● ご隠居さん
現在,台東区三崎坂(現 谷中)に面した全生庵(ぜんしょうあん)で,8月11日の圓朝忌にちなんだ圓朝まつりの幽霊画展が8月末日まで開催されています。誰でも入場可,ただし有料。 例えば,2018年8月23日(木)朝日新聞(夕刊3版 4面)をご覧ください。 全生庵は,山岡鉄舟が維新で国事に殉じた人々を弔うために創建したんだ。鉄舟と,鉄舟を禅の師と仰いだ圓朝も全生庵に葬られているよ。
だけど,そんな些末なことではなく,このブログに明記しておくべき大事なことがあるのです。それは,圓朝さんと志ん生さんの関りです。
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by yojiarata
| 2018-09-14 21:46
今回の蒟蒻問答は,中村君の希望によって,今昔物語集を取り上げることになりました。まず,中村君がどのようないきさつから,今昔物語を選んだか,ご本人から直接伺いたいと思います。
介護の関係で,15年ほど前からつくばと南房総を週末に往復するようになった。車中で時間をつぶすため日本の古典を読み始めたが,そのうちの何冊目かが岩波文庫版の「今昔」(池上洵一編,全4冊)だった。これは脚注がしっかりしており,現代語訳が無くても読み進むことが出来た。それまで今昔というと「仏法説話集で,いろいろな小説の題材になっている」程度の認識しかなかったが,読み進むと,仏教界の大立者(お釈迦様・鑑真和上・弘法大師・・・)の事績が手際よく(しかも面白く)並べられているのにまず感心した。そして,葬式・法事以外に縁のなかった仏教が少し身近に感じられるようになった。さらに「正統的」な仏教説話の他に,珍話・奇話がこれでもか!という具合に連射され興味は尽きなかった。月曜に仕事場に戻った際には,車中で読んだ珍話を「今週の今昔」として同僚に披歴するのが常だった(彼には迷惑だったかもしれない)。ここでは,その中で私のお気に入り5話を紹介しようと思う。もし面白いと感じられたら文庫本を読むことを強くお勧めする。
<今昔物語集概要>
(構成)全31巻。巻1~5がインド(天竺),6~10が中国(震旦),11~31が日本関係の説話(本朝)である。天竺・震旦部はお釈迦様の誕生・悟り・仏教の成立・中国への伝播などが描かれる。本朝部の巻20までは,①仏教の大立者の事績 ②寺の縁起 ③様々な経のご利益 ④観音・地蔵・虚空蔵による導きなどを縦糸とし,仙人・天狗・異世界探訪・色欲・様々な術(仏法の術・仙術・妖術)などが横糸として絡んで,説話が構成されている。それ以降(特に巻26以降)は「もはやあらゆる統制になじまない世界の話である」(池上)。悪霊・エロ・グロ・蛇の魔力・盗人・生贄…の世界がこれでもかという具合につづく。なお,すべての説話は「今は昔」の一言で始まり,最後は編者のコメントで締めくくられている。ピンぼけのコメントも多いが,逆にこのことが今昔物語集に「とぼけた味」を付け加えている。
<私の好きな今昔>
(1)道成寺:巻14 第3話 今は昔。紀伊半島の西岸をたどり熊野権現に参詣する若くてイケメンの法師がいた。潮岬近くまで来たとき日が暮れ,ある家に宿を乞うたが,そこの主は若い未亡人だった。女は法師に「深く愛欲の心を発こし」(原文)手厚くもてなした。夜が更けると女は法師の寝床に忍び込み,着物を脱いで法師に添い寝をした。法師は目を覚ますと,あまりのことに女に問いただした。すると女は「あなたを見た時から,わたくしの夫となっていただきたいと思ったの。だから・・・」法師「私はこれから霊地・熊野に参る身,ここでコトに及んで身を汚すわけにはまいりません」。女はそれでも引き下がらず「夜もすがら僧を抱きて擾乱(にょうらん)し戯れ」(原文),誘惑したが法師の志操は堅固であった。そして「それでは熊野に詣でた後で,こちらにもう一度参ることにいたしましょう」となだめ,朝方,熊野にむけて旅立った。 女は法師が戻るのを一日千秋の思いで待ったが現れない。そこで,熊野から都へ戻る旅人に,何か事情を知らないか尋ねたところ「ああ,彼ならこの道でなく,中辺路(山中の街道)経由で戻ったよ」。女は瞋り悲しんで部屋に引きこもり,しばらくはコトリとも音を立てなかったが,やがて五尋(~8メートル)の蛇が部屋から這い出で,中辺路を走り始めた。道行く人は恐れ騒ぎ,大蛇北上!の噂は法師にまで達した(噂の伝播は光よりも早い)。「その蛇は私を追いかけているのに違いない」と直感した法師は,道成寺という寺に至って事情を話し,身辺保護をお願いした。そこで寺当局は法師を釣鐘のもとにいざない,鐘を下ろして中に閉じこめ大蛇に備えた。 道成寺に至った大蛇は門を乗り越え,下ろされた鐘を見つけるや自分の体でぐるぐる巻きにした。そして血の涙を流しながら(何かを訴えるように)尾で鐘を数時間たたき続け,もと来たほうへ去っていった。その後,当局は法師を救出しようとしたが,蛇の「毒熱」で鐘は赤熱して近寄れない。そこで,水をかけて冷ました後に鐘を除けたが,中には法師の骨すらなく,わずかな灰が残るのみであった。 こののち,道成寺の高僧の夢に法師が現れ「私,あの世で蛇になり,あの女蛇の力で無理やり夫婦にさせられました。でも,あの世の苦痛は耐えがたいです。先生,ありがたいお経(法花経)を書き写して私たちを供養して下さい」。高僧は言われたとおりにすると,再び法師が夢に現れ「お蔭で私たち,天上の良い場所(都率天)に上ることが出来ました」と報告したという。
編者コメント:女性の「悪心」はかくも強い。だから仏様も女性に近づくことを戒めておられる。
(つけたし)この話のタイトルは「道成寺の高僧が,法花経を写して蛇の苦痛を救った話」となっている。法花経のありがたさを強調する正統的な説話ですよ・・・と見せかけておいて,そこに至るまでの経過が集中的に描かれている。編者のコメントを見ても,経過のほうに彼の興味の中心があったのではなかろうか。どのような顔をしながら,編者はこの説話を紙に記したのだろう?
