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国本武春 死す



ご隠居さん 国本武春って誰なの?

知らないか。では,廣澤虎造はどうでしょうか。正確には,二代目 廣澤虎造だけど。

名前は,何となく聞いたことがありますね。





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2013年4月12日のブログに次の記事を載せました。


森鷗外と永井荷風 流行歌と浪花節


荷風の日記(断腸亭日乗)には,次の件があります。


昭和9(1934)年。

正月廿一日。

晴れて風あり。空には雲多し。正午ラヂオの浪花節聞え出したれば今日は日曜日なり。 ・・・・


七月廿五日。 

くもりてまた俄に涼し。気候不順なること驚くべし。・・・・・

鷗外先生は ・・・・・ 浪花節は宴席に於てもこれを聴くことを好まず,屡其の曲節の野卑にして不愉快なることを語られたることあり。・・・・・

今日浪花節は国粋藝術などゝ称せられ軍人及愛国者に愛好せらるゝと雖三四十年まえまでは東京にてはデロリン左衛門と呼び最下等なる大道藝に過ぎず,座敷にて聴くものにては非らざりしなり。・・・・・

現代の日本人は 藝術の種類 にはおのづから上品下品の差別あることを知らず。三味線ひきて唱ひまた語るものは皆一様のものと思へるが如し。・・・・・ 今夜鷗外先生も地下に在りてラヂオの浪花節をきゝ如何なる感慨に打たれ給うや。


どうも,荷風先生,師とも神とも仰いだ鷗外先生に大変気を使っておられるようだ。事実,荷風はこんなことを書いている。


大正12(1923)年

六月十八日。

・・・・・ 夜森先生の渋江抽斎伝を読み覚えず深更に至る。先生の文この伝記に至り更に一新機軸を出せるものの如し。叙事細密,気魄雄勁なるのみに非らず,文致高達蒼古にして一字一句含蓄の味あり。言文一致の文体もここに至って品致自ら具備し,始めて古文の頡頏することを得べし。

この時,荷風45歳。”転げまわって絶賛”という感じである。



***



我が家の近くに蓄音機屋さんがあってね。店の主人は,新しいレコードが出るたびに,黙って置いていくんだ。レコードは,浪花節だったり,流行歌だったりしました。子供のくせに,私がやたらと浪速節や流行歌を知っていたのは,そのせいです。

父親が,親戚・縁者をよび集め,家族全員とともに蓄音機を取り囲んで,廣澤虎造の新しいレコードを聴くんです。三味線と囃子詞にのせて張りのある節回しで語られるドラマは,子供心にいまも記憶にあります。


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我が家では, 藝術の種類 など考えたこともない近所のおじさん,おばさんが廣澤虎造の新しいレコードに夢中になっていました。


うつせみの 人の宿命は 花火とおなじ

燃えて散る間の 儚さよ

きのうの花は きょうの夢

あすの命を 誰が知る



芸術の何たるかなどどうでもよいおじさん,おばさん達が涙を流して聴いているんです。そして,私は改めて,浪花節はなんと素晴らしいかを実感しました。




***




虎造の後,浪花節が衰退していくのを身をもって体験しながら,日本人の心の故郷もいえる浪曲界をまた再び元気にし,若者の心を掴もうと担って走りまわっていたのが国本武春さんでした。将来を大きく期待されたんですよ。虎造の後は,彼しかいないってね。

2013年9月20日のNHKのラジオ深夜便(ラジオ第一放送、午前4時からの放送)【 明日への言葉 甦れ 廣澤虎造 】の第二部を録音して,武春さんの話を1時間にわたって聞きました。

今聞き直しても,素晴らしい番組ですよ。国本武春さんの意気込み,熱気が,電波に乗って伝わってきてね。

武春さんは大変意欲的で,文化庁による援助を受けて,アメリカのテネシー州の大学に留学し,一年にわたって学生たちと一緒にアメリカ中を演奏旅行してまわり,日本に戻ってからも,新宿や原宿のバーに出演,三味線をベースにした新しいタイプの浪曲を唄って,多くの若者の共感を得ました。

その国本武春さんがいなくなってしまったんですよ。さっき,駅で別れたばかりなのにという感じなのに。悲しいね。



***



つい先日,NHKテレビで,【 英雄たちの選択「藤田嗣治“アッツ島玉砕”の真実」】をみました。(12月17日)


戦前,フランスに渡った藤田嗣治は,大変な努力の末,本場の画壇で成功を収めたんだけど,戦争へ傾くと,帰国。軍の要請を受諾し戦争画を制作しました。その作品の中で,1943年(昭和18年)に藤田が描いた「アッツ島玉砕」は大きな社会問題を引き起こすことになったんだ。この問題には賛否両論があって,藤田は辛い経験をしたようです。


最後には,フランスの田舎に自分の家(お墓)を建ててひっそり暮らし,そして亡くなったんだ。日本人としてね。一人ポツンと過ごしながら,浪花節を聞いていたそうですよ。番組で,高橋源一郎さんがそう仰しゃておられました。



浪花節こそ日本人の心の故郷にあるものなんではないしょうか。



追悼

国本武春(1960年11月1日 - 2015年12月24日) 享年五十五






おわり

by yojiarata | 2015-12-30 16:00 | Comments(0)

人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗 を読む  巻の一


ご隠居さん 永井荷風のファンだったの?

ファンというのとは,ちょっと違うんだ。極めて興味ある人物であることは確かだけどね。

それでは,まず,永井荷風が一体何者で,ご隠居さんが荷風のことをどのように考えておられるか,このブログで荷風を何故取り上げるのか,そして,何を書こうとしているのかを簡単にまとめてください。



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永井荷風とはいかなる人物か



可能な限り,記事に客観性をもたせるため,荷風の日記 断腸亭日乗 から引用するかたちで,この方の人となりをまとめてみます。なお,断腸亭は荷風の別号,日乗とは日記のことです。


永井荷風,本名 永井 壮吉(ながい そうきち,旧字体:壯吉)。(1879-1959,享年七十九)。


永井荷風は,一体何を変えているんだか,どこまでが本気で,どこからが冗談か分らない ” 奇人” です。文化勲章を受章した時(1952),動いている荷風をテレビではじめて見ました。” これからは,浅草に行かず,仕事に励む” とかなんとかいっていたけれど,意地悪爺さんという感じだったね。


荷風は,自分でもそのことがわかっているんだよ。


40歳の大正七(1918)年 の日記に,自他共に認める 偏屈な自分 を,荷風自身が次のように語っています。


正月七日。山鳩飛来りて庭を歩む。毎年厳冬の頃に至るや山鳩必ただ一羽わが家の庭に来るなり。 ・・・・・ 

されどわれはこの鳥の来るを見れば,殊更にさびしき今の身の上,訳もなく唯なつかしき心地して,在時は障子細目に引あけ飽かず打眺ることもあり。

在時は暮方の寒き庭に下り立ちて米粒麺麭の屑など投げ与ふることあれど決して人に馴れず,わが姿を見るや,忽羽音鋭く飛去るなり。

世の常の鳩には似ずその性偏屈にて離れ孤立することを好むものと覚し。 何ぞ我が生涯に似たる の甚しきや。


荷風は, 多種多様な病気 を抱えていたようです。それを,少々大げさに日記の方方に書いています。


大正九年5月七日。

霖雨歇まず。 腹痛あり。 懐炉を抱く。 ・・・・・


大正九年五月廿三日。

この日麻布に転居す。母上下女一人をつれ手つだひに来らる。麻布新築の家ペンキ塗りにて一見事務所の如し。名づけて 偏奇館 といふ。


大正九年五月廿四日。

転居のため立働きし故か, 痔いたみて 堪がたし。谷泉病院遠からざれば赴きて治療を乞ふ。帰来りて臥す。・・・・・


大正九年五月廿六日。


毎朝谷氏の病院に赴く。平生 百病 断えざるの身,更にまたこの病 を得たり。



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荷風と,母が同居している弟・威三郎の仲は最悪の状況にありました。その顛末は,昭和十二年四月三十日 の日記に詳述されています。


昭和十二年三月十八日。晴。

・・・・・ 家に帰ると郁太郎より手紙にて,大久保の母上重病の由を報ず。母上方には威三郎の家族同居なすを以て見舞にゆくことを欲せず。 ・・・・・ 

余は余丁町 よちょうまち の来青閣を去る時その日を以て母上の忌日 きにち 思ひなせしなり。当時威三郎の取りし態度のいかなるかを知るもの今は唯酒井晴次一人のみなるべし。酒井も久しく消息なければ生死のほども定かならず。


昭和十二年九月九日。

哺下雷鳴り雨来る。酒井晴次来り母上昨夕六時こと切れたまひし由を告ぐ。酒井は余と威三郎との関係を知るものなれば唯事の次第を報告に来りしのみなり。

葬式は余を除き威三郎一家にてこれを執行するといふ。 ・・・・・

雑司ヶ谷墓地永井氏塋域 えいいき に葬す。享年七十六。追悼。

泣きあかす夜は来にけり秋の雨。秋風の今年は母を奪ひけり。



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荷風は 浅草病 に感染したような人物です。浅草公園六区は,荷風にとっての安息所だったようです。あとで出てきますが,例えば,昭和17年の日記 (七月廿一日) に,

浅草はいかなる世にも面白をかしきところなり。

と書いています。


例えば,昭和二十六年 の日記を見ると,


正月初二。晴。 

夜浅草。に始まって,正月初四までの 「甚寒しの」 2日間を飛ばして,初七,初九,十一日,十七日,十八日,二十日,廿四日,廿五日, ・・・・・ 雨の日,体調不良の日以外は 浅草詣 です。

文化勲章受章 の後も,浅草詣は全く止んでいません。

私は,荷風の書く小説は,好きになれないけど,随筆は天下一品ですね。とくに,三十八歳から七十九歳 (死の前日)まで,四十二年にわたって,ほとんど欠けることなく書き続けた日記 【断腸亭日乗】 は素晴らしい。何しろ,文章がすごいですよ。 【断腸亭日乗】 は,今に至るも大勢の読者の興味を惹きつけているのも理解できます。


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荷風全集(岩波書店)に,全編が収録されています。断腸亭日乗 第一巻 - 第六巻 (1993-1995)。日記原本。校異,脚注などを含めて,断腸亭日乗の完全版といえるものです。現在,岩波書店が新版を刊行中です。

新版 断腸亭日乗 第一巻 - 第七巻(岩波書店,2001-2002)。

摘録 断腸亭日乗(上),(下)(ワイド版 岩波文庫 21,22,1991)。

永井荷風日記 第一巻 - 第七巻 (東都書房,1958-1959)。[生前の公刊本 中央公論社版の復刻]


どれも,私の書庫に並べてあります。時々,ふと,どれか一冊を引き出して,パラパラと目を通すんだ。


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面白いから読んでご覧といっても,大長編ですから,すぐに投げ出されると,もったいないという気がします。


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世の中には,” 永井教 ” の信者が少なくありません。例えば,

大野茂男 『荷風日記研究』 (笠間書院,1976) [全 491ページ]


などは,すごいですよ。

神田・神保町の古書店をのぞきながら,ふらふら歩いていて,たまたま一誠堂でこの本を見つけて,直ちに購入しました。

本のあとがきに,大野茂男は次のように書いています。


私と荷風との結縁は,一編の卒業論文にはじまる。 ・・・・・ 

マニアを読者にもつ作者が荷風に限ったことではないのはもちろんだが,荷風には,無声の,しかも他の作者には余り縁のない素人(つまり文学青年や文学老年でない)のマニアの多いことを痛感する。

「無声」でも「素人」でもないが,昭和三十四年六月以降今日に至るまで,「荷風研究」という機関誌を,年四回律儀に,しかも損得の計算を離れて,百数十名の読者に送り続けている種田氏の如きは,マニアの域も越えて, 荷風宗の殉教者 と言えるだろう。

岩波書店版と中央公論社版の日乗を校合し,また岩波版の日乗に現れた人名の索引を作製した私なども,他人から見たら救い難いマニアであろう。



私は荷風教の信者でも,殉教者でもないつもりだけど,種田,大野両氏のことは十分に理解できる気がします。何事によらず,一つのことに食いついて突進する人は好ましく思うからです。



つづく

by yojiarata | 2015-12-23 22:30 | Comments(0)

人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗を読む  緒言




このブログを執筆した動機


断腸亭日乗 について知るには,岩波文庫 『摘録 断腸亭日乗(上),(下)』 を読むのが手っ取り早いと思います。私のような高齢者のために,『ワイド版 岩波文庫 21,22 (1991)』 まで用意されています。

