日本とアメリカ  菅内閣官房長官 本音を語る





ご隠居さん また書くつもりですか。

何を?

政治ですよ,政治。今年は控えめにすると言っておられたんじゃないの。

マ,そうだけど。だけど,時と場合によるよ。

で,今回はどうしてもというわけですか。

残念ながら,そうです。是非読んで下さい。

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タクシーの中で,びっくりするようなニュースを聞いたよ。(2月24日午後,NHK,ラジオ第一)

あとで,ネットでもチェックしましたので,間違いありません。



● トランプ大統領 米の核戦力強化に意欲示す
2月24日 10時57分

アメリカの核戦力が他国に遅れをとっているという見解を明らかにしたうえで,「他国が核兵器を保有していくなら,われわれはその中で1番になる」と述べ,核戦力の強化に意欲を示しました。



私が驚いたのは,菅内閣官房長官の記者会見での発言です。


● 菅内閣官房長官「核なき世界目指す目標共有」

同日,閣議のあとの記者会見


日米両国はさまざまな機会を活用して,日米安全保障体制の強化に努めるとともに,核兵器のない世界を目指すという目標を共有しており,アメリカ政府とは引き続き緊密に意思疎通を行っていく。

ただ,現実問題として,極めて大きな脅威がわが国周辺にあることも事実ではないか。

そのうえで,菅官房長官は

「わが国は唯一の戦争被爆国として,核兵器のない世界に向けて核兵器国と非核兵器国の協力のもとに,1歩ずつ着実に前進を図ることができるよう最大限取り組んでいきたい。

と述べたよ。


***



ゴチャゴチャ,真意がよくわからないことを言っておられるようですが,何度も読んでみると,要するに,「日本は,何を言われれても,ご主人様であるあなた様について行きます」と,恥も外聞もなく,一国の内閣官房長官が公の場で喋っているのです。日米の主従関係を,政治家独特の表現で ”見事に” 語っているよね。

いずれにしても,所詮,子分は子分だからね。

公の場での内閣官房長官の発言としては,めったに聞けない 珍品 だね。





いずれまた
















# by yojiarata | 2017-02-25 23:39 | Comments(0)

船村徹 と 高野公男




ご隠居さんは,「船村徹と高野公男」とどうゆう縁があるの。

話は,50年近くも前に遡るんだ。



私は,1970代の初め,アメリカのカリフォルニア州のスタンフォード大学・メディカルセンターの薬理学教室に客員として,2年余り滞在しました。ベトナム戦争の最中で,色んなことを見聞しました。

インターネットなど存在しない当時,故郷のことを知る唯一の機会は,毎週日曜日の午後放送される2-3時間の日本で制作されたテレビ番組だったんだ。


君への答えになるけど,偶々,船村徹が出演していたんだ。この番組で,船村は若いころ通っていた音楽学校の同級生の高野公男の思い出を話していました。

良い演歌を作ろうと意気投合した二人は,高野が詩を書き,船村が作曲して,歌を創り始めたんだ。しかし,二人の音楽活動は,高野が病に斃れ,他界したことによって,2年間で終わってしまう。


私が見た番組では,船村は,高野の思い出をぼそぼそと語り,手にしたギターを弾きながら,【別れの一本杉】をうたったんだ。船村が歌うのを聴きながら,体全体が熱くなってくるのを感じました。この感覚は,異国の地で聴いたからこそ,自分の中に流れている日本人の血によって,感じたのだと,今では思っています。

船村徹は,生涯に5000以上の曲を作曲したんだけど,高野公男との共作 【別れの一本杉】は,日本の演歌の歴史の中で,最も素晴らしい曲の一つだと,私は思っています。


他にも,挙げだしたらきりがないけど,もう一曲と問われれば,後に美空ひばりが歌った【哀愁波止場】 ですね。美空ひばりの高音が美しく,印象的です。こんな高音を出すと喉が潰れるからやめるようにと,美空ひばりのママは最初は反対していたようだけど。大ヒットした一曲であることは,間違いありません。

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● 高野 公男(たかの きみお,1930年2月6日 - 1956年9月8日)
本名は高野 吉郎(-きちろう)。茨城県西茨城郡北山内村(現・笠間市大郷戸)出身。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)中退。

