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回想の広沢虎造



ご隠居さん 広沢虎造って聞いたことがないんだけど,一体誰なの。

***


そうか。聞いたことがないか。虎造さんの全盛期は,戦前から戦後(昭和20年代)だから,無理もないね。


「甦れ 浪曲師・広沢虎造」 (1,2) を 聴く


先々月の9月20日のラジオ深夜便 「甦れ 浪曲師・広沢虎造(1)」を聴きました。というか,録音して後で聴きました。午前4時からの放送だったので,さすが夜行性の私もちょっと無理なので。

虎造さんの末っ子の山田二郎さん (姉3人,兄1人) の話です。山田さんは,NHK佐賀放送局を経て,ラジオ東京 (現在のTBS) スポーツ担当アナウンサー,現在, 虎造節保存会名誉会長。落語家になりたかったと仰るだけあって,話は途轍も無く面白かったよ。

山田二郎さんによると,民放ができた昭和26 (1951) 年に始まった「虎造アワー」(水曜日夜8時,ラジオ東京,現在の TBS) は大ヒットし,結局,虎造さんの引退まで続いたんだ。「虎造アワー」の放送時間には,男湯が空になり,「君の名は」(NHK,昭和27年(1952)4月10日-29年(1954)4月10日)の放送時間には,女湯が空になったと山田さんは言っておられました。

現在では,YouTube で,虎造の生の姿,声を見ることができるよ。「石松の代参」 は,動画になっているんだ!

最近の若い人たちは,広沢虎造さんが誰だか,浪花節が何なのかを知らないんだ。知っていても,浪花節なんで,古いよ,カッコ悪いよなんて言うんだよ。と言いつつ,一度も聴いたことが無いんだ。山田さんは,「一度,聴いてください。面白いから。」と声を大にして喋っておられました。私も全くそう思うよ。

浪曲は,(一)声,(二)節,(三)啖呵(語り)と言うんだそうだけれど,虎造さんの啖呵は,私が尊敬する五代目古今亭志ん生さんの語り,間に相通じるものがあって,いつも楽しく聴いているんだ。啖呵が素晴らしく,それとともに,節の素晴らしいさが際立つ虎造さんって,本当に素晴らしいね。

ちなみに,国本武春「甦れ 浪曲師・広沢虎造(2)」 も 面白かったよ。朝から晩まで,浪曲を修行の友とする夫婦(浪曲師,合三味線)の話など,捧腹絶倒 だよ。国本さんの語りが,また素晴らしいんだ。


70年 を 遡る


明治33(1900)年生れの私の父親の話から始めるよ。

一家を経済的に安定に支える父親の責任をもつに要求される重要な資質のひとつは,何かを買いたくなる衝動と財布の中身の冷静な比較なんだけど,私の父親は,困ったことに終生それができなかったんだ。

新しいものに出会うたびに,突如として異常なばかりに興味が湧いてくる困った性格は,おかしいくらいに祖父そっくりで,やたらにものを買い込んでいたよ。私にも,多少,その傾向が受け継がれていることは否定しません。

戦災前のわが家にあったピカピカの蓄音機がその一つだったよ。手回しの蓄音機と言っても,分らないかもしれないけど,要するに,レコードを載せて回る円盤のエネルギー源が,今と違って,電気じゃなくで,人間なんだ。当時(昭和10年代)の最新鋭機だったよ。

近くの蓄音機屋さんがしばしばわが家に出入りしていたんだ。面白い人で,私もよく遊んでもらったよ。

蓄音機屋さんは,頭をポマードできれいに分け,立派な縦縞の紺の背広を着て,機械の “バージョン・アップ” を,父親に熱心にすすめていたよ。竹の針を使う新しいピックアップの音を是非試してくださいなどとおっしゃる。

父親も財布の中身を忘れて,膝を乗り出すんだ。蓄音機が,いつもピカピカだったのは,蓄音機屋さんのせいだったんだ。しかし,おぼろげなこの記憶の場面に母親の姿がないんだ。諦めていたんだろうね。

蓄音機屋さんは,新しいレコードが出るたびに,黙って置いていくんだよ。レコードは,広沢虎造の浪花節だったり,流行歌だったり。私が,子供のくせに,やたらと浪速節や流行歌を知っていたのは,そのせいなんだ。

今でも,その時の経験が,私の ”知的財産” として残っていて,浪花節も,バッハも,歌謡曲も,ジャズも,何もかも,区別なく興味の対象になるのはそのせいです。この点で,レコード屋さん,父親には感謝しています。



