戦争と平和




ご隠居さん 戦争の話が始まるのですか。


そうです。戦争を抜きにしては,今の時代を考えられないからね。


ブログを書き始めて6年近くになりますが,ここでは,過去1年くらいにわたって掲載した記事を整理しておきたいと思います。


それで,今回は,何が話題になるのでしょうか。


終戦直前,ロシア(旧ソ連軍)が国境を超えて乱入した事件(第1部),それと中東で起きている戦争(第2部)の2つです。


追記(2016年10月8日)

朝日新聞夕刊の総合2面の左隅に興味のある連載記事が 月―金 の5回づつ,掲載されています。今週は,「未確認生物をたどって Ⅱ」でした。来週10日からは,「対戦末期に始まった日ソの戦争をたどります」と予告されています。どんな記事になるのか,待っています。





まず,第1部戦争と平和


昭和20年(1945年),ソ連は日ソ中立条約を無視して,日本に宣戦を布告,8月9日午前零時,満州に攻め込み,暴虐の限りを尽くしたんだ。まるで,やくざの殴り込みですよ。


奥底の悲しみ 戦後50年
引揚者の記憶
(NHK 山口放送)
2016年9月20日



この番組は,綿密な取材に基づいた力作です。テレビの画面からは,犠牲になった多数の日本人女性の慟哭と恨みが迫ってくるよ。

読者に是非とも観てほしいよ。再放送を待つか,NHKオンデマンド(のライセンスを登録している場合)で観ることができるよ。


私は,この事件以来,あの国を信用しないことにしているんだ。安倍総理大臣は,北方領土について,今後,粘り強く話し合いを続けていくなんて,呑気なことを言っているけど,あの国相手では駄目ですよ。日本も,外交力ゼロという感じだね。情けないね!


なお,事件の詳細な経緯については,続いて引用する角田房子さんの著作を精読して下さい。


***



満州については,このブログに何度も書いたけど, 東条英機,岸信介 が共謀して,関東軍を牛耳り,結局,太平洋戦争の震源地となったんだ。



*




満州建国 と 満蒙開拓団に悲劇



満州事変の翌年,昭和7年に建国された 満州国 は建国のスローガンとして現地の人たちと共に,五族協和 と 王道楽土 を目指すことが 謳はれたけれど,実際は日本人が優位に立つ,いわば日本の傀儡国家だったんだ。

最も多い時で,日本人は軍人・軍属を含めるとおよそ205万人。そのうち満州北部の広い地域に入植した 満蒙開拓団 の数はおよそ27万人に上ったといわれているよ。

1931年に日本は満洲事変を契機に満洲全域を占領して,翌1932年に満洲国を建国。満洲国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政,のち皇帝)と勝手に定めました。日本の傀儡政権だった満洲国は,この時期,事実上日本の支配下とあったんだ。


日本は南満洲鉄道や満洲重工業開発を通じて多額の産業投資を行い,農地や荒野に工場を建設した結果,この時期に満洲の近代化が急速に進んだよ。一方では満蒙開拓移民が入植する農地を確保するため,既存の農地から地元農民を移住させる等,元々住んでいた住民の反日感情を煽るような政策も実施したといわれているんだ。


以上の記述は,NHK解説委員室・解説アーカイブス 時論公論 「“満蒙開拓団”の史実に学ぶ」 (2013年8月17日)による。


***



五族協和を理想として教えられ,国のためと信じて大陸に障害を捧げる決心で故郷の地を離れた満蒙開拓団 ― しかしその最期は余りにも悲惨であった。

満蒙開拓団の人々は ” 国策 ” と呼ばれた至上命令を信じて満州に渡った。・・・・・ ソ連参戦と同時に彼らは日本軍に放棄され,一切の保護を失って,血と泥と雨の中の逃避行を続け,虐殺,暴行の地獄を彷徨し,収容所では飢餓と寒気と悪疫にさいなまれた。  ・・・・・   こうして多くの開拓民―日本人の大集団が非業の死を遂げ,全員が財産を失った。

角田房子 『墓標なき八万の死者 満蒙開拓団の壊滅』 の「あとがき」 より。

角田さんのこの本は,最初から,じっくり読んでほしいね。悲しく,辛い話だけど。旧ソ連 (現ロシア) の過去,現在,未来を知るためにも。

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1991年 11版



***



ソ連軍の満州侵攻を身をもって体験した T さん(戦争中は関東軍の一員,現在96歳)の話は生々しいよ。

日本の関東軍の運命は3つに分かれたんだ。理屈も何もない。ソ連が勝手に決めたんだ。ひとつは,「南方」に送られた組,多くの戦死者が出たと聞いています。第二は,「シベリア」に送られ最も悲惨な運命にさらされた組,第三は,朝鮮から日本に送り返された組。 T さん は,幸運にも,日本に送り返されたんだ。







つづく

# by yojiarata | 2016-10-03 00:22 | Comments(0)

中東戦争 どこまで続く泥濘ぞ




続いて,中東情勢に話を移すよ。


● シリア政府・対・反政府勢力との内戦(アメリカ・対・ロシアの代理戦争)。停戦協定が破棄され,百人近い子供の死者がでた。
2016年9月29日


***



日本では,アメリカから高価な飛行機をどんどん買い入れて,自衛隊の戦力強化が着々と進んでいます。


● 朝日新聞夕刊 総合2
2016年9月24日

空自配備のF35
1号機を初公開
1機180億円 42機導入へ
米ロッキード・マーチン社


田中角栄,児玉誉士夫,丸紅商事を巻き込んで,巨額の金が流れた事件を思いだよね。あの時の相手も,ニクソン・元大統領と深い繋がりのあるロッキード・マーチン社だったね。

今回の日本側の受け入れには,どこの輸入業者が関わったのでしょうか。お金の流れはどうだったのでしょうか?大変興味があります。なにしろ,物凄い額の金だからね。

この事件については,次の2編のブログにまとめてあります。結局,ウヤムヤになってしまったけどね。いつものパターンでした。


ロッキード事件 田中角栄とアメリカの対ソ軍事戦略

ロッキード事件 田中角栄とアメリカの対ソ軍事戦略 (つづき)



***



2001年の9・11事件以後の中東情勢



アメリカで起きた9・11事件から,16年になります。

事件の直後,ブッシュ・前大統領が瓦礫の中に立って叫んだ言葉

諸君,これは戦争だ!


