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人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗 を読む  関東大震災のあとさき





ご隠居さん。今日は地震の話ですか? なぜ,突然。

今年になって,もう二度も三度も地震があったでしょう。これまでとは様子が違うんですよ。

違うというと?

何だか,悪意があるというか,大きさはともかくとして,性格が悪いんだ。悪い予感がするんだ。

それで,どうしようというの。

関東大震災が起こる前の様子を知りたくなったんだ。 前のブログ で書いたけど,永井荷風にはルポライターとしての才能があるよ。時間と共に消えて行く個々の出来事を,丹念に書き残した荷風の日記は,その時その時の見事な ”ルポルタージュ” として価値の高いものだと思います。


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東日本大震災(2011年(平成23年3月11日))の場合でも,それ以前において,日本災害史上最大級の被害であった関東大震災(1923年(大正12年9月1日)の場合でも,徹底的に正確で詳細な公式記録が残されています。だけど,それは硬い無機質のようなもので,生きてはいません。叩いてみても何の応答もありません。

しかし,荷風の日記を読むと,その日,その時間に,町に住む人々がどのように感じたのかが,叫び声や息づかいが手に取るように感じられるんですよ。



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関東大震災が起こる2年ほど前に遡って,断腸亭日乗から,気になる記述を拾っていきます。


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大正十年(1921年)



十二月八日

初更入浴中地激しく震ふ。棚の物器顚倒して落ち時計の針停りたり。


十二月十一日


水道水切となる。八日夜地震のため水道浄溜池破壊せし故なりと云ふ。・・・・・ 夜十一時に至るも水猶なし。


十二月十七日

天気暖なり。人々地震を虞る。



大正十一年(1922年)



正月六日

水道凍る こと前日の如し。去年の冬には一度も凍りしことなし。今年の寒気知るべきなり。夕刻地震あり。此日寒の入。


正月廿二日

数年来覚えしことなき寒なり。大正六年の冬大久保に在りしころ屡硯の水凍にたれど,本年の寒さはそれよりも猶甚しきが如し。 ・・・・・ 


二月十七日

昨夜風雨甚しかりしが暁に至りて歇みぬ,午後西北の風吹起り家屋動揺す。晩飯を喫せむとて町に出るに電柱の倒れたる処もあり。近県山くづれあり。鉄道線路の破壊等被害尠からずと云。


二月廿五日

・・・・・ この日 暴暖華氏七十度 に達す。日本の気候年々不順になり行くは如何なる故か。何となく 天変地妖の起るべき前兆 なるが如き心地す。


四月廿九日

昨夜より今朝にかけて地震三四回に及ぶ。 ・・・・


五月十日

曇りて蒸暑し。新演藝合評会に往く。帰路細雨烟の如し。 人皆地震を慮る。


十月五日

朝十時新橋に着す。初めて市中 コレラ病流行 の由を知る。


十二月十五日

曇りて暗き日なり。午後三時頃より燈火を点ず。地震両三回。夜に入り空晴れ星斗森然たり。



大正十二年(1923年)



正月四日

晴れて寒し。新聞紙の報道によれば大正七年以来の礽寒なりと云ふ。顧れば当時大久保の家に在りし時,満庭の霜午に至るも解けず。八手青木の葉は萎れて垂れ下り,蠟梅の花は半開きかけて萎れしことあり。 ・・・・・


正月十日

・・・・・ 寒風凛冽。厨房の水昼の中より凍りたり。


正月十二日

・・・・・ 南風吹つゞきて心地悪しきほどの暖気なり。市中雪解にて泥濘歩むべからず。


正月十七日

厨房の水道管氷結のため破裂す。電話にて水道工事課へ修繕をたのみしに,市中水道の破裂多く人夫間に合わず両三日は如何ともなし難しとの事なり。


正月廿七日

晴れて風寒し。屋上街路の雪倶に未解けず。午後二時頃地震ふ。


六月四日

・・・・・ 昨夜より今朝にかけて地震ふこと五六回なり。



***




この後,九月晦日のその日まで,地震に関する記述は,日記にはありません。ということは,小さいものを含めてからだに感じられる地震は起きてないようですね。


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九月晦日の記述に移る前に,地震とは関係ないことで,私の興味を引いた部分を書き写しておきます。

