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祖国



父の姉と妹は,ともに多難な人生を送った。

伯母の淑は,アメリカに移民する 山口県の松本と結婚,カリフォルニア州ロ-ダイで葡萄園の世話をすることになる,多くの子供に恵まれるが,それぞれの子供は,その後,さまざまな道をたどる。

上の娘は誘拐され,間もなく遺体となって発見される,この話を淑から聞いたのは,淑を最後にロ-ダイに訪ねたときである。「事情」 があって警察の捜査が遅れたと,淑は遠くを見るように,訥々と60年前を語った。

太平洋戦争勃発後,『大統領令9066』により,松本一家は,「キャンプ」に収容される,ジャップと罵られ,アーカンソーの砂漠の厳しい夏と苛酷な冬を過ごす。

戦死した従兄弟の写真に出会ったのも ロ-ダイの淑の家であった。戦後あちこちで見たアメリカ軍人の制服を着ていた。

残ったもう一人の娘はサンフランシスコで,息子二人はロ-ダイでそれぞれ,二世として生活している。英語ができず,日本人として暮らす一世は,子供達がたどたどしい日本語を話しながら,つぎつぎに,家を離れていくのを見守るだけであった。二世たちは,国籍はアメリカでありながら,日本人としての絆を引きずったまま,アメリカ社会に溶け込もうと努力した。三世には,日本人としての意識はない。しかし,三世も,日本人としての絆が,肝心のところで付いて回る宿命を持つ。松本の子孫が,アメリカに,本当に溶け込むのはいつの日であろうか。

何度か,松本一家を訪ねた私は,そこに,いまは消えた日本家族の原形を見た。広大な国に離れて住みながら,なにかというと親族が集まり,両親を囲んで,はてしなく話が弾む。奇妙な日本語と,奇妙な英語がゴチャゴチャに飛び交う,何とも楽しいときを過ごした。何十年も前に消えてしまった日本が,そのまま残っているのは不思議でもあり,また嬉しくもあった。桑港(そうこう)とは,サンフランシスコのことである。ハイトンという言葉も盛んに使われていた。ちょっとしゃれていて高級という感じである。

従姉妹が,日本語で,プロ野球の話を始める。クリスマスの頃だったと思う。来年には,ロッテが来て,キャンドルスティックパ-クで“あそぶ”と言う。しばらくして,意味が分かった。彼女にとっては,“プレイ”も,“あそぶ”も同義語なのである。

叔母の薫は,戦争中,東京で青春を過ごした,市川に住み,三省堂書店に勤めていたと聞いたのは,母からであったように思う。爆撃が激しくなっていたその頃,岡山の家では,親戚が集まって,相談を繰り返していた。子供であった私にも,それが,東京に住んでいる,叔母のことであろうという察しがついた。結局,母方の叔父が,市川まで出向いて,叔母を岡山に連れ戻した。

家族会議の原因となった青年が,戦争で亡くなったと聞いたのは,ずっとあとのことである。薫は,その後,結婚することなく,祖父と共に故郷に住んだ。8月6日,遥かかなたの広島市の方向に,煙の広がるのを見たという。体に衰えを見せ始めた祖父と共に,薫は岡山の私達の家に移り住んだが,涙もろい母との関係は,子供の私の眼にも,良いものではなかった。

姉の淑も心配して,薫をアメリカに呼び寄せることになった。薫がアメリカに無事着いたという知らせを聞いた祖父は,「着いたか」と安心するように言ったあと,そのまま寝込み,まもなく92年の生涯を閉じた。薫は,サンフランシスコに住み,晩年は社会保障を受け,養老院で一人,世を去った。市川の頃から,50年近くが過ぎていた。

松本夫妻の3人の息子のうちの一人は,アメリカ軍人としてヨ-ロッパに参戦し,アメリカ軍人として戦死した。

ロ-ダイを最後に訪ねたあと,淑は痛い腰をかばいながら,私を玄関まで見送り,まるで日本が遠ざかっていくように,私の手を取って別れを惜しんだ。 淑が他界したのを知ったのは,そのすぐあとのことである。淑の痩せた皺だらけの小さな手のぬくもりは,いまも忘れ難い。ほとんどのときを異国で苦労と共に送った80年あまりの生涯であった。
by yojiarata | 2011-02-15 17:22
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