”野卑にして 不愉快な 浪花節” を忌み 嫌った男


永井荷風にとって,森鷗外は神様だったんだ。

荷風は,断腸亭日乗に次のように書いているよ。


昭和9 (1934)年。

【正月廿一日。晴れて風あり。空には雲多し。正午ラヂオの浪花節聞え出したれば今日は日曜日なり。 ・・・・・ 】

【七月廿五日。 くもりてまた俄に涼し。気候不順なること驚くべし。

・・・・・ 鷗外先生は ・・・・・ 浪花節は宴席に於てもこれを聴くことを好まず,屡其の曲節の野卑にして不愉快なることを語られたることあり。

・・・・・ 今日浪花節は国粋藝術などゝ称せられ軍人及愛国者に愛好せらるゝと雖三四十年まえまでは東京にてはデロリン左衛門と呼び最下等なる大道藝に過ぎず,座敷にて聴くものにては非らざりしなり。

・・・・・ 現代の日本人は藝術の種類にはおのづから上品下品の差別あることを知らず。三味線ひきて唱ひまた語るものは皆一様のものと思へるが如し。・・・・・ 今夜鷗外先生も地下に在りてラヂオの浪花節をきゝ如何なる感慨に打たれ給うや。】

どうも,荷風先生,師とも神とも仰いだ鷗外先生に大変気を使っておられるようだ。事実,荷風はこんなことを書いている。


大正12(1923)年

【六月十八日。・・・・・ 夜森先生の渋江抽斎伝を読み覚えず深更に至る。先生の文この伝記に至り更に一新機軸を出せるものの如し。叙事細密,気魄雄勁なるのみに非らず,文致高達蒼古にして一字一句含蓄の味あり。言文一致の文体もここに至って品致自ら具備し,始めて古文の頡頏することを得べし。】

この時,荷風45歳。”転げまわって絶賛” という感じだね。




広沢虎造 を 聴く会




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昭和10年代の後半,我が家では,藝術の種類など考えたこともない近所のおじさんが広沢虎造の新しいレコードに夢中になっていたよ。腕組みして,頭を垂れて,目をつぶってね。

うつせみの 人の宿命は 花火とおなじ

燃えて散る間の 儚さよ

きのうの花は きょうの夢

あすの命を 誰が知る

に落涙するおじさん達がいてもいいんじゃないの。


虎造さんは,二度の脳溢血の後,今から50年前に亡くなったんだ。

2代目広沢虎造
1899(明治32)年-1964(昭和39)年
享年 六十五
松寿院俉道日信居士


上野の山で,広沢虎造 オーナー の チーム と 野球をした人


本来の仕事から離れて,間もなく超後期高齢者の80歳,今までとは,全く違うタイプの人と仲良くなって,話を聞くのを楽しんでいるんだ。

虎造がオーナーの草野球チームと試合をした人と知り合いになったよ。”生” の虎造さんと会って,話をしたと言うんだ。これには驚き,羨ましかったね。

虎造チームは,メンバー全員が浪曲師。審判の判定が不服な時は,”監督” の虎造さんが出てきて猛烈に抗議したというんだ。あの浪花節の声でね。

もめごとが決着しないと分ると,虎造さんが

オレが言うんだから,間違いない。俺がルールだ!

と叫ぶんだそうだ。


付録 元祖 オレがルールブックだと 叫んだ男


付録として,思い出したので,二出川 延明さんのことを書いておくよ。日本シリーズでの一コマが,インターネットに記録されているよ。

二出川 延明(にでがわ のぶあき,1901年8月31日-1989年10月16日)は,日本のプロ野球選手(外野手)・審判員,野球解説者,実業家。


三原 「塁審は同時はセーフというが,ルールブックを見せてくれ」

二出川 「なぜだ」

三原 「ルールブックには一塁の場合と違って,二塁の場合は同時はアウトだ。3分かかっても5分かかってもいい。ルールブックを見せてくれ」

二出川 「ルールブックにはそうなっていない。あくまで同時はセーフだ」

三原 「ルールブックあるんでしょ?見てくださいよ。3分かかっても5分かかっても」

二出川 「見る必要はない。僕の頭の中にちゃんとある」

三原 「ルールブックを見て…」

二出川 「(三原の言葉を遮り)オレがルールブックだ!間違いない!」

右手で胸をたたいて三原監督をにらんだ二出川。名将といえども、年の差は10歳。まして1935年(昭10)、「東京ジャイアンツ」=巨人軍の初代主将として、まだ若かった三原らを率いて渡米した大先輩にそれ以上 “口ごたえ” できなかった。

三原は黙って引き下がるしかなかった。大毎はこれを足がかりにトドメの3点を奪い、ダブルヘッダーで連勝。4年連続の日本一を目指す西鉄の優勝のチャンスはこれでさらに遠のいた。

二出川がかたくなにルールブックを見せなかったのにはわけがあった。試合に出場する時でもしない時でも,必ず携行していたが,この日に限って自宅に忘れてきてしまった。前夜,寝床で読んでいて,珍しくそのままにしてきてしまったのだ。

この仕事に誇りを持つ二出川にとって恥すべきことだった。そんなことは後輩の前で口が裂けても言えない。ただでさえ子供の頃から人一倍強がりを言って生きてきた二出川が,切羽詰って言った言葉が,プロ野球史に残る名言「オレがルールブックだ」だった。




by yojiarata | 2013-11-10 22:55
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