三月五日

ラジウムの治療 を試みんがため日本橋高砂町阿部病院に赴く。 ・・・・・


五月一日

痔を患ひ午前谷泉氏の病院に往く。


五月九日

浜町阿部病院に往きラジウム治療の後, ・・・・・


五月廿四日

両三年来神経衰弱症漸次昂進の傾あり。本年に至り読書創作意の如くならず。夜々眠り得ず。大石国手の許に使を遣し薬を求む。


五月廿五日

昨夜大石君調剤の睡眠薬を服用して枕に就きしが更に効験なし。 ・・・・・



荷風が何のために, ラジウム治療 をしたのかは,断腸亭日乗を通読してみても分かりません。荷風の時代に,がん患者にラジウム治療が行われていたことは,医学の歴史書に記載がありますが,それにしても,???


日露戦争に連合艦隊司令長官就任し,日本海海戦でバルチック艦隊を破って国民的英雄となった東郷平八郎のことは,ご存じでしょう。彼は,昭和9年(1934年)5月30日,喉頭がんなどの病のため,満86歳で死去しました。6月5日に国葬で送られたんだけど,英雄・東郷平八郎の死は,ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載されるほど,大きな反響をよんだそうだよ。


東郷平八郎の治療に,ラジウム治療が用いられたことが記録に残っています。余計なことと思はれるかもしれませんが,断腸亭日乗には,後日談が書いてあります。



【 昭和10年三月十五日

・・・・・ 夜金春新道のキュペルにて,元東郷帥孫女良子家出の顛末を来合せたる電報通信社々員某氏より伝聞す。大畧次のごとし。

東郷良子年十九才なり。本月学習院女子部を卒業せむとする間際に至り二月廿四日出奔し,浅草公園活動館を見歩きて後,花川戸横丁JLといふ喫茶店に女給募集の貼紙あるを見て,其店の住込女給となり,今朝日々新聞に家出の記事出るまで十七日間働きゐたりしなり。 ・・・・・

新聞に写真出るまでは家の者もまた出入する客も誰一人東郷家の娘とは気づかざりしと云ふ。・・・・


[欄外墨書] 東条良子の父は宮内省式部官なり明治四十年頃坪内博士低邸内俳優学校創立の頃俳優志願にて入学を請ひしが博士は其為人を一見し入学を許可せざりし事ありしと云】



こんなことは,終わってしまえば,記録がどこにも残りません。ワイドショーのようなものです。それが記録に残されている。こんなところも,私自身が断腸亭日乗に興味を惹かれる点です。

なお,付け加えれば,19歳の未成年の少女の名前が写真付きで新聞に載るのも,現在とは違いますね。

もう1点付け加えたいことがあります。永井荷風のシリーズを執筆するにあたって断っておきましたが,このブログでは,『新版 断腸亭日乗 第一巻-第七巻 (岩波書店,2001-2002』を用いています。

『摘録 断腸亭日乗』(磯田光一編,岩波書店)では, 東郷 が全て,伏字になっています。



大正13年十一月十六日に,書生の 難波大助 が死刑になったとの記事が載っていますが,ここでも,

[欄外朱書] 難波大助死刑大助ハ社会主義者ニアラズ摂政宮演習ノ時其処ノ旅館ニテ大助ガ許嫁ノ女ヲ枕席ニ侍ラセタルヲ無念ニ思イ復讐ヲ思立チシアリト云フ

の部分が伏字になっています。



摘録の編者・磯田氏によるものか,同氏の死後本書を発刊するにあたっての岩波書店・編集部の方針なのか不明です。原本には記載があるわけですから,この点は断ってほしいものです。  


ともあれ,心配性で,病院通いに終始し,何度も遺書を書こうとした(実際に,断腸亭日乗に残っているのは,一通だけです)荷風のことですから,自分はがんに罹っているのではないかと心配したのかもしれません。単なる想像ですが ・・・・・




つづく

by yojiarata | 2016-02-22 21:30 | Comments(0)

人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗 を読む  関東大震災のあとさき(続)




大正十二年(1923年)



九月朔

忽爽 こつそう 雨歇みしが風猶 なお 烈し。空折々掻曇りて細雨烟の来るが如し。日将に午ならむとする時天地忽鳴動す。予書架の下に座し嚶鳴館遺草を読みゐたりしが,架上の書帙書帙 しょちつ 頭上に落来るに驚き,立って窗を開く。