摘録とは, 岩波書店 広辞苑第六版によれば, 要点をかいつまんでしるすこと。また,その記録。 とあります。要するに,「摘録 断腸亭日乗(上),(下)」 は断腸亭日乗の短縮版です。

どの部分を,どう短縮するかは,この「摘録」の場合には,編者の磯田光一 (1931-1987,摘録作業がすべて終わったあと,急逝されました。)の 哲学 によります。磯田さんの方針は,結果において,日記の日付によって,収録する記事と収録しない記事が分れています。

このブログを書いた私の意図 は,どこまでが本気で,どこからが冗談かの区別がつかない永井荷風という名の不思議な人物についてもっと知りたいと考えたからです。

私がそう考えはじめてから, 20年以上 が経過しました。


これまでの作業


荷風の書く日記の ”生” の文章の面白さを楽しむために,日記のあらゆる部分を目にすることのできる書籍を,これまでにすべて集めました。このブログの 巻の一 の末尾に写真を御覧ください。

同じ日付の日記の文全体ではなく,荷風の特徴がよく出ているなと私が個人的に感じた個所を抜き書きしました。 その意味では,このブログは,断腸亭日乗の単なる短縮版ではありません。良くも悪くも,私の一存で,断腸亭日乗を切り刻んだものです。その結果は,私の責任であることは,言うまでもありません。


今回のブログ 【第一集】 では,太平洋戦争勃発の昭和16年から,戦争終結後の昭和21年の間に書かれた日記を対象にします。

最初にこの時期を取り上げるのは,過去百年の日本の歴史のなかで,良くも悪くも,わが日本の過去,現在,未来に係わる様々な出来事が凝縮していると考えたからです。

この時期が日記にどのように書かれているかを読むことによって,荷風なる人物の ”表と裏” を読み取れる部分が少なくありません。時間と共に消えて行く個々の出来事を,丹念に書き残した荷風の日記は,あの頃の見事な ”ルポルタージュ” として価値の高いものだと思います。

私自身は,化学を専攻する理科人間です。しかし,断腸亭日乗を繰返し読んでいるうちに,日々変化していく事柄を捉える荷風の ” まなこ ” は,自然科学者のそれに通じるものがあるという印象を,私自身は強く持つようになりました。


急逝した磯田光一にかわって「摘録」 の解説を執筆した竹盛天雄は,〖 濹東綺譚 〗の末尾に,次の記述があることを指摘しています。


草稿の裏にはなお数行の余白がある。筆の行くまま,詩だか散文だか訳のわからぬものを書してこの夜の愁 うれい を慰めよう。


     ・・・・・ 

     宿かる夢も

     結ぶにひまなき晩秋 おそあき

     たそがれ迫る庭の隅

     ・・・・・


     丙子 ひのえね 十月卅日脱稿


この” 詩 ” が書かれたのは,1935年(昭和10年)。この詩の一片は,荷風が既に先の先を見通しているようで,恐ろしい気がします。

女好きの荷風のことですから,とくに若い頃の日記には,きわどいことも山のように書いてありますが,このブログでは,その部分は意図的に避け,良くも悪くも荷風という人物が鮮明に映し出されていると私が感じた部分を抜き書きします。


太平洋戦争に関する荷風の意見は,鋭くかつ正鵠を得ています。そして,現在にも完全に通じる視点です。

また,日記の筆の端端に,荷風の剽軽な面が垣間見えます。思わず苦笑いしたくなるところが少なくありません。


*



蛇足ですが,現在我々が実際に読むことのできる日記の文章は,もともとは,毛筆で書かれ,何度も消したり,追加されたりして残された紙の束 ( 雁皮紙帳面, 昭和20年十月卅一日に記載があります。) をもとに,多くの専門家の手によって活字化された労作です。その結果が現在の岩波書店版  『荷風全集』 に全編収録,『新版 断腸亭日乗』全七巻,『摘録 断腸亭日乗』 (上,下) です。なお,『摘録』 は岩波文庫に入っています。

ブログの作成に当たっては, 『新版 断腸亭日乗』 全七巻 を用いました。

文章は原文のままですが,段落を多く入れて,読みやすくしました。必要と思う場合には,振り仮名を記入しました。

なお,全七巻を購入した人には, おまけ で『断腸亭日乗』 地図が付いています。荷風が,どこをどうふらついたのかに興味のある読者のために,地図,店の名前などを詳細に集めた編集陣の力作です。

ブログに載せた画はすべて,荷風自身の筆によるものです。少々誇張があるものの,当時の風俗が巧く表現されていて大いに興味があります。もっとも,女性の読者は,もう少し何とかしてほしかったと仰るかもしれません。

昭和七年二月廿一日の日記に載せられている荷風の自画像は,なかなか男前に描かれています。



表記について



● 三月初七

三月七日の意


● 念

「廿」(二十) の代用。 「念八日」 は 廿(二十)八日 の意 [岩波国語辞典第六版]。


● 私自身のコメント

【・・・・・】  のように表示する。


● 断腸亭日乗 の文中,私が読者の注意を喚起したいと考える部分 (いわばキーワード)

赤のゴシック で表示する。




つづく

by yojiarata | 2015-12-23 22:29 | Comments(0)

人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗を読む  巻の二




昭和16年



正月一日。旧十二月四日。


風なく晴れてあたたかなり。炭もガスも乏しければ 湯婆子 ゆたんぽ を抱き寝床の中に一日をおくりぬ。 ・・・・・

思へば四畳半の女中部屋に自炊のくらしをなしてより早くも四年の歳月を過ごしたり。

始は物好きにてなせし事なれど去年の秋ごろより 軍人政府の専横 一層甚しく世の中遂に一変せし今日になりて見れば,むさくるしくまた不便なる自炊の生活その折々の感慨に適応し今はなかなか改めがたきまで嬉しき心地のせらるる事多くなり行けり。 ・・・・・

かくのごとき心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能はず。人の命のあるかぎり 自由 は滅びざるなり。


一月十日。

陰。 ・・・・・ 深夜 遺書 をしたためて従妹杵屋五叟の許におくる。左の如し。 ・・・・・

【 荷風はこの時,数えで63歳。この身体の状態では,いつ死ぬか知れない,いつ死んでもおかしくないと,何度となく書いています。


昭和2年十月廿三日の日記に,次のように書いています。


余本年八月軽井沢に遊び山中の冷気に犯されてより健康何と云ふことなく平生の如くならず。余命いくばくもなきやうなる心地するなり。来年は五十歳なり。願くば今一年いきのびたし。四十九といふは五十年となす方勘定よろしければなり。 ・・・・・


口癖というか,冗談というか,のべつ幕無しです。ただ,遺書の文章全体を日記に書き残したのはこの時だけです。】



一月十五日。

晴。晩間銀座竹葉亭に飰す。米不足なりとて芋をまぜたる飯をどんぶりに盛りて出す。 寄宿舎の食堂 の如し。


【 突如,変なことを思い出しました。

戦争中,私が国民学校の頃に流行った戯歌の断片です。曰く

 イヤジャアリマセンカ カワニシハ

カネノチャワンニ タケノハシ

ホトケサマデモ アルマイニ

イチゼンメシトハ ナサケナイ 】



一月廿一日。

晴。午後杵屋五叟来話。 象牙の三味線バチ 去年来より製造禁止となりたれば現在の物なくなれえば其後は樫の木のバチより外にひくものなくなると云ふ。又 ピアノの製造並に販売 も既に禁止されたりと云ふ。 ・・・・・ 

三越にてメリヤス肌着を購はむとするに品不足にて上下揃はず。 ・・・・・


一月廿五日。

・・・・・ 人の噂にこの頃東京市中いづこの家にてもに すくなく,一度に五升より多くは売らぬゆゑ人数多き家にては毎日のやうに米屋に米買ひに行く由なり。

パン もまた朝の中一,二時間にていづこの店も売切れとなり, 饂飩 うどん も同じく手に入りがたしといふ。政府はこの 窮状 にもかかはらず独逸の手先をなり米国と砲火を交へんとす。笑うべくまた憂ふべきなり。 ・・・・・


一月廿六日。

・・・・・ 午後町会の爺会費を集めに来りて言う。三月より白米も 切符制 となるはずにて目下その支度中なり。労働者は一日一人につき二合九勺普通の人は二合半。女は二合の割当なるべしと。むかし捨扶持二合半と言ひしことも思合はされて哀れなり。 ・・・・・


一月廿七日。

・・・・・ 今日は陰暦の正月元日なれば急ぎて 浅草金龍山 に至る。 ・・・・・ 

今日も既に四時過となりしが夕陽あきらかにして, 鳩の豆 売る婆四,五人,露台をかたづけ初めしのみ。豆も米もここは不自由せざるが如く鳩は皆胸をふくらませ鳴きつつ塒 ねぐら につかむとせり。国民は飢るとも鳩の餌に飽けるは大慈大悲の惠なるべし。 ・・・・・


一月念八。

夕方物買ひにと銀座に行くに春近き冬の空猶暮れやらず尾張町あたりの人出祭日の午後の如し。 街頭宣伝の立札 このごろは南進とやら太平洋政策とやら言ふ文字を用ひ出したり。支那は思ふやうに行はぬ故今度は馬来人を征伏せむとする心ならんか。

彼方をあらし此方をかぢり台処中あらし廻る 老鼠の悪戯 にも似たらずや。


二月初四。

立春 晴れてよき日なり。薄暮 浅草 に往きオペラ館踊子らと森永に夕餉を食す。楽屋に至るに朝鮮の踊子一座ありて日本の流行唄をうたふ。声がらに一種の哀愁あり。

朝鮮語にて朝鮮の民謡うたはせなば嘸 ぞよかるべしと思ひてその由を告げしに,公開の場所にて朝鮮語を用ひまた民謡を歌ふことは厳禁せられゐると荅 こた へさして憤慨する様子もなし。

余は言ひがたき 悲痛の感 に打たれざるを得ざりき。

彼国の王は東京に幽閉せられて再びその国にかへるの機会なく,その国民は祖先伝来の言語歌謡を禁止せらる。悲しむべきの限りにあらずや。

余は日本人の海外発展に対して歓喜の情を催すこと能はず。むしろ 嫌悪と恐怖 とを感じてやまざるなり。

余かって米国にありし時米国人はキューバ島の民のその国の言語を使用しその民謡を歌ふことを禁ぜざりし事を聞きぬ。余は自由の国に永遠の勝利と光栄とのあらむことを願ふものなり。


三月初三。

晴れて暖なり。午後鹿沼町の女突然尋ね来る。 ・・・・・ 只今は蠣殻町の待合 x x という家に住み込み,当分ここにてかぜぐつもりなりと言う。 ・・・・・ 

この待合の客筋には 警視庁特高課 の重立ちし役人,また 翼賛会の大立者 その名は比して言はず あれば手入れの心配は決してなしと語れり。 新体制の腐敗 早くも帝都の裏面にまで瀰漫 びまん せしなり。 ・・・・・


三月初八。  

・・・・・ 夜谷町にてタオルを買はむとするに 配給の切符 なければ売らずと言へり。


三月廿九日。  

・・・・・ 町の噂に新内節師匠は去年御法度この方門口へ 師匠の看板 かけることを禁ぜられたりといふ。歌沢節も芝派寅派のさべつなくこれも御法度の由。されば,小唄も同様なるべく,薗八節は言ふまでもなき事なるべし。

或人は江戸俗曲の絶滅することを悲しめどもこは如何ともする事能はざるものならむ。新政府の法令なしとするも 江戸時代風雅の声曲 は今日の衆俗には喜ばざるものならず。 早晩絶滅 すべきものなればなり。

余が著述の如きもこれをようするに同じ運命に陥るべきものなるべし。


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永井荷風 『江戸芸術論』 (岩波文庫,2000)


 【 冒頭の 「浮世絵の鑑賞」 には,荷風の持論が明快に綴られています。 】 


【 我邦 わがくに 現代における西洋文明模倣の状況を窺い うかがひ 見るに,都市の改築を始めとして家屋什器 じゅうき 庭園衣服に到るまで時代の趣味一般の趨勢に徴して,転 うた た余をして日本文華の末路を悲しましむるものあり。 ・・・・・ 】


