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五代目古今亭志ん生さん 語りの藝術 Ⅰ



人には誰でも,神棚に祀って敬いたいような特別な存在があると思う。筆者についていえば,五代目古今亭志ん生さんは正にそのような存在である。

常識的な分類をすれば,志ん生さんは落語家である。それも飛び切り素晴らしい落語家である。しかし,飛び切り素晴らしい落語家は必ずしも珍しくない。戦後にも,人間国宝に選ばれた落語家がいる。少なくとも筆者は,それだけの理由で志ん生さんを神棚に祀ることはない。

人情噺は,落語とは一線を画す語りの藝術である。筆者が志ん生さんを神棚に祀りたい理由は,人情噺の世界で,志ん生さんに並ぶ人が何処にもいないからである。志ん生さん自身の言葉を借りれば,志ん生さんは「この世に二つという珍品」なのである。少なくとも,筆者はそう信じ,志ん生さんを神棚に祀っている。長年教職にあり,自分を伝えることを生業としてきたものにとって,志ん生さんの人情噺は,類まれなお手本である。

ポニーキャニオン版『火焔太鼓』(昭和32(1967)年収録)を取り出して聴いてみる。噺の緩急,間,発声(音声の強弱,高低),志ん生さんの落語芸が炸裂する。武家屋敷に太鼓を持っていく古着屋の亭主,応対に出た家老とのやりとり,お上が300両で買い上げるとお決めになったとの答えに飛び上がる古着屋が理由を聞く。

「・・・ その方はあれがわからんのか。・・・ お上はお目が高い。あれは 火焔太鼓と申して世に二つというような名器であって国宝に近い物であると こういうことをいっておるがな。・・・ 」
下線は筆者

志ん生さんをこの境地にまで引き上げたのは,長年の人生経験に裏打ちされた落語の修業,人情噺の鍛錬,とくに三遊亭圓朝の速記本の熟読,それに加えて,天性の声である。

志ん生さんの語りの魅力

以下,志ん生さんの長女・美濃部美津子さんの『おしまいの噺』(アスペクト,2005),志ん生さんが脳梗塞で倒れてからの3年間,60キロの志ん生さんを背負って世話をした三遊亭圓菊師匠の『背中の志ん生』(うなぎ書房,2001),『圓朝全集』全13巻(春陽堂,1926),『古今亭志ん生名演集』全42巻(ニッポン放送,ポニーキャニオン)をもとに,私の古今亭志ん生を語りたい。ちなみに,『三遊亭円朝全集』全8巻 (角川書店,1975-1976年)も私の手元にある。春陽堂版,角川書店版はともに,筆者が神田神保町の古書店で大枚を投じて購入した。現在は,いずれも入手が困難である。

聴衆を前にして,講演をする場面を想定する。筆者の場合であれば,学生を前にして話す講義であることもあれば,学会で講演することもある。

話すからには,だれしも,面白くて,ひとを惹きつけるはなしをしたいと思うはずである。それには,どうしたらよいか。しかし,誰にでも共通にあてはまる答えなどない。ひとはそれぞれ違うから面白いのである。声の高さも違えば,抑揚,アクセントなども,出身地によって異なる。これらのさまざまな特徴が盛り込まれた,個性的な話しであればあるほど,聴衆の注意を惹きつけることができる。しかし,話しをするのは人間である。人間であれば,成功することもあれば,失敗することもある。この点を当然のこととして考慮に入れて,失敗も人間的な魅力と開き直って講演に備える。

再び,志ん生さんにもどる。どのような名人であっても,講演には好不調がある。志ん生さんは,それがとくに極端な噺家であった。絶好調の志ん生さんの噺は,文字通り名人の噺で,なんともいえない自然な滑り出し,さりげなく絶妙な“間”,山もあり谷もある噺の見事な流れ,それらが醸し出す志ん生さんならではの個性的な世界は余人の追随をまったく許さない出来であった。声の大きさと抑揚も,巧まず演出されていた。

一方で,バランスを崩した志ん生さんは,これがあの志ん生さんかと耳を疑うような噺をすることがあった。現在入手できる落語のCDのなかでは,志ん生さんのものがもっとも多い。同じ演題の噺を聞き比べてみれば,私のいっていることが理解いただけると思う。私が,志ん生さんを演説の神様だと信じている理由もそこにある。いかに名人といえども,演じるのは人間である。輝く成功と残念な失敗は,名人志ん生さんの噺であればこそよくわかるのである。

