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小雨の丘



学生時代,都電の線路を渡った向こう側の本郷西片町のあたりをふらふら歩き回ることがよくあった。途中のパン屋さんで大好物のあんパンを買う楽しみもあった。ある時ふと見るとサトーハチローと表札の掛かった家がある。ア これが,あのサトーハチローの家かと思った。

当時テレビはこの世に無く,ラジオの全盛時代であった。放送は NHK の第一,第二のみ。現在のテレビと同様,ラジオに出演する常連がいた。『話の泉』には,サトーハチローのほか,堀内敬三(音楽評論家),徳川夢声(漫談家),山本 嘉次郎(映画監督),太田黒元雄(音楽評論家),春山行夫(詩人,随筆家),渡辺紳一郎の諸氏が出演して,薀蓄を傾けていた。子供の頃もっとも印象に残る番組であった。司会は最初の司会者は和田信賢,後の司会者では高橋圭三が記憶に新しい。

サトー八ローの父は佐藤紅緑,少年小説を書いていた。そのなかにあった野球小説が,筆者が野球少年になる切っ掛けの一つだったように思う。70年前でありながら,剛速球の投手(名前は桜井だったと記憶している)を如何にして打つかの少年の心境があの頃の私の心を捉えた。【桜井の手から離れたボールに夕日が当たり,キラッと光るボールに向かうバッター】,筆者の記憶はここで途切れる。

佐藤紅緑は結婚と離婚を繰り返し,生活が目茶目茶な男で,数々の奇談を残している。ちなみに,紅緑の最初の妻がハチローの母である。その間の事情は,八ローの異母妹である佐藤愛子の大著『血脈』に詳しい。この小説を基にドラマ化された 『ハチロー 母の詩 父の詩』 が平成17(2005)年,1月から3月にかけて9回に分けて放送(NHK)された。ハチローの母は紅緑に離縁され,仙台の実家で病死した。紅緑(原田芳雄)の宴会の席で,八チロー(唐沢寿明)が『小雨の丘』(サトーハチロー作詞,服部良一作曲,昭和15(1940)年)を歌う。号泣する紅緑。

私は,『小雨の丘』を聞くたびに,若くして他界した母を思い出す。現在,YouTube で,高峰三枝子,伍代夏子,中村美律子の歌でこの曲を聴くことができるが,演出も何も無くただ淡々と歌う小夜福子のオリジナル録音(昭和15(1940)年7月,『青春歌年鑑 戦前編④ 昭和15年~20年』)がとりわけ印象深い。

思い出すのは 黒澤明監督作品 『酔いどれ天使』 (昭和23(1948)年),当時は配給制の医師用アルコールまで飲んでしまう酔いどれ医師(志村喬)がヤクザ(三船敏郎)と喧嘩になり,手当たり次第にモノを投げつれる場面,志村喬が左利きであることを知った。病院の前に広がるどぶ池,毎晩そこにやってきてはギターを弾く若い男,曲は決まって 『小雨の丘』。

この映画の音楽を担当した早坂文雄(1914-1955)は,16歳で父が出奔,17歳で母が病死した不幸な生い立ちの人である。もしかしたら,あの 『小雨の丘』 にも,早坂の思い出が込められているのかもしれないと思った。

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永井荷風の母・恒は,荷風の兄・威三郎と同居。荷風は,その威三郎と絶交関係にあり,病床の母を訪ねることは最後まで無かった。昭和12(1937)年の日記から。

九月九日。晡下雷鳴り雨来る。坂井晴次来り母上昨夕六時こと切れたまひし由を告ぐ。 ・・・ 雑司が谷墓地永井氏塋域に葬す。享寿七十六。追悼。

泣きあかす夜は来にけり秋の雨。

秋風の今年は母を奪いけり。

[新版 断腸亭日乗,第四巻(岩波書店,2001)]

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長谷川伸『瞼の母』より,番場の忠太郎と母・おはまの別れの場面
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・・・ こう上下の瞼を合せ,じいっと考えてりゃあ,逢わねぇ昔のおっかさんの俤が出てくるんだ ― それでいいんだ。(歩く)逢いたくなったら俺あ,眼をつぶろうよ。(永久に母子に会うまじと歩く) ・・・

長谷川伸『瞼の母・沓掛時次郎』(ちくま文庫,1994,64ページ)

by yojiarata | 2011-02-23 20:22
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