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円滑なコミュニケーションのために 第5話



Ⅴ 英語の修業


1) ただ努力あるのみ

夢いまだ成らず

言語学者であり,眼科医でもあったザメンホフ(1859-1917)は,ロシア帝政下のポーランドのユダヤ人居住区に生まれた。民族差別の最中に成長し,15歳の時に,のちにエスペラントとよばれることになる“国際語”の創造へと目をむけていたと言い伝えられている。そのザメンホフは次のように書き残している。

“人々はいろんな言語に自分の時間をさかれて,そのうち一つにしっかり身を入れることができず,そのために一面では自分の母国語さえも完全にはつかんでいないようです。・・・・・もし私たちがみんな,ただ一つの言語だけを持つなら事情はすっかり変わってくるでしょう。そうなれば,これらの言語そのものはもっとよく磨かれ,完全なものにされ,言語がいま目のまえにあるありようも,もっとずっと高度なものになるでしょう。”

伊東三郎『エスペラントの父 ザメンホフ』(岩波新書,1950)

エスペラントの熱心な支持者は世界中に大勢いる。日本でも,明治39年(1906年)に「日本エスペラント協会」が創設された。しかし,現在では,英語があまりにも広がりをみせ,事実上の“国際語”になってしまった。 

英語圏の人々は,それだけで優位に立っている。だとすれば,われわれはただ日々の修業あるのみだ。英語を身につけるための修業は,その気になった読者は,今すぐ始めるべきである。そのためには,人によってさまざまなやり方がある。しかし,読者は主な時間を自分自身の仕事に割くべきであるから,英語の修業に多くの時間はかけられない。

次に,筆者自身が学生の頃から営々と続けてきた修業の経験を語りたい。ひとにはそれぞれに適したやり方があるから,筆者が述べることは,単なる一例だと考えていただきたい。また,何の問題も無く自由に英語を話し,聴き,書くことが出来る(あるいはそのように信じている)読者は,筆者がつぎに書くことは無視していただいてよい。

早起きは三文の徳

月曜日から土曜日まで,毎朝6時に起きて,NHKラジオ第2放送の『基礎英語1』,『基礎英語2』(合計30分)を毎日欠かさず聴く。第1回の放送は4月であるが,途中からでもかまわいので,今すぐ始めてほしい。この放送は,月曜日と火曜日,水曜日と木曜日,金曜日と土曜日は同じ内容であるが,全部聴く。詳細については,ウェブページ を参照してほしい。なお,録音しておいて時間のあるとき聴こうとするする読者には,長くても一ヶ月で英語修業計画が頓挫することを保証する。CDも販売されているが,同じ理由により勧められない。

ポイントは2つ。

1) 「継続は力」なり。放送は毎日欠かさず聞くこと。

2) 覚えた表現はどんどん使って「練習」すること。

なお,『基礎英語1』,『基礎英語2』は,中学1年生,中学2年生が対象となっている。だからといって,決して馬鹿にしてはならない。確かに,講座の内容は中学校で教わることばかりである。はっきり言うが,『基礎英語1』,『基礎英語2』の英語が流暢に話せる日本人はほとんどいないと思う。“早起きは三文の徳” ほどピッタリの表現はない。

現在では,NHK衛星第1放送で,アメリカABC,アメリカCNN,イギリスBBCなどのテレビ番組が放映されている。これらの番組も,時間のあるとき,たとえ短時間でもぼんやり眺めていると耳を鍛えることに役に立つ。

『基礎英語』を越えて

ここで,付け加えておきたい大切なことがある。『基礎英語』 さらには関連するラジオ,テレビの英語講座は,多くの場合,親しい友人同士の間に交わされる軽い会話が中心になっている。まったく面識のない人,自分より年長の人,あるいは自分の先生などに話す場合には,当然のことながら,その場に相応しい英語表現が求めらる。“寅さんの日本語”は大変面白いことを否定する人は誰もいない。だからといって,寅さんの日本語をどのような場でも使ってもよいというわけにはいかない。読者は,どのような場に自分がおかれているのかを判断し,言葉を選んで行動していただきたいといっているのである。

