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円滑なコミュニケーションのために 第2話



Ⅱ 源氏物語の英語訳をめぐって


谷崎潤一郎が文章についてどのように考えていたかは,『文章読本』に克明に記されている。例えば,西洋の文章と日本の文章の項には,きわめて重要な点が鋭く指摘されている。谷崎潤一郎は,

言語学的に全く系統を異にする二つの国の文章の間には,永久に踰ゆるべからざる垣がある

と書いたあと,『源氏物語 須磨の巻』の一節をとりあげ,アーサー・ウェーレーによる英語訳を原文と比較している。

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源氏物語 須磨の巻より


該当部分はつぎの通りである。

かの須磨は,昔こそ人のすみかなどもありけれ,今はいと里ばなれ,心すごくて,海人の家だに稀になむと聞き給へど,人しげく,ひたたけたらむ住ひは,いと本意なかるべし。さりとて都を遠ざからむも,古里覚束なかるべきを,人わろくぞ思し乱るゝ。よろづの事,きし方行末思ひつゞけ給ふに,悲しき事いとさまざまなり。

このくだりを,ウェーレーはつぎのように英訳している。

There was Suma. It might not be such a bad place to choose. There had indeed once been some houses there; but it was now a long way to the nearest village and the coast wore a very deserted aspect. Apart from a few fishermen’s huts there was not anywhere a sign of life. This did not matter, for a thickly populated, noisy place was not at all what he wanted; but even Suma was a terribly long way from the Capital, and the prospect of being separated from all those whose society he liked best was not at all inviting. His life hitherto had been one long series of disasters. As for the future, it did not bear thinking of!

ウェーレーの英語訳を,谷崎潤一郎が日本語に訳し直した文章をつぎに引用する。

須磨と云う所があった。それはすむのにそう悪い場所でないかも知れなかった。まことにそこにはかって若干の人家があったこともあるのである,が,今は最も近い村からも遠く隔たっていて,その海岸は非常にさびれた光景を呈していた。ほんの僅かな漁夫の小屋の外には,何処も人煙の跡を絶っていた。それは差支えのないことであった,なぜなら,多く人家のたてこんだ騒々しい場所は,決して彼の欲するところではなかったのであるから。が,その須磨さえも都からは恐ろしく遠い道のりなのであった。そうして彼が最も好んだ社交界の人々の総べてと別れることになるのは,決して有難いものではなかった。彼のこれまでの生涯は不幸の数々の一つの長い連続であった。行く末のことについては,心に思うさえ堪え難かった!

このあと,谷崎潤一郎は,ウェーレーの英語訳についてつぎのように書いている。

同じことを書いても英語にするといかに言葉数が多くなるかと云う実例をして,お目にかけるのであります。御覧の通り,原文で四行のものが,英文では八行(その直訳で八行)に伸びています。それもそのはず,英文には原文にない言葉が沢山補ってあるのであります。 ・・・・・ 「今はいと里ばなれ,心すごくて,海人の家だに稀になむと聞き給へど,人しげく,ひたたけたらむ住ひは,いと本意なかるべし。」と,そう云っているだけである。然るに英文ではこの原文の文句をかた引き伸ばして,「今は最も近い村からも遠く隔たっていて,その海岸は非常にさびれた光景を呈していた。ほんの僅かな漁夫の小屋の外には云々」から「決して彼の欲するところではなかったのであるから。」まで,三四行を費しています。 ・・・・・

つまり,英文のほうが原文よりも精密であった,意味の不鮮明なところがない。原文の方は,云わないでも分かっていることは成るべく云わないで済ませるようにし,英文の方は,分かり切っていることでもなお一層分からせるようにしています。

しかし原文も,必ずしも不鮮明なのではない。なるほど「古里覚束なかるべし」と云うよりは「彼が最も好んだ社交界の人々の総べてと別れること」と云った方がはっきりはしますけれども,都を遠く離れて行く源氏の君の悲しみは,この人々と別れることばかりではない。そこにはいろいろの心細さ,淋しさ,遣る瀬なさが感ぜられるのでありましょう。さればそれらの取り集めた心持を「古里覚束なかるべし」の一語に籠めたのでありまして,英文のように云ってしまっては,はっきりはしますけれどもそれだけ意味が限られて,浅いものになります。

筆者自身には,ウェーレーによる英語訳の文章が,英語がよくできる学生が書いたレポートを超えるのものとは思えない。しかし,これは翻訳者であるウェーレーの責任ではない。ウェーレーは,源氏物語に描かれた状況を完全に“説明”している。個々の日本語が,それぞれ,どのような意味をもつかを読者に伝えることが最終的な目的であれば,この翻訳はその目的を完全に達しているといえよう。しかし,それによって,谷崎潤一郎が書いているように,日本語と英語の特徴が鮮明に浮かび上がってくる。

ひとつの言葉を別の言葉に移すことは実際には不可能である。ここで述べた点は,外国語で書かれた文学作品を日本語に,また,日本語で書かれた文学作品を日本語に移し変える場合にいつもあてはまることである。この点は,1000年前に書かれた日本語の文章を,現代の言葉に“翻訳”する場合にも同様にあてはまる。“翻訳”によって,なるほど意味は理解できるが,原著の世界が遠くに翳んでしまうことは避けられない。この点はまた,単に文学作品だけの問題ではない。広くいえば,たとえば政治の世界でも,また,理科系の文章であっても,事態は基本的には変わることはない。

ここには,日本で,日本の文化とともに,日本語に囲まれて育ってきた我々日本人が,今後,いかにして海外の人々と意志疎通をしていくべきかのヒントが盛り込まれている。



つづく

by yojiarata | 2012-01-25 18:00
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