10年にわたって,世界の研究者の知的興味を刺激し続けたポリウォーターは,数々の貴重な遺産を遺した。 1) 実験化学の方法論 いかなる物質観も,その根底に化学がなければ砂上楼閣である。化学を軽んじるものは化学に泣く。化学を確立には,その時代の実験技術に見合った充分な量の試料を手にすることが本質的である。試料の量が律速になる実験は,人々を納得させる信頼性のある成果にはつながらない。初期の頃,実験に用いられたポリウォーターの量は,マイクログラムの程度であったと推測される。Lippincott の論文には,赤外線吸収スペクトルの測定にあたって分析を慎重に行ったと記されている。しかし,実際に測定に用いられた試料の量は,当時の分析技術から見て充分でなかったとしか考えられない。 ポリウォーターを大量に集めようとして,さまざまな試みがなされている。ポリウォーターの異常な性質に注目して,高圧のもとで大量(100mg 程度)の製造を試みた実験は失敗に終わっている。 2) 実験データの解釈 Lippincott の ポリウォーターの出発は,赤外線吸収スペクトルの解釈である。観測されたスペクトルのいかに化学構造に結びつけるか,すなわち,いかに正しく帰属するかは,分光学的方法の根本にかかわる問題である。Lippincottが,OH 伸縮振動に対応する吸収であるとした帰属は誤りであった。コンタミの吸収を OH伸縮振動によるものとして,“対称的な水素結合”のモデルが作り上げられた。現代化学においては,分光学的方法のしめる比重はきわめて高いだけに,得られたデータの取り扱いには,今後,ますます重要になるであろう。 3) 計算と化学 ポリウォーターの性質も,ポリウォーターの構造も,あまりにも異常であった。Lippincott にはじまるポリウォーターの構造モデルに共通な点は,H2O 分子同士の結合の様式が,水素結合の直感的な常識を越えている点である。量子力学計算によって ポリウォーターの異常な性質を説明しようとする試みが盛んに行われた。例えば,平面正6角形を基本とする ポリウォーターの構造において,“対称的な水素結合”と“非対称的な水素結合”のどちらがエネルギー的に有利かなどの議論が熱心に行われた。 量子力学的な計算によって,実験値と矛盾しない結果を得ることは可能である。しかし,どのように膨大な量子力学計算を行おうとも,それは完全に厳密な計算ではあり得ない。仮にそれが実現可能であるとしても,得られる結果は,実験を説明するための必要条件であり,計算によって,想定した構造モデルが真であることを証明することは不可能である。この点は,実験化学においてつねに,最大限の注意を払って対処すべき問題である。 4) 液相の分子論的理解 ポリウォーターの出来事は,液相の構造の議論も大いに刺激した。ポリウォーターの構造に知恵を絞った人々は,高圧のもとで出現する氷多形中の歪んだ水素結合の存在に注目した。ある種のガスハイドレートにみられる構造も,モデルの構築の参考にされた。極端な条件における水の構造という観点で,共通点を見出そうとしたのであろう。しかし,通常の条件で存在するポリウォーターと,高圧の条件のもとではじめて出現する氷多形の間には,常識では受け入れ難い隔たりがある。ガスハイドレートは,ゲスト分子が存在することによってはじめてその構造が保たれることはすでに述べた。 “対称的な水素結合”の存在の可能性は,超高圧(100万気圧以上)の条件下で生成する氷多形において議論されている。 ポリウォーターの議論はまた,液相系を分子の言葉で理解する場合に遭遇する困難とも切り放して考えられない。ポリウォーターの構造モデルは,基本的には,ただ一種類の分子種を前提として議論が進行した。しかし,議論の対象となるのは液体である。すでに繰り返し述べたように,液相は,時間的にも,空間的にも不均一である。少なくとも現時点では,われわれは,このような系を対象とした構造研究の手段をもたない。この点に関しては,あとでさらに議論を続ける。
by yojiarata
| 2011-05-22 18:34
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