そして,前田山の人生を変える出来事が起こる。 昭和24(1949)年10月15日,大相撲秋場所は大阪で7日目を迎えていた。この日は,横綱・前田山にとって特別の日となった。 当時の新聞記事によって,この日の前後を辿ってみる。 10月16日 【千代の山破る】なお,負けつづけていた前田山はこの日から休場した。 新聞の星取り表では,中入後結びの一番の結果は,三根山(不戦勝)前田山となっている。この場所,前田山は,初日,力道山を上手出投で破ったあと,鏡里,大起,高津山,神風,出羽錦に連敗し,「病気療養」のため,東京に帰った。 昭和24(1948)年10月12日,戦後初めての日米親善野球のため,サンフランシスコ・シールス軍(オドール監督)が来日した。 巨人との初戦が行われた10月15日の後楽園球場のバックネット裏の一等席に,休場して信濃町の慶応病院に入院しているはずの前田山が座っていた。オドール監督と握手する前田山の写真が新聞に掲載された。前田山は,翌日の神宮球場での対極東空軍戦にも姿を見せた。 10月23日 【前田山に出場停止 協会,不謹慎を理由に処分 その理由は前田山が14日出羽錦との一番に破れ,1勝5敗のまゝタイヤー氏病(腸カタル)の診断書を残して同夜東京に帰り15,16日にはシールス軍の日米親善野球見物に後楽園球場や神宮球場に現れたことが不謹慎だと役員一同の憤慨を買った。なお協会内には強硬論が多いので今場所終了後の番付会議までにはさらに前田山に対し引退勧告などの処置に出るものとみられている。】 【前田山談 引退の意思はない 病気は腸カタルで非常に重く休場した。東京で野球を見物したのは本場所の期間中プロ野球を東京で行わないよう協会代表として交渉した時快諾してくれた連盟副会長鈴木惣太郎氏から日米親善のためオドール監督と握手してくれと頼まれたので断りきれず,後楽園球場に行った。神宮球場へは自発的に行ったが,ファンに対し申し訳ないと思っている。しかし引退する意志は全然ない。】 同じ日の日本経済新聞につぎの記事が掲載されている。 【日本相撲協会は,「廿三日の千秋楽には土俵をつとめたい」との(前田山の)申し入れを拒否した。横綱の申入れに対し役員会側が拒否したのは相撲界はじめてである。】 【出羽海協会取締は語る 前田山の態度は常識では判断できぬ。同横綱には出法停止を命じたが,横綱を処分できるかどうかは前例がないので今後の役員会で慎重に検討せねばならぬ。協会としては世論は前田山に悪く横綱の自発的引退を望む。】 10月24日 【前田引退 本場所を休場,帰京して日米野球見物に出かけ,問題を起こして22日協会から今場所の出場停止を言い渡された横綱前田山は千秋楽の23日午後2時引退届を協会に提出,協会では取締,役員協議の結果,これを受理した。今後は去る昭和17年襲名した年寄高砂となる。】 前田山は,本場所を途中休場して,野球に夢中になっていた。これは,横綱としてあるまじき行為である。すなわち,日本相撲協会の処分は当然である。それを当然のこととして100%認めた上で,あの時,日本中がどれほど興奮していたかを振り返ってみたいと思う。 10月13日 【シールス花やかに入京 銀座は戦後初の人出 家並みから花吹雪 田中絹代さんら30名の女優からそれぞれ花輪を受けたのち,オープンカーを連ねて京浜国道を新橋駅に到着,銀座通りから日比谷へ熱狂的な歓迎を受けながら行進し,夕刻宿舎の目黒雅叙園で実行委員会主催の歓迎会に臨み,ニッポン第一夜の夢を結んだ。】 10月14日 【シールス入京第二日 ファンで埋まる歓迎会 万雷の拍手浴びる】正午からマックアーサー元帥の招宴に臨み,夜7時からの芝スポーツセンターの歓迎会。午後5時の開場とともに会場になだれ込んだ群衆は2万人を突破したとみられ,大競技場も張りさけんばかり,入りそこなった数千の群衆と全署総動員で詰めかけた愛宕署員や警備員の間で「入れろ」「入れぬ」の押し問答が演じられる始末。定刻オドール監督を先頭に26選手が会場入口に姿を現せば,五色のテープと紙吹雪がとび,満場総立ちとなって歓呼,写真班のフラッシュ,フライヤーが雷光のようにひらめく。 ・・・・・ 司会者の各選手紹介についでオドール監督があいさつをのべれば拍手が再び会場をゆさぶる。安井都知事が平和を象徴するナラの木製の「東京へのカギ」を選手団に贈り,田中絹代,高峰秀子,暁テル子の三スターが花束を贈って歓迎プログラムの第一部を終わった。】 10月16日 【初試合にマ元帥夫人が始球式 シールス猛打で大勝 巨人の投手陣全滅 痛烈,砂をかむゴロ 五万の人と自動車三千 押収した“ニセ切符”百二十枚】 入場券は,プレミアム最高二千円ともっぱらのウワサ。このキップインフレをあてこんだ大規模なキップ偽造団からのニセモノがはんらんの情報に警視庁からニセサツ専門の刑事連が内外野の入り口にがんばり目を光らした。この係りが同日夕刻までに押収したニセキップ,百二十枚。警視庁では予備隊二個中隊百二十名,地元富坂署から百名計二百二十名の武装警官を動員して警戒,一方各署選り抜きの三十名で交通整理に汗だく,当日は事故は少なく,迷子は五名だけ,これはすぐに親に引き渡された。】 中学生の私は,遥か岡山の地で,ラジオから流れるスタインハウアーのホームランのものすごさに興奮した。手製のボールを使って,カーブを如何に投げるかを連日研究していた私は,“40センチも曲がるカーブを投げるワール投手”に,どうしたら40センチも曲がるのかと胸を熱くした。 前田山は入幕した年の昭和12(1937)年,同時入幕した鯱の里と野球チーム「前鯱チーム」を結成している。バットをもった写真が残っている。日本中が興奮したあの時,前田山の耳には,生まれて初めて聞くことになるアメリカの球音が鳴り響いていた。眼前にはアメリカの白球がちらついて,矢も楯もたまらなかったに違いない。乱暴な飛躍をお許しいただけるなら,野球好きに悪人はいない。 戦争の巡り合わせとはいえ,生涯ただ一度の優勝をあの球場で記録したのも何かの因縁であろうか。前田山は,昭和46(1971)年8月17日,肝硬変のため,療養中の静岡県の温泉で死去した。享年57。高雲院英豪角道居士。 「野球少年」前田山は,愛すべき永遠の大大関であった。 前田山に関する2話の執筆にあたっては,当時の新聞(とくに記さない限り,朝日新聞,いずれも原文のまま)のほか,つぎの書籍を参考にさせていただきました。記して,感謝の意を表したく思います。 今田柔全:『どかんかい 第三十九代横綱張り手一代前田山英五郎』(BAB 出版局,1995) 高永武敏,原田宏:『激動の相撲昭和史』(ベースボール・マガジン社,1991)
by yojiarata
| 2013-03-28 21:05
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