日本語には敬語があって,英語には敬語がないなどと勘違いしないでいただきたい。英語には英語で,相手の立場にたって発言するために,文法の言葉でいえば“仮定法”が用意されている。状況にあわせて使うべき表現,避けるべき表現がある。比喩的にいえば,物体が固い壁に直接ぶつかるのを避けて,物体のまわりにクッションを巻いておくようなものだ。人と人との交流は,単に,話しが通じればよいではすまないことは理解いただけると思う。この点は我々が成長とともに身につけるべきいわば広い意味での“教養”である。教養に裏打ちされた英語を身に付ける努力がなければ,読者がどこに出しても恥ずかしくない英語の語り手に成長することはない。『基礎英語』は英語修業の旅の一里塚に過ぎないことを肝に銘じていただきたいと思う。

2) 郷に入っては郷に従え

かって筆者が仕事をしていた職場に滞在していたオーストリア出身のMさんは外国語を身に付ける天才のような人物であった。彼によると,はじめて滞在する国で,平均して一ヶ月で言葉を聞き取ることができ,話すことができるという。一ヶ月は割り引いて考えるとしても,少なくとも日本語に関しては,Mさんのおっしゃる通りなので,どのように鍛錬をするのかを聞いてみたところ,Mさんはつぎのように答えた。

“言葉とは歌である。できるだけ多くの現地の人々と交流し,理屈抜きであたかも歌を覚えるように聞いたり話しているうちに,少なくとも日常生活では困らない境地には容易に達することができる。”

いわれてみれば,Mさんのおっしゃることは,確かに真実をついていると思う。赤ちゃんは,お母さんから歌としての言葉を知らず知らずのうちに身につける。別の例では,外国から来た大相撲のお相撲さん。どうしてそんなに早く日本語が話せるようになったのかは,Mさんの説の通りである。外国人力士たちは,日本人のお相撲さんに囲まれ,生活をしているうちに,いつのまにか日本語を身につけたのであろう。言葉の訓練は,歌う訓練でもあることを改めて実感する。

この話には,続きがある。

筆者が駈出しの頃と違って現在では,長期であれ,短期であれ,外国に滞在する機会は必ずといってよいほどある。私は,この経験を生かすも殺すも,当人次第だといいたいのである。困ったことに,外国では,どこの国にも,大小は別にすると,必ず“日本人社会”が存在する。筆者は,角がたたないように気を使いながら,日本人との交流を極力避けることをお勧めしたい。 最初,右も左も分からないとき,例えば銀行口座を開くときなど,助けてもらえばこんなに安心なことはないかもしれない。しかしそれが発展的に拡大し,バーベキューを賞味する集まり,自動車を連ねた観光旅行などと続き,日本人社会にどっぷり浸かると,摩擦なしに逃げ出すことは事実上不可能になる。これによって,外国の文化を吸収する千載一遇の機会が失われてしまう。

筆者は,アメリカに十何年も暮らしながら,彼または彼女の無残としか言いようの無い英語に驚いた経験が何回もある。多くの場合,これらの人々のアメリカを知らなさ加減もただ呆れるばかり。察するに,彼または彼女は,日本人社会にどっぷり浸かり,帰国する頃にはその中心的人物として活躍しておられたに違いない。

マリナーズのイチロー選手が,2007年のメジャーリーグのオールスターゲームのMVPに選出された。この晴れがましい授賞式の場でのインタビューで,彼が通訳を介して日本語で答えていたのには大変なショックを受けた。アメリカに7年も滞在しながら,なぜ日本語だったのか,全く理解不能であった。下手でもよいではないか。もともと,流暢な英語など誰も彼に期待してはいないのだから。それにジョークの一つも入れば大喝采間違いなしてある。これで彼の人間としての人気は何十倍も上がったはずである。松井秀喜は,2009年のワールドシリーズのヤンキースの制覇に大きく貢献し,MVPに輝いた。この時も,イチローの場合と同じであった。

