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ピエール・ロチが見た近代日本の夜明け  鹿鳴館からの出発 





江戸幕府が1850年代にアメリカ,ヨーロッパ諸国とつぎつぎに結んだ条約は,外国人の犯罪を日本人が裁くことのできない治外法権,輸出入の関税を日本人が決定できない関税自主権欠如の問題などによって,発足したばかりの明治政府を悩ませていた。

西欧列強の壁は厚く,条約改正交渉が難航するなか,外国人の関心と理解を得るにはまず,西欧式の社交場が必要であると主張した当時の外務卿(外務大臣)井上馨が推進役となり,明治16(1883)年,東京麹町区内山下町(現在の日比谷公園付近)に,洋風二階建の鹿鳴館が完成した。中世の時代には現在の銀座は未だ海の中だった。東京湾からさほど遠くない,潮の香りのする広大な野原に突如として出現した鹿鳴館では,政府要人・華族や外国使臣による華やかな夜会・舞踏会などが行われた。

欧米の先進工業技術を導入するため,明治政府によって工部省が設立された。鹿鳴館の設計にあたったのは,その工部省の招聘によって明治10(1877)年,24歳で来日したイギリス人の建築家・Josiah Conder (その当時からコンドルとよばれて今日に至っている)だった。

コンドルは,来日した後の44年の大半を日本で過ごし,大正9(1920)年に日本で亡くなった。上野博物館,ニコライ堂(御茶ノ水)などさまざまな建物の設計にたずさわったコンドルは,辰野金吾,曾彌(そね)達蔵,片山東熊(とうくま)など多くの建築家を育てた。辰野金吾の設計により大正3(1914)年に完成した東京駅は,今年に改築工事が完了したがいまもなお当時の面影を残している。

コンドルのひとと業績について興味をもたれた読者は,畠山けんじ『鹿鳴館を創った男 お雇い建築家 ジョサイア・コンドルの生涯』河出書房新社,藤森照信『日本の近代建築(上)-幕末・明治篇』岩波新書をお読みください。西欧文明の導入に奔走する明治政府とその時代が改めて浮かび上がってきます。

鹿鳴館の時代の真っ只中,明治18(1885)年夏に来日したフランス海軍の将校ピエ-ル・ロチ(1850-1923)は,その年の晩秋にかけて日本各地を旅し,帰国後,『お菊さん』(岩波文庫),『秋の日本』,『ニッポン日記』,『日本の婦人たち』,『ロチのニッポン日記 お菊さんとの奇妙な生活』 などの作品を発表した。長期間にわたって日本で暮らした経験のある“親日家”(例えば,ラフカディオ・ハーン)の手になるものとはまったく異なり,フランス人のロチがはじめて目にする日本の印象が冷えた眼差しで鋭く克明に綴られている。

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船岡末利編訳『ロチのニッポン日記 お菊さんとの奇妙な生活』 (有隣堂,1979)
右はピエール・ロチ,中央にお菊さん,左はロチの部下で親友のピエール・ル・コル


『秋の日本』 (角川文庫)に収録されている 『江戸の舞踏会』 の冒頭には,明治18年11月,横浜湾に停泊中に ロチのもとに “隅々を金泥で塗った一枚の優美なカード” が届いたこと,カードの裏には,英文で“お帰りには特別列車が 午前1時に Shibachi (新橋) 駅を出ます”と書かれていたことが記されている。

『江戸の舞踏会』には,天長節の夜の鹿鳴館の一部始終が驚くほど克明に描写されている。芥川龍之介は,この『江戸の舞踏会』をそっくりそのまま“縮小コピー”したような短編『舞踏会』を書いている。なぜそんなにまでして小説を書かなければいけなかったのか,筆者には理解不能である。出来上がった作品自体も,子供っぽくセンチメンタルなもので決して上等なものではない。