四月初四。

・・・・・ 新橋橋上のビラにもう一押だ我慢しろ 南進だ南進だ とあり。車夫の喧嘩の如し。日本語の下賤今は矯正するに道なし。


四月十三日 日曜日。

・・・・・ 銀座食堂は平素客少ければ定刻まで米飯を出す。牛肉屋松喜も通りかゞりに様子を見れば米に飯を出すが如し。


四月念二。

くもりて暗きこと秋のごとし。・・・・・ 或人よりたのまれし画賛二首を書す。

            椿の画に

       朝がほにまさるあはれは咲くままの

          すがたもかへず散るつばきかな



            人形の画に

       物言はぬ土人形のゑがほこそ

            世わたる道のしるべなるらめ

     

四月念四。

谷町通りの靴屋にて靴の直しをたのみしに 皮も配給 になり来月半頃まで皮なしと言へり。 ・・・・・


四月念六。

・・・・・ ある人の談をきくに官吏にて 赤化の疑 あるもの数十名捕へられたり。其中に高等官多しとなり。政府はこの程魯国と和親条約を結びし時突然この疑獄起る。世情混沌五里霧中に在るが如し。


四月三十日。

午後土州橋より亀井戸に至り菅廟に賽す。鳥居前の茶店皆店を閉め葛餅団子其他悉く 品切の札 を下げたるり。藤棚下の掛茶屋にては怪しげなる蜜豆サイダーを売りゐたり。 ・・・・・

五月初八。

・・・・・

[欄外朱書] 毎月八ノ日午牛豚鶏ヲ売ルコト料理店ニテ肉類ヲ出スコトヲ禁ズ


五月十日。

・・・・・ 夜浅草に飰してオペラ館楽屋を訪ふ。踊子大部屋に左の如き紙片落ちてあり。滑稽なればこゝに転写して 笑を後世に伝る よすがとなす。

拝啓各位殿愈々御清祥の程賀奉ります。さて時局の進展は益藝能文化によって戦時国民生活を測衛するの急なるを感じます。吾等はこゝに時局認識をお互に徹底し職域奉公の誠を効す目的を以て今回文部省社会教育局長及聖戦遂行に日夜砕心せらるゝ陸海軍当局要路の方々依り御講話拝聴の会を左記次第にて開催致す事と相成ましたから是非共御来聴下さる様御通知申上げます。

                                                      藝能文化聯盟会長

                                                      伯爵 酒井忠正


東京興行者協会技藝者各団体

会員各位

藝能翼賛講演会次第

・・・・・

[欄外朱書] 測衛トハ見慣レヌ語ナリ何人ノ作リシモノニヤ



五月十一日 日曜日。

・・・・・ 頃日耳にしたる市中の風聞左の如し。

角力取 の家にはいづこも精米無尽蔵なり。南京米など食ふものは一人もなし。精白米は軍人の贔負客より貰ふなりと云。


五月十五日。

・・・・・

[欄外朱筆] 陰茎切取りの淫婦阿部お定満期出獄


五月十九日。

・・・・・ 土州橋医院事務員のはなしに病院にて試験に用る兎は其死骸を一手に買集むる者ありて,やがては 露店の焼鳥 となるとの事なれば用心せらるべしと云。


五月念三。

・・・・・ 去月来食慾頓に減じ終日唯睡眠を催すのみ。土州橋に至り診察を請ふ。外米の被害なるべしとて 電気治療 をなす。新政の害毒遂に余が健康をおびやかすに至れり。可恐可恐。


六月初三。

・・・・・ 夜芝口の金兵衛に夕飯を喫す。飲食店夜十一時かぎり燈を消さゞるところにはこの頃巡査入り来りて 客を抅引 する由。 ・・・・・


六月八日 日曜日。

晴。晡下銀座を過るにこの日は牛肉屋休なれば天ぷら屋天国その他蕎麦屋の店口に散歩の家族男女事務員らしきもの列をなして押合へるを見る。全く餓鬼道の光景なり。

 
六月十三日。

・・・・・

[欄外朱書] 去年コノ日巴里 独人ノ侵畧 ニ遭フ


六月十五日 日曜日。

・・・・・ 日支今回の戦争は日本軍の 張作霖暗殺及び満州侵畧 に始まる。

日本軍は暴支膺懲 ぼうしようちょう と称して支那の領土を侵畧し始めしが,長期戦争に窮し果て俄に名目を変じて 聖戦 と称する無意味の語を用ひ出したり。

欧州戦乱以来英軍振はざるに乗し,日本政府は独伊の旗下に随従し 南洋進出 を企画するに至れるなり。然れどもこれは無知の軍人ら及獰悪なる壮士らの企るところにして一般人民のよろこぶところに非らず。国民一般の政府の命令に服従して南京米を喰ひて不平を言はざるは 恐怖の結果 なり。

・・・・・ 今日にては忠孝を看板にし新政府の気に入るやうにして一儲けなさむと焦慮するがためなり。

元来日本人には理想なく強きものに従ひその日を気楽に送ることを第一となすなり。 今回の政治革新も戊辰のかくめいも一般の人民に取りては何らの差別こなし欧羅巴の天地に戦争歇む暁には日本の社会状態もまた自ら変転すべし。

今日は将来を予言すべき時にあらず。


六月念二 日曜日。


・・・・・ 号外売 独露魯開戦 を報ず。 ・・・・・


七月初五。

・・・・・ 燈下徒然のあまり 近年世変の次第 を左に録して備忘となす。

一 毎月一日及七日奉公日とやら称して酒煙草を売る事を禁じ,待合料理屋を休みとなせしは昭和十四年七月七日を以て始めとなす。其の原因は戦地より帰来りし仕官発狂し東海道列車中にて剣を抜き同乗せし車内の旅客を斬りし事あり。

又浅草公園にて兵卒酒に酔ひて通行人を傷けし事ありし為,軍人への申訳にかくの如き禁欲日を設くるに至りしなり。以後この日は藝者と女給の休養日となり,・・・・・

一 燈火管制という事は昭和八年七月より始まる。

一 煙草二割値上となる。ヒカリ十一銭なりしを十三銭となす。

一 十二月一日より市中飲食店半搗米を炊きて客に出す。

一 舶来の酒化粧品殆どなくなる 十二月中

一 市中自動車夜十一時限りとなる。

一 昭和十五年四月二日よりカフエ-飲食店夜十一時限り。遊郭及玉の井亀戸は十二時までとなる。

一 八月二日より砂糖マッチ切符制となる。七月六日奢侈品制造並に販売禁止の令出づ。

一 八月二日より市中飲食店夕飯は夕五時より八時頃迄。昼は十一時より二時頃迄。この時間以外には米飯を出さず。九月一日より酒は夕方ばかりなり。待合玉の井吉原あたる,夕五時より昼遊禁止となる。

一 十月より自動車は芝居の近処また盛場浅草公園付近にて客の乗降を禁ず。

一 十一月かぎり市中舞踏場閉止。


[欄外墨書]  一円タク 遠方に往かず夜十二時過客を断るやうになりしは十四年三四月頃よりなり


七月十六日。

陰。数日来市中に野菜果実なく,豆腐もまた品切にて,市民難渋する由。 ・・・・ 牛肉既になし。 この次は何がなくなるにや。
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七月十七日。

・・・・・ 連日の雨と冷気とに世間ひっそりとして何の活気もなし。新聞に 近衛内閣総辞職 の記事出でたれど誰一人その噂するものなし。


七月十八日。

今朝の新聞紙に 近衛一人残りて他の閣僚更迭 するに過ざる由見ゆ。初より計画したる 八百長 なるが如し。そはともかく以後軍部の専横益甚しく世間一層暗鬱に陥るなるべし。 ・・・・・

余はブロワの知己朋友が戦場に行きて帰り来らざる多きを見るにつけ,余が孤独の身には親友と称すべきものもなく応集せられて骨を異郷の土に埋めしものもなきを思ひて,自ら幸なりとせざるべからず。

余はつくづく老後家庭なく朋友なく妻子なきことを喜ざるべからず。模倣ナチス政治の如きは老後の今日余の身には甚しく痛痒を感ぜしむることなし。 ・・・・・


七月廿四日。

晴れて涼し。 ・・・・・ 下谷外神田辺の民家には昨今出征兵士宿泊す。いづれも冬支度なれば南洋に行くにはあらず 蒙古か西伯利亞 しべりあ に送らるるならんと云ふ. ・・・・・


七月廿五日。

くもりて蒸暑し。・・・・・ この夜或人のはなしをきくに 日本軍は既に仏領印度と蘭領印度の二か所に侵入せり。 

・・・・・ この風説果して事実なりとすれば 日本軍の為す所は欧州の戦乱に乗じたる 火事場泥棒 に異らず。 人の弱みにつけ込んで私欲を逞しくするものにして 仁愛の心 全くなきものなり。

かくの如き無慈悲の行動はやがて 日本国内の各個人の性行に影響を及す こと尠からざるべし。暗に 強盗 をよしと教るがごときものなればなり。 ・・・・・




つづく



















































































by yojiarata | 2015-12-23 22:28 | Comments(0)

人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗を読む  巻の三




昭和16年 つづき




八月十日 日曜日。


細雨烟の如し。秋海棠 しゅうかいどう の花満開なり。 東京市教育界疑獄 の噂高し。・・・・・ 当然あるべきはずなれど秘して新聞にはかかせぬなるべし。燈刻大雨雷鳴。


八月念九。

薄く曇りて風涼し。深夜初めて こおろぎ の鳴くをきく。


八月卅一日。

微雨。秋冷窓紗を侵す。昨来虫声俄に多くなりぬ。日曜日。


九月初一 旧七月十日。

晴また陰。写真フィルム品切。煙草もこの二,三にち品切なり。町の噂に近き中 民家にて使用する 鉄銅器 を召上げらるるとて,鉄瓶釜の如きものは今の中古道具屋に売るもの尠からぬ由なり.


刻烟草 きざみタバコ のむ烟管 キセル も隠さねばならぬ世とはなれり。

[欄外朱書] 市中ノタキシ車数 半分位ニナルトイフ。


九月初三。

晴。 日米開戦 の噂しきりなり。 新聞紙上の雑説殊に陸軍情報局とやらの暴論の如き馬鹿々々しくて読むに堪えず。


九月七日 日曜日。

秋風涼爽。銀座夜歩。街頭の集会広告にこの頃は新に 殉国精神 なる文字を用出したり。愛国だの御奉公だの御国のためなぞでは一向きき目なかりし故ならん歟

人民悉く殉死せば のこるものは老人と女のみ となるべし。呵々 かか


十月十八日。


・・・・・ この日内閣変りて人心更に恟々たり。日米開戦の噂益盛なり。


十月卅一日。


夜八時頃浅草より帰る時,地下鉄道の乗客中に特種の風俗をなしたる美人を見たり。年廿歳ばかり。丸顔にて色白くきめ細にして額広く鼻低からず,黒目勝の眼涼しく少しく剣あり。 ・・・・・

着物半纏ともに筒袖なり。着物のきこなしより髪の撫付様凡て手綺麗にて洗練せられたる風采,今日街上にて見る婦女子の比にあらず。 おぼえず見取るゝばかりなり。

琉球の女にあらずばアイヌの美人ならむ歟。 ・・・・・

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十一月八日。


世の噂をきくに本年九月以来軍人政府は迷信打破と称し 太陰暦の印刷を禁じ 酉の市草市などの事を新聞紙に記載することをも禁じたる由。今夜十二時より一の酉なれど新聞には出ず。十月中日本橋 べったら市 のことも新聞紙は一斉に記載せざりしといふ。


十二月初六。

・・・・・  海苔屋葉茶乾物屋 の店先にはいづこも買手行列をなせり。


十二月初七。

この冬は 瓦斯暖炉 も使用すること能はずなりたれば,火鉢あんか置炬燵など一ツづつ物置の奥より取出され四畳半の一間むかしめきし冬支度漸くととのひ来りぬ。・・・・・

     ながらへてまた見る火桶二十年


十二月八日。

褥中小説 『浮沈 うきしずみ 』 第一回起草。 ・・・・・  日米開戦 の号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中 燈火管制 となる。街頭商店の灯は追々に消え行きしが電車自動車は灯を消さず。省線 しょうせん は如何にや。・・・・