日本人大リーガーは,例外である長谷川 滋利を除くと,大同小異である。この点の努力が無ければ,真にメージャーリーガーとして成功することは難しいのではないだろうか。

野球に限らない。例えば,最近,女子サッカーの最優秀選手に選ばれた選手,チームの監督も,壇上で一言でよいから,英語でお礼の言葉を述べてほしかった。

また,国際会議こそ,外国人の友人を増やす絶好の機会である。その後,電子メールを介する交友の輪が広がり,それによって共同研究の開始など無限の可能性が開けてくるはずだからである。ボスが手の者を従えて,日本人だけがぞろぞろ群がる“悲しくもおかしい”光景をよく目にするが,これではいつまでたっても,英語のみならず,その背景にある英語圏の文化の吸収など望むべくもない。

3) 音感を磨く

ここで,もうひとつ付け加えておきたいことがある。それは音感の問題である。現在,アルファベットを用いて日本語を表示するのに,ヘボン式とよばれるローマ字綴りが主に用いられている。広辞苑第五版によれば,ヘボン(1815-1911)は,アメリカ長老派教会宣教師・医師で,ブラウン,フルベッキとともに安政六年(1856)に来日,医療・伝道のかたわら,日本で最初の和英・英和辞典(和英語林集成)を完成し,ヘボン式ローマ字を創始した。日本を背負っていく人材の育成をめざして,三人の宣教師が開いた塾は,明治十年(1877),明治学院となった。

ところで,映画少年であった筆者が,中学生,高校生の頃,手当たり次第見た映画のヒロインのなかに,キャサリーン・ヘプバーン,オードリー・ヘプバーンがいた。大学生になった筆者は,『英語研究』(研究社)に堀内克明先生が連載された記事に大変興味を惹かれ,英語の発音の練習に夢中になっていた。あるとき,pとbが繋がった単語の発音の項で,人名の Hepburnの例が出てきた。そこには,ヘボン式ローマ字のヘボンと,女優のヘプバーンは,同じ綴りであると書かれていた。私は不覚にも,大学生になるまでそんなことを考えてもみなかったのである。努力してきたつもりだったのに,自分はいったい何を勉強していたのだろうと大変なショックを受けたことをいまでもはっきりと覚えている。ちなみに,ヘボンの名前は,正式にはJames Curtis Hepburnです。ヘボン自身は自ら,平文と名乗っていたということである。明治学院は,現在では明治学院大学となったが,そのウェッブ・ページには,いまでもHepburnはヘボンと表記されている。

本来の英語の単語は,末尾が子音で終るのが普通である。また,上で述べたように、二つの子音が母音なしでつながれる例が多数ある。これは日本人には大変厄介な問題で,発音の困難さとともに,英語の聞き取り難さの原因となる。(元)駐日アメリカ大使のライシャワーは,つぎのように書いている。

The common trade name “Brother,” pronounced Buraza, contains at least four major phonetic errors. Consonant clusters and syllabic endings, as in “craft,” “dog,” or “cat,” are unpronounceable to untutored Japanese. ….. It is quite confusing when Japanese ….. convert the one syllable name of the French writer Sartre into the four syllable monstrosity, Sarutoru.
Edwin O. Reischauer: The meaning of internationalization, Seibido (1990)

日本語と英語では単語の成り立ちが違うから,Mさんの例のように,歌として徹底的に練習を積む以外に英語上達の方法はない。これは,漢文学習の場合の素読に相通ずるものがあると思う。

話がわき道に逸れるが,例えば,映画のヒロイン(heroine)は,あいにく,麻薬のヘロイン(heroin)と発音が完全に同じである。インターネットで読むことのできるメリアム・ウェブスターなどに録音されている発音を聞いて確かめていただきたい。

4) 好きこそ物の上手なれ

英語の力を向上するには,ただ日々の修業あるのみである。かといって,一日24時間英語の修業をすべきだなどといっているのではない。要は,好奇心と熱意だ。英語の修業に王道などない。“1ヶ月で英語が喋れる”など,巷に溢れる宣伝に惑わされてはならない。

