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ミネラルウォーター

幸田露伴は,大正六(1917)年に執筆した『水の味』の冒頭に,

一切の味は水を藉らざれば其の味を発する能はず。・・・ 味を解きて人に伝ふるものは,実に水の力なり。

と書いている。

食塩(塩化ナトリウム,NaCl)は,誰もが塩辛いと感じるが,そのためには,水溶液中で解離したナトリウムイオンNa+と塩化物イオンCl-の両方が必要である。私は,学生の頃,塩化カリウム(KCl)を味わってみたことがある。食塩とは似てもつかない無味乾燥な味で,砂を噛むとはこのことかと実感した。

われわれの口のなかには,舌から喉にかけて,上皮に味を感じる組織である味蕾が集まっている。味蕾の表面には,食べ物に含まれる水溶性の味物質を感知するための受容体タンパク質が,味細胞を取り囲む細胞膜の表面から頭を突き出して,味物質の到来を待ち受けている。塩辛さを感じるためには,ナトリウムイオンNa+と塩化物イオンCl-の両方をあわせて感知しなければならないのである。

さまざまな処理を経て蛇口から出てくる水道水の味が悪いと不満の人が増え,スーパーにはミネラルウォーターのペットボトルが並び,多くのひとびとがこれを購入するようになった。しかし,ミネラルウォーターの値段は,牛乳,ガソリンとほぼ同じ,東京都の水道水(実際には上下水道の料金)の約300倍である。世の中が豊かになった(贅沢になった)ことと,ミネラルウォーターの消費の伸びと無縁ではないといわざるをえない。

我々一家では,東京都水道局から供給され,蛇口から出てくる水を愛飲している。少なくとも現時点では,水がまずいと思ったことは一度もない。

日本ではじめてミネラルウォーターが発売されたのは,いまから70年近く前,アメリカの進駐軍によって持ち込まれてのがはじまりだったと理解している。このように,日本の場合には,実際にミネラルウォーターが人々の生活に広まってきたのは,ごく最近のことである。

これに対して,ヨーロッパでは,ミネラルウォーターは長い歴史をもち,人々の生活に密着している。『オックスフォード英語辞典』(OED)には,16世紀に書かれた 次の文章が引用されている。

Thys minorall water is cleare. --- and springeth out of sande.

ミネラルウォーターは,地下水が自然に涌き出てくるもの,ポンプによってくみ出したものがある。地下でさまざまな地層と長期間にわたって接触している間に,さまざまな陽イオン,陰イオンが溶け込む。したがって,水素イオン濃度(pH)も異なる。

日本とヨーロッパでは,ミネラルウォーターの定義自体が異なる。

ヨーロッパの場合には,汚染から厳重に保護された地区の地下の水源から汲み上げた鉱泉水を,空気に触れさせることなく,そのまま,ろ過も滅菌もしないで瓶詰めにして出荷される。

これに対して,日本産のミネラルウォーターは,ろ過,非加熱滅菌(オゾン,紫外線を用いる),加熱滅菌などの処理が施されたものである。このため,ろ過も滅菌もしないヨーロッパのミネラルウォーターは,とくに,ナチュラルミネラルウォーターとよぶことがある。

これは,水に対する考え方の違いであるともいえるが,何でもかでも,滅菌して清潔にすることが,必ずしも,人間の健康に最適であるとは限らない。好むと好まざるとにかかわらず,人間はさまざまな雑菌に取り囲まれて生活しているからである。

ここで断っておかなければないことがある。

この世に
H2O だけからなる“純粋な”水は存在しない

如何なる手段を用いて精製しても,水を蓄える容器から何らかの化学物質が溶け出てくる。そもそも,現在使用できる実験装置で水を分析しても,1 ppt (1リットルの水に溶解している1マイクログラムの物質)以下の検出は不可能である。検出が不可能な微量の物質が含まれていても,それが何物あり,どれくらいの量かということがわからないだけである。繰り返すが,この世に純粋な水は存在しないことは断言できる。

