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きけ 伊丹万作 の こえ



ご隠居さん 伊丹万作さんというのは,どうゆうお方ですか。


***



伊丹万作(1900-1946)は,監督,脚本家,俳優として日本映画の基礎を築いた人物だよ。

特異な作風で,日本の映画史に大きな足跡を残した伊丹十三(1933-1997)の父親です。ちなみに,作家の大江健三郎は,万作の娘婿。十三の悲劇的な死については,今でも話題になるよ。


ところで,映画ファンの君のことだから,伊丹十三の 『マルサの女』 など,観たでしょう。出演した宮本信子(十三の奥方)が生き生きと演技していたのが印象的だったね。



*



先日の日曜日(10月19日),NHK特集 「カラーでよみがえる 東京100年の映像物語」 を観たんだ。その時,番組が終わりに近づいた時,伊丹万作が,太平洋戦争直後の1946年(昭和21年),ある記事を執筆していることが,ほんのちょっとの時間だけ,放送されたんだ。


この,ほんのちょっとの放送を聞いて,わたしは,ドキッとして,直ちにネットで検索し,伊丹万作の書いた文章を読んだよ。これは,すごいよ!

今,すべての日本人に読んでほしい記事だよ。 


*



なんでも,安倍内閣は,エボラ対策で派兵されるアメリカ軍を,自衛隊を送って手伝えと言われているそうじゃないか。日本も,これからどうなるのかわからないよ。アメリカにノコノコついていって,戦争に巻き込まれ,あとで,” しまった,ダマサレタ” と泣いても遅いからね。

私が,どうしてこんなことを書きだしたかは,伊丹万作の記事を読んでもらえば,わかるよ。



                  
伊丹万作『戦争責任者の問題』
(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)


特に重要な部分を抜き書きするよ。 後で,全文を読んで下さい。


*


多くの人が,今度の戦争でだまされていたという。

いくらだますものがいても,だれ一人騙されるものがいなかったとしたら,今度のような戦争は成り立たなかったにちがいないのである。

「だまされていた」 といつて平気でいられる国民なら,おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや,現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。




伊丹万作の言葉が,重く響くよね。





未完





































































































































































by yojiarata | 2014-10-21 22:00 | Comments(0)

満州の妖怪 と その末裔  安倍一族  巻の1




ご隠居さん 今はやりの妖怪物ですか。あまりヘンテコな話は聴きたくありませんね。


マ ごちゃごちゃ言わないで,話を聴いてちょうだい。今日の日本,明日の日本と密接に繋がる真面目な話だから。



***



この ブログ 【満州の妖怪 と その末裔  安倍一族  巻の1 - 巻の6】 は,演劇のようなものだと思って読んで下さい。演劇の主役は,第56,57代 内閣総理大臣 岸信介 。 主役に肩を並べて登場するのが,極東国際軍事裁判 の判決により 処刑された 東条英機を始めとする 7人のA級戦犯 。


ちなみに,岸信介の女婿が,安倍晋太郎。安倍晋太郎の次男が,現時点での内閣総理大臣 安倍晋三 です。詳しいことは,「巻の6」 の末尾に書いておきます。


なお,劇中,登場される方々の敬称は略させていただきます。


これだけ書けば,私が,このブログで何を語ろうとしているか,君にも想像ができるでしょう。




*




満州事変



1931年(昭和6年)9月18日夜10時20分,中国東北部(満州),瀋寧(りょうねい)省の瀋陽(しんよう)(奉天(ほうてん))に近い柳条湖(りゅうじょうこ)で,南満州鉄道の線路の一部が破壊された。関東軍参謀の石原莞爾(かんじ)らによって,29年から周到に準備された作戦が,実行に移されたのである。

加藤陽子『シリーズ日本現代史⑤ 満州事変から日中戦争へ』(岩波新書,2007,2ページ)


*



日本で満洲とよばれる地域は,満洲国の建てられた地域全体を意識することが多く,おおよそ,中華人民共和国の「東北部」,現在の遼寧省,吉林省,黒竜江省の3省と,内モンゴル自治区の東部を範囲とします。


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『 ラストエンペラー 』( The Last Emperor )



ところで,映画好きの君なら,「ラストエンペラー」を観たでしょう。


『ラストエンペラー』(The Last Emperor)は,1987年公開のイタリア,中華人民共和国,イギリス合作による清朝最後の皇帝で,後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の生涯を描いた大変興味のある歴史映画だよね。



満州の妖怪たち



このブログに登場する「満州の妖怪たち」は,満州の2キ(機,樹)3スケ(介,右)とよばれた,東条英機,星野直樹,鮎川義介,岸信介,松岡洋右の5人,これに,甘粕正彦を加えた6名です。