読者は忙しい日程のなか,テレビゲームの代わりに,たとえ一日5分でも10分でも,“自分は英語の修業をしている身である”ことに思いをめぐらせてほしい。早朝のラジオ講座を軸に,最低でも1年間,決して休むことなく辛抱して修業を続けていただきたい。何事によらず,楽をして達成できるものなどこの世にはないということを肝に銘じることである。また,朝は頭がとくに冴える時間であるから,“オマケ”として,自らの本業に関するアイディアなどがふと浮かんでくるかも知れない。

永井荷風は次のように書いている。

“好きこそ物の上手といふ諺文学芸術の道に名をなす秘訣と知るべし。
・・・・・
読書思索観察の三事は小説かくものの寸毫も怠りてはならぬものなり。読書と思索とは剣術使の毎日道場にて竹刀を持つが如く,観察は武者修行に出でて他流試合をなすが如し。”

永井荷風『小説作法』「荷風随筆集(下)野口富士男編,岩波文庫,1986」

永井荷風は,英語が好きになることこそ,英語上達の道であるといっているのである。英語の修業が楽しみになれば,こんな嬉しいことはない。こうして,修業を積んでいけば,読者の英語の力はどんどん膨らんでいくことを保証する。繰り返えすが,それは決して平坦な道ではないことを肝に銘じてほしい。

次に引用するのは,今から600年以上も前に書かれた世阿弥『風姿花伝』のなかの“17,18歳頃の修業”の一節である。もしも読者が,自らの英語を徹底的に改善し,研究に役立てようという意思があるなら,この一節を時々そっと眺め(毎日だと怖いので),能を英語と読み替えて努力していただきたい。

“この比の稽古には,ただ,指をさして人に笑はるるとも,それをは顧みず,内にては,声の届かん調子にて,宵,暁の声を使ひ,心中には,願力を起して,一期の堺ここなりと,生涯にかけて能を捨てぬより外は,稽古あるべからず.ここに捨つれば,そのまま能は止まるべし.”

世阿弥『風姿花伝』(岩波文庫,1958年復刻)より引用

本稿を終わるに当たって,倉石武四郎『中国語五十年』(岩波新書,1973)に是非とも言及しておきたい。中国の言語と文化の研究にその生涯を捧げた倉石武四郎(1897-1975)は,次のように書いている。

“わたくしは,まだ若いとき,本居宣長の『古事記伝』をよみ,「こころとこととこころは相構えて離れず」の一句にいたり,深く推服した。宣長としては,後世のものが上代のことを研究するときの心得としたのであろうが,われわれ外国,ことに中国のことを学習し研究するものにとって,このみじかいことばこそ生涯これを服膺してもなおあまりあるものであった。”

日本語には日本の文化が,中国語には中国の文化が,また英語には西欧の文化が背中に張り付いている。しかし,世界の人々と交流し,理解しあうためには,たとえ日本語であっても,そこで展開される論理は,国の枠を越えて,文化を異にするすべての人々に通用するものでなければならない。逆に,外見は立派な英語であっても,この点に関する配慮が欠落していれば,まったく国籍不明の言語と受け取られることになってしまうであろう。テレビなどに“バイリンガル”と称する人々がしばしば登場する。バイリンガルになるためにはどうしたらよいかなど沢山の著作がこれまで発刊されている。バイリンガルは,ファッションとして憧れられているのである。

月面着陸したアポロ11号とNASA管制センターのやりとりを同時通訳した西山千(1911-2007)の言葉が遺されている。

“話し手の意図を相手の言葉で表現するのが通訳。バイリンガルだけではダメだ。社会や文化を理解したバイカルチャーにならなくては。”

5) 英語を越えて:礼節と交遊

英語の勉強にあたって,付け加えておきたい大切なことがある。それは,一言でいえば,礼節と交遊である。筆者は面倒なことをいっているのではない。その場その場の状況にあった言葉の選択が必要であることについては,すぐ上に書いた通りである。 