(2)久米仙人:巻11 第24話
今は昔。大和・吉野のある寺で,二人の男が仙術修行を行っていた。一人は手際よく全過程を修了し,仙人となって空に飛び去っていった。もう一人の久米も,かなり手間取ったものの,何とか免許を取得できた。ある初夏の一日,久米は吉野川上空を(まだ不安定な飛び様で)飛行していたが・・・下を見ると川べりで若い女が着物の裾を上げて洗濯している。その白く形の良い「ふくらはぎ」にクラっとした久米はたちまち仙力を失い,女の前に墜落してしまった。その後,久米はこの女と夫婦となり,一般人として生活していたが,証文などの署名には臆面もなく「先の仙人 久米」と記すのが常であり,周囲も彼を仙人と呼んでいた。 ある時,都を造営するための木こり人夫が徴発され,久米もその一人に選ばれた。久米が「仙人」と呼ばれる理由を知った現場監督は,彼に向かい「もとは大変なお方だったんですね,一般人に戻ったあとでも部分的には仙術OKなんじゃないですか?(造営用の木を切り出す)この山から造営予定地まで,仙術で木を一気に運べたら助かるんだけどなあ」と冗談半分けしかけた。久米は「女に心を汚して凡夫となったけれど,昔はできた仙術だ。仏様が助けてくださるかもしれない」と心に思い,「それではやってみましょう」と応じた。そして,かつて修行した寺に籠り,潔斎して食を断ち七日七夜のあいだ心を尽くして祈った。一方,監督は久米が現場に姿を現さなくなったことに気づいたが,「出来もしない約束をしたんで,逃げたのかな?肉体的には貧弱だから一人くらい人夫が欠けてもいいか・・・」と,あまり気に留めなかった。ところが・・・八日目の朝,空がにわかに真っ暗になり,雨・風・雷が荒れ狂った。しばしののちに空は晴れたが,切り出し用の山の木は引き抜かれたように無くなっている。そして,しばらくすると造営予定地から「造営にぴったりの木が空から降ってきました!」との報告が入った。 この一件は天皇の耳にも入り,天晴れ!とばかりに久米はご褒美を賜り,これを元手に寺を建立した。これが久米寺(=橿原市に現存)である。その後,弘法大師はこの寺からありがたいお経を発見した。そして,その内容を深く学ぶため唐の国に旅立ち,真言宗を打ち立てるきっかけとなった。
編者コメント:(へっぽこ仙人が建立した)久米寺は(弘法大師の真言宗設立に重要な役割を果たしていることからも判るように)実はありがたいお寺なのだ。
(3)「レジェンド」vs.「人間電子レンジ」:巻14 第40話
今は昔。嵯峨天皇(在位809~823)には護持僧(天皇の安全・健康を祈る僧)が二人いた。一人は「レジェンド」弘法大師であり,もう一人は興福寺の修円法師であった。二人とも徳が高く,天皇は二人を同様に重んじておられた。ある時,修円が伺候すると天皇の前には大きな生栗が置かれていた。天皇が「この栗,茹でてまいれ」と周囲に命ずるのを聞いた修円は,「火を使わず,法力で茹でてご覧に入れましょう」。そして,漆器に栗を入れ,蓋をして祈祷すると栗はほっこり茹で上がり,天皇がこれを口にされると,おいしさは例えようもなかった。その後もこの法力はたびたび発揮され,感服した天皇は修円の「電子レンジ機能」を弘法大師にもお話になられた。大師は「それは素晴らしい能力ですね。でも今度,私がそばにいる時にチンしてみてください」。そこで天皇は修円を招き,大師をひそかに隣室に控えさせながら,栗茹でを命じた。修円はこれまで同様祈祷したが・・・茹で上がらない!再チャレンジも失敗してしまう。なぜだ!!・・・そこへ大師が隣室から顔を出した。修円は,大師が自分の法力を無効化する祈祷をしていたことを悟り,以後二人は反目し合うようになる(本文にはないが,修円はレジェンドに向かい何か言ってはならぬことを口にしたのかもしれない)。そして互いに寺に籠って「死ね死ね」(原文)の呪詛合戦が始まり,いつ果てるともなく続いた。そんな中,大師は膠着状態を打開しようと,弟子に葬式道具を町に買いに走らせ,「レジェンド死す!」の噂を流布させた。これを聞いた修円の弟子は早速師匠に報告し,修円は「勝った!」と思い,呪詛を中止した。一方,大師は人を修円の寺にやり,呪詛中止を確認させた後,自分の呪詛パワーを限界まで増幅した。そして修円は急死した。 その後,大師は「あれを呪い殺したからにはもう安心だ。しかし,ここまで私を苦戦させたということは,あいつは只者ではあるまい。やつの正体をたしかめよう」と心に思い「後朝の法」(未詳)をおこなった。すると,壇上に「軍茶利明王」(未詳)が立つのが確認され,修円法師が只者でないことが確認された。
編者コメント:「大師がこのようなこと(呪詛による殺害)をされたのは,後世の人の悪行をとどめるため(の正当行為)だったと語り伝えられているようだ。
(つけたし)弘法大師のイメージを悪化させるような説話を,なぜわざわざ編者が載せたのだろう?
