昨年4月22日に,このブログにNMR50年(Ⅰ-Ⅴ)を掲載した。 NMR50年について,別の観点から書いておきたいことがあるので,「NMR余話Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ」 としてここに掲載する。 NMRの歴史は,NMR分光計開発の歴史である。その歴史を遡っていると,科学研究における伝統の重みを感じないわけにはいかない。 NMR現象の検出に最初に成功したのは,確かにアメリカのグループである。しかしそれは,オランダで永年にわたって営々と積み重ねられていた磁性物理学の分厚い,しかし地味な研究の上に開いた花であることを忘れることができない。その後も,オランダからは,NMR研究の節目節目で,きわめて本質的な業績が生まれている。 1950 年代の後半から 1960 年代にかけてに3冊の教科書が出版された。 John D. Roberts: Nuclear Magnetic Resonance APPLICATIONS TO ORGANIC CHEMISTRY (McGRAW-HILL BOOK COMPANY, INC. 1959) J. A. Pople, W. G. Schneider, H. J. Bernstein: High-resolution Nuclear Magnetic Resonance (McGRAW-HILL BOOK COMPANY, INC. 1959) L.M. Jackman: Applications of Nuclear Magnetic Resonance Spectroscopy in Organic Chemistry (S. Sternhell, 1969); 高分解能核磁気共鳴-その有機化学への応用-(清水博訳)(東京化学同人,1962) 日本からも, 藤原鎭男,中川直哉,清水博:高分解能核磁気共鳴 化学への応用 (1962,丸善) が出版された。自らの頭で再構築された事柄がイメージ豊かに丹念に書き込まれていて,いま読んでも教えられるところが多い。 今と違って,NMR分光計はどこにでもあるわけではなかった。研究者たちは,これらの数少ない装置を,時間を分け合って使っていた。時間が限られている分,実験の成果は密度が高かったように思う。 はじめに,NMR分光計の開発にあたった国内外のメーカーの初期の動きについて,その概略をまとめておきたい 1) バリアン Russell VarianとSigurd Varian は,全ての点において対照的な兄弟であった。兄の Russell は,スタンフォード大学で物理学を学んだ学者肌の発明家であった。のちに,バリアンの財政的な基礎となるクライストロンを始めとして,100点以上の発明を世に送り出した。弟の Sigurd は,勉強というよりは冒険を志した。アクロバット飛行に熱中し,後にパンアメリカン航空のパイロットとなった。バリアン兄弟は,クライストロンの発明と,航空機の計器飛行への応用という観点から協力し,第2次大戦ではこの結果が重要な役割を果たしたという。 戦後の1948年,バリアン兄弟は,カリフォルニア州サン・カルロスにVarian Associates を創設した。従業員は最初わずか6人であった。しかし,Felix Bloch ,William W. Hansen などのコンサルタントの助言を得て,会社は順調に伸び,今日のバリアンの基礎が築かれた。 Varian Associates において最初のNMR装置が完成したのは1949年である。ついで,1950年に,高分解能NMR分光計が完成した。バリアンの装置には,サンプル・スピニングなど,Bloch による数々の新しいアイディアが盛り込まれていた。 冒険家の弟Sigurd は,1961年,自らの操縦する飛行機が,彼の愛したメキシコの海に墜落し,60年の生涯を閉じた。着陸側への連絡が届かず,このときに限って,自らも開発に関わった計器飛行でなく,悪天候の中の手動操縦であったという。 Russell 夫人 Dorothy による著書『Russell and Sigurd Varian. The Inventor and the Pilot 』 (Pacific Books, Publishers, 1983) には,NMRを世に出すための,バリアン兄弟と Bloch を中心とするスタンフォード大学グループの一体となった仕事ぶりが鮮やかに書かれている。それは,アメリカにおける研究開発のシステムと新しい境地を開拓しようとするバリアン兄弟の熱意に支えられたものであった。 バリアンに続いて,スイスのTrüb, Täuber, and Co. (Zurich) が,1957年に永久磁石を使った分光計を発表した。これは,ETH で Hs. H. Gunthard と H. S. Primas が作製した装置のコ ピーであった。Primas は,高等学校卒業だけの学歴でETH の 教授に迎えられた鬼才である。Primas の指導により博士論文を完成させた Richard R. Ernst は,1963年,バリアンの Wes Anderson のグループに加わり,ノーベル賞の対象となった一連の研究を開始し,ETHにもどってそれを発展させた。当時のバリアンには,Wes Anderson ,Ray Freeman をはじめとする素晴らしい人材がそろっていた。 2) ブルカー Trüb, Täuber, and Co. は財政事情の悪化により1964年に倒産し,NMR部門がスイスのスペクトロスピンに吸収合併された。一方,1960年に設立されたBruker Physik AG は,NMRのための磁石の製作に乗り出した。発足当時のボードの議長が Emil Bruker であった。Karlsruhe 工科大学物理学科教授の Günther R. Laukien は,ボードの有力メンバーであった。ブルカーはその後,スペクトロスピンと資本提携し,高分解能NMRの開発に着手し現在に至っている。Laukien は,ブルカー,スペクトロスピン両社の社長を務めた。 ETHでは,Kurt Wüthrich が ブルカーの装置を用い,生体系のNMRの分野で研究を大きく発展させ,20年の歳月を費やしてタンパク質の三次元構造解析法を確立した。 3) 日本電子,日立製作所 海軍士官であった風戸健二は,復員準備のための荷物の整理中に,一冊の本『電子顕微鏡』(黒岩大助,昭和17年)を偶然手にした。風戸がかって呉で購入していたこの本との再会が,後の日本電子株式会社会社につながることになる。1947年,千葉県長生郡茂原町に株式会社電子科学研究所が電子顕微鏡とともにスターとした。 電子科学研究所は,1949年,東京都三鷹市に移り,株式会社日本電子光学研究所(Japan Electron Optics Laboratory, JEOL)と社名を変更,1956年にNMR分光計第1号機(JNM-1,32MHz,電磁石)を完成させた。株式会社日本電子光学研究所は昭和36年,社名を日本電子株式会社(東京都昭島市)と変更し,現在に至っている。日本電子の市販の1号機JNM-3-60(60MHz)は,1961年に東京大学理学部化学科の藤原鎭男教授の研究室に搬入された。 日立製作所は1961年,那珂工場創立の年にイギリスのパーキンエルマー社の基本技術を導入してNMR分光計の開発に着手し,1964年,最初のモデル(H-60,60MHz,永久磁石)を世に送りだした。 4) 日本の将来 過去20年の間に,NMR分光計はコンピュータを中心とするディジタル技術,超伝導磁石を中心に置く分光計の 革新によって,恐ろしい勢いで進歩,変貌を遂げてきた。この変革の歴史を見るとき,そこには,大げさにいえば,日本のサイエンスの持つ宿命が浮き彫りにされる。 分光計の開発において,本質的なアイディアは伝統に裏付けられた西欧のものであることは否定できない。日本はディジタル技術で世界をリードするものを持っていると思う。しかし,現在までの所,それがNMRの本質的な進歩にはつながらなかった。少なくとも,日本のNMRは,「花も実もある」境地には達したとはいいがたい。 遠回りでも,原点に立ち戻って虚心に考える以外に道はない。原点といっても,戻らぬ時計を戻して,欧米の伝統に太刀打ちは出来ない。だとすれば,長い年月をかけて,地道に道を切り開いてきた西欧のグループの「求めたところ」を肝に銘じ,長期的な視野をもって粘り強く研究を発展させる以外に道はない。
by yojiarata
| 2012-03-24 23:15
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