学校や職場の廊下での会釈,ちょっとことにでも感謝の意を表する「有難う」の一言は,いまや日本から消え去ろうとしている。エレベーターの乗り降りで,交わす何気ない挨拶もない。ドアをあけても,あとからすぐ続くひとのための,ドアに手を添える人はほとんどいない。

わたしは,30年以上も前,アメリカの大学で2年間を過ごした。さまざまな経験をしたが,日常の生活に定着した挨拶はとりわけ印象的であった。その後,大学を定年で退くまで,筆者は授業の雑談で,

“国際人として生きてほしい。しかしそのためには絶対の条件がある。英語がいくらできても,挨拶ひとつできないようでは駄目だ。”

と毎年のように話していた。それから長い年月が経過し,当時の学生のうちの何人かは,アメリカで研究生活を送っている。最近,たまたま出合ったそのひとりが,「貴殿の講義の内容は何一つ覚えていないけれど,挨拶についての意見は,自分がアメリカで生活してみてはじめてわかった」と話すのを聞いて大変に嬉しく思った。

かつては,日本には日本の礼節と交遊があった。滝田ゆうの『寺島町奇譚』(ちくま文庫,1988)には,昭和10年代に育った子供の朝の挨拶が描かれている。いまでは消えてしまったことかもしれないが,滝田ゆうと同時代に育った筆者にはあの頃が懐かしく思い出される。

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礼節と交遊を重んじる心がなければ,どんなに言葉が自由に話せても,世界の人々から尊敬を受けることはないであろう。読者は,本居宣長の教え「こころとこととことばとは相構えて離れず」を思い出しながら,英語の修練を積み,国の内外に交遊の輪を広げていただきたい。

6) 日本の英語教育

英語教育について熱心に議論が交わされる世の中であるが,よく考えておかなければならないことがある。世の中には英語を絶対に必要とする人もいれば,英語などどうでもよいという人も大勢いる。筆者は,「日本人はなぜ英語ができないのか」など,十把一絡げにして日本の英語教育を考えるのは間違っていると考える。同じ理由で,小学校の授業に英語を必修として取り入れようとしている文部科学省の方針には賛成できない。

英語に限ったことではないが,何かひとつのことを究めようと決めるのは,個人の問題ですある。どうしても,英語を身に付けたいと決心した人は,初志を貫徹すべく全力投球すべきである。しかし,英語に関心のない人にとっては,日本人の英語力改善の名のもとに,英語を押し付けられることは大変に迷惑な話しである。つまり,日本人全体を暗黙のうちに設定した英語教育という考えは成り立たない。

英語の道を進みたいと考えている人は,自分が一体何のために英語を学ぶのかを自問自答し続けなければならない。どのような目的をもって英語の修練を積むのであれ,それは英語の単なる受験勉強であってはならないことだけは確かだ。試験で高得点をとることは,英語の習熟とは直接に関係ない。これまでに述べてきたことから理解していただけたと思うが,英語の修練にあたっては日本人としての見識が必須である。文章を書くのであっても,言葉として話すのであっても,日本語の鍛錬がなければ,英語の上達など望むべくもない。すなわち,英語の鍛錬とは,日本語の鍛錬であることを忘れないでいただきたい。

日本語には日本語の論理が,また英語には英語の論理がある。自らの文化に裏打ちされた発言こそ,真の対話の道を切り開く。それには,単純明快にして誤解を生まない,論理的な文章を書き,話しをする鍛錬を積まなければならない。日本をどこまでも知り,それを原点において鍛錬するのでなければ,国際舞台で通用する,教養に裏打ちされた英語を身につけることなど,及びもつかない。言葉には,その人の人柄が滲みでる。言葉は,人それぞれを映しだす鏡である。これは,私たちが,日本語を話すときにも,英語を話すときにもつねに心すべきことである。

英語国民ではない以上,私たちの英語には逆立ちしても限界がある。しかし,自信をもって,少し大げさにいえば威厳をもって英語を話せば,理解はあとからついてくるはずである。英語には,日本人としての威厳,文化としての言葉の故郷が感じられるものでなければならない。




by yojiarata | 2012-01-25 16:40
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