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わが師わが友 清水博 Ⅱ





なぜ情報を研究するか
- 生命の本質的な理解を求めて -




冊子の10ページに,清水博は次のように書いている。
分子生物学 は,生命体を要素に分解して,分解したままの状態でその要素の性質を細かく研究する。このような研究が必要なことはいうまでもないが,問題は生命体のシステムとしての法則性を知るにはこれで十分かどうかということである。

私自身の言葉で,この文章を置き換えてみると,
 自動車は,部品の数が1万も2万もある。自動車の部品の一つだけを取り出して調べることは重要であるが,それでは,自動車全体の働きは理解できない。この部品の1個でも欠けると,自動車は自動車でなくなるではないか。

1970年代から,構造生物学 とよばれる学問分野が登場してきた。X線結晶解析,NMRなどを用いて,生物から取り出し,精製したタンパク質の構造を解析して大きな成果を挙げてきた。巨額の予算を投じる国家プロジェクトが,過去10年の間に推進された。しかし,清水博に問えば,その路線は生命の理解に繋がることはないと言い切ると思う。

1個の部品の理解ではすまない,生物全体を理解するにはどうすべきかを考え抜いた末,清水博は,NMRを捨てて,生命現象の解明に踏み出した。

清水博の辿った道は,上述の冊子の冒頭の部分(2ページ)に集約されている。そこには,次のように書かれている。

この冊子は,この大学で私たちがおこなってきた「生きていることの探究」をしょうかいさせていただくものであるが,同時に「格闘」の現場の記録でもあり,私がまき散らした「迷惑」の証にもなっている。私の研究人生は,この学部に進学し,寛容な雰囲気のもとで,「生きている状態の法則性の解明」という自分の生涯の研究目標を,学部学生の時代に設定したことに始まり,(1)不可逆過程と化学反応論の研究(核磁気緩和および凝縮系における分子の不規則運動の研究),(2)自己組織現象としての生命現象(筋肉と細胞運動における自己組織の研究,(3)情報の生命科学(生命現象の「場}における情報創出現象,知覚像の自己組織現象と認識の研究),そして (4)生きものの自己創出性に関する関係学的研究(生き物の主体性と意味創出の研究)へと進んできた。

その中で私が望んできたのは,研究室の経営者となるよりも,生命と向き合うひとりの探究者であり続け,そして自分の発見を通じて研究室の人々に影響を与えることができる,これらのことであった。生命の法則性をさらに深く捉えていくことの喜びにくらべれば,業績を積み上げていることには魅力を感じなかった。生命を理解するために,より深く,より本質的であると考えられる方向に常に向かおうとし,その方向を選択することによって生じてくるくるであろう困難さを気にかけることはほとんどなかった。そのため研究の方向はたびたび大きく転換し,その転換が研究室のメンバーに絶えず自己批判,自己否定を迫る結果になった。「格闘」の原因を生み出していたのは,常にわたしというこの存在であったともいえるのである。


清水博の著作には,次のような言葉や人名が登場する。

バイオホロニクス 動的平衡

織田信長 ピカソ プリゴジン ハーケン シャノン パブロフ ボルツマン 西田幾太郎 

生き物の即興劇モデル

輪廻

この輪廻に含まれている生命観を,統計物理学的な考えに立って科学として表現することを一生のテーマとしたいと,そのころ友人達に語っていた。(52ページ)

大学院に進学後の2年目,私が自然弁証法の勉強から得た印象の具体化である,分子の統計力学的な動的描像を得るために,私はいよいよ熱力学的な平衡状態ではない不可逆現象を勉強することになった。(53ページ)

私は生態の機能の研究の変遷を自分なりに次のように考えてみた。最初はスタティックな形態学と分類学に始まり,次第にダイナミックな性質が研究の対象になり始めて生理学的な研究が起こり,さらにその基礎を生化学的に探究して,細胞の代謝に関してより動的なイメージを獲得し,動的平衡というがいねんにまで到達した。この動的平衡という概念こそ,生化学によって初めて達成することができた生体の最も進んだ捉え方ではないであろうか。(51ページ)



