荒田 先に進む前に,ES細胞やiPS細胞について,何が問題で,どこが重要なのか,何故これほどまでに注目されているかについて,専門家でない人にも理解できるように,易しく解説していただけないでしょうか。 佐藤 私たちの身体は60兆個の細胞から成っていると言われていますが,例外なく,受精卵という一つの細胞から始まっています。これが分裂して2つとなり,4つとなり,と次第に数を増やしていき,細胞の塊は次第に複雑な形態を示すようになります。そして,細胞は自身が存在する位置に従って次第に個性を示すようになるわけです。細胞の存在する位置は受動的に決まるだけではなく,自ら移動を行って新しい個性を獲得するようなことも起こります。こうして次第に様々な組織や器官が形成されるわけですが,これをマクロで見た場合に発生と呼び,細胞レベルで見た場合に分化と呼んでいます。 重要なことは,この間,細胞の核内に収容されている遺伝情報は,― 少なくとも塩基配列で定義できる情報については ― 変化がないと言うことです。喩えば筋肉や神経,皮膚や白血球など,見た目は受精卵とは全く違うものですが,核内にあるDNAの塩基配列には変化がありません。これの唯一にして重大な例外が,B細胞やT細胞といった,獲得免疫を担う細胞群ですが,このことは差し置くことにしましょう。このように,1個の細胞が遺伝情報を変えることなく様々な細胞に「分化」する様子を,Conrad Waddingtonは図1のような峡谷を転がるボールに見立てて喩えました。 ![]() 細胞は重力に従っていずれかの峡谷 ― いずれかの細胞運命 ― に転がっていき,様々な細胞に分化する。彼はこの峡谷の風景を “epigenetic landscape”と呼んでいます。それぞれの細胞が何に分化するかを遺伝子は規定しない,遺伝子は分化するための道具として利用される,という生命観を読み取ることも出来るように思われます。 彼の著書は1950年代という,DNAの塩基配列やこれに規定される種々のタンパク質に関して情報がなかった時代の産物ではあります。しかしながら,現代の科学者に於いても,分化というものを考える際のひな形として少なくない影響を残しているようです。京都大学の山中博士はNature 誌上において,自身が樹立したiPS細胞についてWaddingtonの喩えを利用して解説を試みています(図2)。 ![]() 図2 S. Yamanaka Nature 460, 49-52 (2009) Waddingtonのメタファーが示すことの一つは,重力が常に下に向かうように,分化とは一方向性のものであるということです。ひとたび筋肉や血液に分化した細胞が,受精卵のような様々な細胞を生み出す分化の「全能性」あるいは「多能性」を再び獲得するようなことは自然界では起こりません。分化全能性を持つ細胞はこれを持つ細胞によってしか産み出されない。このような細胞の系譜を「生殖細胞系列」と呼び,分化能の限定された細胞系譜である「体細胞系列」と厳格に立てわけて捉えてきたのが,古典的な生物学の常識であったと言えます。この常識を覆す研究として一躍世に出たのがクローン動物「ドリー」の誕生であり,これを前座に「真打ち」として登場したのが,iPS細胞でした。 山中博士が示すように,iPS細胞は,峡谷の底にたどり着いた細胞にある種の細工を施し,重力に逆らって分化全能性,あるいはこれに近い能力を再獲得せしめた細胞であるということができます。この「細工」は「重力」に逆らって行われるため,全ての細胞でうまくいくわけではありません。あるものは別の峡谷へ落ちていき(図の中では3で示されている),あるものは坂を登ることなく死んでいきます(4で示される)。ある確率で峡谷の上流にたどり着いたとしても,再び坂を下ってしまう場合もあります(2で示される)。坂を落ちずに多能性を維持するためには,落ちないための突起や障害物が必要となります(1で示される)。その分子的実体は明らかとは言えませんが,生殖細胞系列など全能性・多能性を持つ細胞には備わっている性質です。このようにiPS細胞が樹立されるには幾つもの条件をクリアする必要があり,きわめて低頻度でしか起こらないのが現状です。iPS細胞は良く増殖し,それ以外の細胞はほとんどの場合死滅するように培養を行うので,結果としてこれを選択的に得ることが出来ているのにすぎません。しかしながら,これは技術的な問題に属するので,今後もっと高い効率で分化の多能性を持った細胞を作ることが出来るようになるかもしれません。
by yojiarata
| 2011-12-26 16:10
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