太田尚樹 『満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』 ( 講談社,2005年,第2刷 ) の 284 ページ に,


これら実力者6人の分類は,官は星野と岸,財は鮎川と松岡,軍は東条,陰にひかえた甘粕ということになる。しかも,いずれも阿片と無縁ではないのだが,とくに 東条 甘粕 の三人は, 阿片 を巡って抜きさしならぬ関係にあった。


と明記されているよ。


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2005年 第2刷  甘粕正彦(左),岸信介(右)



太田尚樹 『満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』 は,以後,【太田の著書】と略称します。


付け加えると,満鉄総裁・松岡洋右は,岸の叔父にあたるんだ。


松岡は,満州,日本,満州,日本と転任を重ねているんだ。その間,1931年に連盟総会に日本首席全権として派遣され,その席で,「日本の主張が認められないならば国際連盟脱退はやむをえない」と述べて,退場。君も,テレビの番組で観たことあるでしょう。


松岡洋右は,極東国際軍事裁判で,A級戦犯として起訴されるんだけど,巣鴨プリズンに拘留されている間に病死したんだ。松岡の数奇な生涯を辿ると,満州から太平洋戦争までの時代の流れの一端が見えてくるよ。


なお,甘粕正彦については,角田房子 『甘粕大尉』 (中公公論社,1975年,初版)に詳しいよ。本書(絶版)は,のちに,中公文庫として出版されています。

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満州 と 岸信介



岸信介は,1936年から1939年の間,満州で辣腕をふるったんだ。満州在任中の岸の履歴。


岸信介(39)  1935年(昭和10年)対満事務局事務官を兼務
満鉄総裁に松岡洋右就任


岸信介(40)  1936年(昭和11年)満州国事業部次長として渡満
2・26事件,星野直樹,満州国総務長官に就任


岸信介(41)  1937年 昭和12年 事業部が産業部と改変され産業部次長となる。東条英機,関東軍参謀長に就任。満州重工業設立,鮎川義介総裁に就任


岸信介(43)  1939年(昭和14年) 満州から帰国し,商工次官となる。ノモンハン事件起こる。


田尻育三 『昭和の紹介 岸信介』 (学陽書房,昭和54年)
岸信介 関係年譜 (219ページ) による。



満州建国 と 満蒙開拓団に悲劇



満州事変の翌年,昭和7年に建国された「満州国」は建国のスローガンとして現地の人たちと共に「五族協和」と「王道楽土」を目指すことがうたわれたけれど,実際は日本人が優位に立つ,いわば日本の傀儡国家だったんだ。


もっとも多い時で,日本人は軍人・軍属を含めるとおよそ205万人。そのうち満州北部の広い地域に入植したのが 満蒙開拓団 。その数はおよそ27万人に上ったといわれているよ。

1931年に日本は満洲事変を契機に満洲全域を占領して,翌1932年に満洲国を建国。満洲国は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政,のち皇帝)と勝手に定めました。日本の傀儡政権だった満洲国は,この時期,事実上日本の支配下とあったんだ。


日本は南満洲鉄道や満洲重工業開発を通じて多額の産業投資を行い,農地や荒野に工場を建設した結果,この時期に満洲の近代化が急速に進んだよ。一方では満蒙開拓移民が入植する農地を確保するため,既存の農地から地元農民を移住させる等,元々住んでいた住民の反日感情を煽るような政策も実施したといわれているんだ。


以上の記述は,NHK解説委員室・解説アーカイブス 時論公論 「“満蒙開拓団”の史実に学ぶ」 (2013年8月17日)による。



***


太平洋戦争が終わる直前の昭和20年8月9日,日ソ不可侵条約を無視してソ連軍が,国境線を超えて満州に侵攻してきた。関東軍の主力も,ほとんだ南方戦線に送られていたから,為す術もなく,守りは崩れてしまった。
【太田の著書】 (457ページ,エピローグ)


*



五族協和を理想として教えられ,国のためと信じて大陸に障害を捧げる決心で故郷の地を離れた満蒙開拓団  ― しかしその最期は余りにも悲惨であった。

満蒙開拓団の人々は ” 国策 ” と呼ばれた至上命令を信じて満州に渡った。・・・・・ ソ連参戦と同時に彼らは日本軍に放棄され,一切の保護を失って,血と泥と雨の中の逃避行を続け,虐殺,暴行の地獄を彷徨し,収容所では飢餓と寒気と悪疫にさいなまれた。  ・・・・・   こうして多くの開拓民―日本人の大集団が非業の死を遂げ,全員が財産を失った。