が,その後のイラク情勢のすべての原点だね。

2003年3月19日

同時多発テロのあと
ブッシュ・前大統領
イラクに対する武装解除の軍事作戦を開始
開戦理由
イラクが大量破壊兵器の保有


小泉純一郎総理大臣(当時)

米国の武力行使開始を理解し,支持します。


2003年4月9日
首都バクダッド陥落


2003年12月
陸上自衛隊イラク
先遣隊出発


日経2003年12月22日の世論調査
賛成     33%
反対     52%


イラク戦争による死者  
イラク人  10万人を超える
      アメリカ人  4489



***



アメリカ政府の公式発表


2005年12月14日

● イラクには大量破壊兵器はなかった。

● イラク攻撃を決断したことには責任がある。

● ただし,サダム・フセインの逮捕,処刑は正しかった。


その後の動き

2009年2月,自衛隊の完全撤退


2011年12月18日,アメリカ軍撤退


***



柳澤 協二は,次のように書いている。

自らの選択肢にない戦争を,同盟国アメリカの戦争であるがゆえに支持する。そのとき,「首の皮一枚」でつががっていたのは,戦争の合理性の説明ではなく,この種の戦争を否定する戦後日本の自己認知の枠組みそのものだったのではないか。

日本は,イラク戦争を通じて「アメリカの真の同盟国」となる一方,それ以外のアイデンティーを失い,変動するアジアの中で,自己認知の漂流を続けている。その漂流ぶりは,今やアメリカ自身にとっても最大のリスク要因となっている。

柳澤 協二『 検証 官邸のイラク戦争 ― 元防衛官僚による批判と自省 』(岩波書店,2013年3月19日,182ページ)




***



2004年4月7日
イラクで,日本人人質事件が起きた。自衛隊を撤退させるため,イラクが3人の日本人

今井紀明
高遠菜穂子
郡山總一郎

を拘束した事件である。(15日解放)

人質解放の条件

3日以内に自衛隊がイラクから全面撤退すること。

何かがあって,この件は収まり,3人が解放されました。自衛隊はその後もイラクに留まりました。何故そうなったのかは,私には理解不能です。

柳澤 協二の著作に次の記述がある。

小泉総理は,「テロリストの要求には屈しない」姿勢を表明する。政府,与党内には,「自己責任」とする主張があった。人質は,宗教指導者の仲介によって数日後に解放された。
柳澤 協二『 検証 官邸のイラク戦争 ― 元防衛官僚による批判と自省 』(岩波書店,2013年3月19日,107ページ)


当時,不用意にイラクに取材のために入ったとして,非難する声が,日本政府,民間人を通じて沸き起こった。この事件については,当時,詳細に報じられたので,ここでは触れないでおく。しかし,今にして思えば,現在のイラク情勢(広い意味で,中東全体の情勢)と密接な関連を持つ事件だった。

読者は,詳細な記述があるインターネットで,記憶をよび戻しておいてください。


柳澤は次のように書いている。

2006年7月,小泉総理が辞任し,安倍晋三総理に変わると,「イラク」はほとんど話題に上らなくなった。自衛隊の活動は続いていたが「官邸のイラク戦争」は過去のものとなった。
柳澤 協二『 検証 官邸のイラク戦争 ― 元防衛官僚による批判と自省 』(岩波書店,2013年3月19日,125ページ)



***



最近,ケーブルテレビで興味あるドキュメンタリー・映画を見ました。
J:COM 「(株) ジェイコム港新宿」映画・チャンネル NECO-HD
9月12日 2:30-4:10


ファルージャ イラク戦争
日本人人質事件・・・ そして
2013年


Home Room Co.

ATP若手映画プロダクション
第一回支援作品
2013年1月




多くの外国メディアが,現地から引き払ったあと,情報源は,BBC,APなどと契約を結んだ限られたものとなっていた。

伊藤めぐみさん(小さな映像プロダクションで働く,本人の言葉,当時18歳)は,当時イラクの病院で看護師として働いていた高遠菜穂子さんに会うためにイラクを訪れ,2013年8月 イラク戦争の激戦地だった町・ファルージャで取材を始めました。



***



イラク人ジャーナリスト アリ・マシュハダーニさんに聞く


イラク人にしてみれば,日本の自衛隊とは何かよくわからない。

わかるのは,武器を持った軍隊が自分たちのところに来たということ,そしてその自衛隊がアメリカと手を組んでいるということです。

イラク人は日本は平和的な国だと思っていたので衝撃でした。

武装勢力と言われる人達は決して特別な人達ではありません。彼らは私にとっても兄弟であり隣人であり身近な人達なのです。






あるイラク人医師との対話

日本政府はイラク戦争を支持しましたが,私は医者です。そのことについては何もわからない。日本のことについてであれば・・・

日本の人,日本の友人についてなら話せます。政治的な人とは話をしたくない。いつも政治について話をすると,問題が起きそうで嫌なのです。



早稲田大学におけるアリ・マシュハダーニさんの講演から


私はアメリカ兵が起こした大量虐殺を何度も追及してきました。女性や子供たちが殺されていくのに,彼らを救うことも撮影することもできませんでした。

イラクにおいて,ジャーナリストとして活動するのは,とても難しいことです。いつ殺されるか,拘束,逮捕,誘拐されるか分からず,行方不明になっていまう危険性もあるのです。


廣島,沖縄訪問の印象を語る アリ・マシュハダーニさん


この絵( 原爆の図 )を見ていると,私はまるでイラクにいるような気持になります。それはこのような光景を実際に目にしたことがあるからです。

原爆の図 (1980年) (講談社文庫)

丸木 位里、 丸木 俊



今再び思い出しました。病院で目にしたことを。

絵ではなく現実でした。

防空壕を掘ったり被害者の遺体を掘り出すときのこと。

目の前で死んでいく者たちの姿。

親を亡くした子供たちや,頭を切断された男のこと。



日本人は過去の戦争体験を忘れようとしている。

忘れてしまったのではなく,忘れようとしている。

戦争の傷跡が深すぎて,心が痛むからそうするのだと思う。

しかも日本人はイラク戦争に無関心であるし,世界で起きていることにも関心を持っていないと思う。でも日本人が無関心なのではなく世界各地で起きている取り上げないメディアの責任だ。

実際には,イラクが不安定な時も支援してくれる人がいたり,私もそうやって日本でイラクのことを話すことが出来ている。

だから,日本政府がイラク人を助けようとした人を批判し,反対に命を奪う行為を支援したのには驚いた。

もしかすると,日本政府が武力勢力の要求に応じなかったことは,感謝した方がいいのかもしれない。そのおかげで日本政府は,アメリカに追随していることを,イラクと日本国民に証明することができたのだから。



***




防衛研究所所長(2003)
内閣官房副長官補(2004)
柳澤 協二
柳澤 協二『 検証 官邸のイラク戦争 ― 元防衛官僚による批判と自省 』(岩波書店,2013/3/20)


自衛隊の派遣(イラクへの)は,日本政府が政治的な意図をもってやっていることだから,単なる「人助け」とは違う。

”哲学”がなくて,アメリカと上手にやっていくことだけを考える。それが一番の問題点である。

哲学がないまま戦争を支持しても(しかも,こんなにひどい戦争を),自衛隊を危険な目に合わせた教訓を生かさなければならない。



興味のある著作です。加えて,2001年9月の米国の同時多発テロから,2008年12月の自衛隊イラク撤収まで,著者が新聞報道,防衛年表をもとにまとめた詳細な表が極めて有用です。さすがに,優秀な官僚の作品であると感心しました。

