NMR50年 Ⅳ



IUPAC 国際天然物化学会議 (1964年,京都)


1964年4月12日-18日,有機化学の世界でNMRが独り立ちしたことを示す国際会議が京都で開催された。

筆者が参加した初めての国際会議であった。最近は,自分に関係のある講演をチョコッと聴いて姿を消す人の少なくない残念な時代になったが,新米の筆者は,耳を澄ませ,目を輝かせて,寸刻を惜しんで,またとない機会に密着,聴講した。一見自分に関係のない講演が,自分のつぎのアイディアになるのはよくあることだ。全体を取り仕切った中西香爾(コロンビア大学)の素晴らしく流暢な英語に大いに感心し,子供の頃に覚えた軍歌の一節“今に見ていろ,僕だって”を思い出していた。

会議は聞くもの,見るもの何もかも新しく輝いていた。今にして思うと,駆け出し時代に味わったこの感動と興奮がその後の研究生活の原動力となった。研究とは感動と興奮だと思う。

とくに印象深いセッションを一つだけ挙げよと問われれば,筆者は躊躇無く 「テトロドトキシンの構造に関するセッション」 と答える。

テトロドトキシンの構造決定に関しては,著名な3研究室の先陣争いが世界の注目を集めていた。超満員のこのセッションは,平田義正(名古屋大学),津田恭介(東京大学),R.B.Woodward(ハーバード大学)の3人が登壇して,独立に行った構造決定の結果を報告した。提出された構造は三者とも同一であった。
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同じセッションに登壇したH.S.Mosher (スタンフォード大学)は,カリフォルニア・イモリ (Taricha torosa) の毒が,まさに,テトロドトキシンと同一であることを示した。この研究結果は,テトロドトキシンがマフグ科のふぐだけに存在するものではないことを初めて示した重要な研究であった。

講演で面白いと思ったことはいつまでも記憶にある。Woodward のマフグ,トラフグの発音(筆者には大変ユーモラスに聞こえた),Mosher が映したカリフォルニア・イモリの毒々しい写真は今も記憶に残っている。

肝心な場所に存在する 4級炭素 などによって構造決定は困難をきわめた。可視・紫外,赤外は何の役にも立たなかった。言うまでもなく,特定の元素を取り出して見ることが出来ないからである。実際,構造決定は,分解産物を丹念につなぎ合わせる伝統的なやり方で行われた。

電気通信大学に在籍していた筆者のもとを,津田恭介のグループから太刀川隆治(三共,当時)が訪ねてきた。学会の前の年だったと記憶している。競争が激烈であったためか,構造が何処までわかっているかを筆者にも伏せたまま,この部分構造はNMRの結果と矛盾するかなど,意見を求められ当惑した。その上,測定に用いたのは,電気通信大学の 27Mc/sec 分光計であった。

結局,NMRだけでは結論に至らず,最終的にはX線結晶解析によって構造が決定された。これは,今に至るも続く永遠のテーマ,「NMR か X線 か」の言わば原点であったような気がする。

テトロドトキシン・後日談

1972年,岸義人(ハーバード大学)が D, L-テトロドトキシン(ラセミ体)の全合成に成功した。2003年には磯部稔・西川俊夫(名古屋大学)らと J. Du Bois(スタンフォード大学)が独立に初の不斉全合成を達成している。

1970年頃を境として,パルスフーリエ変換法,超伝導磁石の導入によってNMRは急速に変貌を遂げる。スタンフォード大学医学部薬理学教室のO.Jardetzky
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第1回ISMAR,東京,1964年,威風堂々,物凄い貫禄で周りを圧する Jardetzky (当時30代後半だったはずである)


1970年代のはじめ,Jardetzkyの研究室に滞在していた筆者は,装置が電磁石(100 MHz,1971年)から超伝導磁石(270 MHz 続いて 360 MHz)(1972-1974年)に移行する“遷移状態”の場に立ち会う得がたい経験をした。CWであった装置にも,すぐにパルスフーリエ変換法が取り入れられた。

1987年8月26日(水),27日(木),28日(金)第29回天然有機化合物討論会が札幌市民会館で開催された。この討論会は,天然物に関するきわめてレベルの高い学会であることで知られる。この会で,村田道雄を中心とする東北大学のグループが新しいNMRの技法を駆使して得た見事な研究成果を報告している。