十二月九日。

曇りて午後より雨。 開戦の号外 出でてより近鄰物静になり。来訪者もなければ半日心やすく午睡することを得たり

夜小説執筆。雨声瀟々しょうしょう たり。 


十二月十一日。

晴。後に陰。日米開戦以来世の中火の消えたるやうに物静なり。浅草辺の様子 いかがならむと午後に往きて見る。

六区の人出平日と変わりなくオペラ館踊子の雑談また平日の如く,不平もなく感激もなく無事平安なり。

余が如き不平家の眼より見れば浅草の人たちは尭舜 ぎょうしゅん の民の如し。仲店にて食料品をあがない昏暮に帰る。


十二月十二日。

開戦布告と共に街上電車その他到処に掲示せられし広告文を見るに, 屠れ英米我らの敵だ進め一億火の玉だ とあり。 ・・・・・


【 ” 一億火の玉だ ” なんて聞くと,我らが総理が,新しい内閣で作った 「一億担当大臣」 ・・ とかいう,訳の分からない省庁と大臣のことを思い出してしまうよ。馬鹿馬鹿しくも滑稽極まりない話だよね。】


十二月廿九日。

晴れて寒し。午後日本橋三井銀行に至るに支払口に 人押合ひ たり。丸の内三菱銀行も同じ景況なり。如何なる故にや。

町の辻々には戦争だ年末年始虚礼廃止とや書きたる立札あれど銀座通の露店には新年ならでは用いざるさまざまの物多く並べられたり。も組の横町にも注連飾 しめかざり 売るものあり。花屋には輪柳 福寿草 も見えたり。 ・・・・・


十二月卅一日。晴。

厳寒昨日の如し。夜浅草に至り物買ひて後金兵衛に夕餉を喫す。

電車終夜運転 のはずなりしに今日に至り俄に中止の由,貼紙あり。何の故なるを知らず。朝令暮改の世の中笑ふべき事のみなり。

過日は唱歌蛍の光は英国の民謡なれば以後禁止の由言伝へられしがこれも忽改められ従前通りとなれり。

帰宅後執筆。寒月窓を照す。寝に就かむとする時机上の時計を見るに十二時五分を過ぎたるばかりなれど 除夜の鐘の鳴るをきかず。これまた戦乱のためなるか。恐るべし恐るべし。




つづく

by yojiarata | 2015-12-23 22:27 | Comments(0)

人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗 を読む  巻の四



昭和17年


正月元日。

旧暦のこよみ を売ることを禁ぜられたれば本年より我等は大陰暦の晦朔 かいさく 四季の節を知ること能はずなりぬ。昨夜月稍円きを見たれば今日は十一月ならず十二月の十三四日なるべきか。


一月初三。

・・・・・ 午後となり組の老婆来り 大晦日夜半より燈火禁止。当分正月中は街燈もつけられまじと云う。 ・・・・・


一月初五。

晴。寒気忍びがたし。近鄰の人のはなしに 塩醤油 とも去年の暮より品切となりいつ酒屋の店へ来るやら望なし。 砂糖 も十日過にならねば配給されざる由。いよいよ 戦勝って食うものなき世 となり行けり。


一月十九日。

晴。夜金兵衛に飰す。人の話に玉の井亀戸の銘酒屋 めいしゅや にてはお客に一円の少額債券を買わせる由。これはこの色町にては芸者娼妓の如く揚代に遊興税を附加すること能はざるを以て政府はその代りとして一円債券を売付けることにせしなりといふ。 窮状憫むべし。


一月廿一日。

晴。・・・・・  衣類の制限 一人前若干の事いよいよ決定せられ来月一日までは靴足袋襯衣 しゃつ ふんどしなども買ふこと能はざる由なり。


一月廿二日。

晴。・・・・・ 白木屋前の露店に 人々行列 をつくりたれば何かと見るに軽焼煎餅を買はむとするなり。

市中の呉服店洋品店 一軒残らず戸を閉めたり。靴帽子屋は例外なりとて平日通り店をあけをれり。


一月廿三日。

・・・・・  塵紙石鹸歯磨配給切符制 になるべしとの風説あり。市中よりこれらの品昨夜中に消失せたりといふ。塵紙懐紙なくなり銭湯休日多くなる。戦勝国婦女子の不潔なること察すべきなり。


一月廿六日。

晴れて暖なり。昏暮土州橋医院に行く。院長の曰くこの頃食料品不足のため ヴィタミン欠乏し 病に抵抗する力薄弱となりしもの甚多し。補充の注射をなして万一に備ふるべしと。帰途浅草に至りて飰す。 ・・・・・


一月廿九日

晴。町会より 衣類請求切符 を送り来る。  ・・・・・


二月初二。

・・・・・ 金兵衛にて歌川氏より羊羹を貰ふ。甘き物くれる人ほどありがたきはなし。過る日には熱海大洋館の主人よりココアと砂糖を貰ひぬ。このよろこびも長く忘れまじ。

     あじきなき浮世の風の吹く宵は

        人のなさけにしぼる袖かな

[欄外墨書] 夕風と人の恵みの肌さむく身にしむ秋ぞかなしかりける


二月初三。

晴後に陰。 ・・・・・ この夜 節分 なりといへどもまくべき豆なければ鬼は外には行まじ。

     豆まきといへど豆なき家の内


二月初四。

立春くもりて月おぼろなり。 ・・・・・

近日市中飲食店の 検挙 行はるべしとの風説あり。金兵衛にては万一の事を気遣ひ馴染の客の外は一切料理酒を売ることをさしひかへをれりと言ふ。


二月十日

同雲暗淡たり。物買ひにと夜浅草に行く。壜詰牛肉大和煮と称して 鯨肉を売る店 多し。 ・・・・・


二月十二日。

・・・・・ 二三日日英戦争のため 株式相場 暴落すと云。


二月廿一日。

・・・・・ 薄暮西銀座の岡崎を訪ひ砂糖及菓子を貰う。帰途庄司理髪店に立寄る。化粧用の油石鹸正月頃より品切の由。この後理髪用の香油なくなる時は日本人は老弱を問はず 刺栗頭 にならざるを得ず。これ 軍国政府の方針 なりと云。


三月初六。

暴暖四五月の如し。薄暮 浅草より玉の井 を歩す。帰宅後執筆暁三時に至る。筆持つ手先も凍らざればなり。


三月十二日。

晴また陰。市中昼の中より酔漢多し。 戦勝第二回祝賀 のためなりといふ。・・・・・


三月十六日。

雨晩に晴る。 ・・・・・ 汁粉餅をおくらる。数日来街上燈火なし。日比谷四辻にて 海軍中将某 自動車にひき殺されたりといふ。或人の夷歌 えびすうた
     
肩で風切ったむくひは夜歩きに

車の砂と消えし玉の緒


四月初一

曇りて風寒し。街上の郵便函に本日より 郵便封書五銭に値上 の貼札あり。四銭になりしも二三年前の事なるに忽にしてまた一銭高くなれり。政府の指定する公停価格の如き何の謂なるや。滑稽至極といふべし。 ・・・・・


四月初四

晴。花落ちて木の芽既に青し。世が世なりせば 木の芽田楽草餅 など食う時節なれど今はその名さへ大方忘れられしが如し。 ・・・・・


四月十八日。

日頃書きつづりしものを整理し表紙をつけて冊子となす。これがために半日を費したり。晡下芝口の金兵衛に至り始めてこの日午後敵国の飛行機来り 弾丸を投下 せし事を知りぬ。

火災の起りしところ早稲田下目黒三河嶋浅草田中町辺なりといふ。歌舞伎座昼間より休業,浅草興行物は夕方六時頃にて打出し夜は休業したりといふ。新聞号外は出ず。


四月十九日 日曜日。

晴。やや暖なり。今日も世間物騒がしき様子なり。 ・・・・・ 

晡下金兵衛に至り人の語るところを聞くに大井町鉄道沿線の工場爆弾にて焼亡,男女職工二,三百人 死したる由。

浅草今戸辺の人家に高射砲の弾丸の破片落来り怪我せし者あり。小松川辺の工場にも敵弾命中して火災にかかりし所ありといいふ。新聞紙は例の如く 沈黙 せるを以て風説徒に紛々たるのみ


四月廿六日 日曜日

晴。庭の杜鶴花 つゝじ 胡蝶花 しやが 満開。ホ苺の白き花郁子の花と共に散りそめたり。


五月初七。

或人のはなしに松竹会社文芸部員小出某その他二,三名,去年より徴兵令にて南洋に送られたる者。その資格は,軍曹にて仕事は紙芝居の筋書をつくるなりといふ。背景は同じく徴発せられし大道具の画工これを描き占領地の住民に見せ 日本国は神国 なることを知らしむなりといふ。この日雨。


五月十三日。

晴。一昨日日本運送船太平丸玄界灘にて 米国潜水艦 に襲はれ沈没し死人八百人あまりに及びし由。新聞には今日には至るも記事なしと云。


五月十八日。

晴。晡下土州橋に至る。診断を請ふに 脚気の疑 ありとて注射をなす。先月来市中に野菜果実殆なく沢庵漬さへ口にすること稀になりたり。脚疾の発せしはこれが為なりと云。世ふけてより雨。


五月廿九日。

・・・・・

[欄外墨筆]  与謝野晶子


六月十一日。

晴。鄰組の人豆腐を持来る。一丁六銭なりと云。牛乳配達夫来り 医師の診断書なき人には牛乳を売らぬこと になりたれば何卒その手続なされたしと言へり。 ・・・・・ 日英開戦以来食料品の欠乏日を追うて甚しくなれるなり。


六月二十日。

晴。午後町会の役員来り わが家防火設備をなさざる事 につき両三日中警察官同行にて重ねて来り,その時の様子にて罰すべしと言ひて去りぬ。この頃町会の役員中古きもの追々去りて新しき者多くなりし由。

そのためこの後は 偏奇館独居の生活 むづかしくなるべき様子なり。いよいよ麻布を去るべき時節到来せしなるべし。 ・・・・・

百貨店松屋三越の 黄銅の手すり 皆取りはづされたり。


六月廿八日 日曜日。

午後雷雨の後空霽る。晩間寺嶋町より千住を歩み浅草公園オペラ館に至る。 館内の金具黄銅の手すり 皆取除かる。道路に敷きたる溝の上の鉄板も土管に似たる焼物に取替へられたり。観音堂のあたりは暗ければ見ず。


七月七日。

晴。 腹痛 やまず午後に至り鳩尾に差込み起り苦痛に堪えず。よろめきつゝ谷町通に至るに幸にタキシ来りし故呼留めてこれに乗り土州橋の病院に至る。注射二針に及びしが苦痛去るべき様子もなし。看護婦に扶けられ階上の病室に入りて臥す。 終夜呻吟。


七月八日。

暁明苦痛初て去る。 ・・・・・ 院長の診断によれば一種の 胃痙攣 なるべし。然らざれば胆石の病なるべしとて排泄物の検査をなす。


七月十五日

半晴。町会の役員来り 防空用古樽金七円,莚一枚四円ヅ丶 を取りに来る。高価驚くべし。 ・・・・・


七月廿一日。

晴。夕飯の後物買はむとて浅草に行く。 ・・・・・ 区役所の入口に日本皇道会とかきし高張提灯を出し 赤尾敏 の名をかゝげたり。入場料二十銭払ひて入る者少からず。

浅草はいかなる世にも面白をかしき所なり。  ・・・・・


七月卅一日。

晴。涼風颯々人皆蘇生の思をなす。晩食後深川散策。今宵は氷ありと見えいづこの氷屋にも人むらがりたり。 氷水一杯十銭 にて其量むかしの半分よりも少し。


八月初五

・・・・・

[欄外朱書] 報知新聞読売ニ合併シ国民ハ都新聞ニ合併セシ由


八月十二日。

点燈禁止の令 出でたりとて街上に燈影なく暗夜の空には飛行機の響頻なり。

夕飯を喫せむとて金兵衛に至るに料理場の男 いづれも妻子あり 年三十四,五  徴兵令 にて二,三日中に軍需工場へ送らるるといふ。


九月初五。

・・・・・ 燈刻食事のため新橋駅を過るに巡査刑事等 不良少年の検挙 をなすを見る。


九月廿日 日曜日。

・・・・・ 噂によれば 化物の見世物怪談及び猫騒動の芝居等禁止 せられし由。


九月廿九日。

晴。十日ほど前より両脚及両腕麻痺して起臥自由ならず歩行する時よろめき勝ちになりぬ。また 燈下に細字 を書くこと困難となれり。

昨日土州橋に至りて診察を請ひしが病状明かならず治療の道なきが如し。 余が生命 もいよいよ終局に近きしなるべし。乱世の生活は幸福にあらず死は救の手なり悲しむに及ばず寧よろこぶべきなり。