私自身は,「”哲学”がなくて,アメリカと上手にやっていくことだけを考える。それが一番の問題点である」の件が最も重要かつ本質的なポイントだと思います。

国家試験の成績が抜群で,哲学が完全に欠如している退屈きわまる官僚の世界のなかから,柳澤さんのような人物が出てこられるというのは,意外かつ嬉しいことですね。国会で,論戦と称して,官僚の書いた文章を棒読みにしている総理大臣をはじめとする大臣の面々,政治家達の顔が目に浮かぶよ。




***



他にも,いろいろ大事なことがあります。その一部は,次のブログに書きました。

忘却とは忘れ去ることなり 60年安保 から安保法施行まで  巻の1,2


日本よ 黙って 安倍総理大臣と心中するつもりですか


自衛隊の海外派兵 心を病んだ自衛隊員と自殺


アメリカ国家の素顔 と 安倍政権 の『戦争法案』


安全保障関連法案と死の商人


自衛隊の海外派兵 心を病んだ自衛隊員と自殺 【追記】


徴兵制


安保法制と集団的自衛権 9月に最終章へ


安倍談話が映しだす リーダーの要件


安倍晋三総理大臣に捧ぐ 安保法成立にあたって


経団連 武器など防衛装備品の輸出を「国家戦略として推進すべきだ」





未完

# by yojiarata | 2016-10-03 00:20 | Comments(0)

石原慎太郎(元)東京都知事 曰く




今日の言葉

石原さんにとって,東京都庁とは何だったのかを,一言で表現してくださいと,テレビのレポーターに問われ,


伏魔殿


ただ一言,発せられました。


岩波広辞苑によると


悪事・陰謀などが陰で絶えずたくらまれている所。


とあります。





おしまい

# by yojiarata | 2016-09-26 17:43 | Comments(0)

リオ・オリンピック が 終わった





北京・オリンピック 2008年8月8日ー8月24日



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加藤芳郎2008(毎日新聞)





おしまい

# by yojiarata | 2016-08-23 22:25 | Comments(0)

ロッキード事件  田中角栄 と アメリカの対ソ軍事戦略





ご隠居さん。此の所,ご隠居さんのブログを見てなんだけど,どうなっているの?高齢化が進んで,やる気がなくなってきたの。書くの止めるの。


ブログを止めるなんて,とんでもない。これぞ超後期高齢者の生きがいの一つですよ。私は私なりのやり方で書くから,一週間や二週間では終わらないことが多いんだよ。変に,凝るからね。

情報収集のため,連れ合いを国会図書館に派遣したり,いろいろ,時間がかかるんですよ。


それで,今回は何が始まるの?


これまでに書いたブログの記事のコピーを眺めているうちに,何やら,怒りのようなものがこみ上げてきたんだ。

ここで取り上げるのは,ロッキード事件です。もう40年も前のことだから,君は実感がないだろうと思うけど。

国のあり方を金の問題から議論できる題材だから,君にも是非読んで,考えてほしいのです。



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§1 戦争と金 砂糖に群がる蟻のような 死の商人



テレビのおかげで,戦争ご画像として捉えられる時代になったよね。

例えば,中東の戦争を見ると,物凄い勢いで,大砲を打っているでしょう。兵隊が,弾を取り出しては,大砲につめて,撃っているよ。

あの弾は,一個,幾らくらいするんだろうと考え始めたんだ。まさか,1個100円てことはないよね。見たところ,大変立派だから,10万円くらいはするような気がするよ。そうすると,何分かの間に,大砲一台で何百万円くらいはかかる勘定になるよ。

戦争は,お金がかかるね。逆に言えば,金儲けのために 死の商人 が ウヨウヨ集まってくるよ。


蛇足になるかも知れないけど,辞書には次のように書いてあるよ。

し‐の‐しょうにん【死の商人】

軍需品を製造・販売して巨利を得る大資本を指していう語。
[岩波広辞苑第六版]


ところで,元祖・死の商人は,君は誰だと思う?

19世紀の末にダイナマイトを発明して巨万の富を得たスエーデンのアルフレッド・ノーベル(1833-1896)ですよ。様々な大規模工事に使われたため,社会的に大変な貢献をしたんだけど,その後,戦争に大々的に使われることになり,第1次世界大戦で数えられない数を命が失われたんだ。ノーベル賞は,一種の贖罪のような気もするね。

これまで,死の商人については,このブログに何度も書いてきたよ。君も覚えているでしょう?


その中の一つを挙げておくよ。安全保障関連法案と死の商人を,念入りに読んで下さい。



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1976年7月27日,元内閣総理大臣・田中角栄が逮捕されてから,はや40年が経過したけど,今,田中角栄のカリスマ性を再評価する声が高まり,空前の角栄ブームだそうだね。

今年だけでも,22冊も出版されているそうだよ。


石原慎太郎『天才』(幻冬舎,2016)

は,100万部に達する大ベストセラーだと聞くよ。幻冬舎の取締役社長の見城 徹(けんじょう とおる)によると,角栄の本は,どう転んでも,必ず売れるんだそうだよ。

地方で中小企業を経営している人たちの中に「今,角栄がいれば,自分たちの地方はこんなに疲弊することはなかったはずだ。アベノミックスは駄目だ」と言っている人たちが少なくないようだよ。

角栄は,良くも悪くも面白い男だからね。


石原慎太郎の『天才』などの著書の他に,角栄に関する評論のような記事もたくさん発行されているよ。

私がこれまでに目にした最近の関連の記事を2,3編 拾い出してみるよ。


● 週刊朝日8月5日,18-23ページ(2016)
ロッキード事件から40年
米極秘公文書でわかった今太閤の「評価」
米国に嫌われた宰相
田中角栄の孤独


● 朝日新聞 DIGITAL
新ポリティカにっぽん
なぜ今? 『角栄ブーム』8月2日(2016)

1976年当時は非公開だった米国政府の内部文書も,ここ十数年で随分と秘密指定が解除された。それらを見ると,米国の高官が田中さんをとても嫌ったいたことはよく分かる。日本への対応を話し合う内部の会議で「信じられないウソだ」「一貫した政策がない」などと非難した記録が残っている。


● 朝日新聞・朝刊第2面 2016年8月15日,8月16日
文体,ルビなどからいって,中学生,高校生向け?

いちからわかる!