32 イモリのテトロドトキシン新誘導体について
四津まり,村田道雄,安元健(東北大・農),
直木秀夫(サントリー生有研)
第29回天然物有機化学討論会要旨 29,240-247(1987)


国立情報学研究所 CiNii のウェブページには,第29回天然有機化合物討論会講演要旨集の本文全部がPDFとして公開されていて,誰でも読むことが出来る。
http://ci.nii.ac.jp/vol_issue/nels/AN00154136/ISS0000422026_ja.html
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006678644

テトロドトキシンのその後については,次の総説が興味深い。

化学と生物 Vol.21, No.10, 678-687 (1984)
http://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/jnlabstract_ja.php?cdjournal=kagakutoseibutsu1962&cdvol=22&noissue=10&startpage=678

こうしてみると,日本核磁気共鳴学会も,(第1回から現在までの)講演要旨集の電子化などを急いで進める必要性を感じる。






つづく

# by yojiarata | 2011-04-22 17:14 | Comments(0)

NMR50年 Ⅴ



コンピュータの時代


NMRスペクトルの解析などには,最初,タイガー計算機(1999年4月13日撮影,1960年代中頃の価格は3万5千円)
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を用いた。ある日曜日,1日中ガラガラ回して下宿中から非難の雨を浴びた。最小自乗法による ABC スピン系のスペクトル解析には,2個の 3x3 のマトリックスの対角化,1個の6元連立方程式の解を求める必要があり,最終結果に到達するまでに,タイガーでは何週間もの時間を要することもあった。最初に設定したパラメーター(化学シフト,スピン結合定数)が不適当であれば,最小自乗法による計算は収斂しない。泣く泣く,パラメーターを設定し直して再びタイガーをガラガラ 廻す。高磁場の時代に生きる現代人に,ABCスピン系のスペクトル解析があの頃,如何に重要であったかを理解いただくことは困難だと思う。

ちょうどその頃,東京大学理学部物理学教室で,(右)高橋秀俊(1915-1985),(左)後藤英一(1931-2005)
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によってパラメトロン電子計算機PC-1(残念ながら,写真が一枚も残っていない)が完成し,夜の9時から朝の9時までの12時間,理学部内の研究室に公開された。PC-1のおかげで,一晩の徹夜でABCスピン系の解析が可能となった。大感激であった。パラメトロンを後藤が発明したのは大学院学生の時である。24ビット256語,プログラム,データはすべて紙テープに移し,ガチャガチャと鳴り響く機械読みリーダーで入力した。これは大変な作業である。まずプログラム(当時はアセンブラー登場以前であり,何日も辛抱しながら機械語で書いた)を入力したあと,データのテープを読み込ませる。途中でテープがちぎれる悲劇にもしばしば見舞われた。余りのショックに足取りも重く,徹夜明けの下宿に引き上げるのみ。

大学紛争の頃,夜中に目が覚めて,学生の吹くピッピッという音が耳について眠れなくなるとポツンと洩らされた大先生がおられた。筆者には,あのガチャガチャの音がそれに相当するかもしれない。ただし大先生の場合と違って,ガチャガチャは懐かしくも心地よい響きをもつ子守唄であった。

ここで,どうしても書いておきたいことがある。それは高橋先生の寛容さである。筆者は高橋先生には足を向けて眠れない。当時,PC-1は日本でたった一台しかない,先生にとっては文字通り“虎の子”の財産であったはずである。その虎の子を,1週間を通して夜間12時間にわたって,個人的には会ったこともない学生,研究者に開放したのである。先生は,“これは国から援助をいただいて作った国の財産です。開放するのは当然のことです”と言っておられたという。言うは易しく,行うは難いことである。

目が飛び出るような高額の機器を山のように並べて抱え込み,外部には一切公開しなかった御仁を筆者は知っている。高橋先生の爪の垢を煎じて飲んで欲しかったが,今や手遅れである。

“T2が短く,FIDがすぐ消えてしまって困っています。何とかならないでしょうか?”と高橋先生に質問したことがある。先生は問題の所在を直ちに理解され,仙人のように厳かに,“君,もともと情報が無いのだからダメですよ”とおっしゃった。