角田房子 『墓標なき八万の死者 満蒙開拓団の壊滅』 の「あとがき」 より。



角田さんのこの本は,最初から,じっくり読んでほしいね。悲しく,辛い話だけど。旧ソ連 (現ロシア) の過去,現在,未来を知るためにも。

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1991年 11版




お断り


【太田の著書】には,田尻育三 『昭和の紹介 岸信介』 (学陽書房,昭和54年)(以後,【田尻の著書】 と略記)からの引用が多い。【田尻の著書】 については,「巻の2」で詳述する。

このブログでは,この点を指摘したうえで,【太田の著書】 の記述をそのまま,再現する。





つづく

by yojiarata | 2014-10-15 10:50 | Comments(0)

満州の妖怪  と その末裔  安倍一族  巻の2




【太田の著書】 の271ページ に,次の記述があるよ。


・・・・・ 岸ほど正面切って関東軍にものを言える人物は,満州広しといえども,いなかった。満州に来て早々,関東軍参謀長で満州事変の張本人である板垣征四郎に向かって,開口一番「私は日本を食い詰めて来たのではありませんよ」と言ってのけたが,悲運に泣く満州エレジーの主人公たちなどとは,訳が違うと言いたかったのである。


プライドの塊みたいで,ふてぶてしいほどの自信家は,実際,周りがハラハラするほど,あけすけにものを言った。これには,肩で風を切って歩く関東軍の参謀連中も,形無しである。



*



田尻育三の著書には,岸に係わりをもったさまざま人物とのインタビューが残されているよ。満州時代の岸について,これだけ多くのインタビュー記事が,一冊の著書に集めれているのは珍しいと思います。


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左下の写真は,巣鴨プリズンを出所して帰宅した時のやつれてひげ茫茫の岸信介
右の大きな写真は,昭和の妖怪と恐れられた岸信介

田尻育三 『 昭和の妖怪 岸信介』 (学陽書房,昭和54年)



やつれ顔の写真(共同通信社)が撮られた日付は,昭和23年12月24日となっているよ。それが何と,同じ巣鴨に収容されていた東条英機ら,7人のA級戦犯が処刑された翌日のことなんだ。



*



田尻育三 『 昭和の妖怪 岸信介』 (学陽書房,昭和54年)を度々引用するけど,以後 【田尻の著書】 と 略称することにします。



【田尻の著書】 の 「あとがき」 に,次のように書かれているよ。


本書に収録したのは,月刊誌『文藝春秋』 の52年11月号に掲載された「満州の妖怪 - 岸信介研究」と同誌 53年7月号の「岸信介研究 - 戦後編」をつなぎ合わせたものである。両レポートとも,岸を知る人たちの証言を中心に構成する手法をとっているので,収録にあたっては,いっさいの加筆修正をしなかった。「その時点での証言」の価値が失われるのを恐れたからである。従って証言者の年齢,肩書などはすべて発表当時のままとした。今日では当然ズレや変化が生じていることをお断りしておきたい。


岸研究に取組むにあたり,欠かせない人物としてつっかい棒の役割を果たしてくれた星野直樹は,戦後編の執筆が終わりかけていた昨年5月29日に他界し,証言者のうち内田常雄ら何人かも死去した。改めて取材協力に感謝し,ご冥福を祈るばかりである。



岸信介 と 関東軍 




引き続き,【田尻の著書】 から,重要な点を引用します。


岸が赴任したころの関東軍は,植田謙吉司令官(大将)を頭に,参謀長の板垣,憲兵隊司令官の東条英機らが構えており,12個師団と2飛行機集団,1騎兵旅団,13国境守備隊,9独立守備隊などをひきいて,ざっと70万の巨大な陣容だった。


建国直後の昭和7年3月中旬,当時の司令官本庄繁中将は,執政職にあった溥儀(後に皇帝)との間で「日満共同防衛のため関東軍が無期限に満州に常駐する」との秘密協定を結んでいた。満州国政府の日本人官吏に対しても実質的な任免権を握り,「内面指導」と称して満州国の行政に直接,間接に介入,事実上満州国を支配していたんだ。


そうしたオールマイティともいえる関東軍を岸は巧みに操作した。岸の部下だった 古海忠之 (77歳,元満州国総務庁次長,現東京卸売センター社長)の証言によれば,


「岸さんは関東軍に対しては事前に手を打って摩擦や衝突の起こらないようにしたうえで,仕事を進めていくとやり方をとっていました。満州でも誰でもそうやりますが,岸さんの場合は,水際だっていましたね」