8月15日
ロッキード事件で逮捕
田中角栄元首相って?
米航空機メーカーから賄賂。40年の節目に人気が復活


8月16日
ロッキード事件40年
何か分かってきたの?
「田中首相はウソつき」。米高官の発言などが明らかに




§2 ロッキード事件の闇 40年目のスクープ


角栄の最大の汚点であるロッキード事件は,真相が解明されないまま,多くの謎を残して,闇の中に消えたんだ。    

2016年7月22日,23日,24日の3日連続で,NHKは,【未解決事件シリーズ】の一環として,ロッキード事件を放送しました。特に,第3話は,粘り強い取材を重ねた力作です。ご存命の100名を超える日米の関係者に新たに取材したそうだよ。

この番組を見て,日本の政界・財界をめぐる金をめぐる様々な出来事について,是非とも書いておきたくなったんだ。



§3 日米間の死の商人の鬩ぎ合い


ロッキード事件に関していえば,闘いは,1970年に始まり,1972年にピークを迎えたんだ。田中角栄逮捕のずっと前のことだよ。時間を追って整理しておくよ。


1970年
佐藤栄作総理(当時)の指示により,対潜水艦哨戒機の国産化計画

  
1972年7月
田中角栄内閣誕生
田中内閣の誕生は,奇しくも,ロッキード社による対潜水艦哨戒機 P3C , 早期哨戒機 E3C の日本への売り込み工作の始まった時期なんだ。


対潜水艦哨戒機 P3C , 早期哨戒機 E3C 何れも1機 100億円もする極めて高価な航空機です。


8月
丸紅商事 田中邸を訪問


1976年7月27日
ロッキード事件で田中角栄・元首相逮捕  

ロッキード社から5億円を賄賂として受け取ったとして,田中角栄・元首相が逮捕されたのは,1976年のことだから,政界・財界の連中がロッキード社から受け取った金の分配に現を抜かしていた頃から,随分日が経っていたけどね。




§4 東京地検特捜部の捜査


東京地検特捜部の主任検事・吉永祐介の下で動いた検事たちは,3本のルートを追っていたんだ。


① 田中角栄逮捕の罪状は,民間航空機トライスターの購入を丸紅商事経由で購入するにあたって,5億円を賄賂として受け取ったこと(丸紅ルート)


② 全日空がトライスターの購入をきめ,その結果,2億円が複数の政府高官にばらまかれた(全日空ルート)


③ 別に,21億円の金の行方が未解明のまま終わった。(児玉誉士夫ルート)



児玉誉士夫ルートには,大きな謎が残されたまま,疑惑の解明に至らなかった。

1972年
児玉誉士夫もさる者,自らが関与した事件の関連書類を秘書に命じて償却,証拠隠滅を図っている。



**********




1976年7月27年,田中角栄が逮捕されたとき,私は偶々テレビを見ていたんだ。当時の防衛大臣・中曽根康弘の顔が忘れられないんだ。政治家の顔は,あとで編集して,テレビで見るものだけど,その時は,何故か,現場の顔が映っていたんだ。驚いたというようなものじゃなかったね。顔がその瞬間,ゆがんで青ざめたんじゃないかね。40年たった今でも,田中逮捕というと,中曽根の顔を思い出すんだ。田中と中曽根がどんな関係にあったかは,わたしにはわからないよ。

ただし,テレビの映像に映った三木内閣の閣議の映像を見ると,三木総理のすぐ左側に,中曽根が座っているよ。当時から重鎮だったんだね。


田中は逮捕された1972年には,総理の座を三木武夫に譲っていたんだけど,民間航空機・トライスターの導入にあたって,丸紅商事から,5億円の賄賂を受けたことが罪状だったんだ。総理大臣が逮捕されるのは,日本の憲政史上初めてのことだよ。1審,2審を経て,田中総理の有罪が確定した。


**********





§5 航空機の日本への売り込み


ロッキード社は,当時,ニクソン大統領が政治的地盤とするカリフォルニアに本社を置き,ニクソンはロッキード社から巨額の政治献金を受けていたんだ。

もう一つ重要な点は,ベトナム戦争の終結により, 死の商人 としてのロッキード社は赤字経営に陥り,経済的存亡の危機の直面することになり,困り果てたロッキード社が,ニクソンに泣きついて,起死回生の一手として,P3C を日本を売り込むことになった。



売り込み先の最大のターゲットとして,日本はロッキード社にとって最重要な商売相手だったからね。

ところが,日本では,当時,対潜水艦哨戒機の国産化のために10億1千万円が,計上されていたんだ。



**********



その時点で,アメリカは強引な手を打ってきたよ。


当時のアメリカ大統領ニクソンは,1972年8月31日,ハワイで田中と会談し,日本が対潜水艦哨戒機 P3C を購入するように迫ったんだ。東西冷戦のため,世界の海に,ソ連(当時)の潜水艦が頻繁に出没していたんだ。なにしろ,アメリカ,ソ連の冷戦の最中だからね

対潜水艦哨戒機 P3C は,ソ連の潜水艦を探索するためにロッキード社が開発した軍用機です。後で書くけど,日本はこれまでに100機を購入し続け,1兆円を支払ったんだからね。

 

P3C 対潜水艦哨戒機  ロッキード・マーティン社(当時は,ロッキード社)


ロッキード・マーチン社は,アメリカ屈指の軍事産業(死の商人)であり,彼らにとって,P3C の売り込みの相手として,日本が最も重要だったんだ。


日本への売り込みは,ロッキード社長のアーチボールド・コーチャン自らが担当していた。NHKが取材を始めたときには,コーチャンはすでに他界していたため,直接の証言はとれていないんだけれど,事件を追っていた東京地検特捜部の主任検事・吉永祐介が保管していた秘密メモに,コーチャンが P3C について語った文書が残されている。


コーチャンの嘱託尋問にあたった特捜部検事の 堀田力(82)は,次のように語っている。

ロッキード事件の核心は,P3Cではなかったかと,今でも考えている。しかし,すべては深い闇の中に消えた。

事件の核心は物凄い深い闇だと感じている。

国民のために,事件の全容の全容解明に至らなかったのは悔しい。

ただし,日本の大きな政治・経済の背後で,蠢く闇に1本の光が入ったことは間違いない





これに加えて,日本からの依頼を受けたアメリカ議会の嘱託尋問が行われた公聴会の記録も残されている。

そこに,児玉誉士夫の役割は,P3C の導入を,日本政府に働きかけることであるとの記述がある。ただし,この事実はアメリカでは事件化されなかったので,一部の人にしか知られていない。





§6 アメリカの本音



ニクソンは,P3C,E2C を日本に売るべきだと強く主張している。具体的には,
 
8月31日
ニクソン,田中の両者が,ハワイで直接会談したんだ。テレビの映像をみると,ニクソン自身が空港に出迎えているよ。これは,いささか異例のことじゃないだろうかね。アメリカの意図が垣間見えるよ。そこには,コーチャンが夫人とともに映っているよ。(これは,同夫人のドレスの色と柄から見た小生の推測です。)

10月 
角栄・ニクソンのハワイ会談の直後,田中角栄は帰国と共に,対潜水艦哨戒機の国産化計画は白紙に戻すと発表された。


これには,日本の航空産業界は驚愕したよ。


国産機の航空機装備開発を担当していた海上自衛隊の中島又雄(92)は,その驚きを次のように語っている。

角栄がハワイから帰ったら,途端にこれ(国産化中止)だったでしょう。

「えっ」と思ったわけです。

我々はもう本当頭の中ぶん殴られたというか面目なかった。白紙還元になれば今まで何のために金使ったんだという

開発中のやつをやめさせるということは一国の宰相しかできません。防衛大臣くらいじゃできないと思う




**********




ニクソン政権の動き


ニクソン政権で国防長官を務めていたメルビン・レアードがNHKの電話取材に応じているよ。彼は,防衛長官の中曽根にアメリカから軍用機を購入するよう迫ったというんだ。結局,中曽根とは,話が付かなかったようだけど。