門外塵烟濛々殆咫尺 しせき を辦せず。児女鶏犬の声頻なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるが為なり。予も亦徐 おもむろ に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまゝ表の戸を排 おしひら いて庭に出でたり。数分間にしてまた震動す。身体の動揺 さながら船上に立つが如し。

門に倚 りておそるおそる吾家を顧るに,屋瓦少しく滑りしのみにて窗の扉も落ちず。稍安堵の思をなす。

昼餉をなさむとて表通りなる山形ホテルに至るに,食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二三の外客椅子に坐したり。食後家に帰りしが震動歇まざるを以て内に入ること能はず。庭上に座して唯戦々兢々たるのみ。

物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ,半輪の月出でたり。ホテルにて夕餉をなし,愛宕山に登り市中の火を観望す。十時過江戸見坂を上り家に帰らむとするに,赤坂溜池の火は既に葵橋に及べり。

河原崎長十郎一家来りて予の家に露宿す。葵橋の火は霊南坂を上り,大村伯爵家の鄰地にて熄 む。吾廬を去ること僅に一町ほどなり。


九月二日

昨夜は長十郎と庭上に月を眺めて暁の来るを待ちたり。長十郎は老母を扶け赤坂一木なる権十郎の家に行きぬ。夕餉の馳走になり,九時頃家に帰り樹下に露宿す。地震ふこと幾回なるを知らず。


九月三日

微雨。白昼処々に 放火 するものありとて人心恟々たり。各戸人を出し交代して警備をなす。・・・・・


九月十日

・・・・・  電車 昨日より山の手の処々運転を再開す。 ・・・・・


九月十二日

窗外の胡枝花開き初む。


九月十五日

時々驟雨。余震猶歇まず。


九月十七日

両三日前より麻布谷町通 風呂屋開業 せり。今村令嬢平沢生と倶に行きて浴す。心気頗爽快を覚ゆ。


九月廿三日

・・・・・ 曇りて風寒し。少しく腹痛あり。夜電燈点火せず,平沢夫婦今村母子一同と湯殿の前なる四畳半の一室に集り,膝を接して暗き燭火の下に雑談す。窗外風雨の声頻なり。 ・・・・・


九月廿四日

昨来の風雨終日歇まず。寒冷初冬の如し。夜のふくるに従ひ風雨いよいよ烈しくなりぬ。偏奇館屋瓦崩れ落ちたる後,修葺未十分ならず。雨漏甚し。


九月廿五日

昨夜の風雨にて庭のプラタン樹一株倒れたり。その他別に被害なし。 ・・・・・ 此日一天拭ふが如く日光清澄なり。夜に入り月光また清奇水の如し。暦を見るに 八月十五夜 なり。災後偶然この良夜に遇う。感慨なき能はず。


十月三日

快晴始めて百舌の鳴くを聞く。午後丸の内三菱銀行に赴かむとて日比谷公園を過ぐ。林間に仮小屋建ち連り,糞尿の臭気堪ふ可からず。公園を出るに爆裂弾にて警視庁及近傍焼残の建物を取壊中往来留となれり。・・・・・

帰途銀座に出で烏森を過ぎ,愛宕下より江戸見坂を登る。坂上に立って来路を顧れば 一望唯渺々 びょうびょう たる焦土 にして,房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。帝都荒廃の光景哀れといふも愚なり。

されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば,所謂山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば,灰燼になりしとてさして惜しむには及ばず。近年世間一般奢侈驕慢 しゃしきょうまん ,貪欲飽くことを知らざりし有様を顧れば,この度の災禍は実に天罰なりと謂ふ可し。

何ぞ深く悲しむに及ばむや。民は既に家を失ひ国帑 こくど 亦空しからむとす。外観をのみ修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即此の如し。自業自得天罰覿面 てきめん といふべきのみ。


十月四日

快晴。・・・・・  初更強震 あり。


十月八日

雨纔 わずか に歇む。午後下六番町楠氏方に養はるゝ大沼嘉年刀自 とうじ を訪ひ,震前借来りし大沼家過去帳を返璧す。刀自は枕山先生の女,芳樹と号し詩を善くす。年六十三になられし由。この度の震災にも別条なく平生の如く立働きて居られたり。

