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野球少年  正岡子規の巻



春一番も吹いたし,桜の季節にもなったし,春の選抜真っ只中だし,プロ野球が始まったし,ご隠居さん ご気分はいかがですか。

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私は,中学生以来の正真正銘の野球少年です。岡山市は昭和20年の6月,ただ一回の空襲で町が無くなり,母親の実家に居候を始めたのが国民学校六年生。毎日朝5時に家を出て,田舎の道を一里歩いて,新しく入った中学校に到着,集まった仲間と野球を始めるんだ。

空襲で校舎が焼け,グランドはやけに広く,ワーワー言いながら,布で作ったボールと竹のバットで楽しんだものです。当時の我らのあこがれは,慶応ボーイの美男子・別当(べっとう)薫。素晴らしい選手だったね。大変な美人の婦人(ミス神戸) との結婚式など,誰かが買ってきたタブロイド紙(昭和20年代の初めのことだけど既に存在したよ)を皆で読んだよ。その別当も途中で怪我で苦しんだけど。

大阪タイガース(1948-1949),2リーグ分裂,毎日オリオンズ(1950-1957)。1978年 野球殿堂(日本)入り。

別当薫(1920-1999,心不全のため死去) 享年78。 


スポーツ選手は,やはり怪我だね。日本で実績を残してアメリカに渡った選手のなかで,投手だけとっても,ほとんど通用しない場合が多いでしょう。黒田博樹は,今の所は順調のようだね。今シーズンの開幕投手のはずだったダルビッシュが怪我でDL入りだそうだし。岩隈久志も怪我でシーズン開幕に間に合わないらしいよ。残念だよね。

例外中の例外は野茂秀雄投手だね。MLBの両リーグでノーヒット・ノーランを達成するなど,大変な実績を残したよね。やはり,元々体が丈夫て,しかも,いつも慎重にトレーニングしているんだろうね。

田中将大も,中4日のローテーション,移動距離の長さなど,心配の種は尽きないね。怪我しないように,活躍してほしいね。



神田順治 『子規とベースボール』 (ベースボール・マガジン社,1992)


今日は,熱烈な野球少年だった正岡子規のことを,これまた熱烈な野球少年・神田順治が詳細に追いかけた著作を紹介します。

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子規といえば,だれしも,学校で教わった

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

の句を思い出すよね。

野球に対する数々の熱烈な思いを達成しようとした道半ば,子規は結核に侵され,脊髄カリエスまで病気がすすみ,若くしてこの世を去ります。

当時,結核は治療薬のない不治の病で,多くの人が命を落としたよ。その後,ストマイなどの導入によって事態は改善したんだけれど,今でも,恐ろしい病であることに変わりはなく,日本では,年間,2000人もの人が結核で亡くなっています。

正岡子規  1867年(慶應三年)-1902年(明治二十五年)  享年34。


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ベースボールの伝来は明治十四,十五年頃で,鉄道局の技師・平岡熈(ひろし)が米国より持ち帰って新橋鉄道局で初めて試みたんだそうだよ。
『松蘿玉液(しょうらぎょくえき)』 44 ページ


神田さんは,

「子規は,明治二十年前後の一高野球部の上代史に名をとどめた名選手なのである。子規がベースボールを知ったのは,」 と書いたのに続いて,

明治十六年,虎ノ門の工部大学にベースボール倶楽部が組織され,俳人正岡子規は工部大学の名投手として其の名を謳われた。(横井春野 『日本野球戦史』 より)

と書いておられます。

明治十七年,大学予備門(のちに第一高等中学校と改名)に入学してからは,部屋の中でもベースボールを練習したというエピソードが残されているんだそうだ。

そういえば,王貞治さんが一本足打法を荒川博コーチの指導で練習したことは君もよく知っていると思うけど,王さんは部屋の中でも毎晩練習していたそうだよ。畳が何枚あっても,足りなかったとどこかで読んだ記憶があるよ。

神田さんは,さらに続けて,「子規は,投手も捕手もやったということから,左利きのキャッチャーであったし,また左腕投手(サウスポー)であったから,カーブを開発するに際しては,イン・ドロップの投法は子規が考案したものであるとも考えられる。」と書いておられます。