日本に売る機種の選定に関しては,国家安全保障担当補佐官(当時)リチャード・アレンの証言がある。


ニクソン政権の中枢にあったリチャード・アレンのインタビューの声と映像が時間をかけて再現されています。テレビの映像をみると,でっぷり太った貫禄十分の男だね。


彼は,ニクソン,キッシンジャー補佐官に助言する立場にあり,両者の会談の席に居合わせていた。1972年,毎日,ノートを書き,ニクソンとキッシンジャーの密談を克明に書き残している。


アレンの証言。

日本の金で我々の軍事力を増大することが一番の狙いでした


あとで,アレンの証言をもっと詳しく書くけれど,その前に,児玉誉士夫(こだま よしお)のことを書いておかねばならない。



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児玉誉士夫は,日本の右翼運動家。CIAエージェントであったという。暴力団・錦政会顧問。「昭和の妖怪」,「政財界の黒幕」,「フィクサー」と呼ばれた。1960年、生前葬を行う。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家が児玉のための葬儀に集まり,焼香したという。


児玉誉士夫 京城商業専門学校,日本大学皇道学院卒業(1911年2月18日 - 1984年1月17日(享年73)



児玉誉士夫の役割は,ロッキード社の秘密代理人として,P3C の日本への導入を政府関係者に働きかけることだった。

1970年の初頭には,すでに,田中に対する賄賂は,民間航空機トライスターではなく,対潜水艦哨戒機 P3C であるとする疑惑が持ち上がっていたんだ。

ところが,日本からの要請により,アメリカから渡された資料には,P3Cに関する記述は全くなかったんだ。




§7 ロッキード社社長 アーチボールド・コーチャンと児玉誉士夫


コーチャンは,日本への工作を児玉誉士夫に託していた。

児玉誉士夫を通じて情報工作を行っていたコーチャンは,次のように語っている。

児玉は私の【 国務省 】でした。

児玉の役割は,P3Cの導入を政府関係者に働き掛けることだった。




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ここで,話はちょっと飛ぶんだけど,日本の政界,財界の金をめぐる動きについて,ダグラス・グラマン事件のことを書いておくよ。





§8 ダグラス・グラマン事件 1978年


特捜部は,E2C(早期警戒機,ダグラス・グラマン社)の購入についても重大な関心を持って捜査していた。

特捜部・宗像紀夫(元検事)は,日商岩井常務の島田三敬(みつひろ)の取り調べにあたった。取り調べを受けていた島田は,明日はもっと具体的なことを証言すると言い残して,その夜,ビルから飛び降り,命を絶った。宗像検事宛に遺書が残されていた。

遺書には,日本の大きな政治・経済の背後に金が飛び交う政界と財界に対する激しい憤りが綴られていたという。



**********




田中の後を継いだ三木総理のメモが見つかっているよ。

その中に,

田中 確

の一行がある。三木総理は知っていたんだね。三木はまた,田中と P3C に関する資料を,アメリカ側に熱心に請求していたんだ。田中と違って,政治基盤の脆弱だった三木にとって,自らの力を国民に誇示する絶好の機会だったんだ。


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ロッキード事件にアメリカ政府の軍事戦略が関係していることを明らかにしたリチャード・アレンの証言


日本が我々の軍用機を購入すれば,私たちは,懐を痛めることなく,日本の金で我々の軍事力を増大することができます。加えて,私たちが望んでいた日本の軍事的役割の強化にもつながるのです。


さらに,田中と何度となく交渉し,田中を知り尽くしているアレンは次のように語る。

田中は,日本語で言うしたたか者,英語で言えば,タフガイ でした。


● 駐日大使ジェームス・ホッジソン

彼は大使として日本に着任する直前まで,ロッキード社の副社長だったそうだよ。何だか変だね。変というか,無茶苦茶な人事だね。大使の決定にあたっては,外務省が「アグレマン」なるものを出すはずだけどね。つまり,この人事は,日本政府が同意していたことになるよ。



● 
航空機の墓場

1977年から2016年までの間に,P3C100機が導入された。総額1兆円をロッキード社に支払い,世界第2位のP3C保有国になったんだけど,・・・

アメリカは今や,P3Cの代わりに新しい機種を導入し,日本は世界第一位のP3C保有国になったようだよ。何だか変だね。要するに,アメリカに良いように利用されているだけなんだよ。番組の最後に出る「航空機の墓場」のシーンは,ショッキングですよ。









つづく

# by yojiarata | 2016-08-23 22:13 | Comments(0)

ロッキード事件  田中角栄 と アメリカの対ソ軍事戦略 (つづき)



つづき



§9 丸紅とロッキード社と21億円



丸紅の航空機課長補佐(当時,逮捕された大久保利春社長の意を受けて,コーチャンとの交渉にあたっていた)坂篁一(こういち)は,次のような重要な発言をしている。坂は,これまでの40年間,口を閉ざして何も語らなかったが,この度,NHKの取材に応じて重い口を開いた。

国産では,丸紅にはひとつも口銭(仲介の手数料)が入らない。丸紅を通せば,巨万の富がはいる。1兆円の取引だから。

田中にわたったとされた5億円は,丸紅自身が提案したことによる。

即ち,5億円は,P3C の導入のためだった。


田中角栄に渡ったとされた5億円には,P3C売り込みの目的があったと初めて証言した坂篁一は,

巨額の金が飛び交う軍用機ビジネスの不条理な世界を次のように語っている。



森の中のオバケ対策をしながら活動をするというのはくたびれる。

決まりかけが一番怖い。魑魅魍魎・オバケが暴れだすのは決まりかけだ。
 


蛇足ながら:


ちみ‐もうりょう【魑魅魍魎】

山の怪物や川の怪物。さまざまのばけもの。
[岩波広辞苑第六版]








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アメリカの砂漠地帯にある軍用機の墓場。

役目を終えた200機を超すP3C が放置されている。この部分の画像は,なんとも不気味である。



§10 疑獄事件に対する日本政府の対応



海部俊樹(当時,三木内閣の副官房長官,後に総理大臣)の証言



三木首相は,徹底的に真相を究明して,国民の前に疑惑を明らかにしようとしていた。成功すれば,国民の人気が得られる絶好の機会だったからね。

そこまでやらんでもいいという意見が多かったけども,先輩議員が心配して俺のところに飛んできて,「俊チャン 親父さん(三木首相)に言いなさい。外国の資料までもらって国内の悪を見せる必要はない。

捜査を止める 「指揮権」 を発動すればそれで終わりじゃないか,それをヤレ。



ひどい話だね。


蛇足ながら

しき‐けん【指揮権】
法務大臣が,検察事務および犯罪捜査について検察官を一般に指揮監督する権限。個々の事件の取調べまたは処分については,検事総長を通じてのみ行使できる。「― 発動」
[岩波広辞苑第六版]



インターネットで見ると,造船疑獄事件について,次のように書かれているよ。


造船疑獄(ぞうせんぎごく)とは,第二次世界大戦後の日本における計画造船における利子軽減のための「外航船建造利子補給法」制定請願をめぐる贈収賄事件。1954年1月に強制捜査が開始された。政界・財界・官僚の被疑者多数が逮捕され,当時の吉田茂内閣が倒れる発端となった事件の一つ。