十月初一。

くもりて風なし。暮方物買はむとて新橋駅のほとりを過ぐ。 路傍の広告を見るに ・・・・・  陸軍大将宇垣一成民族科学講習会 などいへるもあり。

「欄外朱書」 都国民 の二新聞合併して 東京新聞 と称す。


十月初五。

防空演習 にて崖下の町より人の声物音折々ひ ゞ き来る。 ・・・・・


十月十一日 日曜日。

晴れて風甚冷なり。門外に遊ぶ子供のはなしをきくに今日より 時計の時間 変わりて軍隊風になる由。午後の一時を十三時に二時を十四時などと呼ぶなりといふ。


十一月初二

・・・・・ 弁天山下のベンチに十七八の娘襟付の袷に前掛をしめ雑誌をよみ居るを見る。明治時代の女風俗を其儘見ることを得るは此土地の外にはなかるべし。仲店にて茄子の麹漬を買ふ。

[欄外朱書]  北原白秋 没年五十八


十一月初六。

晴。野菜も 切符 にて買うやうになりぬ。八百屋も町会にて定めたる店の外他の店にては売らぬやうになりぬ。畢竟蔬菜 そさい の欠乏甚しくなりしがためなり。蔬菜は凍固して 南洋占領地 に送るなりといふ。

東京市民の飢餓 も遠きにあらざるべし。


十一月十六日

・・・・・ 空曇りたれど風なければ 浅草 に行く。東橋際の乾物問屋にて葛を買う。百匁壱円八十銭なりといふ。物価の騰貴測り知るべからず。

仲店を過るに人さして雑沓せず 酉の市の熊手 持つひとも多からず。 ・・・・・

地下鉄にて新橋に至り金兵衛に夕餉を喫す。人々の語るをきくに 来十二月より瓦斯風呂焚くこと禁止 せらるゝ由。


十二月初五。

晴。 ・・・・・ 夜金兵衛に飯す。鄰席の酔客の語るを聞くに日本橋通高島屋デパートにて 奢侈禁制品 に入るべき絵葉 えば 模様金銀縫取の呉服物をつくりゐる由,刑事ら探知し厳しく取調べしに,注文先は 東条首相の妻女ら なりとわかり刑事らそのまま手を引込めたりと。


十二月初八

晴。 ・・・・・ 頃日市中街燈を点ぜず。道路暗然たり。横濱港内怪火爆発の事ありしが故なりと云ふ。


十二月廿六日。

晴。当月初よりガス風呂は 医者の診断書 なければ禁止の由に付き昏暮土州橋の病院に至り帰途金兵衛に立寄り夕飯を喫す。 ・・・・・


十二月廿七日 日曜日。

・・・・・ 東武鉄道停車場には日曜日にかぎり近県の 温泉遊山場 行の切符を売らぬ為にや人甚しく雑沓せず。興行町もさほどに騒しからず世の中追々真底より疲労し行くが如し。芝口に飯し月を踏んでかへる。


十二月廿九日

・・・・・ 夜金兵衛に行きて夕飯を喫す。居合す人の語るをきくに新橋上野其他の停車場にては 年末の旅行者を制限し切符を売らず。 之がため地方より上京し居たる者供年内には家に帰ることを得ず困却しつゝありと云。


十二月卅一日。

・・・・・ 余ことし夏の半突然胃痛に苦しみ土州橋病院に入りて腹具合いまだに宜しからざるに当月より配給米に玉蜀黍を混ずるに至り消化ますますわろし。世の噂に 来春より玄米になるとの事 なればわが胃腸の消化力果して能くこれに抵抗することを得るや否や。

余命のほども大方予測することを得るなり。宗詩に世間多事侮長生といふこともあればあまり長いきはしたくなし。

是を今年 除夜の言 となす。



つづく
























































































































by yojiarata | 2015-12-23 22:26 | Comments(0)

人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗 を読む  巻の五



昭和18年


正月一日。

炭を惜しむがため正午になるを待ち起出で台所にて毘炉 こんろ に火をおこす。焚付けは割箸の古きものまたは庭木の枯枝を用ゆ。 暖き日に庭を歩み枯枝を拾ひ集むる事も仙人めきて興味なきに非らず。

毘炉に炭火のおこるを待ち米一合とぎてかしぐなり。惣菜は芋もしくは大根蕪 かぶ のたぐひのみなり。時には町にて買ひし菜漬沢庵漬を食ふこともあり。

されど水にて洗ふがいかにも辛し。

とかくして飯くひ終れば午後となり,室内を掃除して顔洗ふ時はいつか三時を過ぎ,煙草など呑みゐる中 ち 日は傾きて忽ち暗くなるなり。

これ去年十二月以後の生活。 唯生きてゐるといふのみなり。

正月三ヶ日は金兵衛の店も休みなれば今日は配給の餅をやきて夕飯の代りとなせり。 ・・・・・


正月七日。

晴。 ・・・・・ 暮方突然胃に奇異なる痛を覚え気分頓にあしくなりしが須臾にして歇む。之がため食事に出でず床敷きのべて臥す。 ・・・・・


正月八日。

晴。午後土州橋の病院に至り診察を請ふ。昨夜の胃痛は胃酸過多のためなれば甚しく憂ふに及ばざる由なり。河風もさほどに寒からねば箱崎川の岸に沿ひ歩みて新大橋に出づ。

乗合の汽舩にて永代橋に至らむとするに桟橋も札売場も取払はれて跡なし。岸の上に立ちて川下川上を見渡すに曳舩の石炭舩をひき行くのみにしてかの 一銭蒸汽 の形は見えず。こゝに於て此れも時勢のために廃滅せし事を始めて知り得たり。

一銭蒸汽は 明治時代のなつかしき形見 なりしにさてもさても惜しむべき事なり。 ・・・・・


正月十八


晴。

[欄外朱書] 廿五銭の巻烟四十五銭となる。


正月十九日。

晴。午後浅草に行く。坊間流言あり。 侵魯の独逸軍 甚振はず。また北阿遠征の米軍地中海より伊国をおびやかしつつありと。 ・・・・・


正月三十日。

晴。午睡中 突然臍のあたりに痒さ をおぼゑしが夜に至り痒さ全身に渡り顔面も殊に眉毛のあたり手足の指先まで赤くなり悪寒を催すに至れり。されど体温は平常に異らず。曾て覚えしことなき奇病といふべし。夜半に及び痒さ次第に去れり。


二月初三

雨ふる。 電話局よりわが家の電話三月卅一日かぎり取上げべき由通知書来る。 また町会より本年中隔月に百五六十円債券押売の事を申来れり。 和寇の災害 いよいよ身辺に迫り来れり。


二月十三日

片割月漸くまどかになりたれば箪笥町崖下の横町も夜かへる時歩みよくなりぬ。 去年十二月頃より街燈点ぜず 月なき夜は往々石につまづき転ぶことありしなり。


二月十九日。

陰。薄暮綾瀬川堀切辺散策。

     噂のききがき

荏原区馬込あたりにては良家の妻子年廿才より四十歳までのものを駆り出し 落下傘米軍爆撃を防禦する訓練 をなしたる由。その方法は女らめいめいに竹槍をつくりこれを携え米兵落下傘にて地上に降立つとき,竹槍にて米兵の眉間を突く計畧 なりといふ。

軍部より竹槍の教師来り三日間朝十時より午後三時休まず稽古をなしたりといふ。怪我せし女もありし由なり。良家の妻子に槍でつくけいこをさせるとは滑稽至極。 何やら猥褻なる小咄をきくやうなり。


二月廿一日 日曜日。

・・・・・ 舗時五叟来話。共に出でゝ金兵衛に飲む。 炭欠乏して肴を焼く事能はず とて料理は悉く煮たるものばかり。今宵も月よし。


三月初一

晴。 タキシ 夜九時切上。電車 十一時半頃切上となり,世間益暗黒に陥る。待合茶屋勘定税金二十割と云。


三月初三

晴れて風甚寒し。午後土州橋より浅草に行く。露店の古本屋にて 文政天保年間の綴暦十余冊 を獲たり。 ・・・・・


三月初五。

池上辺にては庭木も軈 やが て材木にするため強制的に伐り倒さるゝ虞あるに至れりと云。帰宅後火鉢にて豆を煮ながら花鏡をよむ。 ・・・・・


三月十日

風猶寒し。早朝より飛行機の音轟然たり。今日は市民一般外出の際は男は糞色服にゲートル。女は百姓袴 もんぺ を着用すべき由 其筋より御触 ありし由なり。 ・・・・・


三月十八日。  

晴。ある人の需 もとめ によりて画賛 がさん の発句 ほっく をつくる

    
     山村耕花筆 茄子の画に


家中のすずみどころや勝手口


     自画賛


とんぼうや何を見るとて その目玉

・・・・・

五月雨に雀のぞくや勝手口


三月廿五日。

・・・・・ 午後土州橋に行き薬および診断書を求めてかへる。瓦斯風呂を焚くために 医師の診断書必要 なればなり。


三月卅一日。


・・・・・ 去年中オペラ館の舞台に出でゐたる男の俳優某 徴兵令 にて職工となり 右手の五指 を失ひたるものに逢ふ。兵卒なりせば名誉の負傷者として過分の手当にもありつくべきに工場より解雇せられ甚困窮せりと云。 ・・・・・


四月初七。

・・・・・ 平安堂鳩居堂其他の筆屋にも真書毛筆一本もなきやうになれり。毛筆にすべき羊毛支那より来らざるが為と云。 日本文化滅亡の時 いよいよ迫り来れるなり。

わが家には平安堂の毛筆猶七八本残れり。尚二三年間はこの日記にものかく事を得べし。


四月九日。

鄰家の婆来りて言う。近鄰の噂によれば霊南坂上森村といふ人の屋敷は無理やりに 間貸をなすべきやう政府より命令せられたり。 また市兵衛町長長与男爵の屋敷も遠からず同じ悲運に陥るならん。先生のお家も御用心なさるがよろしからんとの事なり。

兼てより覚悟せしことながら憂悶に堪えず。 ・・・・・

空襲警報この夜解除の報あり。帰途町の灯のあかるきに空も晴れわたりて上弦の月泛出でぬ。帰宅後コレットの小説 『漂泊の女』 をよみて黎明に至る。


四月十四日。

・・・・・ 午後向嶋に行く。 ・・・・・ 帰途また新橋の金兵衛に立寄りて夕餉を食す。

仙台より来りし人のはなしに,塩釜海辺の漁夫沖合にて 米国飛行機また潜水艦 に襲はるるもの甚多し。東京の市場に魚類の乏しきはけだし当前の事ならんと。


四月十六日。


陰。庭を掃き石蕗 つわぶき を移植す。既に蚊柱 かばしら の立つを見る。深夜また雨。

蚊ばしらに夏早く来る庵 いおり かな。


四月十七日

晴。午後土州橋より浅草に行く。オペラ館の踊子等に誘はれ松竹座となり西洋映画館の映画を見る。モスコーの一夜といふ題にてトーキーは仏蘭西語なり。偶然かゝる処にて 仏蘭西語を耳にせしよろこび 譬へむに物なし。


四月二十日

・・・・・ 午後丸の内用事。それより浅草に至る。言問橋の欄干其他 鉄製と見ゆるもの 悉く取はづされたり。日本橋を始め市中の橋梁も皆同じ憂目にあへりと云。隅田公園の花は既に散りたり。


五月十七日。

細雨烟 けむり のごとし。

・・・・・  浅草 に行き帰途芝口の金兵衛に憩ふ。おかみさん配給の玄米を一升壜に入れて竹の棒にて搗 きゐたり。一時間あまりかくする時は精白米になるといへり。


【 『荷風全集』 第二十五巻,「五月念三」の項に,

顔を洗う石鹸もなくなり洗濯用石鹸のみとなりしため取分け女供はこまり果て糠を取るため玄米を壜に入れ棒にて搗くもの益々多くなりしと云一升の玄米四五十分にて白くなるよし。

と書かれています。図も載っています。】


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【 私も,戦後,居候していた母方の祖母の家で,同じことを手伝った記憶があります。 】


五月念七

     近頃物品の闇相場きく所次の如し

  一 砂糖     一貫目 金参拾円 一斤四円余

  一 白米     一升   金参四円

  ・・・・・


六月初一。

晴。 電車 七銭のところ拾銭に値上となる。又酒肆及び割烹店にて酒を売ること此れまでは夕方五時よりなりしが此日より夕方六時に改められしと云。


     街談録

頃日 けいじつ 南洋において 山本大将の戦死。 つづいて 北海の孤島 に上陸せし日本兵士の全滅に関して,一部の愛国者はこれ即楠公 なんこう が遺訓を実践せしものとなせり。 ・・・・・