1955年,『別れの一本杉』のヒットから間もなく,肺結核に侵され翌年9月8日,国立水戸病院で死去。享年26。




● 船村徹(ふなむら とおる,1932年6月12日 - 2017年2月16日)
栃木県塩谷郡船生村(現塩谷町)出身。栃木県立今市中学校(現・栃木県立今市高等学校),東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科卒。

2017年,2月16日,心不全のため死去。享年84。


獣医だった父親がクラシックレコードの収集家であったことや,小学校時代にブラスバンド部でトランペットを吹いていたことなどもあり音楽の道を志す。

東洋音楽学校在学時はまだ駐留米軍が数多くいた時代であり,船村は米軍キャンプ専門のバンドでそのリーダーを務めたこともあったという。大学在学時に,作詞家の高野公男と組み作曲の活動を開始した。高野とともに,生活は困窮を極め,バンド・リーダーのほか,流しの歌手なども経験する。



1993年,日本作曲家協会理事長に就任し,1997年に吉田正の後を受けて第4代会長に就任,2005年に遠藤実へバトンタッチするまで務めた。

1995年,紫綬褒章受章;2002年,栃木県県民栄誉賞受賞;2003年,旭日中綬章受章;2008年,文化功労者;2014年,栃木県名誉県民;2016年,文化勲章受章。




***




最後に会ったのは4年前。一番思い出の曲を尋ねると,間髪いれず「別れの一本杉」(55年)と返ってきた。自分を作曲家の道に推し進めてくれて,若くして亡くなった,作詞家の盟友・高野公男氏との作品だ。高野さんが亡くなってからも何十年と「歌供養」と称して,歌手や関係者を呼んで,高野さんをしのぶ会を開いていた。友情の厚さがうかがい知れた。

船村さんは,演歌の衰退を憂いてもいた。「今は演歌に理解を示してくれる若い人が少ない」と嘆いてもいた。できれば,もう1曲,若い人を振り向かせるような,心にしみる名曲を作ってほしかったのに ・・・・・ 。

[細貝 武 談]

















おわり







# by yojiarata | 2017-02-21 00:09 | Comments(0)

国会ドタバタ劇場 




ご隠居さん 今年の最初のブログで,しばらく政治の世界から離れて話題を選ぶつもりだと言っておられましたね。理由は,世の中,何も変わらないからだということだったと記憶しています。

その通りです。

だけど,ちょうどいま,書いておられる記事は,国会情勢のようですね。

残念ながら,君の言う通りです。

何故なの?

ドタバタがあまりにひどいからね。

項目別に書きます。新聞記事そのものは,・・・で囲んであります。


万死に値する人


文部科学省の組織的「天下り」あっせん問題で,事務方トップだった前川喜平・前事務次官(62)と,仲介役だった人事課OBの嶋貫 しまぬき 和夫氏(62)が国会の場に姿を現した。「責任を痛感する」。2人は淡々と謝罪したが,追及が続くと言葉に詰まる場面も目立った。


この記事の中に,

前川氏は「私の責任は極めて重い。万死に値する」と頭を下げた。

の一行があった。

私は,この目を疑った。超・後期高齢者になり,認知症にでもなったんだろうかと心配になった。

悔しいけれど,「万死」を辞書で引いてみる。間違いない。次のように書かれている。


『罪 ― に価する』罪が,何度死んでもつぐなえないほど非常に重い。
[株式会社岩波書店 岩波国語辞典第六版]


そうですか。じゃあ,この場で腹を切ってください。


短気な私が質問者であれば,こう言ったでしょうね。

ご隠居さん バカなことを言わないでください。これは,官僚や大臣が気軽に使う 業界用語 のひとつ。知らないの? 一言で言い換えれば,ゴメンナサイ と同義語です。

以上,朝日新聞2月7日(火)夕刊,11ページ,社会面。


跡目相続

「大宏池会」うごめく自民
麻生派に甘利氏入会 拡大路線


この派手な見出しの後に,次のように書かれている。


麻生太郎副総理は9日,甘利明・前経済再生相ら5人の麻生派入会を正式に決めた。党内第4派閥となり,旧宮沢派(宏池会)の流れをくむ岸田派,谷垣グループと再結集する「大宏池会」構想や山東派との合流話も再浮上。来年の党総裁選や「ポスト安倍」をにらみ,党内の台風の目となる可能性がある。