東京地検特捜部による海運,造船業界幹部の逮捕から始まった捜査は政界・官僚におよび,捜査主任検事の河井信太郎による大野伴睦の取り調べからはじまり有田二郎ら国会議員4名の逮捕などを経てさらに発展する気配をみせた。

同年4月20日、検察庁は当時与党自由党幹事長であった佐藤栄作を収賄容疑により逮捕する方針を決定した。

しかし,翌4月21日,犬養健法務大臣は重要法案(防衛庁設置法案と自衛隊法案)の審議中を理由に検察庁法第14条による指揮権を発動し,佐藤藤佐検事総長に逮捕中止と任意捜査を指示し,直後に法務大臣は辞任した。後任法務大臣の加藤鐐五郎は「4月21日の法相指示は国会閉会とももに自然消滅する」と佐藤検事総長に通知している。


佐藤栄作日記によると佐藤栄作は当初は指揮権発動を中々行わない犬養法相を罷免にして,新法相に指揮権発動させるよう吉田首相に要求していたという。

後に犬養は『文藝春秋』1960年5月号に,「指揮権発動により法務・検察幹部を軒並み引責辞任させ,意中の男を検事総長に据えようという某政治家と検察幹部の思惑があった」とする手記を寄せている。




**********




情けないことに,今も昔も,何も変わってないね。


佐藤栄作は,当時,エイチャン とよばれたいなんて言っていたんだ。孤独な男だったんだね。

その佐藤が,1974年,ノーベル平和賞を受賞するんだ。平和外交への貢献が評価されてね。ところが間違いだということが後でわかったんだ。ことの顛末については,前にブログ ノルウエー・オスロへの道 2016年ノーベル平和賞の行方 に書いたから読んで下さい。



**********




海部の証言に戻るよ。

解明が出来なかったことが多かったのは残念だと思っています。

軍用機まで関連が持たれると,(事件の)質が変わるから,はっきりいうと我々の手の及ばない所だった







§11 アメリカの軍事戦略と巨大な金の闇


駐日アメリカ大使 ジェームス・ホッジソンがワシントンに送った極秘文書の一部:


疑惑の政府高官名や証拠を探る情報戦の舞台は,今ワシントンに移っている。ワシントンでこれ以上の情報が発覚しなければ,この問題をすぐに沈静化させることは可能だ。このままうまくけば,ダメージは日本側の閣僚ら数人の辞任だけで済むだろう。

日本の検察の捜査がこれ以上進めば,ロッキード事件によってこれまで進めてきた P3C の導入がすべて台無しになってしまう。深刻な事態だ。今の時点でとり得る最善の方針は,P3C に関して極力目立たないようにしていくことだ。

アメリカ政府にはこの件に関して,慎重に考えることを望みたい。我々の考えでは,名前が公表されれば,日本の政界は大騒動になり,我々はその状態を制御できなくなるだろう。

最善の方法は,アメリカ政府が,疑惑の政府高官名が入った資料の引き渡しを可能な限り遅らせることだ。

・・・・・

もし三木首相の求めに応じて資料をすべて渡していれば,政治的な同盟さえも失っていたかもしれない




**********




NHKの番組は,次の言葉で締めくくられている。

この軍用機をめぐる日米の思惑の端に,ロッキード事件の知られざる真実が横たわっていた。田中角栄逮捕という熱狂の陰に埋もれていった軍事と金の巨大な闇,そこから浮かび上がってきたのは,真実を覆い隠していく国家の姿だった。


***



これまで書いてきたことを,一言でまとめると,要するに,アメリカさんにやりたい放題にやられたということですよ。今に始まったことではないけどね。

日本は,「有志連合」の一員として,アメリカにノコノコ付いていっていると,いつの間にか,金どころか,人命から何から何まで,アメリカにむしりとられるよ。河童がお尻から手を突っ込んで,何もかも抜き取ってしまうようにね。

安倍総理大臣に,お考えを聞きたいもんだね。ついでに,先人の言葉も思い出してほしいね。



子曰 温故而知新 可以為師矣      
論語 為政第二 ー 十一


子曰 学而不思則罔 思而不学則殆
論語 為政第二 ー 十五





§12 付言



 NHKの番組では,田中角栄の他に,複数存在するとみられる政府高官の名前が,故意に(?)に伏せられている。ご存命の方々に対する配慮かもしれない。

例えば,ロッキード・グラマン事件に関する証言:

田中角栄の名前記されているが,角栄以外の個所に「ぼかし」が入っている。


 重要な証言については,必ず,別の情報源を挙げている。それによって,番組で使われている資料の信憑性が高まると思う。

 この記事に出てくる金額は,すべて,1970年代の初めの額である点に留意してほしい。





未完

# by yojiarata | 2016-08-23 22:10 | Comments(0)

映画少年七十有余年  巨匠たちの時代と作品  深作欣二 と ”仁義なき戦い” の 衝撃



ご隠居さん。かねがね,野球少年だということは聞いていたけど,映画少年もやっていたの?

そうです。野球と同じくらいにね。

映画とは,私にとっては,日本映画が90%以上を占めるけどね。理由はいろいろあるけど,要するに,心が,心底応答するのは,日本だからね。

野球のこと,映画のことを,自由にしゃべってよいというなら,一日中喋っていますよ。

それでは,際限なく続くので,映画に興味のない人には迷惑だろうから,まず,戦争中,国民学校(現在の小学校)の高学年から中学入学を経て大学まで,1970年代の初め頃までの経験を出来る限り簡潔に話すつもりです。


何故,1970年なの。


この先を読んでください。


映画少年のはじまり



中学から,高校2年までの私の楽しみは,近くの川で泳ぐ夏の水泳のほかは,野球と映画だったんだ。夜は夕食後,映画館に通ったよ。

父は皮膚科・泌尿器科の看板を掲げた町医者。父の診察室は,医院というより,よろず相談所。やくざの親分のようなおじさん,正体不明の女,川向こうの「赤線地帯」のおねえさん達の溜り場でワイワイ騒いでいたよ。町のほとんどすべての映画館の招待券が我が家にいつもあったのは,このためなんだ。言ってみれば,連中の「手土産」のようなものだったんだね。

小さな町でだから,どの映画館にも歩いて行くことができました。同じ映画を何度も繰り返して見たりで,高校二年の冬は,十二夜連続で映画館に通ったことがあるよ。高校三年になってからは,映画少年としての活動は多少控えめだったけどね。

私のあまりの熱心さに母親があきれていたよ。それでも,勉強しなさいという言葉は一度も聞いたことがないんだ。隣のおばさんに,悪い遊びを覚えるより,どれほど良いか分からないと言っていた記憶があります。これは,有り難かったね。映画少年・荒田洋治があるのは,母親の理解の賜物です。


君は,何故,1970年の初め頃かと聞いたけど,

私にとって,この頃,映画 が終わったんだよ。

第69回カンヌ映画祭(2016年5月22日)では,最高賞パルムドールに英国のケン・ローチ監督の「ダニエル・ブレイク」が選ばれたよ。熟年労働者のダニエル・ブレイクが弱者に厳しい社会と闘う物語です。

