超・後期高齢者になるまで,50年余り,核磁気共鳴(NMR)を友として研究を続けてきた。 私は,点を一つづつ設定しては,前に進んでいく,別の言葉で言えば,各論に徹することを信条として研究を続けてきた。当然のことながら,研究を続けていれば,自分とは全く別の道を歩む人物に出会うことがしばしばある。その中に,ごく稀に,これぞ天才とよびたくなる人物がいる。 清水博 と出会ったのは,私が東京大学医学部薬学科に進学した昭和29(1954)年4月である。世の中,どこにいっても,ちょっと変わった人物がいる。私たちのクラス(35人)のなかに,ちょっとどころか途轍もなく変わった人物がいた。その人物が,のちに私が師と仰ぐことになる清水博である。 自然科学のあるゆる分野で世界から遅れをとっていた日本の近代化を目指して,明治政府は,自然科学の分野で,当時世界で覇を唱えていたドイツからあらゆるもとを導入することに努めていた。日本の薬学も御多分にもれず,リービッヒなどが先陣を切っていたドイツの有機化学を基にしてしてその基礎が作られた。私たちが進学した薬学科は,100年たっても,旧態依然とした有機化学を中心に回っていた。 話を元に戻す。清水博は,薬学科での授業中も,講義そっちのけでさまざまな本を取り出しては読んでいた。今でも記憶にある一冊が,デバイの『有極性分子』 (1952)である。デバイは,物理化学研究における貢献で,ノーベル化学賞(1932)を受賞している。当時の薬学には,物理化学の授業などなかった。清水博は,独力で薬学の全く新しい道を切り拓こうとしていたのである。 こんなこともあった。あるボス教授の授業中,一人の男が立ち上がって部屋から出て行こうとした。ボスが黙っているわけがない。烈火のごとく怒りを爆発させた。しかし,清水博は,ボスの罵声を後にしてそのまま出て行った。その後,ボスと清水博の間で何があったか知らない。 一時が万事この調子の清水博は,大変な変人としてクラスの空気の外に浮んでいた。 清水博は,大学院修士課程に進学するが,進学先は薬学ではなく,理学部化学科の森野米三教授を指導教官に選んだ。ジフェニルのX線結晶解析の仕事をして修士の学位を授与された。 清水博は,大学院博士課程学生として薬学に戻った。形式的には,生薬化学の柴田承二教授が指導教官になっていたが,実際には毎日,調布の電気通信大学の藤原鎭男教授の研究室に通っていた。同教授が日本の先頭をきって推し進めていた核磁気共鳴(NMR)の研究に参画するためである。 何故,清水博がNMRに惹かれたのかは定かでない。後の博士論文の主題となるNMR緩和の理論を最初から始めたわけではないからである。最初は,有機脂肪酸などの低分子のNMRスペクトルを測定していた。用いた装置は,藤原教授が林助手とともに手製で作り上げた27 Mc/s (当時は,MHz ではなく,こうよばれていた) である。その実験を手伝っていたのが私である。 これより先,清水博の何ともいえない底知れぬ大きさに惹かれていた私は,貴殿のNMRの弟子にしてくださいと申し出た。清水博は,1)自分が下宿している文京区追分町の正行寺第2清風荘にいま部屋が一つ空いているから,そこに引っ越して来ること,2)日夜勉学に励むこと,を条件に弟子となることを受け入れてくれた。私のその後の50年の NMR人生が決まった。 清水博は,藤原研の博士課程在学中に,のちのNMRの歴史に残る何編かの論文を,Journal of Chemical Physics に発表している。ブログのNMR50年 第2部 にその一端を述べたが,一言でいえば,NMR緩和現象を化学の目で体系的に理論付けたことである。現在,不可欠の方法として多用されている TROSY 法の基礎となる理論を世界に先駆けて発表したのも清水博,分子の形が回転楕円体である場合の緩和現象への影響を体系化したのも清水博ある。これら一連の仕事は,1960年代の半ばのものである点に注目しなければならない。私の知る限り,この早い時点で,NMR緩和現象に深く切り込んだ研究者は世界にいない。 歴史にもしも はないが,清水博がこのまま,その研究路線を発展させていたら,Bloch, Purcell のあとのノーベル化学賞に輝いていたに違いないと私は信じている。 しかし,残念ながら,歴史はそのようには進まなかった。日本のNMRコミュニティーにとっては大変残念なことである。 当時のNMRの実験技術は,未だ揺籃期にあった。たとえ,清水博が実験によって,自らの理論の検証,その化学への応用を意図していたとしても,それを可能にする体制は全く整っていなかった。 しかし,問題は清水博の内面にあったというのが真実だと思う。清水博は,NMR緩和の理論解析のあと,分子のブラウン運動の理論解析に取り組んでいたが,縁があって B 教授の研究室で,ポスドクとして,最初の一年はハーバードで,あとの一年はスタンフォードで研究をおこなった。B 教授 が当時のニクソン大統領の科学補佐官に就任したこともあって,全く一人で研究していた。清水博は,当時を振り返って,邪魔されずに仕事ができてあんなに仕合せなことはなかった,私に語ったことがある。しかし,B 教授は,自分・清水のことを他人に紹介するときには,決まって, He is working for me. アイディアも何も出していない彼からそんなことを言われるのは,不愉快極まりないと言っていた。 それらの経験を通じて,清水博は,西欧先進国の研究体制,広い意味での文化に大きく感じるところがあり,日本はこのままでは駄目だ,との思いを抱いて帰国した。後に,日本から多くの研究者が西欧先進国に出かけて研究しているが,彼らは一体,何を学んで帰国するんだろうと憂慮していた。 清水博が,世界的な業績を上げながらNMRを離れていったのにはこのような思いがあったのではないだろうか。日本独自の研究をすることがなければ,結局は,西洋の追随に終わると考えた清水博は,歴史に残る業績を挙げたNMRを捨てることになる。 清水博がNMR緩和に興味を持ったそもそもの原因は,非可逆過程のサイエンス の顕著な例として捉えたことによる。 手元に,清水博 ![]() 『生きている状態の法則的理解を求めて』 ![]() がある。この冊子は,清水博が,平成5(1993)年3月におこなった最終講義の際に配布されたものである。今読み返してみると,その中に,NMR以後の清水博を知る手がかりがある。
by yojiarata
| 2011-04-26 12:59
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