水の味を決める重要な因子は,水に溶けているさまざまな物質である。大きく分類すると無機化合物と有機化合物になる。かつて私が所属していた研究所で,入手可能なミネラルウォーターに含まれるすべての金属イオンの定量分析をしたことがある。その結果をまとめたのが図である。縦軸は対数である。この図からわかるように,それぞれの金属イオンの濃度には,大きなばらつきがある。

実際に水の味を決めるのは,ppm(1リットルの水に溶解している1ミリグラムの物質)程度以上の濃度で存在する主成分である。この濃度に該当するのは,陽イオンでは,Na+,Ca2+,Mg2+,K+である。5種類のミネラルウォーターに,これらの成分をどれくらい含まれているかを表にまとめる。
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表のなかで, A,B は日本ミネラルウォーター,C,D,E はヨーロッパ産のミネラルウォーターである。ここでは,代表的な陽イオンの濃度をppm によって表示した。
硬度は,Ca2+ イオンの量とMg2+ イオンの量を,当量のCaCO3 に換算した値である。実際には,

硬度 = Ca2+ イオンの量×2.5 + Mg2+ イオンの量×4.0

となる。ヨーロッパのミネラルウォーターのなかには,硬度が1000を越えるものがあるが,特別の場合を除くと,日本人には,下痢などの症状を引き起こし,適当ではない。

ミネラルウォーターのどれが美味しいかについては,盛んに議論がたたかわされている。しかし,美味しいかどうかを決めるのは,水を実際に飲む個人,個人ですから,この議論は,“とりとめのない”( ブリア・サヴァラン『美味礼賛』による)ではないかと思う。

しかし,そうはいっても,水の美味しさを決めるいくつかの点があることもまた確かである。

私が子供の頃に飲んだ夏の井戸水の美味しさは,いまでも忘れることができない。今考えると,冷たく,異臭がまったくないことがその理由であった。経験によれば,体温より,20℃から25℃くらい低い温度の水を美味しいと感じる人が多いようである。すなわち,異臭がなく,冷たい水はおいしい。匂いのもとになる物質は揮発性の水に溶け難い物質である。したがって,温度が高い生ぬるい水は,異物の揮発量の多さの点でも,水の味を損なうことになる。

経験によると,ある一定の量のカルシウムイオンは,水の味を“引き締めて”美味しいものにし,逆に,マグネシウムイオンは苦味を増すといわれている。もっとも,私達が飲んでいるミネラルウォーターに溶けているイオンの量は,例えば,海水の場合に比べると比較にならないくらい少量である。例えば,ナトリウム塩の量は,海水では,ミネラルウォーターの1000倍に達する。味覚は大変鈍感な感覚であるから,塩辛いと感じるには,海の水くらいのナトリウムイオンと塩化物イオンが必要なのである。

ここで,世界の水の硬度の分布を示す。3桁のばらつきがある。
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日下譲,竹村成三『生活と水』化学と工業 43,1479-1481(1990)

6種類のミネラルウォーター(全て国産)に含まれるLi から U までのすべての元素を定量した結果はつぎの図のようになる。縦軸は成分元素の濃度(ppm)を対数目盛りでプロットされている点に注意していただきたい。
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これは,機能水研究所において,笠井千江研究員が ICP-MS を用いて辛抱強く分析した結果である。特に,希土類元素の量はミネラルウォーターによって大きく異なる。これは水の指紋といってもよい。

極めて低濃度の希土類元素などの存在がミネラルウォーターの味に影響するとも思えない,味を決めるのは,やはり陽イオンと硬度の表で示したように,主成分である。しかし,ミネラルウォーターの元素の分布は,湧き出す水の故郷を反映しており,地球化学などの観点から大変興味がある。
by yojiarata | 2011-05-04 23:27
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