甘利氏の入会は,安倍晋三首相が昨年末,麻生氏との会食の席で要請した。(誰が誰に,?,主語不明瞭,筆者注)

・・・「11人になってしまいますよ」と言いつつも入会に同意した。この席には,神奈川県選出の菅義偉官房長官も同席していた。


派閥のことを目にするのは,久しぶりのような気がする。まるで,どこかの跡目相続みたいだね。

それにしても,どうして総理大臣になりたいのかね。何か良いことあるんだろうか。あるんだね。

以上,朝日新聞2月10日(金)朝刊,4ページ,総合4面。


記者の皆さん。もう少し,日本語を勉強してください。とくに,重要な記事を書くときには。誤解を招きますよ。(筆者注)


南スーダン支離滅裂

防衛大臣の意味不明な国会答弁は,ひどいんじゃないでしょうか。


民進・後藤祐一氏 

昨日,稲田朋美防衛相は憲法9条との関係で,こう述べている。「国会答弁する場合にはその法的において,法律においても規定されている(戦闘という言葉は),また,憲法9条上の問題になる言葉を使うべきではない,ということから,私は一般的な意味において武力衝突という言葉を使っております」。憲法9条の問題になるとまずいので国会答弁する場合は「戦闘」という言葉を使わないんですか。


稲田防衛相

その前後の私の議事録をぜひ読んでいただきたい。私はなぜ「戦闘」という言葉を使わないかというと,戦闘行為っていうのは,法律上その定義が決まっていて非常に重い言葉ですよね。戦闘行為が行われていない場所でしか後方支援ができないとか,戦闘行為が行われているか否かというのは非常に重要な,そしてものすごく大きな言葉なんです。なので私は,事実が一番重要です。それは事実が,国または国準(国に準じた組織)との間,また国際紛争を解決する … いや,国際紛争におけるという,その戦闘行為があったかどうかの肝ですね。その国際的な武力紛争の一環かどうかは、非常に法的に重い意味があるので、国会でこういう法律論の議論をやっているわけです。PKO5原則が満たされているかどうかなど,大きな議論を委員と行っている中で,そういった法律的な用語であるところの戦闘行為と混同されかねない「戦闘」という言葉は使うべきではない,という趣旨を申し上げたところでございます。

朝日新聞デジタル版,2月9日の国会答弁から。
「殺傷行われても,『戦闘行為』は紛らわしい」 稲田氏
2017年2月9日15時31分



管理責任者

安倍内閣 2016年を総括する

読み返してほしい記事が,ほかにいくつもあります。例えば,


アメリカ国家の素顔 と 安倍政権 の 『戦争法案』

中東戦争 どこまで続く泥濘ぞ

安保法制 と 集団的自衛権 9月に最終章へ

自衛隊の海外派兵 心を病んだ自衛隊員 と 自殺





ひとまずおわり















# by yojiarata | 2017-02-12 22:59 | Comments(0)

五味康祐  剣 と 西方の音



ご隠居さん 今日は五味康祐の話ですか。

そうです。何故,五味康祐かは,長年の付き合いの君なら見当がつくでしょう。

何となくね。ご隠居さんが五味康祐のファンだと知っているからね。しかし,突然,五味康祐が登場するのは何故なの。

NHKラジオ第2で,毎週月曜日,「カルチャーラジオ」なる番組が放送されるよ。NHKに保存されている音源をもとに,過去に活躍した作家などの声が聴けるんだ。

宇田川清江さん(フリーアナウンサー)が進行係,番組の主役は,大村彦次郎さん(元・文芸誌編集長)です。大村さんの話が,毎回,実に面白いね。それぞれの作家にまつわる様々なエピソードの語り手をしては,大村さんは,余人をもって代えがたいよ。


今週の「カルチャーラジオ」には,五味康祐が登場したんだ。
2月6日(月曜日)20:30-21:00

直観的に,これは絶対に聞き逃せないと感じたよ。作品は繰り返し読んだけれど,声は聞いたことがなかったんだ。晩年はテレビによく出ていたそうだけど,私は一度も見ていません。