旧時の教育を受けたる婦人の性行は到底昨今新婦人の及ぶべき所にあらず。 ・・・・・


十一月五日

払暁強震。午後丹波谷の中村を訪ふ。震災後私娼大繁盛の由。


十一月十一日

吾家の門前より崖づたひに谷町に至る坂上に道源寺といふ浄土宗の小寺あり。朝谷町に煙草買ひに行く時,寺僧人足を雇ひ墓地の石垣の崩れたるを修復せしめ居たり。石垣の上には寒竹猗々として繁茂せるを,惜し気なく掘捨て地ならしをなす。

予通りかゞに之を見,住職に請ひ人足には銭を与へて,其一叢書を我庭に移し植えさせたり。寒竹は立冬の頃筍を生ずるものにて,其の頃に植れば枯れざる由。曾て種樹家より聞きし事あり。 ・・・・・


十二月十二日

・・・・・ 外濠の電車一昨日十日より運転す。


十二月卅一日

午後三菱銀行に往き銀座を歩みて帰る。日比谷より下町へかけて塵埃烟の如く,自動車来るや咫尺を辦せず。況んや連日の晴天,路上人馬絡繹,黄塵濛々たり。帰宅の後炉辺に桜痴先生の懐往事談を読む。

晩飯を喫して後お栄を伴ひ,山形ほてるに松莚子を訪ふ。荒次郎,長十郎,鶴男等来る。細君福茶を煮る。款語の中除夜の鐘を聞き辞して帰る。






by yojiarata | 2016-02-22 21:29 | Comments(0)

『火はわが胸中にあり』 ― 忘れられた近衛兵士の叛乱  竹橋事件 




昭和7年五月十五日

この日の日記( 断腸亭日乗 ) に,永井荷風は 五・一五事件 について次のように書いています。


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晴れていよいよ暑くなりぬ。晡下銀座に往きて夕飯を食す。日曜日なれば街上の賑ひ一層盛なる折から号外売の声俄に聞出しぬ。五時半頃陸海軍の士官五六名首相官邸に乱入し 犬養を射殺 せしと云ふ。警視庁及政友会本部にも同刻に軍人乱入したる由。

初更の頃家に帰るに市兵衛町表通横町の角々に巡査刑事二三名づゝ佇立み,東久邇宮鄭門前には七八名立ち居たり。如何なるわけあるにや。

近年頻に暗殺の行はるゝこと維新前後の時に劣らず。然れども凶漢は大抵政党の壮士又は血気の書生等にして,今回の如く軍人の共謀によりしものは,明治十二年 竹橋騒動 以後曾て見ざりし珍事なり。


***



【 ここで,荷風が ”珍事” と書いている「竹橋騒動」は,明治十二年に近衛兵士がおこした反乱を指し,のちに 「竹橋事件」 とよばれることになります。


明治初期,徴兵制や悪化する待遇に不満を抱く近衛兵士が叛乱を起こしました。しかし,事が事前に露見し,五十余名もが処刑されました。この事件は,その後の日本の100年以上にわたる軍国政治において重大な意味をもっています。すなわち,天皇への忠節を至上命題とする「軍人勅諭」を始め,大日本帝国陸軍の完成へと利用されていくことになりました。

1960年代半ば,澤地久枝は,二・二六事件の連座者の一人で銃殺刑となった青年将校安藤輝三の言葉に,初めて「竹橋事件」を意識したと書いておられます。

待遇の悪化や徴兵制そのものに対する素朴な不満を抱え,天皇への強訴を企図したものの,それは何者かによって圧殺され,逆に天皇への忠誠を絶対とする「大日本帝国陸軍」の完成へと利用された。・・・・・ 無残にも殺された青年たちは,どのような人間であり,どのような改革の火を胸に秘めていたのか。

裁判の口供書を読み込み,わずかな手がかりを元に菩提寺を探しては,遺族に伝わる話を聞きだして,現在では散らばってしまっている事実の断片を繋ぎ合わせ,気の遠くなるような作業ののち,100年前に非業の死を遂げた男たちを,人間のドラマとしてよみがえらせました。


澤地久枝の力作『火はわが胸中にあり 忘れられた近衛兵士の反乱 竹橋事件』 は,角川書店より1978年7月に出版されましたが絶版。その後復刻された文春文庫(1987年初版)も絶版になってしまいました。しかし,過去に出版された重要な書物の一冊に選ばれ,岩波現代文庫の一冊として復刻されています。】