(4)忘れ物は ma-tsu-ta-ke:巻20 第10話>
今は昔。陽成天皇(在位 876 – 84)の時代,ある男が京から陸奥に出張に出かけた。道中,信濃のある町で郡司(郡長官)の館に宿を取った。郡司は一行に手厚い食事を提供したのち館外の別宅に戻っていった。一方,男は寝付けなかったので外に出た。すると館の別棟から香が薫ってくる。近づくと,若くて美しい郡司の妻が臥しており,あたりに人もいない。男は部屋に忍び入った。女は拒むそぶりを見せたものの,ひどくあらがう風でもない。こうして男は「衣をば脱ぎ棄て,女の懐に入る」(原文)。そして・・・というときに・・・男の下半身に一瞬,痒みが走った。男は自分の「そこ」に手をやると…無い!!! もう一度探ったが,無い! 男の動転するさまを見て,女は少し微笑んだようだった。男は這う這うの体で自分の部屋に戻り,もう一度確認したが,やはり無い・・・どうにも合点がいかない男は,細かい事情は告げず,従者の一人に「別棟にきれいな女がいるぞ。私はうまくいったから,お前も行って来いよ」とそそのかした。従者は勇んで部屋を出て行ったが,しばらくすると呆然として戻ってきて押し黙っている。男は,あいつも同じ目にあったのだなと感じ,更に別の従者を別棟に次々に派遣したが,8人全員同じ反応を示すばかりであった。 ただただ呆然の一夜を過ごした一行は,夜が明けるや館を立ち去った。1キロも行かぬうちに,後ろから「落とし物だぞォ~」の声が聞こえ,館の使用人が紙包みを携え一向に追いついた。「郡司さまが『持って行って差し上げよ』とおっしゃるので持ってきたけど,どうしてこんな大切なものを落とすんだい?お宅らがあわただしく去った後,落ちていたのを拾い集めたんだよ」。一行が包みを開くと「松茸をつつみ集めたるごとくにして」(原文)ブツが9本入っている。そしてパッと消えうせ,元の場所に収まった。 その後,男は奥州での仕事を終え,帰路ふたたび郡司の館に立ち寄った。男は郡司にたくさんの物を取らせた後,往路でのあの不思議な出来事について尋ねた。そして,郡司の妖術が自分をたぶらかしたことを知り,(都にいったん戻ったのち)郡司に弟子入りして妖術習得に励んだ。(中略)結局,男は「松茸消失」の術を習得するには至らなかったものの,草履を犬に変える程度のレベルには達し,周囲を驚かせていた。この噂を聞いた陽成天皇(狂気の伝承が多い)は,男から術を習い様々な怪しいことを行った。ただ,世間は天皇のこうした行為を受け入れなかった。それは,仏法以外の妖術に,天皇自らが手を染めたからである。
編者コメント:せっかく人間に生まれたのに,人を魔界に赴かせるような妖術は,決して習ってはならないと言われている。
(つけたし)この話,落語にならないかなあ・・・落語には詳しくないけれど,「笑点」の小遊三さんあたりに演らせてみたいものだ。
(5)個人授業:巻17 第33話
今は昔。比叡山で仏道修業を始めた僧がいたが,修行に身が入らずダラダラと時を過ごすばかりであった。しかし,なお仏道を学ぶ意思は残っていたので,法輪寺(京の西端)に時折詣でては虚空蔵菩薩に修行進展を祈願していた(調子のよい仏頼みである)。ある秋の日,法輪詣の後に山に戻ろうとしたが,出会った友人と長話をしたせいで,西の京あたりで日が暮れてしまった。そこで宿を求めていると,ある家の前に小ざっぱりした身なりの下女がたたずんでいる。事情を話して宿りを頼むと,下女は主人に尋ねたのち「宿泊OKとのことです。お入りください」と僧を中に引き入れた。そして,酒付きの食事を持ち運んでもてなした。いい気分になったところ,奥の部屋に通じる戸(遣戸)が少し開き,女主人の声がして「これからも法輪詣の後はこちらにお立ち寄りください」と言って遣戸を閉ざした。夜も更け,寝付けぬ僧が庭に出ると,主人の部屋の雨戸に穴が開いている。覗いてみると,二十歳過ぎの美しい女が草紙を見ながら臥している。香もたかれている。興奮した僧は,「この思いを遂げずは,世に生きてあるべくも思えず」(原文)遣戸をあけて部屋に侵入する。そして,女の「衣を引き開けて懐(ふところ)に入るに」,女は驚き,身を委ねる様子もない(普通はそうだよね)。強行突破も考えたが,隣には下女も寝ているようだ。騒がれてはまずい・・・とためらっていると,女「いやって訳じゃあないの。去年,夫に先立たれたけれど,次は仏の道に明るい人がいいなあと思ってるの。あなた法花(法華)経は暗誦していらっしゃる?」僧「勉強はしているのですが,暗誦までは…」女「それなら山に戻って暗誦し,私の前で誦えて頂戴。そうすれば…ご褒美あ・げ・る♥」。僧は「『達成』するのは暗誦してからだ」と思い直し,山に戻ってからは,それまでにない真剣さで暗誦を始めた。ただ,その間にも女の面影が忘れられず,毎日手紙を送った。女からも返事と共に食料などが差し入れられたので,「あの女は私のことを真剣に思ってくれているのだ」と暗誦のモチベーションは増すばかりであった。そして,20日ばかりで長大な法花経を暗誦し終えた。 