失敗しないように,慎重に録音しました。しばらく前に放送された「サトウハチロー」で大失敗しているからね。

番組を聴いて,今まで知らなかった五味康祐の姿が浮かんできたんだ。

ネットに記述されている諸々のことを含め,以下,順番に書いていきます。




五味康祐の生涯

大正10年(1921)12月20日生まれ
昭和55年(1980)4月20日没
享年 58

五味康祐は,本名は「やすすけ」だけど,大村さんのような専門の雑誌編集者を含めて,世の中では,「こうすけ」と発音しています。

学徒出陣で中国大陸を転戦し,敗戦後南京で捕虜として過ごした後,1946年に復員し,保田與重郎に師事する1947年に亀井勝一郎を頼って上京,東京都三鷹市に住み,太宰治・男女ノ川登三と共に「三鷹の三奇人」と呼ばれる。この頃,関西の出版社の社員として岡本太郎の前衛芸術運動「夜の会」に接近,多くの影響を受ける。

1948年11月,亀井勝一郎から破門を受ける。1949年,歌人前川佐美雄の妻の妹と結婚。

1950年には神戸で放浪生活を送り,覚醒剤中毒で入院。さまざまな職(神主さんのような仕事,学生のための お汁粉屋 もやっていたと大村彦次郎は語っている)を経て,1952年に再び上京,音楽を通じて知り合った新潮社の編集者・齋藤十一の紹介で新潮社の社外校正をしながら小説を書くが, ばかりであった。

その後,齋藤十一の推薦で,ドビュッシー「西風の見たもの」を聴いて着想した『喪神』が1952年12月号の「新潮」「同人雑誌推薦新人特集」に掲載され,1953年,第28回芥川賞を受賞。『喪神』はその年に大映で映画化される。

その後は,『柳生連也斎』など独特の時代小説を発表し,1956年,『週刊新潮』創刊から『柳生武芸帳』を連載して人気を博した。主人公の集団性,禁欲的な剣豪でなく,本能のままに生きる剣豪というとらえ方,そして日本浪曼派の影響の濃い,剣の達人の持つ精神性の表現と,格調高い文体で高く評価されている。色川武大に先んじて本格的な麻雀小説を書いた。

カーマニアとしても知られていたが,1961年5月に飲酒運転で逮捕。1964年1月31日には,三重県鈴鹿市富田町の国道1号で雪駄履きのまま自家用車を猛スピードで運転中にトラックと正面衝突を起こし内臓破裂などで一時重体となった。1965年7月24日には,脇見運転とスピード違反により,名古屋市で60歳の女性とその孫の6歳の少年を轢き殺し,逮捕される。このとき,志賀直哉,川端康成,小林秀雄,井伏鱒二,井上靖,三島由紀夫,柴田錬三郎,水上勉,亀井勝一郎,保田與重郎が連署で執行猶予を乞う上申書を裁判所に提出し,1966年,五味は禁固1年6月、執行猶予5年の有罪判決を受けた。贖罪の心の沈潜した『自日没』(にちぼつより)などの作品が書かれた。


● 五味康祐の人となり

大村さんによれば,文壇一の奇人・変人。奇想天外,放逸無頼ともいうべき天才作家のひとり。

中学生の頃から,ワインガルトナーのベートーベンを聴いていたというから,音楽のことを書かせたら玄人跣。実際,ゴロゴロいる音楽評論家の記事よりもはるかに面白いと評判だったようだよ。カラヤンが嫌いで,その演奏を酷評。

『西方の音 せいほうのおと 』(新潮社,1992年,14刷),『天の聲-西方の音-』(新潮社,1976年,2刷)が我が家の書棚にあるよ。表紙は前者はベートーヴェン,後者はワーグナー。

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改めて読み返してみたけど,五味康祐の面目躍如,素晴らしいよ。


● 芥川賞

昭和28年1月に開催された選考委員会で,松本清張と共に,受賞。
この時,
松本清張 43歳『或る「小倉日記」傳』
五味康祐 31歳『喪神』

時代小説が芥川賞の対象になったことはそれまでになっかこともあってか,選考委員は,五味作品に関心が高くなかったようだね。例えば,丹羽文雄は,決して悪い作品ではない。・・・ これは「時代小説の童話」だといったそうだよ。