六月初六 日曜日。

陰。午後浅草に行く。 ・・・・・ オペラ館楽屋に少憩す。支配人田代氏来り公園は今だに 軍需景気 なりと言ふ。薄暮向嶋より玉の井を歩む。氏神の祭礼にて賑なり。


六月十三日 日曜日。

晴。石榴の花紫陽花うつホの花ひらく。蒲田大森辺水道再び水切となり 住民飲料水にも窮しつつあり と云。これでは防空防火演習もできまじとて喜び笑ふものもありと云。 ・・・・・


六月十六日。

・・・・・ 余大久保余丁町の家を売り築地の僑居より此の家に移りしも思へば昨日のやうなる心地するを。 歳月は実に人を待ず。二十余年の星霜は夢の如くに過ぎ去りしなり。

塀際に立てる椎の木の二三年前より俄に木立深くなり二階の屋根をも蔽ふに至りしも怪しむに及ばず。時勢も一変し余も今は日々 老の迫る を歎ずる身とはなれるなり。 ・・・・・


六月十九日。

陰。午後土州橋脚気注射。


六月廿五日。

晴。 ・・・・・ 歌舞伎座にて 『 真景累ケ淵 』 も過日禁止 となりしがその理由は人の殺されて後化けて出るは 迷信にて,国策に反する のと言ふに在る由なり。

芸術上の論は姑 しばら く置きて,人心より迷信を一掃するは不可能の事なり。近年軍人政府の為す所を見るに事の大小に関せず 愚卑野卑 にして国家的品位を保つもの殆なし。

歴史ありて以来時として野蛮なる国家の存在せしことありしかど, 現代日本の如き低劣滑稽なる政治 の行はれしことはいまだかって一たびもその例なかりしなり。

かく如き国家と政府の行末はいかになるべきにや。



【 今から70年も前の1943年に書かれた荷風のコメントは,2015年末の現在の政治の現状とその結果を見ると,興味深いですね。

安倍晋三氏も,この記事をお読みになってはどうでしょうか。ま,読んでわかるような神経の持ち主なら,現状は全く変わっているでしょうけどね。 】




六月廿七日 日曜日。


・・・・・ 午後五叟来話。長唄の藝人にも徴用令にて工場は送らるゝもの次第に多くなれり。 ・・・・・ また田園調布の辺は街頭の 追剥及強盗 の被害毎夜に及ぶ由。 ・・・・・


七月初五。

晴。 ・・・・・

     冗談剰語

東京市を東京都と改称する由。何の為なるや。その意を得がたし。京都の東とか西とかいふやうに聞こえて滑稽なり。

・・・・・

近頃の流行言葉 大東亜 とは何のことなるや。 ・・・・・ 何事にも大々の大の字をつけたがるは北米人の癖なり。今時 北米人の真似 をするとは滑稽笑止の沙汰なるべし。


七月廿三日

・・・・・ 浅草公園米作の店を窺ふにこゝも亦休業の札を下げたり。 ・・・・・ 帰途花川戸より新橋行の市電に乗る。夜はまだ八時過なるに沿道の商店大方戸を閉したれば街上暗黒,鼻をつまゝててもわからぬ程なり。蔵前より小伝馬町辺最暗く 一点の燈火を見ず。

銀座通は尾張町あたり露店の燈火かすかに散歩の人影を照すのみ。電車もさして混雑せず麻布谷町にて降るまで腰かけてゐられるも不思議といふべし。


七月廿七日。


・・・・・ 日盛りに外務省に出仕する某々子訪来り米軍羅馬を襲ひ ムツソリニ内閣顛覆 せし由を語る。


七月卅一日。


晴。百合夾竹桃満開なり。銀河一夜ごとに鮮明となり深夜の風水の如し。土用半の秋風なるべし。


八月初三。

先月来町会よりの命令なりとて家々各縁の下または庭上に穴を掘れり。 空襲を受けたる時非難するためなりといふ。

されど夏は雨水溜りて蚊を生じ冬は霜柱のため土くづれのする事を知らざるものの如し。 去年は家の中の押入にかくれよと言ひ今年は穴を掘れを言ふ。

来年はどうするにや。一定の方針なきは笑ふべく憐れむべきなり。


八月十一日。

野依秀一 三木武吉 の両人飛行機献納資金募集の端書を送り来れり。彼等は刑余の不良民たること世の既に周知するところならずや。 国家存亡の危機 も遂に此等不良民が売名営利の方便となり終れる也。吾人はこの度の戦争につきて純粋なる感激を催し得べき機会なし。浩歎せざるべけんや。

此日晴れて残暑燃るが如く晡下始てつくつく法師の鳴くをきゝぬ。夜に入り月よし。蛼 こうろぎ いまだ鳴かず。


八月十七日。

風雨の後秋色俄にこまやかになりぬ。午後土州橋の医院に行く。院長のはなしに 妊婦の流産 するもの年々多くなれり。栄養の不足に加へて労働過度なるがその原因なるべしと云。 ・・・・・


八月廿一日。

晩間驟雨一過。涼味襲ふが如し。


八月廿三日。


晴。涼風颯々たり。晡時土州橋医院に至り 瓦斯風呂使用に要する診断書 を求めそれより浅草に行き米作に夕飯を喫す。 ・・・・・


八月廿六日。


・・・・・ 深更雨滂浪 ぼうろう。 

[欄外朱書] 小説家 島崎藤村 没享年七十二。


八月廿八日。


晴また陰。涼風あり残暑甚だいからず。芝口の金兵衛に夕飯を喫す。 ・・・・・ 

金兵衛の西鄰なる 寿司屋千成は配給の酒魚類少なく燃料にも窮し度々闇取引にて罰金を取られしため当月に至り遂に廃業し 主人は既に夜逃げ したりという。・・・・・ 

金兵衛の横町にて大和田といふ鰻屋も何か人知れぬ買出しの道ありしと見えいまだに店をあけをれり。


八月廿九日 日曜日。


晴。来月より 女子縮髪機械 は電力を費すが故政府にて買上げとなす由。従って 女子パーマネント縮髪は本年中には消滅する はずなりといふ。


九月初六。


晴。 ・・・・・  八月中この後毎月八日には婦女必 百姓袴 もんぺ を着用すべき由お触 ふれ あり。また婦人日本服の裾を短くすべき由。  ・・・・・

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つづく

by yojiarata | 2015-12-23 22:25 | Comments(0)

人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗 を読む  巻の六



昭和18年 つづき



九月九日。


晴。 ・・・・・ 帰途月色奇明。虫声雨の如し。

上野動物園の猛獣 はこのほど毒殺せられたり。帝都修羅の巷となるべきことを予期せしがためなりといふ。
 
夕刊紙に 伊太利亜政府無条件にて英米軍に降伏 せし事を載す。秘密にしてはをられぬためなるべし。

[欄外朱書] 英米軍伊国ヲ征服ス。


九月十二日 日曜日。

・・・・・ 電車の中の広告に 野依秀一著日本は天皇道の国なり と大きく書きたり。曾て短刀を携へ銀行会社をゆすり歩みし者が豹変して此の如き著書を售る。滑稽と謂ふべし。


九月十九日 日曜日。

・・・・・ 先日来白米の配給少くなり其代りとして 干饂飩 うどん また小麦粉 を配給す。

満足に米の飯の食へる日は一月の中十七八にて残りの十二三日は代用食にて飢をしのがねばならぬ由。鄰家の人のはなしなり。余は 一食の米一合弱 にて足るが故,殊に夕飯は新橋また浅草にて食するが故幸にして代用食は口にせずしてすむなり。



【 荷風は,この年(数えで)六十五歳,かなりの大食漢です。米一合といえば,普通のお茶碗にして二杯余りです。ほかに,お汁粉などの間食をしています。執筆活動の結果,経済的に問題のない荷風は,新橋や浅草で,戦時中としては上等な食事を楽しんでいたようです。それにしては太らないのは,朝から晩まで,散歩,それもかなり長距離の散歩を日課としていたからでしょう。

例えば,『日和下駄』 (岩波文庫,荷風随筆集(上),1997年 第18刷) を御覧ください。 】




九月廿九日。

晴。晩に陰。来十月中には米国飛行機必ず来襲すべしとの風説あり。上野両国の停車場は両三日この方避難の人達にて俄に雑遝し初めたりと云。余が友人中には 田舎に行くがよし と勧告するもあり。

著書及草稿だけにても田舎へ送りたまへと言ふもあり。生きてゐたりとて面白くなき国なれば焼死するもよし,とは言ひながら,また生きのびて 武断政府の末路 を目撃するも一興ならむと,さまざま思ひわづらひ未去留を決すること能はざるなり。


十月初三 日曜日。

・・・・・  瓦斯風呂許可の届書 を出すべし と言はれ風雨の後空霽 れしを幸に赤坂新町の瓦斯会社出張所に赴く。むかし桐畠といひしあたりなり。


十月初六。

陰。午後三菱銀行に行く。今まで受付口に取付けたりし 金属製の格子 の如きもの悉く取徐かれ,又支払収納など和英両国の文字にて窓口に掲げし札も取換へられ 和字のみ となれり。

行員も大半変りて顔なじみの人は一人も居ず。若き女事務員俄に多くなれり。去年発布せられし新令直ちに実施せられしものと見えたり。

輪行の電車に乗り合羽橋より浅草公園に至り オペラ館楽屋に憩ふ。こゝのみはいつ来て見ても依然として別天地なり。  ・・・・・

余が老懐を慰るところ今は東京市中此の浅草あるのみ。観音堂に賽するに四方の階段下に据置かれし大なる鉄の水盤その半は取去られたり。仁王門内に立ちし唐金の燈台も亦無し。


十月初九。

・・・・・ 窓に倚りて庭を見るに潦水河の如く虫の鳴音も絶勝ちなり。家の中暝きこと薄暮の如し。燈刻再び出でゝ金兵衛に飰す。相磯凌霜子に逢う。朝鮮海峡また津軽海峡にて 日本運送船撃沈 せられし由。米穀いよいよ不足の由。


十月十六日。

食料の欠乏 日にまし甚しくれり。今日鄰組よりとゞけ来りし野菜は胡瓜わづかに三本なり。これにて今明日二日間の惣菜となすなり。青物の配給一人分三十匁にて二日置なり。

子供のあるいえにては 母親 米飯を子供に与ふるが為おのれは南瓜をゆで塩をつけて飢をしのぐ事多しと云。 ・・・・・


十月念三。

くもりて暝 くら き日なり。 ・・・・・ ひそか に思ふに 人間の事業の中 うち 学問芸術の研究の至難なるに秘して戦争といひ専制政治といふものほど容易なるはなし。治下の人民を威嚇して 奴隷牛馬 の如くならしむればそれにて事足るなり。

ナポレオンの事業とワグネルの楽劇 とを比較せば思半 おもいなかば に過るものあるべし。 ・・・・・


十月念五。

・・・・・ 晡下瓦斯会社の男来り警察署より 民家の瓦斯風呂いよいよ禁止 の令ありし由を告ぐ。終夜雨声淋鈴。


十月念六。


街談録

この度 突然実施せられし徴兵令の事 につき,その犠牲となりし人々の悲惨なるはなしは,全く地獄同様にて聞くに堪えざるものなり

大学を卒業して後銀行会社に入り年も四十ぢかくになれば地位もやや進みて一部の長となり,家には中学に通ふ児女もあり。

然る突然徴兵令にて軍需工場の職工になりさがり石炭鉄片などの運搬の手つだひに追ひつかはれ,苦役に堪え得ずして病死するもの,また負傷して廃人となりしものも尠 すくな からず。 ・・・・・

この度の戦争は 奴隷制度を復活 せしむるに至りしなり。軍人輩はこれを以て 大東亜共栄圏の美学 となすなり ・・・・・


十月念七。

晴れて好き日なり。ふと 鷗外先生の墓 を掃かむと思ひ立ちて午後一時頃渋谷より吉祥寺行の電車に乗りぬ。先生の墓碣 ぼけつ は震災後向嶋興福寺よりかしこに移されしが,道遠きのみならずその頃は電車の雑踏甚しかりを以て遂に今日まで一たびも行きて香花を手向けしこともなかりしなり。