翌月,法輪詣を済ませ,予定通り女の家に寄った。食事ののち,僧は覚えたての法華経を朗々と(女の耳に届くように)誦えたが,頭の中はその後の事で一杯であった。夜も更け,下女たちも寝静まったので,いざ!とばかりに遣戸をあけて女の部屋に立ち入り「懐に入らんとするに,女,衣を身にまといて入れずして」(原文)こんなことを言い出した「よく覚えたわね。でも,覚えただけで親しい関係になってもいまイチよね。どうせなら,あと3年,お山で仏道に励んで,立派な学僧になってくださらない?そうすれば,公卿・皇族関係にも就職出来て私も鼻高々よ。その時こそは,きっと…♥」。この言葉に,僧も「そうかもしれんな…」と思い直し,山へ帰っていった。 その後,僧はひたすら仏道を学び始めた。女からの連絡も途絶えることがなかったので,「3年後には達成するぞ!」の大目標がブレることもなく,すさまじいペースで修業は進んだ。こうして通常3年の学僧コースを2年で終了し,残りの1年でさらに磨きをかけ,「山では断トツの若手学僧」と呼ばれるまでになった。そして3年ののち,僧は女の家に立ち寄った。これまでとは違い,女は僧を自分の部屋に通し,薄いカーテン(几帳)越し越しに対面したので僧の心は高鳴るばかりであった。女「この三年間,修業はどうでしたか?」僧「自分ではよく分かりませんが,山で開かれる仏法の討論会などではえらい方々からお褒めの言葉をいただくこともしばしば…」女「素晴らしいわね。私,仏の道で疑問に思うことがいろいろ出てきたの。ぜひ私に教えてくださいな」。そして,女は仏道に関し基礎から難問まで質問を浴びせたが,僧はポイントを外すことなく,よどみなく答えた。女が「3年でここまで到達されるとは…立派な学僧になるだけの器量をお持ちだったのね」と感嘆する一方で,僧は心のうちに,「なんと仏の道に詳しいんだ。達成した後も,語り合う相手としてはサイコーだな」なんてことを考えていた。その後,女と雑談をしているうちに夜も更け,女が横になる気配がしたので僧はカーテンを掲げて中に入ってゆき,女のそばで横になり,手を握った。女が「しばらくこのままにしていましょう」と言うので,僧は言われるままにしていたが・・・(達成していないけれど)ある種の達成感から眠りこんでしまった。
目を覚ますと,そこは人気のない草むらだった。有明の月の下,女の部屋で脱いだはずの衣がそばにある。何が起こったんだ⁉ どうやら法輪寺近くらしい・・・寒くてたまらないので法輪寺に駆け込んだ。そして,仏像(虚空蔵菩薩)の前で「恐ろしい目にあいました。お助けください」と深く額づいたが,再び寝入ってしまった。その夢に虚空蔵菩薩が現れた。「これまでのことは私が仕組んだのです。あなたは才能がありながら努力もせず,それでいて,ここに参っては都合の良いことをねだるばかり。どうしたものかと思っていたのですが,あなたは女性にとても強い関心を持っているので,これを利用して仏道修行を前進させる絵図を書いたのです。これを機会に山でさらに仏道の勉強を重ね,立派な学問僧になってください」。僧は目覚めると,「虚空蔵菩薩があの女に変身して私を導いてくださったのだ」と悟り,山に戻って修行を重ね,とても立派な学問僧になった(「女性への関心はなくなったんだろうか?」というのが私のゲスな疑問である)。
(つけたし)「虚空蔵菩薩により人が正しい方向に導かれる」という正統的な説話でありながら,色欲系が絡んでいる。私の最も好きな説話である。とくに「達成するまで頑張るぞ!」の僧には親近感を覚える。とはいえ,もしも僧が達成していたら,私は激怒してこの本を壁に投げつけていただろう。
今日はこれでお終い それにしても、今昔は天下の奇書だと思います。 中村泰男
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by yojiarata
| 2018-09-08 14:36
● ご隠居さん これからどうするつもり? 人前で話をするとき,内容を的確に相手に伝えることが求められるけど,本質を突いた「見出し」を付けることが常に求められるということですよ。 #
by yojiarata
| 2018-07-28 22:19
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by yojiarata
| 2018-05-26 23:16
中村泰男君 『荘子』を“テツガク”する
巻の一(万葉集),巻の二(古事記)に続いて,中国の古典『荘子』を中村泰男君が輪切りにします。なお今回は,万葉集,古事記の場合と異なり,中村君の“独演”です。 岩波文庫には,『荘子』三十三篇の全訳(金谷治訳注)が四冊にわけて収載されています。 第一冊 「内篇」七篇 第二冊 「外篇」十篇 第三冊 「外篇」及び「雑篇」八篇 第四冊 「雑篇」八篇