しかし,佐藤春夫,坂口安吾の二人が,非凡な表現力とポエジーが素晴らしいと強く推した。

従来の剣豪小説と全く異なる新たな世界は,芥川賞受賞作『喪神』で始まったと言っても過言でない。  

1962年に初上映された『座頭市物語』(勝新太郎の代表作),黒澤明の『用心棒』などの作品は,五味康祐が描いた「剣の世界」に,大なり小なり影響を受けていると,不肖・荒田洋治は信じております。

五味康祐の『柳生武藝帳』は,人間関係が大変に複雑怪奇な長編で,初めから終わりまで辛抱して読んだ人はそんなに多くないと思います。私もその一人だけどね。 

映画化されたとき(稲垣浩監督,三船敏郎主演[1957年(昭和32年4月23日公開)]),脚本が簡潔に整理され,分かりやすい作品に仕上がったんだ。この映画を見た五味康祐は,

これで,この長編の筋書きがよく理解できた。

と,とぼけていたそうだよ。(長女の話)

娘さんといえば,五味康祐は,長女 ゆうこさん(漢字?)の手相を見て,こんなことを言ったそうだよ。(これも,大村さんの話)。

2本の平行線が狭い間隔で走っている。これは,ヒットラーの手相と同じ。お前は女に生まれてよかったよ。



● 五味康祐の肉声を聞く

録音で,五味康祐の声を初めて聴いたんだ。宇田川さんが

「優しい声」ですね。

仰っておられましたが,私もまったく同感。こんな声の人だったとは,全く想像できなかったね。例えて言えば,高校の歴史の先生。

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五味康祐(1921-1980)





● 五味康祐が切り拓いた「剣」の世界


戦前の剣豪小説と全く異なる新たな剣豪小説の世界は,芥川賞受賞作『喪神』で始まったと言っても過言ではありません。

次の二つの私の書いたブログの記事を読んで下さい。

櫻を斬る 五味康祐の世界




桜の季節になると,チャンバラの世界から,それまでに誰も描くことのなかった剣の世界を創りだした五味康祐が頭に浮かびます。何事にもすぐに感動してしまう筆者には,忘れることのできない宝物のような何編かの作品が 『五味康祐代表作集 第1巻』 (新潮社)に収録されています。


● 遅筆とオリジナリティ

大村さんによれば,五味康祐の遅筆は編集者泣かせであったという。

私は,個人的には,遅筆の原因は,五味康祐が無から有への実現しようと苦しんだ結果だったと思っています。この意味では,五味作品はいずれも,「作り出した」ものではなく,苦しみの結果「出来た」作品だったのではないでしょうか。


***



ブログの結びに,自然と剣の闘いを描いた 『柳生連也斎』 について書きます。

佐藤春夫,坂口安吾両氏が仰るように,非凡な表現力とポエジーが素晴らしいね。



柳生新影流五世・柳生連也斎と,新免武蔵直伝の見切の秘太刀を使う鈴木綱四郎光政が天白ヶ原で刃を交える。

連也斎の父 如雲の教え


「見切を制覇するには「影を斬るのじゃ」

「よいか,工夫は其方がする事じゃ。必ず,相手の影を斬れい」


***



・・・・・ 連也斎がひそかに工夫を重ねて尚解けなかったのは,父 如雲が教えた「影を斬れ」の謎である。 渠(かれ)は「影を斬る」この秘太刀が会得出来なかったので,池鯉鮒(ちりふ)に戻った時馬を捨て(三月廿日深夜),東海道を採らず当初は東郷から赤池の道を天白ヶ原への東口へ出るつもりで歩いた。東口からなら,太陽を背に受けて敵対する。この地の利を知らぬ武芸者もあるまいが,だから東口への道を連雲斎も採った。


綱四郎は朝陽を背に構えている。足元から影が連也斎の足元まで延びている。連也斎はその陰の先端を踏んでいる。太陽はわずかにわずかに昇る。影はちぢまっていくだろう。その太陽の昇るにつれて短くなる綱四郎の影の長さだけ,連也斎は進んだ。兵法者は進退に剣の一切を賭けている。武蔵の見切は,敵のそういう進退を見切るのである。 ・・・・・ 連也斎は,進退をただ天の運航に託したのである。太陽は昇りつづける。森羅万象は運行を偕(とも)にする。動かぬと見えて,影はすこしずつ縮まり連也斎は綱四郎に詰寄っているのである。