志ん生さんは,昭和30年代の前半から,病に倒れる昭和36(1961)年暮れ」までの間,三遊亭圓朝(1839-1900)の作品を中心に,人情噺に積極的に挑戦している。

三遊亭圓朝は,新しい落語をつぎつぎに創作し,その“速記本”が当時の新聞に連載されて大変な人気を博していた。そのなかで,『怪談牡丹(ぼたん)燈籠(どうろう)』(牡丹燈籠),『指物師(さしものし)名人長二』(名人長二),『安(あん)中草三(なかそうざ) 後(をくれ)開榛名(ざきはるなの)梅香(うめがか)』(安中草三牢破り),『鶴殺疾刃(つるころしねたばの)包丁(ほうちょう)』(御家安(ごけやす)とその妹),『塩原多助一代記』,『鰍沢(かじかざわ)』,『心中(しんじゅう)時雨傘(しぐれがさ)』,『怪談阿三(おさん)の森』,『文七(ぶんしち)元結(もっとい)』などを演じた志ん生さんの口演がCD(制作ニッポン放送,ポニーキャニオン)として残されている。圓朝の台本の題と,志ん生さんの録音の演題が異なる場合には,( )のなかにCD版に記された演題を記入した。人情噺に分類されるこれら一連の圓朝作品の録音は,志ん生さんが晩年に到達した話術の高い境地を後世に遺す貴重な文化遺産である。

志ん生さんは,『安中草三』の出だしのところで,一呼吸おいたあと,つぎのように噺をはじめる。

人情噺というものは明治の頃は盛んに行われたものでありまして,人情噺ができないと真打になれなかったのであります。

土浦の牢内で一緒になったヤクザの白蔵に問われて,草三郎が生き別れになった母親の思い出を訥々と涙ながらに語る場面はとくに印象的である。

志ん生はここで,まったく別の噺である『怪談牡丹燈籠』のつぎのくだりを実に効果的に取り入れている。自分の親の仇だとは知らずに草履取として奉公に上がった孝助に,主人の飯島平左衛門が問いかける。

平「親父はまだ存生(ぞんしょう)か。

孝「親父も亡くなりました。私には兄弟も親類もございませんゆゑ,店受の安兵衛さんに引取られ,四歳の時から養育を受けまして,只今では叔父分となり,斯様に御當家様へ御奉公に参りました,どうぞ何時までもお目掛けられて下さいませ。

と云ひさしてハラハラと落涙を致しますから,飯島平左衛門様も目をしばたゝき,

平「感心な奴だ,手前くらゐな年頃には親の忌日さへ知らずに暮らすものだに,親はと聞かれて涙を流すとは親孝行な奴ぢやて,・・・・・
三遊亭圓朝『圓朝全集 巻の二』春陽堂


発声についても,志ん生は群を抜いていた。演説の効果を高めるためには,発音の明快さとともに,発声の強弱のバランスが必須である。人情噺の場合は,それがとくに顕著になる。志ん生さんは,三遊亭朝太からはじまって,昭和十四年,五代目古今亭志ん生を襲名するまでに,16回も名前を変えている。その間,一時,小金井蘆風を名乗って講談の修業を積んでいる。

『安中草三牢破り』のなかで,籠に乗った主人公の恒川半三郎が,二人の刺客に襲われるくだりを語る志ん生さんの噺は,まるで素晴らしい映画を見ているような緊迫感がある。絶品というほかはない。ここでは,講談師として修業を積んだ志ん生の経験が見事な効果をあげている。

一方,生き別れになった母親を回想する場面には,刺客との立ちまわりを語る志ん生さんとはまるで別人の志ん生がいる。これがほんものの話芸というものではないだろうか。

演説には,聞き手の予測を超えた即興性が求められる。この点については,志ん生に関する限り異議を唱える人はいない。これはいわば天性のものである。しかし,どのように即興性に優れていても,周到に準備された演説でなければ聞き手のこころを捉えることはできない。わたしは志ん生さんの人情噺を聞くたびに,志ん生さんが日頃どのような準備をして高座に上がっていたのかを考える。後で述べるが,志ん生さんの自宅には,『圓朝全集』全十三巻が並んでいたということである。



つづく

by yojiarata | 2011-06-16 15:00
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