水の日本語がある。 春となれば,霞が棚引く。夏山から雲海を見おろす。奥山に分け入れば,霧が音を立てて流れる。晴れ渡った冬の里に風花が舞う。 大槻文彦著:『新訂大言海』(冨山房,昭和31(1956)年)の[みづ]の項には,つぎのように記されている。(引用の一部を省略) 水[此語、清濁両呼ナレバ、満(ミツ)の義カ、終止形ノ名詞形ハ、粟生(アハフ)ノ類、水ノ神ノ罔象(ミヅハ)、美都波(ミツハ)(神代紀、上十)アリ](一)流動物。所在ノ地ヨリ沸キ出ヅ。空気ト共ニ、最モ人ニ要アリ、熱ニ遭ヘバ、湯ト成リ、気ト成リ、寒サニ遭ヘバ、氷ト成ル。(二)酒ノ稱。(酒ハ米ノ水ナレバ云フ)萬葉集十六十三「味飯ヲ、水ニ醸ミ成シ、吾ガ待チシ、代リハゾナキ、タダニシアラネバ」(略解ノ訓)水にするトハ、流ス、無クスルコト。叉、休マスルコト。(相撲ニ)水にゑがくトハ、映リ、忽チ消ユノ意。水に流すトハ、拭フ、白紙トスル意。叉、忘レ去ルコト。水を汲むトハ、凧ニ云フ語、スクフ状ヲ云フ。水の泡トハ、極メテ消エヤスク、ハカナキコト。水も漏らさずトハ、少シノ間隙モナキニ云フ。叉、交リ極メテ親シ。情密 伊勢物語、第二十八段「ナドテカク、逢フコガタミニ、ナリニケン、水もらさじト、結ビシモノヲ」水を差すトハ、人ノ濃キ中ニ、水ヲ加ヘテ薄クスル意ニテ、中違(ナカタガヒ)セシム。水の垂るトハ、極めて麗ハシキ意。 国技・相撲の水は,平安朝の宮中行事のにすでに記録されているという。「水をつける」,「力水」,「水入り」などの言葉とともに,水は相撲の歴史とともにあった。 水といえば,鎌倉前期に鴨長明が書いた『方丈記』の冒頭の文章を思い出すはずである。 ゆく河の流れは絶えずして,しかも,もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは,かつ消えかつ結びて,久しくとどまりたる例(ためし)なし。世中にある人と栖(すみか)と,またかくのごとし。 奥州各地に行脚した松尾芭蕉の俳諧紀行『奥の細道』には,元禄二年三月二十七日,門人曾良と共に江戸深川を出発する心境が,つぎのように記されている。 千じゅといふところにて舟をあがれば,前途三千里のおもひ,むねにふさがりて,幻のちまたに離別のなみだをそゝく 近松門左衛門の曽根崎心中の次の件も心に響く。
水をこれほど大げさに,かつ情感を込めて描いた人を私は知らない。このような水の発想は,西洋の論理からは決して出てこないと思う。水を深く考えれば考えるほど,日本と西洋の対比に至る。土井利位の雪とWilson Bentleyの雪を比較しながら,先人の言葉に耳を傾けるとき,三十一文字の国・日本を実感する。 蛇足ながら,文楽・曾根崎心中を実際に観覧したことのなかった筆者は,この件を書くために,偶々国立小劇場で上演されていた公演の最前列の席を予約した。初めて聴く太鼓の独特の音色が極めて印象的であったが,心中の場面が近代風に脚色されていて,少々落胆した。気のせいか,観客席には若い女性が大勢いたように思う。彼女たちは,ガヤガヤと心中場面のことをディスカッションしながら,会場を後にしていた。 越後の雪の記録を記述した鈴木牧之の『北越雪譜』(1836)より 天造の細工したる雪の形状奇々妙々なる事下に図するが如し。其形の斉からざるは,かの冷際に於て雪となるとき冷際の気運ひとしからざるゆゑ,雪の形気に応じて同じからざる也 雪の結晶のかたちがひとつとして同じでないのは,雪が天空の彼方で作られるとき,環境の違いを反映して,そのかたちがすべて異なるというのである。『北越雪譜』には,さまざまなかたちの雪の結晶のスケッチが載せられている。 『北越雪譜』に掲載された雪の結晶の絵は,『北越雪譜』が出版される三年前,下総古河の第11代藩主であった土井利位が自費出版した『雪華圖説』がもとになっている。土井利位は,大阪城代,京都所司代,そして江戸本丸老中を歴任した多忙な殿様であったが,30年にわたって雪の結晶を観察し,200葉近い雪の結晶の図を,『雪華圖説』(天保3年,1833年),続いて『続雪華圖説』(天保11年,1840年)として出版した。 土井利位の描いた雪の図のうちの35葉を鈴木牧之が模写した雪の結晶の図が『北越雪譜』に掲載された。高橋喜平は, 美しい雪の結晶の図は,江戸時代の人々を魅了し,雪華文様が流行するほどになった。 土井利位に関連の事柄に興味のある読者は,茨城県古河市にある古河歴史博物館のウェッブ・ページを参照するとよい。
by yojiarata
| 2011-05-18 18:30
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