他の部門でも,日本映画に該当作品はなかったよ。日本からも,多くの映画関係者が,賑賑しく乗り込んだというところまでは新聞で読んだよ。だけど,そのあとのことは,どこにも書いてないんだ。想像すると,多分全員あえなく討ち死したんだ。

映画の内容自身が,国際的に評価されるレベルに達していないんじゃないの。私自身は,作品の 哲学 の問題だと思うよ。


*****




これまで私の見た映画の数は,殆ど ”無限” です。感想であれ,評価であれ,書き出すと止まらくなることは必定だから,ほんの少しだけ,「私と映画」について書いてみたいと思います。

ほんの少し竹と言いながら,どんどん膨らむと思うけど,ご容赦あれ。



私見 日本映画の巨匠たち



日本映画の歴史に残る巨匠たちについては,国内外の専門家が,山のように書いているけど,ここでは,私自身の切り口で,二,三の点を書いてみるよ。



溝口健二


1898年5月16日-1956年8月24日 (享年58)

『雨月物語』(1953)

1953年製作。監督溝口健二。「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の2編を川口松太郎と依田義賢が脚色。出演は京マチ子,水戸光子,田中絹代,森雅之,小沢栄ほか。舞台は近江国と京に設定されています。この映画は,ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞しました。また,スタッフも文部省芸術選奨を,そしてエディンバラ映画祭においてデヴィッド・O・セルズニック賞を受賞しました。日本映画の歴史の残る素晴らしい作品です。


この映画について,弟子の新藤兼人が書いた一文。

これは,戦乱に巻き込まれた貧しい庶民の話で,男(森雅之)は,町へ作った瀬戸物を売りに行って,妻(田中絹代)に別れ,魔性の女(京マチ子)に魅入られて故郷を忘れて逸楽の日を過すが,僧に危い命を助けられて,荒廃した故郷へ帰ってくる。

荒れはてた家には妻が待っている。妻は実は亡霊なのである。夫の帰りを待ちこがれた妻の魂が,仮りの姿をかりて,帰ってきた夫をやさしく迎えてねぎらう。

・・・・・

新藤兼人『ある映画監督 ー 溝口健二と日本映画』
岩波新書962 1979年 第4刷,51ページ

新藤兼人(本名 新藤 兼登 )
1912年4月22日 ー 2012年5月29日(享年100)


ともあれ,亡き妻の亡霊の住む建物の光と影,モノクロ画面の素晴らしい映像美,忘れ難いね。


上田 秋成(うえだ あきなり,享保19年6月25日(1734年7月25日)― 文化6年6月27日(1809年8月8日)は,江戸時代後期の読本作者,歌人,茶人,国学者,俳人。怪異小説『雨月物語』の作者として特に知られています。



『山椒大夫』山椒大夫(1959)

山椒大夫・高瀬舟 他四編 (岩波文庫 緑 5-7,2002年10月16日)

この小説は中世の芸能であった説経節の「五説経」とよばれた演目の一つ「さんせう太夫」を原話として,1915年(大正4年),森鷗外によって「中央公論」に掲載されました。その時,森鷗外53歳。ただし,現在われわれが目にする作品は,鷗外によって原話が大々的に書きなおされたものだけどね。


安寿と厨子王と母親が,山椒大夫の手の者に連れ去られる湖の情景。

兄・厨子王の逃亡の足手纏いにならないようにと,近くの湖で入水する安寿。それを,遠くから見つめながら,手を合わせる老婆,墨絵のように幽玄な映像だったよ。


溝口のカメラワークには,右腕であったカメラマン・宮川一夫の功績が大きく,『雨月物語』,『山椒大夫』を始めとする溝口の黄金期の作品の撮影を担当しています。


宮川を起用したきっかけは,映画会社から当時新人であった宮川を使うよう命じられたためで,溝口はひどく立腹するんだけど,いざ仕事をしてみるとその才能を認めることになったんだ。溝口は宮川を右腕として信頼し,こと撮影に関しては彼の意見の多くを取り入れるほどだったと新藤兼人は書いているよ。


宮川一夫(1908 - 1999)の映像の技は世界が認める素晴らしさだったよ。

溝口作品以外の例を挙げると,黒澤明の『羅生門』(1950)。アップで木漏れ日を撮った映像。『用心棒』(1961)の最終場面。望遠レンズを使って撮った,北風の吹き荒れる「短剣の三船敏郎と,ピストルの仲代達也の決闘」の息をのむショット。忘れ難いね。

小津安二郎の『浮草』(1959)もいいね。



*****



小津安二郎


1903年12月12日 ー 1963年12月12日(享年60)

終戦直後のシンガポールで,追い詰められた人々が,先を争って日本への「引き上げ船」に乗り込もうとしているとき,一人の男が,「俺はあとでいいよ」と言ったと新藤兼人が書いているよ。男は映画監督の小津安二郎。

小津作品の,誰にも真似のできない,曰く言い難い静かさは,「俺はあとでいいよ」の小津をそのまま映し出しでいるような気がするよ。


*****



黒澤明


1910年3月23日 ー 1998年9月6日 (享年88)


黒澤映画というと,私が取り上げたいのは,重要な場面のバックに流れる音楽だね。


『酔いどれ天使』(1948) 「小雨の丘」をギターで弾くチンピラヤクザ

『羅生門』(1950) アップのカメラで撮る木漏れ日 早坂文雄のボレロ

『天国と地獄』(1963) 身代金と交換に人質を取り返した仲代仲代警部が,部下に。「犬になって追え」と号令する場面に流れるトランペット

おわりに近く,深夜,犯人逮捕の場面,黒澤は『グリーン・スリーブス』を使うことにこだわったんだそだけど,版権の関係(当時)でこれが叶わず,泣く泣く『帰れ ソレントへ』と取り換えたと「映画雑誌」か何かで読んだ記憶があるよ。

『生きる』(1952) 亡き妻の葬儀に向かう車中 妻と一人息子・正雄との楽かった日々の回想。今は結婚して,同じ屋根の下に嫁と住む正雄。 ”正雄”と呟くように声を絞り出す志村喬
この場面で,突然,音楽が入る。印象的で忘れがたい場面だね。


志村 喬(しむら たかし、1905年(明治38年)3月12日 - 1982年(昭和57年)2月11日)



*****



ところで,私が最初に見た映画は,遠い記憶をたどってみると, にんじん だったよ。いつの頃だったか。どんな内容だったかも,全く記憶にありません。ただ,暗い画面に,少年が立っているカットだけは覚えているよ。

このブログを書くために,調べてみたところ,

この映画は,ジュール・ルナールの少年小説をデュヴィヴェが演出した作品。
「にんじん」(1932)

だとわかったよ。勿論,私は,デュヴィヴェが演出した作品だと知っていたわけではないよ。何の気なしに入った映画館で,たまたま観ただけだから。それに,私はまだ小学生だったからね。


*****




映画少年の空白の2年間



私は,仕事の関係で,1971年1月から1973年3月の間,日本を不在にして,アメリカ・カリフォルニアに滞在していました。当時は,インターネットのない生活で,日本で起きていることを悉に知ることは,事実上不可能だったよ。