その後,PC-2
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に進化した高橋研の電子計算機(24ビット1024語,すなわち1K語)には,スーと音も無くテープを読み込むフォトリーダーが使われていた。スーと音も無く読み込みながら,途中でテープが絡まることもあったが,これには本当に感激した。計算速度も上がり,「計算=徹夜」の概念から開放された。この間,高橋研のスタッフの皆さんには何から何までお世話になった。何を今頃になってと言われるかもしれませんが,有山さん,石橋さん,お名前を忘れてしまった大勢の方々,本当に有難うございました。

やがて,装置に専用に附属する専用のミニコン
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の時代になった。テキサス・インスツルメンツの 980A,980B,続いて,コンピュータ全盛の時代になった。お金持ちの時代になった今,利用者は何も考えないで,コンピュータの命令に従って動く(動かされる)時代になった。

吉田富三(東京大学医学部病理学教室,1903-1973)
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(左) 吉田富三(32歳),(右) 長男・吉田直哉(4歳)(元NHK チーフプロデューサー)日本癌学会山極賞受賞に際して(昭和10年4月);生前,吉田直哉より掲載の許可を得た。

のことばをふと思い出すことがある。

だいぶ前の事だが,アメリカのある研究所で,見事な機械が揃っているのを見せられてそれを感心すると,案内してくれた若い研究者が,僕は毎日これらの機械の間を往復しているだけで,何も考えない,考えることを機械が許さないのですよ,という意味のことを言った。私はハッとしてその男の顔を見直し,アメリカにもいい若い人が居るな,と思ったのを覚えている。

[→ 吉田富三『随筆集 生命と言葉』(読売新聞社,1972,253ページ,現代仮名遣いに改めた]


来し方,行く末


NMRの世界では,より高い磁場,より感度の高い検出法が求められていた。1970年代の半ばになって,NMRは有機化学を越えて生化学の世界に浸透しつつあった。

生化学者から質問が飛ぶ。“我々はマイクログラム,ナノグラムを相手にしているのに,君たちはミリグラムあるいはそれ以上を相手にしているではないか。我々にとっては,気の遠くなる量である。君たちは一体何を考えているのだ!”

福岡大学で1977年に開催された生化学会(1977)で筆者が使ったスライド
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をご覧いただきたい。“今後,装置の強大化,高額化の波が押し寄せてくる,どうすべきか困惑している”と述べた筆者に対して,それならその流れに乗ればよいではないかとおっしゃった方がおられた。その方は後に大金持ちになられた。

大勢の出席者を集め続いていた 「赤外・ラマン討論会」 は次第に勢いを失い,構造化学討論会に合併吸収され,やがて分裂・消滅した。日本化学会年会でも,物理化学のセッションには必ず NMR,ESR の発表があったものだが,やがて,磁気共鳴のセッションに併合され,今ではほとんど消滅した。

しかし,NMR は違う。NMRは可視・紫外分光法,赤外・ラマン分光法とはその性格を全く異にする。すなわち,分子全体を見るのではなく,分子の中の個々の原子を1個ずつ手にとって見ることが可能な稀有な方法である。

有機化学者が出会って興奮し,全力でその可能性を拡大していったNMR は今や,タンパク分子中の特定のアミノ酸残基のどのH,13C,15Nであるかを帰属し,その周辺の静的,動的構造に光をあてることのできる究極のスペクトロスコピーに成長した。

思えば,筆者のNMR人生は,我が愛するドンキホーテの生きざまそのものであった。
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敵わぬ相手に挑戦しては跳ね返されるドンキホーテ
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は本当に素晴らしい人物である。

これからの日本を背負っていく若者は,感動と興奮と粘着力を持って,結果を恐れず猪突猛進してほしいのです。古ぼけた,カビの生えたようなことをいうな,と額に皺を寄せないでください。期待すればこそです。もう一度いいます。若いドンキホーテが大勢出て来ることを熱望しています。

文中,引用した方々のお名前には,失礼とは思いましたが,敬称を省略させていただきました。お許しください。


結びに,古い任侠映画から:

古い不器用な奴だとお笑い下さいまし。ただあっしには,
これしかできないんでござんすよ。
鶴田浩二(1924-1987)