『日本の婦人たち』(船岡末利編訳『ロチのニッポン日記 お菊さんとの奇妙な生活』に収録)には,鹿鳴館についてのロチの印象がつぎのように記されている。

【千年の形式をもつ驚嘆すべき衣裳や大きな夢のような扇子は,箪笥や博物館の中に所蔵され,今はすべてが終わってしまった。・・・・・

命令は上からやって来た。天皇の布告は,宮廷の婦人たちに,ヨーロッパの姉妹たちと同じ服装をすることを命じた。人々は熱に浮かされたように生地そ,型を,仕立屋を,できあいの帽子をとり寄せた。こうした変装の最初の衣裳合わせは密室の中で,おそらく慙愧と涙と共に行われたにちがいない。だが,誰知ろう,それ以上に笑いと共に行われたかもしれぬことを。それから人々は外国人を見学にくるよう招き,園遊会,舞踏会,コンサートなどを催した。大使館関係で以前ヨーロッパを旅行する機会に恵まれた日本婦人たちが,早のみこみの驚くべきこの喜劇の模範を示した。

東京のど真ん中で催された最初のヨーロッパ式舞踏会は,まったくの猿真似であった。そこでは白いモスリンの服を着て,肘の上までの手袋をつけた若い娘たちが,象牙のように白い手帳を指先につまんで椅子の上で作り笑いをし,ついで,未知のわれわれのリズムは,彼女たちの耳にはひどく難しかろうが,オペレッタの曲に合わせて,ほぼ正確な拍子でポルカやワルツを踊るのが見られた。・・・・・

この卑しい物真似は通りがかりの外国人には確かに面白いが,根本的には,この国民には趣味がないこと,国民的誇りが全く欠けていることまで示しているのである。ヨーロッパのいかなる民族も,たとえ天皇の絶対的命令に従うためとはいえ,こんなふうにきょうから明日へと,伝統や習慣や衣服を投げ捨てることには肯んじないだろう。】

この部分だけを読むと,“言いたい放題”という感じがして,日本人の一人として決して愉快ではないが,これが現実だったことは容易に想像できる。鹿鳴館の舞台を盛り上げるために,大山巌元帥夫人の捨松をはじめとする多くの貴婦人たちが活躍した。近藤富枝『鹿鳴館貴婦人考』(講談社)を読むと,貴婦人たちの立ち振る舞いを通じて鹿鳴館の夜会が鮮明に浮かび上がってくる。貴婦人たちは,慣れない西洋風の衣裳の着用にも苦心した様子で,大山捨松夫人は衣裳を締め付けすぎて卒倒したことがあったとも言い伝えられている。

鹿鳴館をめぐる人間模様については,さまざまな小説が書かれ,映画になり,また,いまでも劇場で上演されている。例えば,三島由紀夫が文学座の20周年記念公演のために書いた戯曲『鹿鳴館』は,文学座の当り狂言となった。筆者は,鹿鳴館のことを思うたびに複雑な心境になる。いまに続く西欧文明に対する日本人の抜き難い劣等感の源流にどうしても思いがいくからだ。

鹿鳴館を知るための縁となる記録は必ずしも多くは残されていない。ここでは,コンドルとほぼ同時代,明治15(1882)年から明治31(1898)の18年間にわたって日本に滞在し,日本を描きつづけたフランス人画家ビゴー(1860-1927)の作品を転載するにとどめる。

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鹿鳴館の月曜日 ダンスの練習(ビゴー,明治二十年)
清水勲編 『続 ビゴー日本素描集』 (岩波文庫)


***


日本古来の文化遺産に深く感動したロチの眼には,西欧の薄っぺらな模倣に過ぎない鹿鳴館で行われた舞踏会が喜劇としか映らなかったのであろう。ともあれ,文明開化の激動の時代に日本を訪れ,その印象を書き残したロチの作品は,日本古来の文化が西欧文明の波の中でどのように揺れ動いていたかを知る上で,極めて貴重な資料である。大変に残念なことに,ロチが深く感銘を受けた日本古来の伝統は,ロチの願望とは裏腹に,急速に失われつつある。

1891年,フランス文人の最高の地位であるアカデミー・フランセーズの会員に41歳の若さで選ばれたロチは,海軍軍人として海の上で40年以上を過ごしたあと,明治30(1900)年に2度目の来日をしている。

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ピエール・ロチ


1923年,73歳でこの世を去ったロチを,フランスの当時のポアンカレ内閣は国葬をもって送った。
by yojiarata | 2013-05-25 22:50
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