品110」,「作品111」のフーガの響きに魅了されてよく聴きました。だけど,今や,それも,聴いていると疲れてしまうんだ。それにしても,ベートーベンのエネルギーは大変なものだね。もっとも,晩年の作品といっても,彼氏は,まだ51-52歳だけどね。

エドウィン・フィッシャーが,私が生まれた頃にピアノで録音した「バッハの平均律クラビア曲集」など,無色な音を楽しんでいます。イングリッド・ヘブラーが1980年にスイスで録音した「フランス組曲」もいいね。聴いていても疲れません。夜,聴いているといつの間にか,眠ってしまうよ。

この点は,エルヴィス・プレスリーを,師とも,神とも仰いだ七郎さんとは,全く違うけどね。私は,エルヴィス・プレスリーの唄にはどうしてもなじめません。聴いていると,気分が落ち着かないんだ。歳のせいじゃなくて,昔から。

私は,モダン・ジャズは,曲にもよるけど好きだね。そして,流行歌も,浪花節も ・・・・・ 


君は,どう?


*



ここから後,深沢七郎自身の文章のなかから,引用するんだけど,その場合, ・・・・・ 】 のように,示すことにするよ。


深沢七郎が,エルヴィス・プレスリーでなければ生きていけない高校生と,クラシック派のB大生のやりとりを書いているよ。



この店には,エルヴィス・プレスリーを愛する洋介などの高校生,エルヴィスを忌み嫌うクラシック派のB大生が出入りしている。

たばこの煙が霞のように籠っているからなっているジャズの音も外へ逃げないような気がして,(やっぱり,この店はいいナ)と思いながら洋介はいつもの隅の場所に腰をかけていた。 


ドアが開いて,シンフォニーの好きな,あのB大の学生が二人連れで入って来た。連れの一人が,

「プレスリーの歌か,チェッ」

と舌打ちした。

「チャイコフスキーの“悲愴”もありますよ」

と,連れの友達に言うのに他人のような言い方で言った。

「ピアノソロもありますよ。君のおかあさまがお弾きになるブラームスのピアノソナタも」

そう言いながらレコードの所へ行った。こっちへむいて連れの学生に,

「プレスリーって,イヤな顔をしていますねェ,甘ったるい」

そう言いながらプレスリーの唄をとめてピアノソロをかけた。

彼らはベートーベンのような,怒った,狂人のような顔がいいと思っているらしい。鳴っているピアノソロはわけのわからない曲である。




学生の頃,友達がどこかで聞きこんできたこんなことを教えてくれたよ。

ベートーベンは大変な癇癪持ちで,耳も不自由だったんだけど,あるとき,自分が毛嫌いする男が部屋に入ってきたのを雰囲気で察知し,なにか声を掛けられるや,いなや,怒りとともに,猛烈な勢いで後ろをふりむいたんだ。それが,あまりの勢いだったので,ベートーベンは椅子からもんどりうって転がり落ちたんだそうだよ。 



マンボも好きだがエルヴィス・プレスリーの唄は手や足がこきざみにゆれて,身体中の力が出きってしまうのだ。(次は,エルヴィスのレコードをかけてくれればいい)と洋介は思った。そう思っているとレコードは途中で止ってシンフォニーの「新世界」に変わってしまった。

(あいつは,しょうがねえ奴だ)

と洋介は舌打ちをした。向こうの隅に腰かけているあのB大の学生の注文でシンフォニーをかけたらしい。


シンフォニーなんて(ガシャガシャな騒音だぞ)と言いたくなった。思わせたっぷりのように出てくる音,待ちどうしい間,出て来たところが訳のわからないふし,たまに,ちょっと,いい旋律が出てきてもすぐムズカシイふしになってしまうシンフォニーを,上品そうに,待ちどおしく聞いている奴等は,勉強でもするつもりでミュージックを聞いているらしい。

音楽には芸術家の思想があるなんて言うけれど,ミュージックに深刻な思想など盛り込まれたら,楽しくないはずだ。芸術家の思想なんて狂人のような,苦しそうな感情で,そんなミュージックは嫌いだった。


この作品には,エルヴィス・プレスリーの曲名が次々に登場するよ。

「テディ・ベア」,「ロンサム・カウボーイ」,「ラ・コンパルサ」,「ラ・コンパルサ」,「デキシーランド・ロック」,「ベビー・アイ・ドント・ケア」,「マネ・ハネー」,「ハウンド・ドッグ」,「トゥー・マッチ」,「ブルー・ムーンがまた輝けば」,「ブルー・ムーン」,「思い出の指輪」,「レット・ミー」,「チャンス到来」,「ドント」,「ヤング・ドリーム」,「ゴット・ア・ロット・オブ・リビング」,「アイ・ニード・ユア・ラブ・トゥナイト」 


