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吉村昭 菊池寛 永井荷風



最近,NMKラジオ第2「朗読の時間」(毎週土曜日に1週間分をまとめて再放送,22:25-23:40)で,菊池寛の作品をまとめて聴いた。幾つか気になることがあったので,菊池寛(蘭學事始),吉村昭(冬の鷹),永井荷風(断腸亭日乗)を比較してみることにした。


***


吉村昭 (1927-2006)
日本芸術院会員 

「冬の鷹」 (1974,新潮文庫)

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新潮文庫(1974年)



菊池寛 (1886-1948)
1923年,「文藝春秋」を創刊,日本文藝家協会を創立
芥川賞,直木賞の設立者

「蘭學事始」 (1947,春陽堂)

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春陽堂(1947年,表紙)


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春陽堂(1947年,裏表紙)



永井荷風 (1879-1959)

断腸亭日乗


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吉村昭は1974年,『冬の鷹』を出版した(新潮文庫)。この作品は,解体新書の出版に至るまでのいきさつを,一日も早くターフェルアナトミアの出版に漕ぎ着けたいという,極論すれば営業マンのような男,杉田玄白,翻訳出版に協力しつつも,これを機会に,オランダの文化など,蘭学から学ぶべき哲学などを含めたより広い視点で杉田と対峙する前野良沢の確執を見事に描き,大きな評価を得た。

一方,菊池寛は,1947年,『蘭學事始』を春陽堂より出版している。この春陽堂版をネットの「日本の古本屋」から購入,菊池寛 『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』 (新潮文庫,1970)に収録されている「蘭学事始」と比較し,字句の用法のほかは,両者が同一であることを確認した。

筆者が読む限り,『蘭學事始』に述べられて菊池寛の趣旨は吉村昭の著作と全く変わりがない。以下,『蘭学事始』(新潮文庫版)の192-195ページから引用する。


【 ・・・・・ 

最初,一二年は,良沢と玄白との間に,何等意見の扞格(かんかく)もなかった。が,彼らの力が進むに従って二人はいつも同じような口諍(くちあらそ)いを続けていた。

「この処の文意はよく解り申した。いざ先へ進もうでは御座らぬか」

玄白は常に先を急いでいた。が,良沢は,悠揚(ゆうよう)として落着いていた。

「いや,お待ちなされい。文意は通じても,語義が通じ申さぬ。凡(およ)そ,語義が通じ申さないで,文意のみが通じるのは,当推量(あてずいりょう)と申すもので御座る。

良沢は,頑(がん)として動かなかった。

四年の月日は過ぎた。

玄白は、ターヘルアナトミアの稿を更えること十二回に及んだ。が、篇中、未解の場所五カ所,難解の場所十七カ所があった。玄白は、ひたすらに上梓を急いだ。が,良沢は、未解難解の場所を解するまではとて,上梓を肯(がえ)んじなかった。

良沢と玄白とは,それに就(つい)て幾度も論じ合った。が,二人は幾何(いくら)論じ合っても,一致点を見出(みいだ)さなかった。それは,二人の蘭学に対する態度の根本的な相違だった。

玄白は、とうとう自分一人の名前で,ターヘルアナトミアの翻訳たる解体新書を上梓する決心をした。

が、さすがに彼は,良沢の名を無視するわけにはいかなかった。翻訳の筆記こそ,玄白の手に依(よ)って行われたものの,翻訳の功は,半ば良沢に帰すべきものだったから。

玄白は,良沢を訪(おとの)うて序文を懇願した。が,良沢は序文をも,次のようにいって断った。

「いや,拙者かつて九州を歴遊いたした折,太宰府の天満宮へ参詣いたした節,斯様(かよう)に申して起誓したことが御座る。良沢が蘭学に志を立て申したは,真の道理を究めよう為で,名聞利益(みょうもんりやく)のためでは御座らぬゆえ,この学問の成就するよう冥護(みょうご)を垂れたまえと,斯様に祈り申したのじゃ。この誓いにも背(そむ)き申すゆえ,序文の儀は平に許させられい!」

それをきいた玄白は,寂しかった。が,彼は自分の態度を卑下する気には,少しもなれなかった。彼は良沢の態度を尊敬した。が,それと同時に,彼は自分の態度を肯定せずにはおられなかった。

彼は,晩年蘭学興隆の世に会った時の手記に,自分の態度を,次のように主張した。

『翁(おう)は,元来疎慢にして不学なるゆゑ,可成りに蘭説を翻訳しても,人のはやく理解し,暁解するの益あるようになすべき力はなく,されども人に託しては,我本意も通じがたく,やむことなく拙陋(せつろう)を顧みずして,自ら書き綴れり。其(その)中に精密の微義もあるべしと思えるところも,解しがたきところは強(し)いて解せず,ただ意の達したるところを挙げ置けるのみ。