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● はじめに 私の色眼鏡を通じ『荘子』を紹介しようと思います。 最初に,書物としての荘子のあらましを手短に記し,ついで,その“主要な筆者”とされる荘周の人物像を述べることにします。そのあと,荘周の思想が色濃く反映されている(といわれる)部分について,私の感想も含めて紹介することにします。
● 荘子 と 荘周 書物としての荘子は「そうじ」,荘周の尊称としての荘子は「そうし」と読まれるのが慣例のようです。ここでは混乱を避けるため,「荘子」は書物名とし,人物名は「荘周」と記すことにします。
● 荘子 という 書物 現在われわれが手にすることができる荘子という書物は,おおよそ以下のような経緯により出来上がったもののようです。 すなわち,荘周(B.C.370年ごろ誕生)と彼の後継者(特定されていない)による著作物群(漢書によると52篇とされる)が,前漢成立前後(B.C.206年)までに存在していました。これを郭象という名の学者(4世紀)が整理し,現在伝わる「荘子」33篇に編集したようです。 このうち荘周自身の思想を色濃く反映しているのは「内篇」だといわれています。また,「外篇」・「雑編」は荘周以外の手によると考えられており,「内篇」と矛盾する内容も多いのですが,荘周をめぐるエピソード集という側面もあります。したがって,以下に記す荘周の人物像は「外篇」・「雑篇」の説話によっています。
● 私(中村)の荘子体験 最初の出会いは高校の漢文授業。「鵬の飛翔」,「混沌」などが扱われていました。また,Z会の添削(提出したことは殆どない)では「莫逆(ばくぎゃく)の友」が出題された記憶があります。そして,大学受験(1971年)の英語では「轍鮒」の和文英訳が出題されました。 いま思い返すと,高校生の頃からそれなりに,荘子に触れていたと思います。ただ,ここまでの荘子に対する認識は,「面白い話を集めた中国古典」といった程度でした。大学二年になり,人文科学(漢文)に荘子が開講されたので受講しました。この授業は土曜の1時間目という,長距離通学生にとっては出席しにくいコマだったので,ほとんど出席していません。しかし,それでは試験に通らないので,友人から福永光次訳の荘子を借り受け勉強しました。この訳本がとても「個性的」だったせいもあり,その内容は充分に理解できなかったものの,「荘子は面白話の単なる寄せ集めではなく,万物斉同 をはじめとする奥深い哲学書らしい」ということは納得できました。 その後,荘子との付き合いは一旦希薄になりましたが,1985年に,本業の研究実験がうまくゆかず落ち込んだ際,金谷治訳の荘子をなぜか手にしたのです。読んでいるうちに,心が「すとん」と落ち着くのを感じたのです(失敗したっていいんだ・・・どうせ全ては宇宙のチリさ)。 以来,仕事(出勤)前のひと時,緑茶をすすりながら荘子の一節を眺めることをルーチンにしています。
貧乏,自由人,妻子・弟子あり
1 轍鮒(雑編 外物 第2節) (要約) 荘周は貧乏だった。そこである時,土地の殿さまに米を借りに出かけた。 殿様:「わかった。あと一週間もすれば税金が入るから,三百金貸してあげよう。」 荘周はムッとして答えた:「こちらに来る途中,誰か呼びかけるものがありました。声の方向を見ると,鮒が轍の水たまりで苦しそうにしているのです。そして『すみません,少しの水を持ってきて,私を元気づけてくれませんか?』と言うのです。私は答えました『了解!私はもうじき南に旅行する予定だから,その時,長江の水をたくさん汲んできてあげよう』。鮒は怒って顔つきを変え,『今,ほんの少しの水さえあれば私は元気になれるのに,あなたはなんとも悠長なことをおっしゃる。そのうち乾物屋に行って,干物になった私を探してください。」
(つけたし)この説話,大学入試の英作文に出題されたと最近まで信じていたが,同期生3人に聞いても誰も覚えていなかった。もしかすると私の妄想かもしれない。
2 尾を泥中に曳く(外篇 秋水 第5節) (要約) ある時,荘周が川で釣り糸を垂れていると,楚の国の家老が現れ,「我が国の政治顧問になっていただけませんか?」と彼をヘッドハンティングした。 荘周は浮子を見つめたまま答える:「楚の霊廟には神霊の宿った亀が大事に祀られているそうですね。でも,亀の立場からすると,殺されて有難く祀られるのと,泥の中で尾を引きずっているのとどっちが幸せですかねえ?」 家老:「そりゃあ,泥の中で『のそのそ』しているほうがいいでしょう。」 荘周:「私も尾を泥の中で引きずっていましょう。お引き取りください。」
3 無用の用 (雑編 外物 第7節) (要約) 恵施が荘周に言った:「君の話は(面白いけど)まったく役に立たない(無用)よね。」 荘周は答える:「『無用』がどういうことかわかって初めて『役に立つ』とはどういうことかが判るんだぜ。大体,地面は広いけれど,人が歩くところは足で踏むところだけだよね。それなら効率第一で,人が歩かない(役に立たない)場所は黄泉に至るまで掘り取ってしまったら君は歩けるかい?」 恵施:「いやいや,そんな怖いことはできないよ。」 荘周:「ほら,『無用』が役に立っていることが判るだろ。」
