ご隠居さん 今日は何の話。何だか厳めしい題名だけど。 近年,がんの診断技術の進歩し,がんの治療に大きく貢献しているんだ。だけど,診断が困難な場合が,まだまだあるんだ。これから,その話をします。 まず,年が明ける前の12月8日に書いた がん [巻の一] 癌 と がん の内容を思い出してほしいんだ。 念のために,大事なところをまとめておきます。 上皮から発生する癌に対し,ストローマ(悪性腫瘍に栄養を供給している組織の総称,登山する人のためのベース・キャンプのようなものです),非上皮組織(骨,軟骨,血管,筋肉,神経など)から発生する悪性腫瘍を肉腫とよびます。 人のからだの至るところから悪性腫瘍が発生します。しかし,はっきりといえることがあります。それは,結合組織や支持組織など,体の表面に露出していない ” 内側 ” の組織からも悪性腫瘍は発生するけれど,ほとんどの悪性腫瘍は,体の ” 表面 ” にある上皮組織から発生するという「経験的事実」です。 経験的には,肉腫は癌に比べて発生頻度が圧倒的に低いことが知られています。成人の場合,悪性腫瘍のなかで肉腫の占める割合は10%をはるかに下回ります。しかし,小児に限っていえば,何故か,肉腫は悪性腫瘍全体の15-20%に達します。 骨肉腫は,小児から思春期にかけて発症する肉腫です。20歳を過ぎると骨肉腫が発症することはありません。この事実は人間の成長と関係しています。若い頃は身長を伸ばすために,骨の細胞がどんどん増殖します。この段階で細胞の増殖に何らかの間違いが起こると,骨の細胞が肉腫に変わってしまうことがあるのです。代表的な骨肉腫は膝に発生します。15歳前後の男性に多いという統計データがあります。骨肉腫はまた,診断が非常に難しいがんとして知られています。 私が骨肉腫の悲劇を最初に知ったのは,仕事でアメリカに滞在していた1970年代の始め,エドワード・ケネディー上院議員(故ジョン F.ケネディー大統領の末弟)の長男・テッド・ケネディー・ジュニア(当時12歳)が右足に痛みを訴え,バイオプシーによって骨肉腫と診断された翌日,右足の切断手術を受けたという新聞記事です。ケネディー家をまたも襲った悲劇としてメディアが大々的に報じましたのでよく覚えています。その後,テッド・ケネディー・ジュニアーは骨肉腫が再発することなく,ヘルスケア専門の弁護士として,がんを含め障害に苦しむ人々とための社会的活動を活発に行っています。 骨肉腫の危険領域の年齢の患者の膝が腫れてくるとまず骨肉腫を疑います。ストローマのなかには多数の血管が待ち受けているため,骨肉腫細胞はすぐに血管に入り,血流に乗って転移します。そうなれば,行き先はまず肺です。 自分では気がつかないようなごく軽い骨折を起こしていて,そこが多少腫れている場合,骨肉腫と誤診されることがあります。骨折すると,新しい骨細胞がどんどん作られ,この骨細胞がコラーゲン線維を作り始めます。骨折部位にコラーゲン線維が沈着した状態を仮骨といいます。やがてここにカルシウム(正確には,カルシウムのリン酸塩の一種であるハイドロキシアパタイト)が沈着してきて,骨折が完璧に治癒します。これは正常の場合です。 ところが骨肉腫細胞は,ただコラーゲン線維を作るばかりで,カルシウムは沈着してきません。完全な骨を作る意志がまったくないからです。正常人が骨折した場合には,次々に作られる骨細胞が,折れた骨を元通りに修復しようとする目的意識をもって並んでいます。ところが,骨肉腫の場合には,むやみやたらに,目的もなく自分勝手に細胞を作っているだけです。合目的的である骨折の治癒と,ムチャクチャをやっている骨肉腫の増殖との差とでも考えればよいでしょうか。細胞の並び具合をみて,“ どうも骨折を治す意志がない ” と結論したら骨肉腫と診断すると専門家はおっしゃいます。 バイオプシーはメスで疑わしい組織を切り採る手術です。バイオプシーは,子宮でも,乳房でも,胃でも,腸でも,前立腺でも行われます。バイオプシーは簡単といえば簡単ですが,手術に変わりはないため出血を伴います。このあと引用するアーサー・ヘイリー『最後の診断』(永井淳訳,新潮文庫,1975,209-211ページ)には,骨肉腫の疑いのある患者のバイオプシーの様子が生々しく描かれています。これは疑いもなく大変な手術です。 がん診断の技術が大きく進歩した現在でも,手術に踏み切るか否かの最終的な判断は病理学者に委ねられます。骨の組織を35年も見続けてこられた町並(まちなみ)陸生(りくお)博士(東京大学医学病理学教室)の “宿題講演” を聴くため,私は日本病理学会(東京,平成8年4月24日)に参加しました。この講演は,町並博士が長年の研究結果をまとめられたものでした。講演の抄録のむすびに,町並博士は, ≪骨・関節腫瘍の病理診断にあたってはHE標本(ヘマトキシリン・エオジン色素によって組織を染色した標本,筆者注)を十分に観察し,“眼力”を養うべく精進することが最も重要であり……≫ と書いておられます。35年の結論が眼力(がんりき)だとおっしゃるのです。“ 細胞をじっくり見て,長年の経験に照らして診断する ” という意味だと理解しました。この講演は大変に教訓的で,私は深く感銘を受けました。 イギリス生まれの作家で,主にアメリカのカリフォルニアで活動し,のちに税金対策のためバハマに移住したアーサー・ヘイリー(Arthur Hailey, 1920-2004)が残した数々の小説の中に『最後の診断』(永井淳訳,新潮文庫,1975)があります。ここには,19歳の女性看護学生の診断を巡って,二人の病理学者の見解が分かれ,長老の病理学者によって最後の診断がくだされる場面が描かれています。良性か悪性かの判別について知るうえで参考になると考えるので,若い病理学者・コールマンと長老の病理学者・ピアスンが意見を交わす緊迫の場面をつぎに引用します。 《スライドは全部で八枚あり,コールマンはそれらを順にのぞいてみた。ピアスンが彼の意見を求めた理由がすぐにわかった。それは判定のきわめて困難なすれすれのケースだった。ようやくかれはいった。「ぼくの考えは,“良性”です」 「わたしは悪性だと思う」と,ピアスンは静かにいった。「骨肉腫だ」 ・・・ 病理学は正確に割り切れる科学ではなかった。それによって答えが正しいとか間違っているとかを証明できる数学的な公式があるわけではなかった。病理学者が時おり与えることのできるのは,熟慮の末の判定だけだった。・・・ (下線は筆者による) 彼にはピアスンのためらいが理解できた。老人には最後の診断をくだす責任があるのだ。・・・ コールマンはいった。「もちろん,あなたの考えが正しくて,これが骨肉腫だとすれば,切断ということになりますね」・・・ 》 病理学を専門とする友人によると,骨折か骨肉腫かの区別は,あらゆる悪性腫瘍の診断の中で最も困難な診断の一つです。もう一つの例を挙げれば,胃の「びらん」と胃がんの区別だということです。 『最後の診断』の原著が出版されたのは1959年ですが,病理学者による診断が “ 最後の診断 ” である点は,現在も変わっていません。病理学が専門の友人の意見を聞いたところ,この小説に登場する医師達は,病理学的にいって大変正確に描かれているということです。
by yojiarata
| 2014-01-09 15:40
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