映画少年にとっては,この2年は致命的だったね。

日活は路線を大きく変更するし,大体,日本映画そのものの衰退がひどかったね。オイル・ショックで,トイレット・ペーパーはなくなって争奪戦が起こるし,映画どころじゃなくなったんだ。

映画に代わってテレビの安直なドラマによって,日本の映画産業が壊滅。映画の製作には,巨額の費用が掛かるからね。溝口,小津,黒澤などの巨匠の存在そのものが,経済的に成り立たなくなったんだよ。

ちょうどその頃(1973年初め)帰国した映画少年の私にとっては,大変なショックだったよ。


ところがこの時,映画少年を心底から揺さぶる映画に出会ったんだ。結論を先にいえば,映画少年・荒田洋治にとって,如何なる角度から見ても第1位に押すべき映画にぶつかることになるんだ。


深作欣二『仁義なき戦い』
1973年1月13日 劇場公開



帰国直後だったように記憶しているんだけど,「日本は2年間で何か変わったことがあったかな」と思い,銀座の裏通りを見物のため,ふらふら歩いていたんだ。何の気なしに,「並木座」(二番館,封切りのすんだ映画を,封切館の次に上映する映画館)に吸い寄せられるように入ったんだ。

二回続けて見て,並木通りを自宅行の地下鉄に乗る前,私は興奮のあまり,ぶつぶつ呟いていたよ。”物凄い迫力,物凄いねーー” 。ナレーションに重ねて流されるあの音楽。


映画少年を70年以上続けていてよかったと思ったよ。

この映画は,終戦直後,広島で実際にあった暴力団の抗争事件を,飯干晃一の原作,綿密に取材した笠原和夫の脚本がもとになっているんだ。


*****



このブログを書くために資料を集めているとき,


NHK BS プレミアム
2016年5月18日,21:00-22:00

アナザー・ストーリーズ

運命の分岐点

映画「”仁義なき戦い” 情熱が革命を生んだ」



が放映されました。


この番組を見て,「仁義なき戦い」のような類い稀な作品が,何故,生まれたのか,納得したよ。


 この映画のプロデューサーの日下部五朗へのインタビュー


それまで,深作はB級作品を撮っていたんだけど,日下部はかねがね,深作に注目していたんだ。

テンポの早さ。これはすごい。瞬きする間もなく,次のポイントに飛び移る。徹底的なリアリズムを目指した作品を創ろうとかねがね考えていた日下部にとっては,この上もない機会が到来したんだ。

徹底的なリアリズムを目指して,テンポとリアルさで勝負する作品を深作に期待したんだね。

日下部の決定によって,1972年秋,東映京都撮影所のスタジオに入った深作を壁が待ち受けていたのは,よそ者を排除しようというあからさまな雰囲気。

この壁を乗り越えたのは,誰とも平等に接する深作。主役も脇役も,1ミリの隔てなく接する深作の人柄に,スタッフ全員がついていくことになった。


深作欣二はこの時,42歳,この映画を作れるのは自分しかいないと公言して,撮影に入ったんだ。



 深作欣二の姿勢


自分が納得するまで,粘りに粘って次に進む徹底的なこだわり。

深作の口癖は,”微妙に違うんだな。もう一度やろう”。

その結果,徹夜の連続となる。深作組は,



とよばれるようになったんだそうだよ。

それでも,スタッフ全員がついていったのは,偏に深作の人柄。あのおっちゃん「おもろい奴や」と言ってスタッフがついていったんだそうだ。

こうして,仁義なき戦いの第1作が完成する。手持ちカメラによる吉田貞次の縦横無尽のカメラワーク,一度聴いたら忘れ難い津島利章の音楽,小池朝雄によるナレーション,これらがあいまって作りだす臨場感,ドキュメンタリータッチで,映画は息つく間もなく,急流となって流れていく。



 完全に横道にそれるけど,深作のこの姿勢は,実験科学を生業とする私自身が実行すべく努力していることだね。物事の達成のための姿勢には,分野は関係ないんだ。 



 深作欣二は,何故,この映画を撮ったのか?


深作欣二には,終戦直前に経験した恐怖の記憶があった。当時,15歳の深作は,米軍機による艦砲射撃を逃げ回った。


小学生だった私も, グラマン戦闘機による個人への射撃を経験したよ。操縦席に乗っているアメリカ人のパイロットの顔が見えるんだ。その恐ろしさ,君は想像できるかい。


多くの友人が命を落とす。生き延びた深作は,20何人もの友人の亡骸を,誰も助けてくれないから,自分ひとりで,丁寧に,一つづつ拾い集める。

この経験をもとに,戦争の虚しさを実感し,自ら正しいと信じることを,一人で徹底的に遂行する深作欣二が出来上がったんだ。


 
 暴力の行きつく果ての象徴 ー 原子爆弾


第1作の最初の画面は,原爆のキノコ雲をバックにした「仁義なき戦い」

第2部「広島死闘篇」から第5部「完結篇」まで,エンディングにはすべて,原爆ドームが使われているよ。


深作欣二にとって,共通するテーマは,反権力だね。


チーフ助監督・土橋亨の証言

第3作 「仁義なき戦い・代理戦争」

台本にはない,次のナレーションを,撮影現場で深作自身が付け加えている。深作の場合,映画の台本は,あってないようなものだったようだよ。撮影に夢中になると,台本をお尻のポケットにいれて,全軍を指揮することが稀ではなかったと土橋は言っています。


戦いが始まる時,

まず失われるのは若者の命である。

そしてその死は

遂に報われた試がない。





さらに,続けて,土橋は言う。

将軍とか元帥といった偉い連中は絶対に死なない。

戦争で死んでいくのは一兵卒だ






*****




深作欣二(ふかさく・きんじ)

本名同じ

黒澤明が降板したため,日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』(1970)の日本側監督を後任となった舛田利雄から懇願され共同監督を引き受けたりしていたんだけど,当時の深作は,創りたい映画を東映になかなか認めてもらえなかったようだよ。

1973年(昭和48年)から公開された『仁義なき戦いシリーズ』は日本映画史に残るヒットを記録。

深作はこのあと,きわめて幅広い分野で,よい仕事をしているよ。

『軍旗はためく下に』(1972),『柳生一族の陰謀』(1978),『復活の日』(小松左京が1964年に書き下ろしで発表した日本のSF小説)(1980),『魔界転生』(1981),『蒲田行進曲』(1982),『火宅の人』(1985),『華の乱』(1988),『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1994),『バトル・ロワイアル』(中学生の引き起こした殺人事件が題材。主人公と同じ中学生が観賞できない,社会問題になった作品)(2000)など,発表する作品の多くが大ヒットしたんだ。

これらの作品は高い評価を受け,作品賞,監督賞など数々の賞を受賞しているよ。

1997年(平成9年)紫綬褒章受章。

1930年7月3日 - 2003年1月12日(享年72)

出生地 茨城県緑岡村




未完

# by yojiarata | 2016-06-10 13:15 | Comments(0)