(つけたし)恵施は当時の超秀才。詭弁の達人。荘子の中で,荘周との掛け合いがしばしば展開される。恵施が突っ込み,荘周がボケる。また,無用の用は荘子の中でしばしば登場するテーマでもある。そこでは「利用不能な巨大樹木」「超巨大カボチャ」「痔主」「せむし」などが無用を代表する。
4 鼓盆 (外篇 至楽 第2節) (要約) 荘周の妻が亡くなった。恵施がお弔いに行くと,荘周は胡坐をかき,土の瓶(かめ:盆)をたたき(鼓)ながら歌をうたっていた(「チャンチキおけさ」がイメージ的には望ましい)。 恵施:「長いこと一緒に暮らし,子を育てて歳をとり,あの世に逝った奥さんだ。それなのに,泣き叫ぶこと(「哭」:当時のお約束らしい)もせず,ましてや瓶をたたいてチャンチキおけさとは,ひどいんじゃないかい?」 荘周:「俺もアレが逝ったときには『がっくし』きたさ。でも元をただせば,宇宙のチリが集まってアレになり,今また宇宙のチリに帰ってゆくだけのことではないか。アレが静かに宇宙空間に戻ってゆこうとしているのに,いつまでも泣き叫ぶというのは運命の道理に通じないことだと思って泣くのをやめたのさ。」
5 荘周の死(雑編 列御寇 第17節) (要約) 荘周の臨終のとき,弟子たちは(あんな師匠だけれど)手厚く葬ってあげようと思っていた。 荘周(苦しい息の下):「私の死体処理の件だけど,天地を棺桶,日月を大きな宝石,星々を様々な珠,万物を副葬品とすれば,葬具一式完備するよね(そのへんに打ち棄てといてくれ)。」 弟子たち:「それでは先生のお身体が烏や鳶の餌食になってしまうではありませんか(やはり土中のほうが・・・)」 荘周:「烏の餌を横取りして蟻や螻(おけら)の餌にするというのは,地中の生物への『えこひいき』が過ぎるんじゃないかい(野ざらしでいいよ)。」
1 鵬の飛翔(内編 逍遥遊 第1節)荘子のイントロ (要約) 北の暗い海に「鯤」(こん:魚卵,たらこ)と呼ばれる巨大魚が棲んでいた。ある時,鯤は変身を遂げて「鵬」という名の巨大な鳥となった。海が大きく荒れる時,鵬は海面を疾走し,飛び立つや上昇気流に乗って九万里の高みにまで駆け上り,風にうちまたがって(培風)南の深い海(南冥)を目指したという。
蜩(ひぐらし)と小鳩は鵬の飛翔を見て笑う:「俺たちは向こうの木の枝を目指して飛び立っても,時には届かず不時着することもある。これでも,俺たちにとっては最大限の飛翔なんだが,鵬の奴はなんだって九万里まで駆け上って,わざわざ南を目指すんだろう。(奴さんは壮大な無駄をやってるのじゃないかね・・・もしかしてバカ?)」。
所詮小さな知恵は大きな智慧には及ばない(どうして蜩たちに鵬の意図がわかろうか)。
(感想)要約では表現できない圧倒的な迫力である。そして,巨大魚を『たらこ』と名付けるこのセンス!世間の秀才を蜩に,鵬を(荘子流の)理想人(至人:自らに執着しない人)になぞらえていることは,この後の文脈から判る。なお,「蜩と鵬の間に『差』(優劣)を認めることは,荘周哲学の基本である『万物斉同』の理念に反するのではないか」という議論もなされたようだが,目くじらを立てることはないと私は思う。荘周が一杯機嫌で,ホラを吹きまくっているというイメージである。
(つけたし)この一節は古来有名で,様々な局面で引用されている。二所ノ関部屋の納谷幸喜少年(のちの大横綱)が十両に昇進した際,漢籍好きの親方が「これは大物だ。鵬のように大きく育て」と四股名「大鵬」を与えた話は特に有名。また,科学書の出版社「培風館」の名前もここに由来する(と思われる)。さらに,野球で有名な仙台育英高校の校歌の出だしは「南冥遥か天翔ける・・・」であり,鵬の飛翔を歌っている。
2 万物斉同(内編 斉物論 第4節) (要約)私たちは物事に対して「然」(そうだ)とか「不然」(そうじゃない),あるいは「可」(よし)とか「不可」(だめ)といった判断を下す。しかし,その判断は所詮,主観に縛られたものに過ぎないのではなかろうか。一方,(「道」‐自然の理法のようなもの?‐の立場からは)すべての物事は「然」であり「可」でもあり,否定されるものは何もない。 さらに,こうした道の立場からは,ライ病(金谷治訳注の原文のまま)患者と絶世の美女といった奇怪な取り合わせも(対立が消えて)ひとしく一つのものである。そして,人生の達人だけがこれをわきまえ,ことさらなことをせず,ただただ(自然の流れの中の)ありきたりの日常に身を任せてゆくのだ。
(感想)「ヘッポコ海洋研究者(中村君自身,荒田注)もアインシュタインも,みんな素粒子の集合体だぁ!」というところだろうか。劣等感にさいなまれるときはこの節を思い出すようにしている。そして朝,仏壇に茶を供えるときには,日常生活での「可」「不可」由来の「心のゆらぎ」をできるかぎり小さくしよう思うのだけれど,なかなかね・・・ というのが実情である。
