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柞葉の母



母は,なにかというと泣いていた。子供の頃は,母親というものは,泣くものだと思っていた。小学校に入る前,母に連れられて,母の実家にたびたび行った。田舎の家の暗い土間で,母が祖母と額を寄せて泣いていた。あとになって,原因は,父親の素行らしいと知った。

小学校で,担任の先生が転任されることになり,母子が出席して送別会が開かれた。泣いていたのは私の母だけだった。母は映画と相撲のファンであった。というよりは,当時は,映画館に行って映画を見るのと,ラジオで聴く相撲くらいしか,楽しみがなかったのである。相撲と言えば,和田信賢さんだった。双葉山の70連勝が消えたときのアナウンサ-も,和田さんだったと聞いている。その和田さんが,昭和27(1952)年夏,パリで客死された。サトウハチローさんが自作の詩『和田信賢に捧ぐ』を朗読するラジオの前で母は泣いていた。

若いときに見たルドルフ・バレンチノを話す母の顔は,青春そのものであった。おそらく青春時代は,泣くことはなかったのであろう。母の涙はいつ頃から始まったのか分からない。気がついてみたら,母はいつも泣いていた。母は,女学校のとき聞きかじったらしい[結婚は恋愛の墓場である]という言葉をよく口にしていた。

母は,結婚後は好きな映画もほとんど見ていなかった。母と一緒に映画を2度だけ見たことがある。中学生になったばかりの頃の,イングリッド・バ-グマン,シャルル・ボワイエの『ガス燈』,グリア・ガ-スン,ロナルド・コールマンの『心の旅路』である。ロナルド・コールマンがグリア・ガースンのことを思い出すラストシーンでは,母はいかにも嬉しそうに小声で笑っていた。その後,映画も変わった。シネラマの巨大な画面を見て帰ってきて発した母の驚いた声は,いまでも覚えている。

デパ-トが好きだったが,エスカレ-タ-にはどうしても乗れなかった。運動神経ゼロという感じだった。女学校のときバレ-ボ-ルで親指を突き指し,指を曲げると痛いのは一生治らなかったようである。

大学を受験するため上京するとき,冷え性でよくおなかをこわした私のために,“白金懐炉”を買って来た。私が大学に入学したあとがまた,大変だった。当時,東京へは,夜行で14時間かかった。出発のときは,必ず駅まで見送りに来る。そして必ず泣くのである。これには閉口した。泣かれるのが面倒臭くなり,母と次第に疎遠になってしまった。母は,夏休みで帰郷した私を,ピョンピョン跳ねながら出迎えた。

母が59歳で他界した夜,ひとり朝まで母に付き添った。母はおでこが大きく,そのため眼がくぼんで見えたため,子供のときには“デボチンの眼ひっこみ”とからかわれていたという。夜中に,デボチンに自分の額を当ててみた。出棺前,母の胸に45回転のレコードを供えた。“あの曲を聞くと涙が出る”と母が言っていた『マドンナの宝石』が,近くのレコ-ド店で見つかったのは偶然としか言いようがない。蓋われた母を前にして,あのときの白金懐炉と冷たかったデボチンを思い出し,涙が襲った。母の一生分の涙が一時に出た。私はやはり母の子供だと思った。
by yojiarata | 2011-02-19 03:03
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