# by yojiarata | 2011-04-22 17:02 | Comments(1)

Ecology Now



1971年1月,アメリカ・カリフォルニア州パロアルトに到着。それから2年間,スタンフォード大学医学部薬理学科のオレッグ・ジャーデツキー教授の研究室に客員助教授として滞在した。

アメリカ滞在の2年間の間に,満足すべき研究成果は得られなかったが,その一方で,アメリカを含めた西欧先進国の文化についてかけがえのない多くのことを学んだ。

1) エコ ロジー

最初に住んだアパートの駐車場で Ecology Now のステッカーを貼った自動車を見た。今では誰一人として知らない人のない エコロジー(エコ) なる言葉を知ったのは,この時が最初である。

しかし,今振り返ってみると,この大学では エコ どころではなかった。実験に使った後の溶媒のベンゼンを何処へ捨てるのか同僚(大学院学生)に聞いてみると,ここと言って流しを指差した。日本では既に,廃液の処理が問題になり始めていたので,同僚に,そんなことをしていると貴殿の大切な大地が汚染されるではないかといってみたが,彼氏はそんなことは考えたこともないと悠然としていた。

駐車場の自動車の持ち主はどのように考えて,あの巨大なステッカーを貼ったのか聞いてみたかったが,結局その機会を逸してしまった。

あれから40年以上が経過し,アメリカ大統領の掛け声の下,地球の汚染に政治的な配慮が払われ,それが雇用の創出に繋がっている。

2) 英語の表現

筆者は,大学院学生の頃から英語に興味をもち,自分では人並みに英語ができると思っていた。これは全くの思い違いであることをすぐに気が付いた。今思えば,当たり前のことであるが,英語に限らず言葉は生きている。

倉石武四郎 『中国語五十年』(岩波新書,1973)

平野敬一 『マザー・グースの唄 イギリスの伝承童謡』(中公新書,1972)

カンザス出身のスタン,現在テキサス大学の生化学の教授をしているキャッシー,レバノン生まれ,ハーバード大学出身のラジャには,毎日のように,生きた英語を教わった。彼らも,基本的には英語ができるけれど,生きた英語が全く駄目な小生に,喜んで付き合ってくれた。

思い出したので,余事ながら付け加えておくと,実験室や廊下を裸足で歩き回るキャッシーに,危ないから止したほうがといってみたが,全く,われ関せずであった。

「わが英語の先生方」から学んだことは数知れないが,ここでは,ほんの少しだけ書く。

Presumably

研究室のミーティングで,Presumably は何度も聞くのだが,自分の理解としては,Presumably が probably, possibly とどう違うのか全く解からないのには当惑し,先生方に質問を繰り返した。

例えは,英和辞典で,Presumably をひいてみるとよい。

adv 思うに, たぶん (probably).
The report is presumably correct. その報道はおそらく正確であろう.

presume の項には,推定する,思い込む,【法】《反証がないとき》真実と推定する。想像する,・・・と思う,考える。想定[仮定]する, 含意する

[株式会社研究社 リーダーズ+プラスV2]

これでは何のことか,理解不能である。研究室のミーティングで,あるポスドクが,presumably ・・・ と発言する。別のポスドクが直ちに,

There is no reason to presume, Jim.!

切り返す。この国では,年功序列という概念は研究の場にはない,大げさに言えば闘わなければ生き残れないのである。

何度も先生方に食い下がった結果,私が遂に納得できたのは,キャッシーの次の説明である。


ある会社の重役である女性(当然,毎日出勤して重役室にいる)に関する問答を想定。

Presumably she is in her office at the present time.

But I don't know how probable this is.

Because it is possible that she is temporarily out of her office to meet some other person.


Yes か,No か

貴殿は,これが一体何だかわかるでしょう?
You know what this is.

はい,わかりますよ。
Yes, I do.

いいえ,わかりません。
No, I don't.

つぎに,

貴殿は,これが一体何だかわからないでしょう?
You don't know what this is.

肯定するなら,日本語では,はい。解かりません。
英語では,No. と答えなければばらない。

つまり,日本語では,肯定,否定と並ぶことが許されるが,英語では,否定の次は否定が続き,
No, I don't.でなければならない。

逆に,わかりますよ,と言いたければ,
日本語では,いいえ,わかりますよ
英語では,Yes, I do.となる。

更に厄介なのは,

貴殿は昨日彼女に会わなかったでしょう?
You did not meet her yesterday?