荘子の本文全体を見渡すと,鵬の飛翔で蜩を「小知」としたり,荘周自身が気色ばむ場面(例:轍鮒の話)が見受けられる。もしかすると荘周自身もこの「なかなかね・・・感」を抱いていたのではなかろうか。そして「達人だけがこれをわきまえ」との表現は,このことの反映なのかもしれない。
(つけたし)「達人だけが道の立場をわきまえ,自然の日常に身を任せる」という上述の内容は,荘子の他の部分(特に内編)にもみうけられる。たとえば「宅(心の持ちよう)を一にして 已むを得ざるに寓すれば すなわち畿し」(内編 人間世 第1節),「その奈何ともすべからざるを知り,これに安んじ命に従うは 有徳者のみ これを能くする」(内編 徳充符 第2節)など。個人の力ではどうしようもないこと(=已むを得ざる,如何ともすべからざること)には,身を任せることが重要なことが強調されている。
また「道」を表現する言葉としては「万物の係るところにして 一化の待つところ」(大宗師 第2節:万物がかかわり,どんな変化も依拠しているところ)が私には最もしっくりくる。
3 足切りの前科者が開く塾(内編 徳充符 第1節) (要約) 孔子のホームグラウンドの魯の国に王駘という兀者(足切りの刑にあった前科者)が塾を開いていた。この塾は大人気で,門下生の数は孔子の塾と肩を並べるほど。取り立てて何かを教えるわけでもなく,活発な議論をするわけでもない。それでも塾生は空っぽで出かけ,満たされて戻るという評判であった。ある時,常季という男が孔子に尋ねた「王駘は兀者のくせに,彼の塾はなんであんなに人気なんでしょう?」。孔子は答える「あの方は実は聖人だよ。人間にとって生死は最重要事項だけれども,あの人はそれに左右されることがない。空が落ち地面がひっくり返ってもびくともしない。借り物でない真実(無仮:道?)をみつめ,物事に流されず,事物の変化をさだめ(命)として,現象の根本に我が身を置いているのだよ」。「どういうことでしょうか」と常季は問い返す。孔子「万物斉同を実感しているあの人は,万物を貫く一つのものを見るばかり。物が無くなるなんて事は全然気にかからないから,自分の足が無くなることなど,土塊がそのあたりに落ちたぐらいにしか感じていないのさ」。常季「彼の心の持ちようが素晴らしいのは判るような気がするのですけれど,でもどうして,そうした人の周りに人が集まるのでしょう?」孔子「人は流れている水に自分の姿を映すことはしないで,静止した水面を鏡とするだろ。水が止まっているからこそ物の姿がちゃんと映る。あの人の静かな心と向き合っていると,周囲の者も自分の心が映し出される(自分も静かで満ち足りた気分になる)のだよ」。
(感想)ここにも荘周流の理想人のあり方が示されている。しかしその境地は,私にはとてつもなく遠い存在である。そのくせ,この一節に強く惹かれるのはなぜだろうか?おそらくは,この節自体が「鏡」として働き,心の揺らぎを少しだけ小さくする方向に働かせてくれているせいなのだろう。
(つけたし)荘子の中には兀者,せむし,醜男などがしばしば登場する。そして,社会的に低く見られがちの人々を通じて,「道」や生き方が説かれる(しかも,それらの話が面白い)。また,雑編の外物篇にはこんな説話もある。ある男に「道」のありかを問われた荘周は「虫けらにもあるよ」と答える。男が「ずいぶん変なものにあるんですな」と返すと,荘周は「そこいらの瓦礫や,うんこ・しっこにもあるよ」と続ける。これを聞いた男は黙りこくってしまった。「汚いもの,変なもの」を強調するのは荘子の大きな特徴でもある。
この節では孔子が「解説者」として登場している。荘子の本文中,孔子の出演頻度は著しく高い。その役割は「解説者」以外に,荘子流の道を説く達人,道を教えられる生徒,頑迷な道学者としてやり込められる道化などさまざまである。しかし,(荘周の哲学が強く反映しているとされる)内編では道化として貶められることは殆どなく,むしろ著者(おそらくは荘周自身)が孔子に敬意を払っているとさえ感じられる。こうしたことから,荘周は(孔子由来の)儒家の流れをくむのではないかという人もいる(出典は忘れた)。私もこの考えに従いたい。
4 莫逆の友(内篇 大宗師 第5節) (要約)ある時4人の男 (A - D) が座を囲み,誰ともなく話し始めた:「『無』を頭,『生』を背,『死』を尻とするような感じで,死生存亡が一体であることを弁えるものがいるだろうか?そういう人と友になりたいものだ」。4人は顔を見合わせ,にっこり笑い,心から打ち解けて(莫逆於心:心に逆らうなく)お互い友となった。(中略:AとBの間でのやり取り)。そうした中,Dが死の病にかかり危篤状態となった。Cはこれを聞くとDの元に駆け付けて言った。「偉大なものだね,造化(道)の働きは。この後,君をネズミの肝としようとしているのかね。それとも虫の腕としようとしているのかね」。Dは苦しい息の下で答えた。「偉大な鋳物師が金物を鋳るときに,溶けた金が飛び出してきて『絶対,俺は莫邪(ばくや)の名剣になるぞ』と叫んだら,鋳物師は『縁起でもない金だ』と思うだろ。同じように俺が『いつまでも人間でいたい』と言ったら,あの造化者(自然の理法を擬人化したもの)はきっと不吉な人間だと思うだろうよ。いま,天地の広がりを大きな鑢(るつぼ)とみたて,造化者を鋳物師と考えるなら,どんな形にされたって不都合なことは何もない。(死ねというなら)静かに寝るだけだし,(生きろというなら)ぱっと目を覚ますだけだ」。