この文章が書かれたのは,今から20年以上も前のことである。以上の引用では,清水博の退官記念誌のページを併記した。以下の引用も同様である。


*


その前に,書いておきたいことがある。

最近,書店で『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか 』 (2009) を目にした。ある大学の生物学の教授が執筆したこの著書は,ベストセラーになった。この教授は,一躍,この道の権威として,マスメディアの寵児となった。


*


話を元に戻す。清水博は次のように書いている。


私は薬学部で「生きている状態とはどんな状態であるか」ということを研究してきた。(66ページ)

科学は宗教と対立するように考えられてきたが,科学と宗教はそういう関係にはない。生命の本質を考えると特にそう思う。現在の科学には非常に厳しい限界がある。これは前から指摘されていることであるが,今の科学は見るものと見られるものを切り離した形でものを認識するという見方を受け入れた上で成り立っている。(81ページ)

先日,一人の知人が何年かぶりに研究室を訪ねてきてくれました。雑談の後で,私の顔をまじまじとながめて,「このごろ少しおかしなことをいうという話を聞いて来てみたのだが,どうやら気は確かなようで,安心した。」といって帰っていきました。(98ページ)



点・対・点の発想とその限界



私は,近著  『がんとがん医療に関する23話 がん細胞の振る舞いからがんを考える』  (薬事日報社,2010) のなか(127-132ページ)で,薬剤の副作用について次のように指摘した。

点・対・点の発想

1980年代以降, アメリカを中心に世界中で分子標的治療薬の開発研究が行われてきました。アイディアの根底にあるのは,細胞であれ,遺伝子であれ,遺伝子産物であるタンパク質であれ,薬物が狙いを定めた標的だけに選択的に結合し,その効果を発揮することを期待している点です。別の表現をするなら,それは,薬物と人体の関係を,“点・対・点の関係”として捉えようとするアプローチにほかならなりません。ここで,相対する二つの点とは, “1個の薬物分子”と“1個の標的部位”を指すものと考えておいてください。

人の身体のシステムと薬物:コンコルド広場の比喩

人の身体は,自らを構成する六十兆個にも及ぶ細胞の集団が紡ぎだす究極のダイナミックなシステムです。したがって,人の身体に何らかの病変が起きたとき,どこか一箇所(点)だけを修理すればよいというわけにはいかないのです。

遺伝子の異変は,とりもなおさず,遺伝子が作り出すタンパク質がそれまでとは異なった構造をもつことを意味します。これによって,人のシステムに異変が生じることは間違いありません。しかし,複雑極まりないダイナミックなシステムに異変が起きている場合,有害なただ一種類の遺伝子の産物(タンパク質)を叩き潰せばことが足りるというような単純な問題ではありません。突飛だと思われるかもしれませんが,次の比喩を用いて話を進めることにします。

私は今,フランス人の友人が運転する自動車に乗って,パリのコンコルド広場に突入した10年以上も前の恐怖を思い出しています。フランス革命とそれに続く動乱のなか,多くの人々がここに設けられた断頭台の露と消えました。ルイ16世,マリー・アントワネットをはじめとする王侯・貴族達,現代化学の祖であるアントワーヌ・ラボアジエなどの名前が次々と頭に浮かびました。

コンコルド広場には,さまざまな方向に伸びている10本を越える大きな道路から,大小さまざまな自動車が猛スピードで進入し,反時計回りに走っています。大きい道路には三台くらいの自動車が併走していますが,車線などありません。また,小さい路地からも自動車が突然飛び出してきます。フランスでは,如何なる場合にも右側の自動車に優先権があります。したがって,猛スピードで大きな道路を走る自動車の右に,路地からヒョイと別の自動車が現れるのです。結果として,すでに広場を走っている自動車は内側,内側へと逃げ込まざるを得ません。そのため,腕に憶えのある運転手が乗った自動車以外は,目的とする道から出たくても出られなくなります。信号のないところも多く,スピード制限もあってないようなところで,まさに “恐怖” の一語です。