譬(たと)へば,京へ上らんと思ふには,東海東山二道あるを知り,西へ西へと行けば,終(つい)には京へ上りつくと云うところを,第一とすべし。その道筋を教える迄(まで)なりと思へば,その荒増しあらましを唱へ出せしなり。首(はじ)めて唱る時に当りては,なかなか後の譏(そしり)を恐るるようなる碌々(ろくろく)たる了見にて企事(くわだてごと)はできぬものなり。くれぐれも大体に本(もと)づき,合点の行くところを訳せし迄なり。梵訳(ぼんやく)の四十二章経も,漸(ようや)く今の一切経に及べり。之が,翁が,その頃よりの宿志にして企望せしところなり。世に良沢と云う人なくば,此道開くべからず。されど翁のごとき,素意大略の人なければ,此道かく速かに開くべからず,是もまた天助なるべし。』 

・・・・・ 】


***



自然科学の一分野を生業としてきた筆者の意見を述べておきたい。研究者たる者,自らの研究業績をあとに残すため,学術論文を執筆し,学会誌などに投稿して,中立的な審査員による査読と受けるのが手順だ。この際,先人の業績をチェックして,自分の論文が現在どのような位置づけにあるかを明示することが,論文として認められるための第一の条件となる。

菊池寛の著書と吉村昭の著書の発表には,僅か30年足らずの時間しか経過していない。にもかかわらず,吉村昭の新潮文庫版には,「あとがき」 を含めて,菊池寛『蘭學事始』について,何の言及もされてない。


ただ,巻末の「解説」(上田三四二による)に次のように書かれている。

【 ・・・・・ 

玄白には,晩年になって当時を回顧した『蘭学事始』(蘭東事始)があって広く読まれており,・・・・・ 中学の国語の教科書に出ていた記憶がかえってくる。

菊池寛が同じ題をもつ短編小説を書き,玄白と良沢の,仕事をとおしてかもしだされる心理上の葛藤を取り上げたことでも知られている。 

・・・・・ 】

些か歯切れが悪いと印象をもつのは,筆者の偏見かもしれない。

吉村昭に悪意があったとは思わない。しかし,もしも『冬の鷹』で菊池寛の著作に一言の言及もされていないとすれば,結果において菊池寛に礼を失したことになるのではないか。


***


ところで,菊池寛といえば,永井荷風を直ちに思い出す。

永井荷風は菊池寛を徹底的に嫌った。もともと好き嫌いの極端な荷風であるけれど,その嫌い方は尋常でなかった。しかも,文学作品の作者としての菊池寛ではなく,何の理屈もなく,ただ嫌いなのである。

「新版断腸亭日乗 第一巻-第七巻」(岩波書店,2001-2002)には,25個所に菊池寛が言及されている。そのすべてがひどい悪口。いくつかの例を挙げる。


大正14年9月23日

文士菊池寛和田氏を介して予に面会を求むという。菊池は性質野卑奸獝,交を訂すべき人物にあらず。


大正15年8月11日

文学者の気風も今は全く一変し,菊池寛の如き者続々として輩出するに至りしも,思返せば亦怪しむに及ばず。


昭和5年正月元日

菊池寛及び雑誌文藝春秋社より送来たりし年賀の葉書あり。菊池等より新年の賀辞を受くべきいはれなければ其趣をしるして其等の葉書を各差出人に返送せり。


昭和11年9月23日

余は菊池寛を始めとして文壇に敵多き身なれば,拙稿を新聞に連載せむか,排撃の声一時に湧起り必掲載中止の厄に遭ふべし。余はまた年々民衆一般の趣味及社会の情勢を窺ひ,今は拙稿を公表すべき時代にあらずと思へるなり。


昭和15年4月10日

・・・・・ 葬礼に式場には近衛公頭山満の如き貴顕紳士,菊池寛佐藤義亮の如き文藝商人と相並びて ・・・・・


***



筆者の個人的な考えを率直に述べるなら,日記,随筆などを除くと,荷風の小説には全く興味がない。主に,花街を対象として描いた彼の作品は,どうしても好きになれないからである。これに対して,菊池寛作品には,山あり,谷ありで,興味のある題材が並んでいる。


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付録


話は急転するが,研ナオコ 「中島みゆきを唄う」(ポニーキャニオン,1978)は素晴らしいアルバムである。その中の一曲がふと頭に浮かぶ。

窓ガラス
中島みゆき(作詞,作曲)


♪ ・・・・・

ふられてもふられても仕方ないけれど

そんなに嫌わなくていいじゃないの



by yojiarata | 2013-07-09 21:47
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