歳月人を待たず。先生逝き給ひしより早くもここに二十余年とはなれり。  ・・・・・

檜の生垣をめぐらしたる正面に先生の墓,その左に夫人しげ子の墓,右に先考 せんこう の墓,その次に令弟及幼児の墓あり。夫人の石を除きて皆かつて向嶋にて見しものなり。香花を供へて後門を出でて来路を歩す。 ・・・・・

帰路電車沿線の田園斜陽を浴び秋色一段の佳麗を添ふ。渋谷の駅に至れば暮色忽蒼然たり。 ・・・・・・

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十月三十日。

小春のよき日なり。午後駿河台下図書倶楽部洋本売立会に行く。 中江兆民編仏和辞典 其他を買ふ。


十一月十四日 日曜日。


快晴。 ・・・・・ 某氏に送りし手紙の末に

  雨蛙

雨蛙は青し青し。
草よりもみどりに。
木の葉よりも青し。

科学者曰く
これ動物の保護色なり。
その身を守るころもなり。

借問 しゃくもん す。人の世に
みをまもるころもありや。
あらばとく着よ。

着て歩め
長安の大道を。

傘さして人皆行かば
汝もゆけ傘さして
空は照るとも
くもるとも。


十一月十八日

連日華氏六十度の暖気なり。乏しき火鉢の火全く灰となるをも心つかず毎夜深更に至るまで書斎の机に憑ることを得るなり。 ・・・・・

[欄外朱書]  徳田秋声 没年七十三


十二月初二。

昨夜読書の興津々として尽きず。辱中書巻を手にして暁の来るを知らざりしほどなり。(書巻はワラスの著 ドビュシイとその時代 なり。) ・・・・・ 小説執筆二三葉。ドビュシイの伝をひらくこと昨宵の如し。


十二月初四

晴。相磯凌霜来話。

   街談録

 一 ガス風呂禁ぜられまたコークス薪等の配給もなくなりし為 銭湯の混雑甚しく 且板の間かせぎも激増せり。銭湯にては午後四時より営業の札をかけ表口をあげざる前内々にて お屋敷の奥様達を裏口より入れる ところ尠からず。 闇湯 の噂頻なると云。銭湯の闇値段山の手にては三十銭の由。

 一 徴用令にて職工にせらるゝ者これまでは四十歳かぎりなりしが昨今四十五歳になりし由。やがて五十歳になるべしと云。


十二月初六。

陰後に晴。晩間烏森の混堂に浴して金兵衛酒店に少憩す。 伯林の市街再び英国空軍に襲撃 せられしと云。帰途月おぼろなり。


十二月二十日。


晴。晡下日本橋白木屋前赤木屋に至り去年買はされたる 債券 四百円を売る。帰途金兵衛に飰す。凌霜子の来るに逢ふ。


十二月念二。

晴。午後落葉を焚く。小堀四郎氏来りて野菜を饋 おく らる。世田ヶ谷の庭にて自ら作られしものなりと言う。今年まだ四十三なれば職工にさせられはせぬかと心配して居らるゝと言ふ。凌霜子来りてオランヂの砂糖煮を饋らる。

世間の噂をきくにいかほど職工を増加しても資材欠乏するが故いづこの 軍需工場 にても夜間業務をなさず。仕事は平時と同じく昼間だけなり。この様子にて行けば来年六月までには戦争はいやでも応でも終局を告ぐるに至るべし。若しまたそれより長くなる時は 経済的に自滅 すべしと。


十二月念八。

・・・・・ 晡下漫歩浅草に至る。市内の掘割にかゝりし橋の欄干にて鉄製のものは悉く取去られその跡に縄をひきたり。大川筋の橋はいかゞするにや。夜中はいよいよ 歩かれぬ都 となれり。 ・・・・・

煙草昨日よりまたまた 値上げ。五十銭のもの七十五銭となれり。


十二月卅一日


今秋国民兵募集以来 軍人専制政治の害毒 いよいよ社会の各方面に波及するに至れり。

親は四十四五才にて祖先伝来の家業を失ひて職工となり,其子は十六七才より学業をすて職工より兵卒となりて戦地に死し,母は食物なく幼児の養育に苦しむ。国を挙げて各人皆重税の負担に堪えざらむとす。今は勝敗を問はず唯一日も早く 戦争の終了 をまつのみなり。

然れども余窃に思ふに戦争終局を告ぐるに至る時は政治は今より猶甚しく 横暴残忍 となるべし。今日の軍人政府の為すところは秦の始皇帝の政治に似たり。国内の文学藝術の撲滅をなしたる後は必づ劇場閉鎖を断行し債券を焼き私有財産の取上げをなさでは止まさるべし。斯くして日本の国家は滅亡するなるべし。

[欄外朱書]  疎開 ト云フ新語流行ス。民家取払ノコトナリ



つづく

by yojiarata | 2015-12-23 22:24 | Comments(0)

人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗を読む  巻の七



昭和19年


一月初一。

曇りて瞑 くら く 正月元日は秋の夕暮の如し。小鳥も鳴かず犬の声もせず門巷寂寥たること昼もまた夜の如し。 ・・・・・


一月初二 日曜日。

晴。年賀状と共に時勢を痛論する手紙頻々として来る。皆未見の士の寄するところなり。これを総括してその大意を摘録すれば左の如し。

現政府の方針 は依然として一定せず。何を以て国是となすや甚不明なり。

されどこの度文学雑誌を一括してこれが発行の禁止せし所を以て推察すれば 学術文芸 を以て無用の長物となすものの如し。文学を以て無用となすは思想の転変を防止し文化の進歩を阻害するものなり。

現代の日本を以て 欧州中世紀の暗黒時代 に回 かえ さんとするものに異 こと ならず。かくの如き愚挙暴挙果して成功するや否や。もし成功せば 国家の衰亡 に帰着すべきのみ。  ・・・・・ 

現政府の命脉 めいみゃく 長きに非ざるべし。云々


一月初七。

晴。 ・・・・・ 天麩羅屋ところどころ店をあけたり。群衆 寒風 にさらされながら列をなして 午後五時営業時間 の来るを待つさま哀れなり。この日七草の故にや生き帰りとも地下鉄道混沓して殆乗るべからず。寒月皎々 こうこう たり。


二月十五日。

晴。 ・・・・・ 三ノ輪行き電車にて浅草に至る。国際劇場裏とある洋髪屋の戸口に

      無電パーマネントいたします炭お持ち下さい

と張紙を出したり。 ・・・・・


二月廿八日。

戸塚町一言堂に仏蘭西本多くある由ききたれば正午過門を出で 神楽坂 を上る。紅屋田原屋相馬屋などという 老舗 皆戸を閉したり。風俄に吹起りて塵埃天を蔽ふ。矢来町の角よりバスに乗り穴八幡を過ぎ戸塚に至る。この道いまだ来りしことなき処なり。一言堂を尋るにバスの停車場の側なり。 ・・・・・


二月廿九日。

明日より割烹店待合茶屋営業禁止。歌舞伎座其他大劇場の興行随時禁止の命令下る由。 ・・・・・ 藝者は未ダ禁止の令なきも出場所なき故これはおのづから転業するなるべし。芝居と藝者なくなれば三味線を主とする 江戸音楽 はいよいよ滅亡するわけなり。 ・・・・・


三月十八日。

午後谷町の郵便局に行く。 ・・・・・

観世音の守札に,三枚を購ひオペラ館に至り踊子にわかち与ふ。夕方五時頃地下鉄にて新橋に至り市電に乗かへむとして街上に出るに天候一変して雪吹雪となれり。彼岸の入りに雪を見るもまた乱世のためなるべし。

[欄外朱書] 町の角々ニ 疎開勧告ノ触書 ふれがき 出ヅ


三月廿一日。


快晴。 ・・・・・ 数日来 野菜品切れ となり配給米には 玉蜀黍の粉末 を混ず。もそもそとして口にしがたきものなり。 ・・・・・


三月廿四日。


西北の風吹きすさみて寒し。 ・・・・・

地下鉄にて浅草に行きオペラ館楽屋を訪 ふ。公園六区の興行場も十箇所ほど取払いとなるべき由聞きたればなり。 ・・・・・
 
二階の踊子部屋に入りて見るに踊子たちはさして驚き悲しむ様子もなく平生 へいぜい の如く雑談しをれり。

凡そこの度たび開戦以来現代民衆の心情ほど解しがたきものはなし。多年従事せし職業を奪われて職工に徴集せらるるもさして悲しまず。空襲近しと言われてもまた驚き騒がず。何事の起り来るとも唯その成りゆきに任かせて寸毫 すんごう の感激をも催すことなし。

彼らは唯電車の乗降りに必死となりて先を争うのみ。これ 現代一般の世情 なるべく全く不可解の状態なり。薄暮市電にて家にかえる。夜に入り風 益寒し。


三月廿七日。


くもりて風少しく暖になりたれば午後家を出て虎ノ門より地下鉄に乗る。 ・・・・・ 

言問橋 ことといばし にて過行くバス乗客多からざればそれに乗りて 玉の井 に行く。

京成鉄道路跡の空地に野菜の芽青く萌 もえい 出でたり。唯 ある空屋敷の庭に蕗 ふき 多く生じたれば惣菜になさむとてこれを摘 む。

食物なき時節柄とはいえ浅間しくもあはれなり。 色里の路地 に入るに事務所の男家ごとに今日は モンペ に願いますと触れ歩めり防空演習あればなるべし。

旧道に出て白髭橋 しらひげばし の方に歩む。電球屋にて電球一ッ懐中電燈を購 あがな ふ。また下駄屋にて下駄を買う。これらのもの我家の近くにては皆品切なるにこの陋巷 ろうこう にては買手あれば惜し気なく売るなり。・・・・・


三月卅一日


昨日小川来りて, オペラ館取払 となるにつき明日が最後の興行なれば是非とも来たまへと言いてかへりし故,五時過夕餉 ゆうげ をすませ地下鉄にて田原町より黄昏の光りをたよりに歩みを運ぶ。 ・・・・・

オペラ館は浅草興行物の中真に浅草らしき遊蕩無頼 ゆうとうぶらい の情趣を残せし最後の別天地なればその取払はるると共にこの懐しき情味も再び掬 きく し味ふこと能 あた はざるなり。

余は六十になりし時偶然 この別天地 を発見 し或時は殆毎日来り遊びしがそれも今は還らぬ夢とはなれり。 ・・・・・ 

余は去年頃までは東京市中の荒廃し行くさまを目撃してもさして深く心を痛むることもなかりしが今年になりて突然歌舞伎座の閉鎖せられし頃よりは何事に対しても甚だしく感傷的となり, 都会情調の消滅 を見ると共にこの身もまた早く死せん事を願ふが如き心とはなれるなり。

オペラ館楽屋の人々はあるいは無知朴訥 むちぼくとつ 。あるいは淫蕩無頼にして世に無用の徒輩なれど,現代社会の表面に立てる人の如く狡猾 こうかつ 強欲傲慢 ごうまん ならず。深く交れば真に愛すべきところありき。

されば余は時事に憤慨する折々必この楽屋を訪 ひ彼らと共に飲食雑談して果敢 はかなき 慰安を求むるを常としたりき。然るに今や 余が晩年最終の慰安処 は遂に取払はれて烏有 うゆう に帰したり。悲しまざらんとするも得べけんや。


四月初四。

郵便局に四月十日まで 小包郵便取扱中止 の掲示あり。 ・・・・・


四月十日。

陰。櫻花未だ開かず世間寂として死するが如し。 食料品の欠乏 日を追うて甚しくなるにつれ軍人に対する反感漸く激しくなり行くが如し。市中到処疎開空襲必至の張紙を見る。

一昨年四月敵機襲来の後市外へ転居するものを見れば卑怯と言ひ非国民などと罵りしに十八年冬頃より俄に疎開の語をつくり出し民家離散取払をせまる。 朝令暮改 笑ふべきなり。


四月十一日。

毎朝七,八時頃飛行機の音春眠を防ぐ。その音は鍋の底の焦げつきたるをがりがりと引掻くやうにていかにも 機械の安物 たるを思はしむ。

そはともかく毎朝東京の空を飛行して何の為すところあるや。東京を防がんとするにはその周囲数里の外に備ふるところなからざるべからず。徒に騒音を 市民の頭上 に浴びせかけて 得意満々たる軍人の愚劣これまた大に笑うべきなり。 ・・・・・