思う存分エルヴィスの唄を聞くと洋介も「死んでもいい」と思った。



ここで登場する高校生たちは,深沢七郎の代弁者だと思っていい,と私は思います。


深沢七郎選集2 257-296 「東京のプリンスたち」
大和書房(昭和四十三年四月一日 初版発行)



柞葉の母



 ― 万葉集の中には「ははそばの母」という母の枕詞が出てくるが,母親というものはいつもそばにいるのだから,こんな言葉が出来たのだと思う。「ちちの実の父」という父の枕詞は,父親というものは稼いだりして食物を支度するから,こんな言葉が出来たのだと思う。昔は父親は木に登って木の実をとってきたのだね。 ―


こんなふうに面白く母に万葉集の説明をしたことを覚えています。私が二十歳ぐらいの時だったと思う。


私は十九年に疎開して母が死ぬまで石和にいた。死んだのは二十四年の秋である。母の身体がもう長いことはないと気づいたのは二十一年頃からだと覚えています。

その頃から私は丸尾長顕先生に文学の手ほどきをしていただいていた。鎌倉に丸尾先生が住んでいて,私が鎌倉に行くときなどは,たった一日でも「早く帰って来い」と,くり返して何回も云われたものでした。夜十一時半頃帰って来たら「汽車が事故でもあったのか」と仏壇に線香などをあげて待っていて,私は大きな,いい年をした子供と同じだった。よく丸尾先生から手紙をいただいたので母も一緒に読んでいました。

母は私が小説を書いたりすることに大反対だった。私が若いときから胸部の病気をして,完全な健康体になっていなかったので,ペンなどを持って,肩の張るようなことをすることに母は怖れを抱いていたのである。

丸尾先生は「あなたは作家になりなさい」と,どの手紙にも書いてあって,母はそれを読んで「ひどいことをすすめる先生だ」というような口ぶりだったが,時々,新聞の連載小説など気がついたように読むときがあっても「こんなものを毎日のせる人は,みんな骨と皮ばかりのような顔をしている人だろう」とよく云ったりしたものである。

・・・・・

私の母が死んで,形見わけの時だった。兄弟は嫁達,親戚の人達が,「七郎さんにまかせよう」と云い出したのである。私も嫌なことになったとおもったが,「私の考えることは母が考えることと同じであるから」とみんなが云うのである。そう云われてみればそんなふうにも思えるのである。

それで母の気持ちになって私が思うままにわけてしまった。誰もが喜んでくれて終わったので私は気持ちがよかった。みんな処理した後で気がついたことは,母が誇り高い女であったことだった。春頃から,安物らしい物は手伝いに来てくれた人たちにやってしまったり,捨てたりしていたのでつまらないものは一つもなかった。だから私は小説などを書いたりしても,焼いたり,破いたりすることが好きになった。

・・・・・

私は絹の胴巻を札入れにしていたのをいたのでそれでよいことにした。ほかにギターのふとんがあった。コゲ茶の大つぶのチリメンで古風な布で作ってもらったのがあった。それだけで私は面影を偲ぶに充分だった。

タンスもみんな家から持って行ってしまった後だった。障子のガラスが一枚だけ新しいのを見ていて私はふっと淋しくなった。母の亡骸がこの家から店の方へ運ばれるときに,亡骸をのせた板がこわしていった障子のガラスの跡である。そのガラスの壊れたとき,私は,母が家を出て行きながら私の頭をかーんと一つ殴って出て行ったような気がしたのである。

・・・・・

お曼陀羅と書いてある白衣の半羽織を,死んだら着せてくれと云って,タンスの引き出しに丁寧にたたんでおいた。

戒名は,慈善院妙行日里信女。私は「おっかさん」と呼んでいた。父は母より十五年も前に死んで,戒名は,善行院法徳日隣信士。父母とも戒名のような人だったとは思わない。二人とも呑気に一生をすごしたことを私はよく知っています。

母は生前,二階で私がギターを弾いていると階下で音色をきいて,その日,その日の私の健康状態を云い当てていたそうです。

・・・・・

こんなことを書くのは,なんだか恥ずかしいけど,楢山節考で,山へ行ったおりんがものも云わず前へ ゝ と手を振るところはあの時のおっかさんと同じだ。

あの小説がベストセラーになって,親しい人から,

「おっかさんが生きていたら」

とよく云われた。ボクはそのたびにソッポを向いてしまうのだ。そうして,わけのわからない返事をしてしまうのだ。

この一番憎らしい言葉を,どうして,みんな,ボクに云うのだろう。どうしてもできないことを,ボクにさせようと苦しめるのだ。私は,云われるたびに,その人達を残酷な人だと思う。