・・・・・

綱四郎はまっ青になり脂汗が顔面に流れた。時は容赦なく過ぎた。綱四郎は次第に追い詰められた。

・・・・・ 併し,・・・・・ 太陽が雲に翳れば森象の影の圧力も忽ちにきえる。剣技を無視した接近は,だから太陽を失えば一瞬にして復讐される道理である。この試合の勝負の鍵を握っているのは,あく迄も天体である。

・・・・・ この時雲が次第に太陽に近づいていた。雲は風で次第に動きを速めている。地上の二人の兵法者の間も殆んどもう一方の太刀が相手を斃す近さに接近していた。太陽がより早く昇れば連也斎が勝つ。より早く曇れば綱四郎が勝つ。・・・・・

わずかにわずかに太陽は昇った。雲は近寄った。太陽は照りつづけた。雲は近寄った。連也斎は青眼に構え,綱四郎は八双に構えていた。・・・・・

雲が太陽に追いついたと殆んど同じ瞬間,地上では二つの太刀が閃いたのであった。

綱四郎と連也斎はどちらもだらりと太刀を垂れ,身を接する近さで互いの眼と眼が睨みあっている。ずい分と長い間二人はそうしているように思えた。

やがて,一人の額から鼻唇にかけてすーっと一条の赤い線が浮上った。線から,ぷつりぷつりと泡が吹き出した。するとその武士はニヤリと笑い,途端に,顔が二つに割れ血を吹いて渠(かれ)はどうと大地に倒れた。

『柳生連也斎』はここで終わる。




***




五味康祐代表作集 第1巻(147-178 ページ)
『喪神 柳生連也斎』
新潮社(1981)

文庫版 『秘剣,柳生連也斎』 が新潮社から出版されている。文庫版は昭和33年の初版以来,版を重ね,筆者の手元にあるのは平成4年発行の第46刷である。いかに多くの人に読まれたがわかる。現在は絶版であるが,古書として,インターネットで入手可能である。


● 惜別

五味康祐は,1980年,肺がんのため死去。享年 58。墓は鎌倉市建長寺の回春院にある。

病床で最後に聞いた曲は,ベートーヴェンのピアノソナタ 第32番 作品111 だったという。五味康祐も,あのフーガに魅かれていたんだと思うと,上に書いた 「お汁粉屋」 の件を思い出し,懐かしさが増す。





未完

# by yojiarata | 2017-02-11 17:22 | Comments(0)

荒俣宏  ドン・キホーテ と セルバンテス を スペイン に 追う




ご隠居さん このところ,録画した番組を繰り返し,熱心に見てたけど,一体何を見ていたの。

2017年1月4日(18:00-19:55)に,BS フジ で放映された



荒俣宏 トラベルミステリー

ドン・キホーテ 400年目の真実

~ 作家セルバンテス 謎の人生~



が,あまりにも面白いので,何度も繰り返して楽しんでいたんだ。


これまでにも何度も,このブログで君に話した記憶があるんだけど,ドン・キホーテは,私の精神的な師匠で,ドン・キホーテと聞けば,その場で「固まってしまう」んだよ。

それに,番組を取り仕切るのが,日本の博物学の巨人,荒俣宏と聞いてはね。彼のひっくり返りそうな広範囲の興味,物凄い人だからね。

そこらのチンピラ・タレントが,チョコっと外国を見て歩いて,すごいだの,素晴らしいだの騒ぐのと,次元が違うんだよ。


***



このブログでは,番組のなかの重要なキーワードを抜き書きします。


● 作者 ミゲル・デ・セルバンテス(1547-1616),すなわち,去年がセルバンテスが他界してから400年目の記念の年だったんだ。


● スペイン発行のユーロコイン,10,20,50セントの裏には,いずれもセルバンテスの姿が刻まれている。


● 本の名前は,正確には,機智に富んだ郷士ドンキホーテ・デ・ラ・マンチャ


● 80ヵ国以上で翻訳され,400年以上にわたって読み継がれてきました。


● 世界で,聖書のつぎに読まれている大ベストセラー。


● 1605年発行の初版本が国立図書館の「セルバンテスの部屋」に保管されている。そのうちの一冊。日本のテレビ初公開。初版本は30冊が現存するそうです。


● これまで天才が創造した書物の中で,最も偉大で,最も憂鬱な書物だ(ドストエフスキーが残した言葉)


