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森鷗外と永井荷風  流行歌と浪花節



流行歌と浪花節


永井荷風は若い頃,街の人々が愛した流行歌,浪花節などを目茶目茶に扱き下ろしている。

昭和4(1929)年。

【六月廿五日 晴れて風涼し。終日三番町にあり。夜お歌を伴い銀座を歩む。三丁目の角に蓄音機を売る店あり,散歩の人群れをなして蓄音機の奏する流行歌(はやりうた)を聞く。沓掛時次郎とやらいう流行歌の由なり。この頃都下到処のカフェーを始め山の手辺の色町いづこといはずこの唄大に流行す。

その他 はぶの港 君恋し 東京行進曲などいふ俗謡この春頃より流行して今に至るもなほすたらず。歌詞の拙劣なるは言うに及ばず,広い東京恋故せまいといふが如きもののみなり。】

そうかと思うと,昭和8(1933)年には次のように書いている。

【十月廿五日。小春の好き日なり。 ・・・・・ 

流行歌の盛衰


昭和三四年

君恋し


昭和四年
  
東京行進曲

上陸第一歩

麗人の歌

道頓堀よ


昭和五年詳ならず

・・・・・
 
昭和六年
  
銀座の柳(四月頃より流行)

大磯心中

酒は涙か

影をしたいて

・・・】


満更,興味が無いわけでもないらしい。


昭和9(1934)年。

【正月廿一日。晴れて風あり。空には雲多し。正午ラヂオの浪花節聞え出したれば今日は日曜日なり。 ・・・・・ 】

【七月廿五日。 くもりてまた俄に涼し。気候不順なること驚くべし。

・・・・・ 鷗外先生は ・・・・・ 浪花節は宴席に於てもこれを聴くことを好まず,屡其の曲節の野卑にして不愉快なることを語られたることあり。

・・・・・ 今日浪花節は国粋藝術などゝ称せられ軍人及愛国者に愛好せらるゝと雖三四十年まえまでは東京にてはデロリン左衛門と呼び最下等なる大道藝に過ぎず,座敷にて聴くものにては非らざりしなり。

・・・・・ 現代の日本人は藝術の種類にはおのづから上品下品の差別あることを知らず。三味線ひきて唱ひまた語るものは皆一様のものと思へるが如し。・・・・・ 今夜鷗外先生も地下に在りてラヂオの浪花節をきゝ如何なる感慨に打たれ給うや。】
(下線は筆者による)


どうも,荷風先生,師とも神とも仰いだ鷗外先生に大変気を使っておられるようだ。事実,荷風はこんなことを書いている。


大正12(1923)年

【六月十八日。・・・・・ 夜森先生の渋江抽斎伝を読み覚えず深更に至る。先生の文この伝記に至り更に一新機軸を出せるものの如し。叙事細密,気魄雄勁なるのみに非らず,文致高達蒼古にして一字一句含蓄の味あり。言文一致の文体もここに至って品致自ら具備し,始めて古文の頡頏することを得べし。】

この時,荷風45歳。”転げまわって絶賛”という感じである。


***


私の父親は明治33(1900)年生れである。一家を安定に支える父親の責任をもつに要求される重要な資質のひとつは,何かを買いたくなる衝動と財布の中身の冷静な比較であるが,父親は,終生それができなかった。新しいものに出会うたびに,突如として異常なばかりに興味が湧いてくる困った性格は,おかしいくらいに祖父そっくりで,やたらにものを買い込んでいた。

戦災前の筆者の家にあったピカピカの手回しの蓄音機もそのひとつである。近くの蓄音機屋さんがしばしば出入りしていた。蓄音機屋さんは,頭をポマードできれいに分け,立派な縦縞の紺の背広を着て,機械の“バージョン・アップ”を熱心にすすめる。竹の針を使う新しいピックアップの音を是非試してくださいなどとおっしゃる。父親も財布の中身を忘れて,膝を乗り出す。蓄音機が,いつもピカピカだったのは,蓄音機屋さんのせいである。しかし,おぼろげなこの記憶の場面に母親の姿がない。諦めていたのだと思う。

蓄音機屋さんは,新しいレコードが出るたびに,黙って置いていく。レコードは,広沢虎造の浪花節だったり,流行歌だったりした。子供のくせに,私がやたらと浪速節や流行歌を知っていたのは,そのせいである。

父親が,親戚・縁者をよび集め,家族全員とともに蓄音機を取り囲んで,虎造の新しいレコードを聴く。三味線と囃子詞にのせて張りのある節回しで語られるドラマは,いまも記憶にある。

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その頃,我が家では,藝術の種類など考えたこともない近所のおじさん,おばさんが広沢虎造の新しいレコードに夢中になっていた。

うつせみの 人の宿命は 花火とおなじ

燃えて散る間の 儚さよ

きのうの花は きょうの夢

あすの命を 誰が知る

に落涙するおじさん,おばさんがいてもよいではないか。


観潮楼の先生

師とも神とも仰いだ鷗外に対する荷風の思いは終生変わることはなかった。

鷗外の新作狂言上場の場にいた荷風のことばが残されている。この時,荷風40歳。

【・・・・・ 一幕二場演じをはりてやがて再び幕となりし時,わが傍らにありける某子突然わが袖をひき隣れる桟敷に葉巻くゆらせし髭ある人を指してあれこそ森先生なれ,いで紹介すべしとて,わが驚きうろたえるをも構わずわれを引き生きぬ。われ森先生の謦咳に接せしはこの時を以て始めとす。先生はわれを顧み微笑して『地獄の花』はすでに読みたりと言われき。余文壇に出でしよりかくの如き歓喜と光栄に打たれたることなし。いまだ電車なき世なりしかどその夜われは一人下谷よりお茶の水の流れにそひて麹町までの道のりも遠しとは思はず楽しき未来の夢さまざま心の中にゑがきつつ歩みて家に帰りぬ。】

野口冨士雄編『荷風随筆集(下)妾宅 他十八篇』 書かでもの記 一,81ページ(岩波文庫,1986)

***


以後,荷風は師・鷗外の居邸をしばしば訪ねることになる。

【当代の碩学森鷗外先生の居邸はこの道のほとり,団子坂の頂に出ようとする処にある。二階の欄干に彳むと市中の屋根を越して遥かに海が見えるとやら,然る故に先生はこの楼を観潮楼と名付けられたのだとわたしは間伝えている。

・・・・・ 度々私はこの観潮楼に親しく先生に見ゆるの光栄に接しているが多くは夜になったからの事なので,惜しいかな一度もまだ潮を観る機会がないのである。その代わり,私は忘れられぬほど音色の深い上野の鐘を聴いた事があった。日中はまだ残暑の去りやらぬ初秋の夕暮れであった。・・・・・ 】

野口冨士雄編『荷風随筆集(上)日和下駄 他十六篇』 第九 崖(岩波文庫,1986,82ページ)
by yojiarata | 2013-04-12 21:25
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