はい,会いませんでしたよ
No, I did not.

いいえ,会いましたよ。
Yes, I did.

一言で言えば,英語では,

Yes の後には肯定の文が,No のあとには否定の文が続かねばならない

つまり,

Yes, I did not.

No, I did.

とは決してならないのである。

映画 『告発の行方』(1988)に次の会話がある。事件の現場にいた学生ケンに,裁判で証人に立つことを依頼する弁護士キャサリン。ケンが,友人の身を守るため,断ろうとする場面。

ケン:僕は現場にはいなかった。I was NOT there at that time.

キャサリン:いいえ,貴方はいました。Yes, you WERE!


当たり前のことをクドクド書くなと仰る方は,実践で腕を見せて欲しいと思います。
# by yojiarata | 2011-04-17 18:11 | Comments(0)

行間から執筆者の肉声が聴こえる

このブログでも書いたが,私は大学院博士課程の学生の頃から現在に至るまでの50年余り,核磁気共鳴(NMR)を友として研究生活を送ってきた。この間,数多くの素晴らしい友人に恵まれ,この上もなく幸せであった。

今日,その友人の一人から新しい本(2011年4月22日発行)が届いた。一気に読み通した後,大きな感動を味わった。


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広がるNMRの世界-40人の研究者からの熱いメッセージ-


一言にしていえば,行間から執筆者の肉声が,熱気が,聴こえるのである。

NMRをテーマとして,これまでに数多くの著書が執筆されているが,このような著書にこれまでに出会ったことはない。

このような著書が出来上がったのは,編集を担当された朝倉哲郎博士(東京農工大学教授)のアイディアによるところが大である。その特長は以下の通りである。

1)40人の執筆者を選び,それぞれの執筆者に,印刷4ページで,自分が最も興味を持ち,研究を続けているテーマを簡潔にまとめる。

2)各項目の最後には,数行の[最後のひと言]が付けられる。

3)合成高分子・先端材料生体分子医療・医薬分析・NMRの進歩の4部門に,それぞれ10名の執筆者が,割り当てられている。

多くの執筆者の作品を単に並べて印刷することは容易である。しかし,この本は違う。執筆者個人,個人の肉声が行間から伝わってくるのである。とくに,[最後のひと言]からは,研究者としての熱烈な思いが手に取るように伝わってくる。

仕事に熱中している内に,気が付いてみれば夜が明け,コーヒーを飲みながら,研究者を続けていてよかったとしみじみ思う[ひと言],新しい研究が成功し,その後,次のアイディアを夢中になって考えている内に,何日も眠れなない夜が続く経験を語る[ひと言]。

感動がつぎの研究を生む。

これまでに出会ったことのない類いまれな著書をもたらしたのは,編集を担当された朝倉博士のNMRに対する熱い思いである。朝倉博士,40人の執筆者の方々に心から敬意を表したい。
# by yojiarata | 2011-04-14 21:15 | Comments(0)

西岡剛と別当薫



西岡剛が左足を痛めて故障者リストに入った。走攻守揃った西岡にかける期待が大きかった。滑り出しの7試合で順調に大リーグになじんでいただけに残念である。

西岡負傷の報に接し,60年以上も前の中学3年の頃を突然思い出した。我々野球少年は午前6時に全員が集まった練習に夢中になっていた。今でいうタブロイド誌には,一面にいつも野球の記事と大きな写真が掲載されていた。誰かが必ずこの新聞を買ってきた。別当薫は我々の憧れのスターであった。

1942年,慶応大学を東京六大学リーグの優勝に導いた別当薫は,1948年,再開された東京六大学リーグで,慶應の主将として優勝に貢献した。

一時,都市対抗野球に加わった別当は,1948年,景浦将が在籍していた大阪タイガース(現在の阪神タイガース)に入団した。その活躍は華々しく,我々を熱狂させた。

首位打者を目前にしていた時,無念の故障によって別当薫は残りのシーズンを棒にふった。我々野球少年にとって大ショックであった別当の故障の詳細は,残念ながら思い出せない。ウェブで調べてみると,別当薫はこの年,89試合に出場,打率.328,ホームラン13本の記録を残している。