ベースボールを 「野球」 と 翻案したのは,子規のベースボールの志を継承した中馬庚 (ちゅうまんかなえ) だそうだよ。

こんなことも書いてあるよ。

第一高等中学校の在学中に,寄宿舎の学生が自分で題を選んで「演説」の会を開いたんだ。

「菓子税減少論  相原君」

「芋の肥料  土居君」

などと並んで,

「ベース,ボール玄論  正岡君」

とある。原論ではなく,玄論とは,力が入っているね。

子規は,今日 余の用ゆる号左の如し」 と二十七の雅号を列挙しているよ。

「常規凡夫 𠀋鬼 子規 ・・・・・ 情鬼凡夫 野球

つまり,中馬庚が 一高の尞で 「野球」 と口走る 四年も前に,子規は 「野球」 という雅号をつけていたことになるね。



明治二十九年の「ベースボール解説」(正岡子規)



子規が本格的なベースボール論を書き綴ったのは,明治二十九年(一八九六年)四月二十一日から同十二月十二月三十一日まで,新聞「日本」に継続掲載された随筆


 『 松蘿玉液 』 (しょうらぎょくえき)


の七月十九日,同二十三日,同二十七日付の一文だったというよ。署名は「升(のぼる)」。



次に,そのごく一部だけだけど,引用するよ。本当は「全部」と言いたいところなんだけど,残念ながら,長すぎるのでね。実に面白いから,神田順治 『子規とベースボール』 を読んでちょうだい。絶版だけど,手頃な値段でネットで手に入るよ。


〇 ベースボール  に至りてはこれを行ふ者極めて少くこれを知るひとの区域も甚(はなは)だ狭かりしが近時第一高等学校を在横浜米人との間に仕合(マッチ)ありしより以来ベースボールといふ語は端(はし)なく世人の耳に入りたり。


ベースボール  素(も)と亜米利加(アメリカ)合衆国の国技とも称すべきものにしてその遊戯の国民一般に賞翫(しょうがん)せらるるはあたかも我邦の相撲(すもう),西班牙(スペイン)の闘牛抔(など)にも類せりとか聞きぬ。 ・・・・・

されば高等学校がベースボールにおける経歴は今日に至るまで十四,五年を費やせりといえどもややその完備せるは廿三,四年以後なりとおぼし。これまでは真の遊び半分といふ有様なりしがこの時よりやや真面目な技術となり技術の上に進歩と整頓とを現せり。少なくとも形式の上において整頓し始めたり。即ち攫者(キャッチャー)が面(めん)と小手(こて)(撃剣(げきけん)に用ふる面と小手の如き者)を着けて直球(ヂレクトボール)を攫(つか)み投者(ピッチャー)が正投(ピッチ)を学びて今まで九球なりし者を四球(あるいは六球なりしか)に改めたるが如きこれなり。 ・・・・・



〇 ベースボールに要するもの  凡(およ)そ千坪ばかりの平坦なる地面(芝生ならばなほ善し) 皮にて包みたる小球(ぼーる)(直径二寸ばかりにして中は護謨(ゴム),糸の類にて充実したるもの)投手(ピッチャー)投げたる球を打つべき木の棒(バット)(長さ四尺ばかりにして先の方やや太く手にて持つ処やや細きもの)一尺四方ばかりの荒布にて座布団の如く拵へたる基(ベース)三個 本基(ホームベース)及 投者(ピッチャー)の位置に置くべき鉄板様の物一個づつ,攫者(キャッチャー)の後方に張りて球を遮るべき網(高さ一間半,幅二,三間位)競技者十八人(九人づつ)敵味方に分かるもの)審判者(アムパイア)一人,幹事一人(勝負を記すもの)等なり。 ・・・・・



〇 ベースボールの競技場  図によりて説明すべし。


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明治二十九年の「ベースボール解説」より



〇 ベースボールの勝負  攻者(防御者の敵)は一人づつ本基(ホームベース)(い)より発して各基(ベース)(ろ,は,に)を通過し再び本基に帰るを務めとす,かくして帰りたる者を廻了(ホームイン)といふ。ベースボールの勝負は九勝負け終りたる後ち,各組廻了の数の総計を比較し多き方を勝とするなり。 ・・・・・


廻了といふは正方形を一周することなれどもその間には第一基(ベース)第二基第三基等の関門あり各関門には番人(第一基人これを守る第二第三皆然(しか)り)あるを以て容易に通過すること能はざる也。走者(ラナー)(通過しつつある者)或る事情のもとに通過の権利を失ふを除外(アウト)といふ。(普通に殺されるといふ) 審判官除外と呼べば走者(または打者(ストライカー)は直ちに線外に出でて後方の控所に入らざるべからず。除外三人に及べばその半勝負は終わるなり。 ・・・・・