(感想)7年前に胃がんにかかり,胃袋の 2/3 を切除する手術を受けた。この一節を胸に手術に臨んだが,やはり不安で一杯だった。一方わたしの父の場合,癌で余命半年と宣告された際に最初に発した言葉が「(半年後の)アテネオリンピックがみられるかな」だった。周りの者はこの言葉に脱力したが,こうした感じで死んでゆけたらと思う。
5 混沌 (内編 応帝王 第7節) (要約) 南の帝王を儵(しゅく)といい,北の帝王の忽(こつ)といい,中央の帝王の混沌(こんとん)といった。あるとき儵と忽は混沌の国で会談したが,混沌は二人を手厚くもてなした。そこで二人は混沌にお礼をしようと相談し,こんな結論にいたった。「人の顔には目・耳・口・鼻の七つの穴があって,物を見,音を聞き,食事をし,息をしている。ところが混沌の顔には穴がひとつもない。(これでは人並みといえないから)穴をあけてあげよう」一日にひとつずつ穴をあけていったところ,7日目に混沌は死んでしまった。
(感想)この節は,人間の賢しらが,自然の純朴を破壊することを象徴的に説いたものとして,荘子寓話の中でも傑作である(金谷)。また,中間子理論でノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士が好まれていた寓話でもある。素粒子理論という「論理的思考(数学)に基づいて物質の本質を極めようとする学問」(のように私には思われる)に身を置きながら,博士はなぜ,「知」が自然を破壊するというこの話を好まれたのだろうか?論理では極めがたい自然の深淵を眺めておられたのだろうか?
(つけたし)大学2,3年の「分析化学」は藤原鎭男先生の担当だった。先生の講義は混沌としていて,きちんとしたノートを採ることは不可能だった。3年時の講義では,まじめなノートは最初から放棄し,ノート表紙に「混沌録」と書きつけて,先生が時折される化学関係の雑談をメモに取った。そんな私が卒業研究と大学院の選択では先生の門をたたいてしまった(後悔しておらず,むしろ幸いだった)。先生の「割り切れない世界」(不条理の世界?)に惹かれたのかもしれない。
● 安部内閣総理大臣と荘子:モリカケ以上に深い関係
昨年,加計学園による獣医学部新設問題が世間をにぎわせた。その際,学園理事長と安倍総理の親密な関係を表す言葉として「腹心の友」という言葉がしばしば用いられた。これは加計学園の式典で,安倍氏が加計理事長との関係をそう表現したことに由来している。最初この言葉に接したとき,「腹心の友」って聞きなれないよね,と感じた私は,ネットで調べてみた。すると,この表現は村岡花子訳の「赤毛のアン」(読んだことはない)に用いられていることが判明した。「さすが安倍総理‼重厚表現の王者‼」と一瞬は思ったのだけれども,学園の式典での映像がネットにアップされていたのでこれを確認した。すると,生来の活舌の悪さを差し引いても,この方は「バクシンの友」と発音しているではありませんか!おそらく,重厚に「莫逆の友」というべきところ,なぜかバクシンとなってしまったのであろう。そして周りの頭の良い人が,「あれはフクシンと発音しているのです」と庇ったと考えられる。「私は立法府の長」・「ご批判云々(でんでん)は当たらない」など,「??」な発言で知られるお方にはふさわしい表現かもしれない。また,国会で自ら弥次をとばして(2015年2月26日)野党から反発を受けた際,この方は「いまだ木鶏たりえず」と応じた。
この「木鶏」も荘子に由来している(=闘鶏の究極の姿は木鶏(木製の鶏)のようなもので,こうなると,全く心を乱さず静かな姿のため,相手が戦意を喪失してしまう;外篇 達生 第8節)。そして「いまだ木鶏たりえず」の出典は,角聖 双葉山の連勝が69でストップした際,双葉自らが後援者へあ)の文言であり,一瞬心を乱して敗れてしまったことを表現している。「待った」をせず,堂々と落ち着いた取り口の双葉山(私自身は見たわけではないが、大学相撲部出身の父がよく言っていた)にはふさわしい表現である。一方,安倍氏の場合,普段から「こんな人たち」とか,特定の新聞社に対する罵りを感情的に繰り返しているので,「木鶏たりえず」とのアンバランス感は余人をもって代えがたいと思う。わたしはこの 知的生命体 の重厚表現を楽しんでいる。
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by yojiarata
| 2018-03-26 21:23
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