深沢七郎選集2 75-80 柞葉の母
大和書房(昭和四十三年四月一日 初版発行)



クラーク博士と北海道大学


七郎さんは,北海道を放浪していた時,北大近くに住む O氏を訪ねたんだ。

O氏は不在で,教え子だという学生のような紳士のようなサラリーマンのような青年と珍妙な会話を交わしている様子が書かれているよ。


私は本当の名を告げて,

「ちょっと,お逢いしたいのですが」

と椅子に腰をおろした。

・・・・・

「北大の中はもうご覧になったでしょう」

と私は言われて

「まだ,この辺に来たのは初めてです」

とこたえた。



O氏の教え子の青年・サラリーマンが説明するクラーク博士の話をきいた七郎さんは,こんなことを言うんだ。


「ツマラナイことを言ったものですね,クラーク博士は,ココロザシ 大ナレ なんて,そんなことを言う人は悪魔のような人じゃないですか,普通の社会人になれというならいいけど,それじゃァ,全世界の青年がみんな偉くなれと押し売りみたいじゃァないですか。そんな,ホカの人を押しのけて,満員電車に乗り込むようなことを」

と言うと,その青年のような紳士のようなO氏の弟子は顔の色がさーっと変わった。

「そんなことはないですよ。クラーク博士の言われたことは」

そう言って,ボーイズ,ナントカカントカと外国語になって,それから,

「少年よ,大志を抱けというのは,訳が,クラーク先生の言われたことと,少しちがうのではないかと私は思いますよ」

と言うのである。(そうか,それなら悪口を言ったってツマラナイ)と私は思った。私はそんなことより,このヒトが怒ったような顔つきをしているので心細くなった。

そんなことはどちらでもいいので,せっかく案内してくれたのに感情を害してしまったようで,これは失礼なことを言ってしまったのではないかと気がついた。(早くなんとか,気分をよくしなければ)と途方にくれた。何でもいいから,うまく言えばいいと思ったので,少しまをおいて,

「いや,偉い人ですね,クラーク博士は。あのクラーク会館もいいですねえ,演奏会なんかもあるそうですね」

と私は大きい声で言った。すぐに相手は喜んでくれて,

「偉い方ですよ,クラーク博士は北海道を去る時に,見送って行った弟子たちが,・・・・・ 泣いて別れを惜しんだ時,クラーク先生は馬から降りて “少年よ大志を抱け” とおっしゃって」


*



それを聞いているうちに私は大阪城を追い出された片桐且元が長柄堤をトボトボ馬で去って行く光景を思い浮かべていた。若い木村長門守が馬を走らせて「待って下さい,もしも,関東方とお手切れになったあとは真田幸村どのに」と泣いて教える光景を思い浮かべていた。

そうして,やっぱり,クラーク博士も (追い出されたらしい)と思ってしまった。

「追い出されたのでしょう,クラーク博士も」

ときいた。

「いや,そんなことはありません」

そう言って,その青年紳士はそれで話をやめてしまった。(変だな,クラーク博士も,泣いて別れるぐらいなら北海道から去って行かなければよいのに,きっと,去って行かなければならないような事情があったにちがいない)と思った。

「片桐且元が,大阪城を追い出されたのと同じでしょう?クラーク博士は」

と言ったが,

「・・・・・・・・・・」

青年紳士は黙っているのだ。急にむッつりされてしまったのはキモチが悪い。(どうもいけないナ)と思った。菊水西町では同宿の誰とでも面白く話し合うのに,こういう所へ来ると(ダメだナ)と私はあきらめてしまった。


放浪の手記  深沢七郎選集1 143-165 
大和書房(昭和四十三年四月一日 初版発行)



***


深沢七郎(ふかざわ しちろう)

山梨県東八代郡石和町(現笛吹市)生まれ。旧制日川中学校(現山梨県立日川高等学校)卒業。中学の頃からギターに熱中して,ギター奏者になり,何度も演奏会を開いています。

1956年,姨捨山をテーマにした 『楢山節考』 によって,第1回・中央公論新人賞を受賞したんだ。物凄くも,恐ろしい作品だよ。最近の芥川賞など,呆れるほどつまらない作品が多いと私は感じています。 『楢山節考』 の後も,七郎さんは,『笛吹川』 (1958)など素晴らしい作品を残しているんだけど,選考委員会では,話題にもならなかったようだね。何故かね。不思議だね。


1914年(大正3年)1月29日 -1987年(昭和62年)8月18日)
享年 73



おわり

by yojiarata | 2014-05-18 22:35
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