許容線量を決める際には放射線障害の発現する放射線量の下限値が目安になります。セシウム−137に代表される全身被曝については,報告されている100 mSvがその目安となります。ICRPが勧告している平常時における一般人についての1 mSv/年という値は,100倍の安全係数を見越した値であり,100年被曝し続けてやっと到達する線量です。 ICRPは今回のような非常事態の際には,事故現場での作業従事者に対しては許容線量を250 mSvに引き上げていますが,冒頭で述べたように,これは,瞬間的な被曝と長期にわたる継続被曝の間の最低でも3倍に及ぶリスク軽減係数を考慮すれば妥当な数値と思われます。一方,一般人に対する許容線量も20 mSv/年 に上げていますが,この数値でも,まだ10倍の安全率が担保されており,放射線障害が発現する可能性は無いと考えてよいと思われます。日本政府も福島第一原発事故の避難の目安に,この20 mSv/年を用いています。本稿でも非常時ということで,10倍の安全率を見て,20 mSv/年を基準に取ることにします。 食品安全委員会は,個々の食品の暫定基準値を定めるに当たって,食品を5つの群に分け,許容線量の20 mSv/年を5等分した値を各群に均等に割り振って,各食品に対する許容線量としています。しかし,再々述べているように,この20 mSV/年という許容線量を決めるに当たっては十分以上に安全率を考慮しており,これ以上安全サイドに偏ることは,必要以上に厳しい制限を課すことになって世情不安を煽り,風評被害を助長する結果になります。そもそも,口にするすべての食品が汚染されているような生活に甘んじるというような事態はありえないのであって,止むを得ず1群か2群の汚染が問題になる程度であるはずです。従って,ここでは前節の(8)式に与えられたR0にD = 20をそのまま乗じた数値が,各食品に対する基準値を与えることにします。 チェルノブイリ原発の事故では,4, 5年後から多数の子供達に甲状腺がんの発症が見られていますが,彼らは数週間の間に数百 mSv の被曝を受けたと推測されます。甲状腺がんの発現に対する放射線量の下限値は, 200 mSvという報告3)があります。セシウム−137と異なり,ヨウ素−131の場合,半減期が短いために被曝は事故発生後3ヶ月間に限られるので,安全率を5倍にとって許容線量を40 mSv/年としても十分な安全度が担保されると考えてよいでしょう。従って R 0に40を乗じた数値がヨウ素-131に対する食料基準値Rを与えることになります。以上の結果を表2に示します。表中,暫定と記した数値は政府が与える暫定基準値です。また,括弧の中の数値は,次節で我々の体内に存在する放射性カリウム-40を基準として計算した放射能量です。 これで見ると,子供についての飲料水と野菜類のヨウ素−131のケースを除いては,本稿で求めた基準値は政府の暫定基準値より大幅に緩やかな値になっています。もし今回求めた基準値が妥当であると公認されれば,世人の食品に対する不安のほとんどは解消するでありましょう。 ![]() ただ,子供の飲料水についてだけは,母親たちの不安を完全には拭い切れませんが,この問題は,水道水を市販のミネラルウオーターで薄めてやることで簡単に解決できます。その場合,水道水の摂取を完全にやめて,ミネラルウオーターだけに切り替えることは,幼児の健康上お勧めできません。 表2の結果は大体において満足の行くものですが,チェルノブイリ原発事故では,成人に比べて小児甲状腺がんの劇的な増加が報告7)されていることを考慮すると,ヨウ素-131の基準値が子供と成人の間であまり大きくないことが気になります。本稿で進めた放射線化学的な推論に加えて,成長期の盛んな細胞分裂が放射線にたいする感受性を高めるといった生化学的な要素を論理の中に組み込む必要があるのかも知れません。 甲状腺がんについては一般に予後の経過が非常によく,手術さえすれば助かる確率が極めて高いこと4)が知られています。チェルノブイリ原発事故では約6000人の子供が甲状腺がんにかかっていますが,そのうち死亡者は0.25%の15人であったと報告8)されています。この死亡率の低さは,世の母親たちにとってせめてもの慰めになるのではないでしょうか。さらに,日頃から海産物を豊富に摂取している日本人の場合には,甲状腺が非放射性ヨウ素で飽和しているためにがんに罹る割合がさらに下がることが期待できることも朗報でると言えましょう。 前節で採用した許容線量の正しさを裏付けるもう一つの考え方があります。それは,我々が元々体内に抱えているカリウムー40の放射能のことです。われわれの体内には,同じ程度の炭素—14の放射能もありますが,その壊変エネルギーは最大で0.2 MeVと小さいので無視することにします。結局,前に述べたように,成人の体内では4300ベクレルの放射壊変が起きておりながらなんらの不都合も生じていないのです。 