人の身体は究極のダイナミックなシステムであるという場合,この比喩がピッタリだと私は思います。がん細胞を暴走する一台の“真っ赤なポルシェ”に喩えれば,このポルシェを想定して創られた分子標的治療薬は,確かにこのポルシェを追跡して捕り押さえることも可能でしょう。しかし,周りにいる多数の自動車の集団は,極めて複雑でダイナミックかつ不均一な複合系です。すなわち,1台のポルシェだけを捕り押さえることによって,コンコルド広場を猛スピードで出入りする多数の自動車の流れがまったく影響を受けない,つまり“副作用”がないという保証はどこにもありません。

よしんば副作用が深刻なものでなくても,すべてがもとのまま,すなわち,がんが完全治癒(根治)するという保証はありません。さらに,真っ赤なポルシェが,まるで “007の映画” のように,色を変え,形を変えて変身すれば(標的タンパク質の構造変異),分子標的治療薬にとっては,標的とする赤いポルシェが消えてしまったことになり,手の施しようがなくなります。

私がここで読者に語りかけようとしている点を理解していただくために,現在,世界で広く読まれているがんの教科書「R.A.Weinberg: The Biology of Cancer (Garland Science, Taylor & Francis Group, 2007);ワインバーグ:がんの生物学(南江堂,2008)」を取り上げてみます。開いてみると,がんに係わる生物現象が,見事なイラストによって縦横無尽に美しくギッシリと描かれています。“ゴメンナサイ!許してください!!”というほかありません。

極め付きは,付録(残念ながら,この付録は日本語版には付属していません )のPathways in Human Cancerです。A1サイズの巨大な紙面一杯に,がんに関わりをもって登場する膨大な種類の発がん遺伝子,がん阻害遺伝子,それらが発現するタンパク質群が,迷路のように錯綜した経路上に,押すな押すなとひしめきあっている様は,まさにコンコルド広場そのものです。がんを対象として分子生物学的研究がここまで進んだかと驚くと共に,“これはがんの治療に直接に繋がるものではないな”との思いは否定できません。“木を見て森を見ず”に陥るに違いないと考えるからです。私個人としては,このような研究路線が何時の日か,がんをこの世から駆逐し,人類に幸せをもたらすことを願うだけです。

この本を書く7年前,ワインバーグ自身が次のように告白しています。

現在のがん生物学およびがん治療は,科学とはいえず,細胞生物学,組織病理学,
生化学などのつぎはぎ細工である

ワインバーグの考えは7年が経過した今も同じではないかと想像します。少なくとも私自身の考えはすぐ前に書いたとおりです。

さらに付け加えますと,これらの研究成果の多くは,マウス,ラットなどを用いた動物実験の結果にその基礎をおきます。しかし,すでにお話しましたが,動物実験を用いる実験病理学の研究結果は,必ずしもヒトのがんに当てはまるとは限らないのです。


私は,ジャーデツキーの研究室に滞在して以来,40年近く構造生物学を信条としてきたが,薬剤の副作用一つを取り出しても,構造生物学では何の問題も解決できないと告白せざるを得ない。

清水博は,一貫して生命現象の本質を考え続けてきた。

東京大学を定年退官後,金澤工業大学に新設された場の研究所・所長,更に定年退職後,場のアカデミーを主宰して現在に至っている。清水博の学問は,宗教を巻き込んだ方向に移っていった結果,多くの人の理解を得られぬまま,現在を迎えている。天才・清水博にとって不幸なことである。残念である。清水博の退官記念誌の最終ページをここに掲載する。
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中公新書として出版された『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』 (1990)には,生命現象解明にかける清水博の熱い思いが平易な言葉で綴られている。是非読んでいただくことを希望して擱筆する。








執筆  2011年4月26日

by yojiarata | 2011-04-26 12:50
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