翌年の1949年には,別当薫は完全復活,137試合に出場,ホームラン39本,打率.322の記録を残した。

1950年,毎日オリオンズに移籍,この年,最多安打,ホームラン王,打点王,最優秀選手,日本シリーズ最高殊勲選手となる。

別当薫は,生涯で,ベストナイン6回,オールスターゲーム出場6回の記録を残し,1988年には野球殿堂入りを果たしている。

あれから60年有余,故障者リスト入りの西岡は,本拠地のミネソタでの開幕戦のセレモニーに松葉杖姿で現われた。ファンからの暖かい声援に接し,”いいチームにこられた。・・・ 自分を見失わず一日でも早く治したいなと思います”と語っている。

私は,西岡剛は間違いなく,第2の別当薫になると信じている。
# by yojiarata | 2011-04-09 18:15 | Comments(0)

小雨の丘



学生時代,都電の線路を渡った向こう側の本郷西片町のあたりをふらふら歩き回ることがよくあった。途中のパン屋さんで大好物のあんパンを買う楽しみもあった。ある時ふと見るとサトーハチローと表札の掛かった家がある。ア これが,あのサトーハチローの家かと思った。

当時テレビはこの世に無く,ラジオの全盛時代であった。放送は NHK の第一,第二のみ。現在のテレビと同様,ラジオに出演する常連がいた。『話の泉』には,サトーハチローのほか,堀内敬三(音楽評論家),徳川夢声(漫談家),山本 嘉次郎(映画監督),太田黒元雄(音楽評論家),春山行夫(詩人,随筆家),渡辺紳一郎の諸氏が出演して,薀蓄を傾けていた。子供の頃もっとも印象に残る番組であった。司会は最初の司会者は和田信賢,後の司会者では高橋圭三が記憶に新しい。

サトー八ローの父は佐藤紅緑,少年小説を書いていた。そのなかにあった野球小説が,筆者が野球少年になる切っ掛けの一つだったように思う。70年前でありながら,剛速球の投手(名前は桜井だったと記憶している)を如何にして打つかの少年の心境があの頃の私の心を捉えた。【桜井の手から離れたボールに夕日が当たり,キラッと光るボールに向かうバッター】,筆者の記憶はここで途切れる。

佐藤紅緑は結婚と離婚を繰り返し,生活が目茶目茶な男で,数々の奇談を残している。ちなみに,紅緑の最初の妻がハチローの母である。その間の事情は,八ローの異母妹である佐藤愛子の大著『血脈』に詳しい。この小説を基にドラマ化された 『ハチロー 母の詩 父の詩』 が平成17(2005)年,1月から3月にかけて9回に分けて放送(NHK)された。ハチローの母は紅緑に離縁され,仙台の実家で病死した。紅緑(原田芳雄)の宴会の席で,八チロー(唐沢寿明)が『小雨の丘』(サトーハチロー作詞,服部良一作曲,昭和15(1940)年)を歌う。号泣する紅緑。

私は,『小雨の丘』を聞くたびに,若くして他界した母を思い出す。現在,YouTube で,高峰三枝子,伍代夏子,中村美律子の歌でこの曲を聴くことができるが,演出も何も無くただ淡々と歌う小夜福子のオリジナル録音(昭和15(1940)年7月,『青春歌年鑑 戦前編④ 昭和15年~20年』)がとりわけ印象深い。

思い出すのは 黒澤明監督作品 『酔いどれ天使』 (昭和23(1948)年),当時は配給制の医師用アルコールまで飲んでしまう酔いどれ医師(志村喬)がヤクザ(三船敏郎)と喧嘩になり,手当たり次第にモノを投げつれる場面,志村喬が左利きであることを知った。病院の前に広がるどぶ池,毎晩そこにやってきてはギターを弾く若い男,曲は決まって 『小雨の丘』。

この映画の音楽を担当した早坂文雄(1914-1955)は,16歳で父が出奔,17歳で母が病死した不幸な生い立ちの人である。もしかしたら,あの 『小雨の丘』 にも,早坂の思い出が込められているのかもしれないと思った。