セシウムはカリウムと同族のアルカリ金属元素ですので,両者は化学的性質が似ており,体内に摂取されたセシウム-137は全身の筋肉に分布する点も,体の組織に取り込まれているカリウム-40と類似しています。従って,その放射線効果は,壊変エネルギーの違いを除けば全く同じと考えてよく,カリウム-40の体内存在量を目安にすることには正当性があると言うことができます。 そこで,このカリウム-40に対する4300ベクレルを安全基準として受け入れることにして,食品に対する基準値を計算してみます。カリウム-40の壊変エネルギーは1.4 MeVほどですが,その89%は純粋のβ壊変で,壊変エネルギーのおよそ三分の二はニュートリノが持ち去ってしまうので,実質的な壊変エネルギーを0.5 MeVと見積もって計算すると (9) R = 4300×0.5/(WR・Ed・w・fa) という式が得られます。この式に従ってセシウム-137について計算した基準値を表中に括弧にいれて示します。 結果は,許容線量を年間10 mSvとして計算した値と極めて近い値となり,前節で,許容線量として20 mSv/年という値を選択したことと矛盾しない範囲であると考えてよいでしょう。 東京電力福島第1原発の事故後,世人の政府,東電に対する不信感が増幅され,被曝レベルについても,“安全である” とか “心配する必要はない”という発信を信用しようとせず,逆に “危険である” という発言を受け入れる傾向が顕著になりました。そのため,必要限度を遥かに越えて健康被害に対する懸念が広がる結果になり,風評被害が強まることにも繋がっています。これはまさに自虐的な行動であって,不安を煽り精神衛生上も好ましいことではありません。政府もまたしかり,世論に押されて,放射線障害の実態を正しく解明せず,無駄に労力と国費を浪費しているのです。 次に農作物について考えます。農作物に対する評価は,収穫時に上の表に掲げた数値が満足される様な土地の表面汚染の値を求めることになります。結果は,地表の許容表面汚染が (10) B = R/(S・fdfb) で計算されることになります。ここで,Sは着目する農作物1 kgを収穫するに要する耕地面積(m2),fdは地表面に堆積した放射能が土壌中に分散する割合,そして,fbは土壌中の放射能が根を通して取り込まれる割合を表します。 セシウム-137の場合,地表から地下5 cm への移行は10分の1以下であることが見出されています10)。そのことを考えると,十分な安全度を見ても fd の値を0.1とすれば間違いないと思われます。しかしながら,農作業の場合は作物の作付けをする前に,かならず土地の鋤返しを行うので,人工的に放射能を土中に分散させてしまうと考えなければなりません。鋤返しの深さと作物の根が張る範囲を考えると fdは0.5程度にとるべきであろうと思われます。一方, fb については,この割合はかなり小さく,最大でも0.1と見做せば十分である10)ことが知られています。 代表的な例として,米と野菜について第2表の食品基準値 Rを基にセシウム-137の許容表面汚染を計算すると,仮に1 m2辺り1 kg の収穫があるとして, 米について2万8千ベクレル/m2,野菜については根菜類にたいしては3万8千ベクレル/m2,となります。むしろこの場合は,農作業の間に作業従事者が呼吸等で体内に取り込んだ放射能の方を問題にする必要が生じるかも知れません。ともあれ,現時点で,特に汚染度の高い地区を除き,福島県の農家に田植えを延期させる必要は全くないことは確かです。今秋,福島,宮城,茨城の各県で収穫した米にほとんど問題になるほどの放射能汚染が見られなかったことは,ここでの結論の正しさを裏付けています。 葉物についてはフォールアウトが問題になるので, fdと fbの代りに洗浄効果を仮に80%と考えて導入すると9500ベクレル,50%でも3800ベクレルとなって,この場合もまず心配する必要は生じないという結論になります。 次に,茨城県で最盛期を迎えているイカナゴ漁ですが,イカナゴの佃煮や,アサリ,シジミを毎日200gも食べることはあり得ず,摂取量を例えば20 gとすれば基準値は4万2千ベクレル/kgとなって規制は大分緩くなります。恐らく茨城の漁民の皆さんはイカナゴの漁をやれることになるのではと思われます。 最近茨城産や静岡産の茶葉に含まれるセシウム-137の量が基準値を超えているということで出荷禁止となり,処分されることになりました。この場合も一日に摂取する茶葉はイカナゴと同じ程度と見るべきで,全然心配する必要は無いレベルであったと言えます。 上に述べてきた論理を推し進めると,汚染された環境で生活している場合の内部被曝についての許容線量を求めることも可能です。ただし,それには環境からどれだけの放射能を取り込むかが分かっている必要があります。この場合の許容内部被曝線量を表す式は,環境に対する許容線量 R に対して (11) B = R/( fa fs) で与えられます。ここで, fsは環境から取り込む放射能の割合で,仮に0.05と取ることにします。この仮定はおおむね妥当な線であろうと思われます。 