● レバントの戦いに従軍 オスマン帝国に勝利するも,腕に大きな負傷して帰国。


● 戦いで大功績を挙げたわけでもない。従って,ドン・キホーテを書かなければ,セルバンテスの名前が歴史に刻まれることはなかったのです。


● セルバンテスは,「不運にも」,教養があり,字が書け,読めたため,捕虜になって保釈される時,単なる一兵卒よりはるかに不利な条件をかせられた。


● 貧乏のまま,一生を送る。ドン・キホーテの出版にあたって,資金がなかったため,版権をフランシスコ・テベロなる人物に売ってしまったのだそうです。だから,ミリオンセラーになっても,収入はなく,貧乏のまま。


● 要するに,セルバンテスは,何一つ良いことなく,「踏んだり蹴ったり」の生涯を送る。


● 王立武具博物館を訪ね,ドン・キホーテの名前の由来を知る。ドンは貴族の称号,キホーテは甲冑の片足の部分を指す。すなわち,あっても役に立たないことを意味する。


● 400年前の洗礼記録をもとに,セルバンテスの家系を追跡,子孫と会う。


● ほかに,実に多くのことを,知ることができます。あれもこれも,それを引き出した荒俣宏の実力だね。それに,彼の話術が凄いね。人の心をとらえるハイレベルな話術です。

(敬称略)



***



● 荒俣さんへのお願い

行く先々で,パクパク召し上がっておられましたが,その量は並ではないようにお見受けしました。

小生も,ヨーロッパ,アメリカを旅しましたが,量には常に圧倒されました。何とか対応して,ご馳走様と思ったのが大間違い,次にメイン・ディッシュが出てきて,卒倒しそうになった記憶があります。

荒俣さんには,全く問題ないようにお見受けしました。どうかこれからも,食べ過ぎに注意され,大活躍して,私たちに面白い話を聞かせてください。





おわり












# by yojiarata | 2017-02-03 00:26 | Comments(0)

大統領令9066 に署名した アメリカ・ルーズベルト大統領



1942年2月19日,アメリカ合衆国大統領フランクリン・ル-ズベルトは 大統領令 9066に署名した。これによって,12万人の日系人が,アメリカ中西部に設けられた10ヶ所の

【日系アメリカ人強制収容所】

に移送された。


***


戦前,私の父方の叔父夫婦はアメリカに移住し,「日系アメリカ人」として,カリフォルニア州・ローダイで,葡萄園を経営していた。

当然,叔父一家全員(親類縁者を含め)も,この大統領令の対象となった。一家全員,アーカンソー州の強制収容所(通称,キャンプ)に送られ,苦難の時を過ごした。とくに,極寒の寒さは耐え難かったという。


1970年代の初頭,カリフォルニア・スタンフォード大学・メディカルセンターに客員として滞在して時,私たち一家でローダイを両三度訪ね,叔父一家全員と語り合った。

詳しい状況は,

昭和平成春夏秋冬 としつき

に記述した。

ちなみに,キャンプに送られたのは「日系アメリカ人」だけで,アメリカと戦争状態にあったドイツ,イタリア系の「アメリカ人」が,キャンプに送られたという記録はない。





未完











# by yojiarata | 2017-01-29 22:25 | Comments(0)

雪 と 人々




ご隠居さん 何かブツブツ,モゴモゴ呟いているけど,どうかしたの?

年々気候が変になっていくのは,どうしてかなと考えていたんだ。

例えば,雪。やたらに降るよね。今まで,あまり降らなかったとこにも大量に積もって,みんな困っています。


雪については,洋の東西を問わず,大勢の人が記録を残しています。

昭和平成春夏秋冬 学ぶ の中の「ケプラーと雪の六角形」,「雪と殿さま」,「雪に魅せられた人々」では,様々な人々が歴史にその名を残している様子を紹介しました。ぜひ読んで下さい。


雪の結晶の真の姿を見るには,東京のような都市では無理です。コロラド州の山の中で学会が開かれた時,真夜中に窓を開けて,雪を紙の上に採取し,予て用意していた虫眼鏡で,寒さの中,眺めたときの感動を忘れません。30年以上も前のことです。






今日はここまでにします

# by yojiarata | 2017-01-29 15:00 | Comments(0)