〇 ベースボールの球  ベースボールにはただ一個の球(ボール)あるのみ。しかして球は常に防者の手にあり。この球こそこの遊戯の中心となる者にして球の行く処即ち遊戯の中心なり。球は常に動く故に遊戯の中心も常に動く。されば防者九人の目は瞬も球を離るるを許さず。打者走者も球を見ざるべからず。傍観者もまた球に注目せざれば終にその要領を得ざるべし。 ・・・・・



このあと,

〇 ベースボールの防者

〇 ベースボールの攻者

などと続きます。おもしろいから,全部を通読することを勧めます。

これでわかるように,ベースボールは,複雑で知的なゲームなんだ。使われる用語の日本語版には傑作が多いね。ベースボールは噛めば噛むほど,味があるよ。


ベースボールと女性


神田さんの著書(68ページ)に次のように書かれているよ。

日本球界で最初の監督職に就任したのは,飛田穂州(とびたすいしゅう)(1896-1965)氏である。同氏は,スポーツを人生修行の手段として位置づけ,その場を練習場に求めた。同氏にとって「野球」 は 「野球道」であり,「グラウンド」 は「道場」であった。

神田さんは続いて,129ページに,

飛田氏が,大正八年(1919年)暮れに早稲田野球部監督就任の際,もっとも反対したのが奥さんであったという。そのときの飛田夫妻の会話が,飛田穂州の著書 『熱球三十年』 の中に記載されている。次のようなものだ。

「まだあなたは べースをやるつもり?」

「自分でやるんじゃない。選手の世話をやくんだ」

「やっぱり同じじゃないの。いい年をしてベースでもないでしょう」


いやしくも,飛田重鎮の奥方ともあろう方が,ベースと仰るんだよ。ちょっと,トンチンカンな感じだね。


そういえば,私の母親が,当時は職業野球とよばれていたベースボールのことを,

「いい年のオッサンが,棒を振り回して」

と笑っていたのを思い出すよ。


最近では,テレビに登場する” 美しい ” お姉さまが,野球のことをペラペラ報道しているんだけど,泥にまみれ,腕をすりむき,必死にボールを追ったものだけが知る野球少年の心情というものは理解できていないんじゃないかね。単なるタレントのお姉さまの発言に共感するところは多くないよ。もっとも,女子ソフトボール,女子プロ野球などで活躍している女性選手の迫力を見ていると,野球における女性の存在を認めないわけにはいかないよ。


神田さんとわたし


神田さんは私の体育の先生です。大学に入ったばかりの一年生の体育の授業で,体力測定なるものがありました。800メートル走,鉄棒の懸垂,そして水泳(25メートルプールの往復50メートル)。

私の成績

800メートル走 (一周400メートル),先頭から半周以上離された圧倒的な最下位。

懸垂は,ゼロ回。

神田さんも呆れた様子だったんだけど,おまえは駄目だ,弛んでいるなどと一言も仰らなかったよ。

水泳では,同僚の学生たちを圧倒したんだ。神田さんはニコニコ しながら,君凄いね。泳ぎはどこで覚えたんだとおっしゃるから,

小学校から,高校2年の夏まで,(3年は受験勉強のため,あまり泳がなかったんだ),毎日,毎日,近くの川で泳いでいました。すべて自己流ですが,泳ぎには絶対の自信があります。と答えたんだ。

神田さんは,800メートル走と懸垂のことを一言も触れられなかったのは,嬉しかったね。60年以上も前のことだけど,昨日のことのように覚えているよ。

大学を卒業したあと,自分が教えることを生業とすることになったんだけど,これからという後輩を励ますことの大切さを神田さんから学びました。



神田さんの著書から,子規の句をいくつか引用します。


久方(ひさかた)のアメリカ人(びと)のはじめにし

ベースボールは見れど飽かぬかも



若人のすなる遊びはさはにあれど

ベースボールに如(し)く者はあらじ



打ち揚(あ)ぐるボールは高く雲に入りて

又も落ちくる人の手の中に



今やかの三ツのベースに人満ちて

そぞろに胸の打ち騒ぐかな


正岡子規 「ベースボールの歌九首」より。




神田さんが選ばれた,野球に関する子規の俳句より。


球うける極秘は風の柳かな          明治二十三年作


若草や子供集まりて毬を打つ         明治二十九年作


夏草やベースボールの人遠し         明治三十一年作




神田順治 1915-2005 急性心筋こうそくのため千葉市の病院で死去。享年90。


おしまい

































by yojiarata | 2014-03-30 20:19
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