ICRPの勧告の1 mSv/年をR に取って許容汚染濃度を求めると, 4.3 mSv/年 = 0.49 μSv/時となります。これは成人に対する値であり,1日8時間屋外作業をするとした時の許容汚染濃度は1.47μSv/時となります。 一方,体重25 kgの小学生については,許容汚染濃度は0.25μSv/時となりますが,校庭での屋外活動は8時間以内と見積もられますので,許容汚染濃度は0.75μSv/時となり,目下福島県が目指している0.5μSv/時以下という数値が達成されていれば,子供の屋外活動にはなんの問題もないと結論されます。 福島市内の線量を当局が測った結果,高いところで3 ないし4μSv/時であったという報道がなされました。現在ようやく伊達市や福島市で除染活動が開始されていますが,精々半分程度に線量率を下げるところまでしかできないようです。その一方で,広島の例で見ると,原爆投下後まだ2半減期余りの66年しか経っていないのに,市内の放射能レベルはバックグラウンド・レベルにまで落ちていることが確認さています。毎日報道されている福島県内の空間線量率を調べても,放射能減衰よりもかなり早い速度で放射能レベルが下がりつつあるのは確かなようです。今後は,それらの事実を踏まえながら除染計画を立て,避難することもできず市内に留まっている人達や遠隔地に避難している人たちを助ける方策を講じていくことが望まれます。 以上の結果からみて,農作業や漁撈は大幅に規制を緩めることができるのではと考えられますが,問題は折角そうやって収穫した生産物が売れない,食べてもらえない,買いたたかれるという風評被害をどう解消するかにあります。それには,こうやって定めた食品の安全基準値を超えたら危険というのではなく,この基準値を遵守する限り絶対安全であることを徹底すべく大々的なキャンペーンを繰り広げ,同時に,被災地に援助の手を差し伸べる重要な手段の一つとして,被災地で生み出される食品や工業製品を積極的に買い求める運動を繰り広げることであろうと考えます。風評被害を払拭する決め手は,理論的に裏付けられた基準値を国民に提示し,断固とした態度でそれを徹底させる政府の行動にあります。 ここで強調したいことは,放射能は浴びても大丈夫だと言いたいのではないということです。反原発グループの人たちの言を借りるまでもなく,余分な放射能は1ベクレルたりとも浴びるべきではないというのはもっともな心情であす。ただ,現実に原発事故が発生し,われわれの周囲に放射能汚染が広がってしまった現状の中で,我々は生きていかねばならないという現実から逃れることはできないのです。我々が生き残るためには,放射能に対する正しい知識を身につけ,互いに助け合い,安全限界を見極めて,日常生活を送らねばならないのです。 食品の安全と内部被爆の問題については,特に世人の関心が強いと思われますので,読者の判断の助けになるべく,参考文献を示しておくことにします。 1) 須賀新一,市川龍資“防災指針における飲食物摂取制限指標の改訂について” 解説,保健物理 Vol.35,No.4,449 (2000) 2) H. TANOOKA,Int. J. Rad.Biol. 87,645 (2011) 3) 今岡達彦“放射線の生体への影響〜福島原発事故のリスクを理解するため に〜”,福島原発事故特別シンポジウム,2011年日本放射化学会年会,第55 回放射化学討論会(2011) 4) 向井清,眞鍋利明,深山正久編「外科病理学」I 第4版,文光堂(2006) 5) 日本原子力学会 “FOCUS 被曝の仕方と人体への影響”,日本原子力学会誌,Vol.53,No.5 (2011) 6) 厚生労働相健康局総務課生活習慣病対策室,平成20年国民健康/栄養調査報告,平成23年1月 7) ICRP Publication 78: “Individual Monitoring for Internal Exposure of Workers, Annals of the ICRP Volume 27/3-4, Replacement of ICRPPublication 54”,Stratford Books (1998) 8) 岩崎民子 “放射線の人体影響についてのQ&A”日本原子力学会誌,Vol.53,No.8,55 (2011) 9) 長滝重信,山下俊一“チェルノブイリ事故の医学的影響”日本原子力学会誌,Vol.53,No.6,26 (2011) 10) 内田滋夫,田上恵子,石井伸昌 “環境における放射性核種の分布と動態 1. 土壌における放射性核種の挙動特性” 解説,日本原子力学会誌,Vol.53,No.9,27 (2011) 追記 『現代化学2012年3月号』に馬場宏博士の記事[福島第一原発事故から1年 食品放射能の許容値を考える]が掲載されました。
by yojiarata
| 2011-11-23 17:15
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