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2008年9月17日発行(在庫僅少とのことです。平成28年2月初旬現在)



この本の表紙は,近衛砲兵・広瀬喜市.生家の位牌に埋め込まれているのを見つけ,著者が男たちを生身の人間として描く励みとしたという写真です。


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「火はわが胸中にあり 忘れられた近衛兵士の反乱 竹橋事件」は,次のように始まります。


1.埋葬

その墓がみつかったのは,一九七七年(昭和五十二年)十一月の末であった。〈旧近衛鎮台砲兵之墓〉と刻まれた方形の石の高さは,五尺三寸ほどある。

東京青山墓地の西端,青山通りから霞町へぬける道路にそってめぐらされたフェンスの内側の,低く窪地になったような位置に,西を向く形で墓は建っていた。

墓碑の背面には,〈大赦明治二十二年二月十一日〉とあり,左の側面には小さな文字で二行〈祭主福井清介 世話人墓地関係一同〉と読まれる.墓はヒイラギの樹の下にある。

これが,一八七八年(明治十一年)八月二十三日夜の竹橋事件の結果,同年十月十五日に銃殺刑になった五十三人の兵士の墓であった。日本の陸軍史上に例のない,近衛砲兵大隊兵士の叛乱である.東京鎮台予備砲隊にも,近衛歩兵連隊の中にも同調者があり,処刑者が出ている。

埋葬のもとの位置は,現在の都立赤坂高校正門のあたり。明治憲法の発布に際する特赦により,名目上は赦された男たちの墓を建てた祭主福井清介とは,事件とどんなかかわりのある人物なのか,いまのところ,まったく不明である。



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上記の墓は第二次世界大戦中に行方不明になったままであったが,著者の追跡のなかで所在が確かめられた。その墓は現在も同じたたずまいのまま青山墓地にある。右横には,1987年に遺族会や「竹橋事件の真相を明らかにする会」によって建てられた,事件の概要を伝える碑(撰文澤地久枝)があり,軍隊とは何かを今に問いかけている。

「日本陸軍史上,唯一の反乱」を追いつめて,一冊の本にまとめ上げた澤地久枝は,自分にとっても「特に愛着の深い本」と語っています。


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本書(岩波版,364ページ)によると,資料としては,銃殺刑になった人々を主とする口供書(国立公文書館蔵)しかない。陸軍裁判所の口供書と,事件処理の諸手つづきの記録,それらを土台にして書かれた「近衛砲隊暴動始末」,「陸軍卿建白」(三条実美文書,国立国会図書館憲政資料室蔵)などが,公的資料としては唯一のものであり,すべて裁いた側による記録である。


澤地久枝は,さらに続けて次のように書いています。

徴兵という新しい賦役のあり方を批判するだけでなく,のちの自由民権思想に近い考えをもつ兵士が,竹橋事件の中心的な核をなしていたらしいことは,「近衛砲隊暴動始末」にはっきり述べられ,口供書の文脈からも探り得る。

本の出版から間もない一夜,内藤さんという名の男性から電話がかかってきた。七十二歳だということであった。その男性の父君は,西南戦争に乃木希典の部下として参戦した内藤源作であること,源作は竹橋事件の銃殺刑の際,引き金をひいた兵士の一人であったことを電話で話した。その時,数え年二十三歳であった源作は,七十過ぎて亡くなるまで,忘れかねるように大雨の降る日の刑執行を語っては涙を流したという。

射たれる者も射った者も,同じ「徴兵制度」によって軍服を着せられた若者たちであった。

明治初年の天皇の位置,ごく初期の帝国陸軍の姿を知ることは,現在の私たちに有効な多くの示唆をふくんでいよう。反乱を起こして銃殺刑になった男たちの多くは,農家の二,三男であった。彼らは,私たちが求めれば,若々しい姿と声で多くを語りかけるはずである。



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岩波現代文庫版あとがき は,

「日本の軍隊」がまたもや現実の重みで迫ってくる現在の事態にあって,竹橋事件は,現在の私たちに血脈のつながる事件と人であると思う。もの書きとなって三十六年,特に愛着の深いこの本の旅立ちを喜びつつ,よき前途を心から祈ってやまない。

事件から百三十年 二00八年八月

澤地久枝

で終わります。




by yojiarata | 2016-02-07 23:05 | Comments(0)