*


永井荷風の母・恒は,荷風の兄・威三郎と同居。荷風は,その威三郎と絶交関係にあり,病床の母を訪ねることは最後まで無かった。昭和12(1937)年の日記から。

九月九日。晡下雷鳴り雨来る。坂井晴次来り母上昨夕六時こと切れたまひし由を告ぐ。 ・・・ 雑司が谷墓地永井氏塋域に葬す。享寿七十六。追悼。

泣きあかす夜は来にけり秋の雨。

秋風の今年は母を奪いけり。

[新版 断腸亭日乗,第四巻(岩波書店,2001)]

*


長谷川伸『瞼の母』より,番場の忠太郎と母・おはまの別れの場面
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・・・ こう上下の瞼を合せ,じいっと考えてりゃあ,逢わねぇ昔のおっかさんの俤が出てくるんだ ― それでいいんだ。(歩く)逢いたくなったら俺あ,眼をつぶろうよ。(永久に母子に会うまじと歩く) ・・・

長谷川伸『瞼の母・沓掛時次郎』(ちくま文庫,1994,64ページ)

# by yojiarata | 2011-02-23 20:22 | Comments(1)

柞葉の母



母は,なにかというと泣いていた。子供の頃は,母親というものは,泣くものだと思っていた。小学校に入る前,母に連れられて,母の実家にたびたび行った。田舎の家の暗い土間で,母が祖母と額を寄せて泣いていた。あとになって,原因は,父親の素行らしいと知った。

小学校で,担任の先生が転任されることになり,母子が出席して送別会が開かれた。泣いていたのは私の母だけだった。母は映画と相撲のファンであった。というよりは,当時は,映画館に行って映画を見るのと,ラジオで聴く相撲くらいしか,楽しみがなかったのである。相撲と言えば,和田信賢さんだった。双葉山の70連勝が消えたときのアナウンサ-も,和田さんだったと聞いている。その和田さんが,昭和27(1952)年夏,パリで客死された。サトウハチローさんが自作の詩『和田信賢に捧ぐ』を朗読するラジオの前で母は泣いていた。

若いときに見たルドルフ・バレンチノを話す母の顔は,青春そのものであった。おそらく青春時代は,泣くことはなかったのであろう。母の涙はいつ頃から始まったのか分からない。気がついてみたら,母はいつも泣いていた。母は,女学校のとき聞きかじったらしい[結婚は恋愛の墓場である]という言葉をよく口にしていた。

母は,結婚後は好きな映画もほとんど見ていなかった。母と一緒に映画を2度だけ見たことがある。中学生になったばかりの頃の,イングリッド・バ-グマン,シャルル・ボワイエの『ガス燈』,グリア・ガ-スン,ロナルド・コールマンの『心の旅路』である。ロナルド・コールマンがグリア・ガースンのことを思い出すラストシーンでは,母はいかにも嬉しそうに小声で笑っていた。その後,映画も変わった。シネラマの巨大な画面を見て帰ってきて発した母の驚いた声は,いまでも覚えている。

デパ-トが好きだったが,エスカレ-タ-にはどうしても乗れなかった。運動神経ゼロという感じだった。女学校のときバレ-ボ-ルで親指を突き指し,指を曲げると痛いのは一生治らなかったようである。

大学を受験するため上京するとき,冷え性でよくおなかをこわした私のために,“白金懐炉”を買って来た。私が大学に入学したあとがまた,大変だった。当時,東京へは,夜行で14時間かかった。出発のときは,必ず駅まで見送りに来る。そして必ず泣くのである。これには閉口した。泣かれるのが面倒臭くなり,母と次第に疎遠になってしまった。母は,夏休みで帰郷した私を,ピョンピョン跳ねながら出迎えた。

母が59歳で他界した夜,ひとり朝まで母に付き添った。母はおでこが大きく,そのため眼がくぼんで見えたため,子供のときには“デボチンの眼ひっこみ”とからかわれていたという。夜中に,デボチンに自分の額を当ててみた。出棺前,母の胸に45回転のレコードを供えた。“あの曲を聞くと涙が出る”と母が言っていた『マドンナの宝石』が,近くのレコ-ド店で見つかったのは偶然としか言いようがない。蓋われた母を前にして,あのときの白金懐炉と冷たかったデボチンを思い出し,涙が襲った。母の一生分の涙が一時に出た。私はやはり母の子供だと思った。
# by yojiarata | 2011-02-19 03:03 | Comments(0)