古来,西洋の哲学者達は,水が土に変わると信じていた。Newton や Leibniz も議論に参加している。17世紀を代表する化学者Boyle も例外ではなかった。どのように慎重に蒸留した水でも,蒸発すると,あとに必ず土が残ると Boyle は書いている。Lavoisier は,1770年,フランス科学アカデミーで,”On the Nature of Water and on the Experiments adduced in Proof of the Possibility of its Change into Earth” と題する講演と行っている。大量のサンプルを用いて,実験を繰り返したLavoisier は,「土」は,蒸留に用いた容器からの溶出物であると結論している。容器からの溶出物であるとの結論は,奇しくも,ポリウォーターの場合と同じである。しかし,ポリウォーターの場合と異なっているのは,大量の試料を用いて実験した Lavoisier の 徹底した 化学 の 姿勢である。 微量のサンプルを用いて得たきわめてあやふやな限られたデ-タをもとに,強引にポリウォーターの結論が引き出された。人々は,議論の基礎になっているデ-タに化学の裏付けがなく,それが幻であることを忘れ,面白おかしい部分に夢中になった。さらに悪いことに,高名な分光学者,理論化学者が続々と研究に参入,興味ある「ポリウォーターの構造」が Science,Nature につぎつぎに発表された。これらの論文について共通にいえることは,化学の裏付けが専門誌に発表されることなく終わっていることである。ポリウォーターは,結果においては,ファッションであったことは否定できない。 ポリウォーターの頃,マイクログラムではなく,グラムの量のサンプルがあれば,事態はまったく違っていたであろうことは容易に想像できる。化学には,充分量のサンプルがつねに必要である。必要なサンプル量は,それぞれの時代で手にすることのできる分析技術に依存している。必要にして充分な量をサンプルを手にする,粘り強い実験だけが時代を切り開く点に関しては,今も昔も変わりはない。 ポリウォーターのあと,さまざまな「驚異の水」が登場した。雪を溶かしてつくった水が,やけどに対して驚くべき鎮痛効果,治癒効果を発揮するとの説,同じく,雪からつくった水に構造の記憶があるとの説はその例である。10-24-10-30モル (!) の濃度の抗IgE血清が好塩基球の脱顆粒活性を保持しているとの説は,タンパク質が存在した事実を水が記憶しているのかも知れないという点で大きな反響をよんだ。Nature は追試チームを編成してデータを集め,その結果を誌上に掲載した。ポリウォーターに比べてきわめて短時間のうちに収束した出来事であったが,ここでも,サイエンスに対する西洋民族の姿勢について,さまざまなことを学ぶことができる。 水のもつ未知の可能性を引き出したいという願望がある。この願望は,近年さまざまな思惑から,急速に社会全体に広がりつつある。異口同音に,《水はまるで分かってない,とにかく面白い》という。確かに分からないことが多く,面白いのは事実であろう。しかし,ベンゼンでも,グルコ-スでも,タンパク質でも,同じように分からないことが多く,面白いと思って熱心に研究している人がいる。一体何を目的にして,何を研究するから,分かってないことが多く,面白いのかを明確にしなければ,真面目な議論の対象にはなりえない。 水には,(正確には,水溶液には),未知の可能性が秘められている。しかし,われわれがなすべきことは,慎重な実験にもとづく真面目な議論であることはいうまでもない。実験の再現性など,中学生でも知っている当たり前のことを当たり前とすることなく,丹念に実験デ-タを積み上げて,先に進まねばならない。新たな可能性の開拓は,いかにも退屈な辛抱強い化学の努力の延長線上にしかない。Cavendish,Lavoisier をはじめとする偉大な先人が残した化学の教えは今も生きている。 ![]() Paul Caro の著書に次の記載がみえる。 It was believed that this was a type of polymerized water, and it was even feared that if this gel were to escape from the laboratory, it would contaminate ordinary water and replace it, which would be disastrous for life as we know it. Many researchers, including theoreticians from all over the world, worked enthusiastically on this fashionable problem under the spotlight of the media -- the subject was even covered by the Wall Street Journal – until August1973, when the discoverer himself announced that “polymerized water” was just a solution of the silica from the quartz capillary tube. ![]() [フランス語で書かれた原著(1992)の Patricia Thickstun による英語訳]:なお,赤字と下線は筆者による。 Kurt Vonnegut, Jr. (1922-2007)が 1963年に執筆した Cat's Cradle には,想像の産物 ice-nine が登場する。 ![]() Felix Franks の著書 の193ページには,Kurt Vonnegut の次の言葉が引用されている。 Pure research men work on what fascinates them, not on what fascinates other people. なお,ice-nine は,1万気圧近くの高圧で実際に生成する 氷Ⅸ とは全く関係がない。 「ポリウォ-タ-」 はいつの世にもある。われわれは,この教訓をないがしろにしてはならない。メディアに翻弄され,ファッションと化した研究は研究でなくなる。そして,真実は,つねに,誰にも理解できる単純明解なものである。
by yojiarata
| 2011-05-22 18:30
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