四月十七日。

・・・・・ 又市中省線電車沿線の民家六月より取払ひとなるにつき 至急立退の命令 出でしと云。


五月五日。

[欄外朱書] 五日ヨリ 電車乗換切符 ヲ出サズ乗カヘル毎ニ十銭払フコトトナル


五月九日。

・・・・・ 又河岸通一帯の人家 来月中に取払 となる由。六十六年前わが生れたりし小石川の地もいよいよ時局の迫害を蒙むるに至りしなり


五月十九日。

・・・・・ 正午お駒と云う浅草の茶屋のかみさん来る。其話をきくに二三日前警察署の役人らしきもの二三人早朝網を持ち来り観音堂の鳩数百羽を捕へギャカアに積みて持ち去りたり。 ・・・・・ 堂前に多年鳩にやる豆を売りゐたる老婆供の中には 豆の闇相場騰貴 し廃業するものもあるに至れりと云。

日米戦争は本年に至りて先東京住民の追払となり次には神社仏閣の鳩狩となる。此冬あたりには 市民私有財産の没収 となるべし。


五月廿七日。

雨ふる。この頃鼠の荒れ廻ること甚し。昼の中も台所に出て洗濯シャボンを引行くほどなり。雀の子も軒にあつまりゐて洗流しの米粒捨てるを待てるが如し。むかしは野良猫いつも物置小屋の屋根に眠り ・・・・・ いつよりともなくその姿を見ぬやうになりぬ。

東亜共栄圏内に生息する鳥獣饑餓の惨状 また憫 あわれ むべし。燕よ。秋を待たで速に帰れ。雁よ。秋来るとも今年は共栄圏内に来る莫 なか れ。


五月三十日。

陰後に晴。数日前まで昼の中も折々天井を走廻りし鼠いかにしけん昨夜よりひッそりとして音をたてず ・・・・・

鼠群の突然家を去るは天変地妖の来るべき予報なりとも言へり。果して然るや。暴風も歇む時来れば歇むなり。 軍閥の威勢 も衰る時来れば衰ふべし。その時早く来れかし。家の鼠の去りしが如くに。


六月十六日。


晴。紫陽花の色漸く濃 こまやか なり。

[欄外朱書]  米国空軍九州ヲ襲フ。


六月廿九日。


・・・・・

今年も早く半を過ぎんとす。戦争はいつまで続くにや。来るぞ来るぞといふ空襲もいまだに来らず。 国内人心の倦怠疲労 今正に極度に達せしが如し。

世人は勝敗に関せず戦争さへ終局を告ぐれば国民の生活はどうにか建直るが如く考ふるやうなれどそれもその時になって見ねば分らぬ事なり。

欧州第一次大戦以後日本人の生活の向上せしはこれを要するに極東における 英米商工業の繁栄 に基きしものなり。これ震災後東京市街復興の状況を回顧すれば自ら明なるべし。

然るに今日は世界の形勢全く一変したり。欧州の天地に平和の恢復する日来ることあるも極東の商工業が直に昨日の繁栄を齎し得べきや否や容易に断言し得べからず。とにかく 東京の繁華 は昭和八,九年を以て終局を告げたるものと見るべし。 ・・・・・

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省線女驛夫 制服黒地



七月初一。


昨来西風はげしく吹きすさみて土用半の如き天候なり。 ・・・・・

[欄外朱書]  雑誌 『改造』 『中央公論』 廃刊。


七月念七。

時々驟雨。 ・・・・・  中央公論社廃業の原因 は社会主義の学者に学術研究の資金を送りし嫌疑あり。社長島中氏横浜地方裁判所に召喚せられし事ありしためといふ。また改造社はむかしマルクスの翻訳書を売出せし事あるがためなりといふ。この頃 郵書の検閲 一層厳しくなりたれば手紙にも戦争の事は書かぬがよしといふ。


八月初四。

・・・・・  明治の文化 も遠からず滅亡するものと思へば何事をなす元気さえなし。唯絶望落胆愛惜の悲しみに打たるるのみ。

日本人の過去を見て思ふに日本文化は 海外思想の感化 を受けたる時にのみ発展せしなり。仏教の盛なりし奈良朝の如き儒教の盛なりし江戸時代西洋文化を輸入せし明治時代の如き皆これを証するものならずや。

海外思想の感化衰ふる時は日本国内は必兵馬倥偬 こうそう の地となるなり。 戦乱を好む事 はこの国民の特質なるべし。 ・・・・・

晡下混堂に浴して後夕涼かたがた市中民家取払の跡を見むとて電車にてまづ 浅草雷門 に至るに,暮方の空なほ明ければ六月十五夜とも思はるる円き月薄赤き色をなし対岸枕橋の上に登らんとせり。 ・・・・・

折から黄昏の光漸く薄らぎ満月の高く登るにつれて その光次第に冴え 騒然たる街上に輝きそめたり。 ・・・・・

左衛門川岸通もまた既に空地となり終れり。昔土手なりし柳原に人家の建ちて町となりしは明治十二,三年頃とか聞きしことあれば六十余年にしてもとの如くになりしなり。やがて薦 むしろ かかへし 辻君 つじぎみ の出るやうになればいよいよ昔に立ちかへるなり。 ・・・・・

明月は終夜わが寝室の窓を照し翌朝五時蟬鳴き出で夜の明け放れし後まで崖を隔てし市兵衛町二丁目の人家の屋上に泛 うか びたり。


八月初六 日曜日。

日は焼くが如く照り渡りたれど,冷飈颯々 りょうひょうさつさつ として庭樹を鳴らし,空には白き雲層をなして動き行くさま,既に立秋後の空模様なり。階除 かいじょ には秋海棠の花き出で崖の竹垣には烏瓜の花柳絮 りゅうじょ の如く槐 えんじゅ の大木もまた花のさかりとなれり。 ・・・・・


八月初七。

晴雨定りなし。 ・・・・・ 日本橋より銀座通を通行する女店員事務員の姿いづれもシャツ一枚に腰巻同様なる地薄のスカートまたヅボンを穿ちしのみなれば逞しき肉附露出し,恰もレビュウの舞台を見るが如く,電車の中にては股を開いて腰を掛けたる形亦 一奇観 なり。 ・・・・・
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八月廿二日。

晴。 ・・・・・  房州海岸 は米軍の上陸を防がん為物情頗 すこぶる 騒然たり。釣に行きても沖合には舟を出すことを禁ぜられ殆獲るところなし。 ・・・・・


九月初七。

午前驟雨雷鳴あり。無花果熟して甘し。近隣の南瓜早くも裏枯 うらが れしたり。鳳仙花白粉花 おしろいばな 秋海棠皆満開。荻木芙蓉 もくふよう の花また満開となれり。

町会事務所にて鮭の鑵詰 かんづめ の配給をなす。噂によればこれらの鑵詰は初め軍部にて強制的に買上げをなせしもの。貯蔵に年月を経過し遠からず腐敗のおそれありと見るや町会に払下げをなし時価にて人民に売つけ相当の鞘を得るなり。軍部及当局の官吏の利得これだけにても莫大なりといふ。日米戦争は畢竟 軍人の腹を肥すに過ぎず。その敗北に帰するや自業自得といふべしと。・・・・・

x x 氏に送る返書の末に,

     世の中は遂に柳の一葉かな     残柳

     ・・・・・



九月十七日 日曜日。


午晴乍雨。 ・・・・・

時局覚書 次の如し

昭和十五年一九四〇年
  十一月十一日 二千六百年祭
  十一月より  炭配給となる
  ・・・・・

昭和十六年一九四一年
  四月五日もう一押だ我慢しろ南進だ南進だ。或は断乎南へなどのポスター出る
  ・・・・・
  七月  英米と通商中止
  一二月八日  英米と開戦

昭和十七年一六四一年 
  四月十八日米機東京襲撃
  十月時計時間かはる
  十一月野菜切符制となる

昭和十八年一九四三年
  七月米機羅馬襲撃
  八月防空のため各戸穴を掘る
  九月総動員令

昭和十九年一九四四年
  三月大劇場興行禁止料理店待合藝者家営業禁止
  五月 市中処々民家取壊
  内閣更迭
  八月小学校生徒東京立退


九月十九日。

晴。午後警報ありしが一時間ばかりにいて解除となる。当局の態度は落武者の枯尾花を見て追手と思ふが如く 周章の状 憫むべし。


九月二十日

・・・・・ 三時岩波書店編集局員佐藤佐太郎氏来り 軍部よりの注文 あり岩波文庫中数種の重版をなすにつき拙書 『腕くらべ』 五千部印行の承認を得たしと言う。

政府は今年の春より歌舞伎芝居と花柳界の営業を禁止しながら半年を出でずして花柳小説と銘を打ちたる拙書の重版をなさしめこれを出征軍の兵士に贈ることを許可す。何らの滑稽ぞや。 ・・・・・




つづく

by yojiarata | 2015-12-23 22:23 | Comments(0)

人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗を読む  巻の八




昭和19年 つづき



九月廿九日。


快晴。便秘末治せざれば午後土州橋の病院に行く。院長いつもの如く外診にいそがしく出でて帰らずと云。

漫歩箱崎を過ぎて永代橋に至る。濁流に糸を垂れて はぜ 釣る人 あるもをかし。家にかへれば日早く没して庭暗し。やがて月の昇るを見ればその形十二三日ころなり。今年の十五夜は月よかるべし。


十月初八 日曜日。 

積雨始て霽 はれ る。 ・・・・・ 裏庭に鄰りの柿昨夜の風雨に多く落ちたり。拾ひて食うに渋なくして甘し。

世の噂に今日及十九日の両日 電話使用禁止。 犯す時は其後三日間通話差止めるなりと云。夕暮我善坊の崖に物捨てむとて宮様裏の小道に行くに崖下なる貧家の子供七八人塀を攀ぢ宮様の裏庭に忍入り椎の実を拾ひ集めて食へり。 ・・・・・ 顔色蒼白一見 欠食児童 なるを知る。麻布の町のこのあたりにては戦争以前には決して見ざりしところなり。


十月廿二日 日曜日。

朝くもりて後に晴る。

     掃庭

  百舌鳴くや竹ある崖の朝あらし

  ・・・・・

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1941,2(昭和16,7)年頃 偏奇館にて
『荷風全集 第二十五巻』 より



十月廿四日。

晴れて風なし。 ・・・・・ 門外 防火演習 の人声喧し。午後より昼夜机に凴る。八月頃の月を見る。


十一月廿一日。

微雨。柳北 りゅうほく 『航薇日誌』三巻 を写し終りぬ。余が始てこの遊紀をよみしは明治卅年比岸上質軒の編輯 へんしゅう せし柳北全集の出でし時なり。

今その原本を筆写するに臨み新に感じたることは, 全文にみなぎりし哀調 しみじみと人の心を動かすものあり。また紀中に現来る人物奴僕婦女に至るまで温厚篤実なりしことなり。 過去の日本人の情愛に冨みたりし事 はアルコックの著書にも見えたる事なり。

今日戦乱の世にありて偶然明治初年の人情を追想すればその変遷の甚しき唯驚くのほかはなし。明治以後日本人の悪るくなりし原因は,権謀に富みし 薩長人 の天下を取りしためなること,今更のやうに痛歎せらるるなり。


十一月廿九日。

晴。 ・・・・・  砲声爆音轟然 として窓の硝子をゆする。窓より外を見るに東北の空虹色に染りたり。其方角より考ふるに丸の内辺爆撃せられしなるべし。砲声爆音一時沈静して再び起る。暁明に及びて始めて歇む。

夜寒くして雨歇まざれば 庭に掘りし穴 には入るべくもあらず。押入の内も寒むければ平常の如く夜着引きかぶりて臥したり。


十二月初四。

快晴。風なし。午後銀座二丁目眼鏡屋松島屋に至り 老眼鏡八度 のものを購はむとするに十六度以上の強きものはなしと言へり。今用ふるもの破損するときは読書執筆共に不可能とはなるなり。わが身の末も思へば哀れはかなきものとはなれり。 ・・・・・

[欄外朱書] 浅草公園大勝館前に昨日 高射砲破片 落ち数人重傷すと云う


十二月卅一日。

晴また陰。夜十時警報あり。 ・・・・・ 夜半過また警報あり。砲声頻なり。かくの如くにして昭和十九年は尽きて落寞たる新年は来らむとするなり。我邦開闢以来曾て無きことなるべし。是皆 軍人輩 のなすところ其罪永く記憶せざるべからず。





つづく

by yojiarata | 2015-12-23 22:22 | Comments(0)