という。



岸の周辺にいた 高橋源一 (80歳,元満州国総務庁弘報処参事官,現在は引退)は,


「彼は関東軍にうけがよかったし,気に入られるように振るまってもいた。満州で実権を握っていた東条参謀長とも,親しいというよりは岸さんが東条にうまく調子を合わせているという感じだった」


といい, 平井出貞三 (86歳,元満州国交通部次長,現在は引退)も こう証言している。


「岸さん は 理屈の通らないことでも平気でやってのける人だったが,それがうまくできたのは軍と結びついたからですよ。軍人の気質と現状を巧みに利用し,うまく立ち回ったはずです。


それに,岸さんは満洲へ来る前から政治家だったということではないですか。つまり,すでに軍部を手をつないでいたということです。そういううわさを当時よく耳にしました。とくに参謀長になる前の関東軍憲兵隊司令官である東条さんとは親しかったようですよ」


古海忠之は,田尻の質問 「岸信介が満州国時代,政治的にどんな動きをしたか? 」 に答えて,


「そりゃあ,いえないな。エピソードはたくさんあるけど,書かれては困るような話ばかりだよ。書かれると岸さんが可哀相だからね。ボクは岸さんに非常に近い部下だったから」


かって満州国の総務長官(事実上の総理大臣)をつとめた 星野直樹 による手記には,次のように書かれているよ。


「人間一生のうちには,一つの決断とか,動きとかが,生涯の行路に重大な影響を与え,時には,その方向を決するという場合も少なくない。岸信介君が商工省工務局長を地位を投げ打って,満州国にはいったことは,岸君にとって人生の重大な決定であったと思われる。


岸君は,在満3年で,商工大臣として東京に帰って行った。だが,帰って行った岸君は満州に来た時の岸君ではなかった。 ・・・・・ が帰って行った岸君は商工省を離れて,客観的に立派な日本の政治家に成長していた。」


星野直樹は,古海らとともに大蔵省組のキャップとして建国直後の昭和7年7月に渡満し,15年7月までの8年間,日本の支配下におかれた新興国の骨格づくりに取り組んだ。岸は昭和11年から14年までの三年間,星野の下につかえ,総務庁次長(事実上の副総理)として,辣腕をふるったとされている。


のちに星野は近衛内閣の企画院総裁(国務大臣)に招かれて帰国,東条内閣では書記官長(岸は商工大臣)として,太平洋戦争開戦の詔書を書いた。戦後はA級戦犯に問われ,極東国際軍事裁判で終身刑の判決を受けて服役,昭和30年12月に仮出所。


星野が,手記 『岸信介来り又去る』 を書いたのは,仮出所後1年半,岸が内閣を組織してから半年後のことである。


かつての部下が総理大臣の椅子に昇りつめたことへの祝詞は,一行もない。


昭和23年2月の法廷において,国際検事団はA級戦犯容疑者, 星野直樹 の罪状朗読の中で,


「1938年(昭和13年)から1945年(同20年)まで,北支派遣軍の特務部の下で,中国においてアヘン作戦を実行した証人サトミ は,1940年(同15年)まで彼によって販売されたアヘンは,ペルシャ製 のものであったが,その彼は 満州産アヘンを販売したと証言した」 (極東国際軍事裁判記録第372号)


と述べている。



*



岸という人は,周囲の人たちには,あまり人気がなかったようだね。だけど,自分の将来がかかっている,とくに,上の人間,例えば,東条英機とは,上手に付き合うというか,利用していたんだね。それは,岸と東条の戦後が見事に物語っているよ。


*



政治の裏側に通じている 伊達宗嗣 (55歳,国際経済研究所勤務)の話


「政治資金調達システムを編み出したのは岸なんです。政治家は汚いカネにさわってはダメだというのが彼の持論で,そのノウハウを考え出した。それまでにそんなことを考え出した保守党政治家なんて誰もいませんよ。つまり,あいだに人をおくということですよ。このあいだに立つ人をいうのは,代理ではない。第三者的な立場でカネをうけとるべきだちうわけです。戦後,巣鴨を出てから彼ははっきりと意図してそれをやった。


それには教訓があるんです。戦前,政府のアヘン政策は大本営が全部やっていたが,実際にそれをやっていたのは民間人です。僕は, 里見(甫・故人) からそれを聞いて知っている。たとえば,里見が上海でアヘンを使って集めたカネというのは,当時,全部汪兆銘政府の政治資金だった。一日で何億というカネが集まるんですよ。それを他に回すわけだ。そのテクニックを岸は全部知っていた」



里見甫 と 岸信介



里見 は戦前,満鉄から満州国通信社社長を経て,のちに上海に移り,上海を拠点にアヘンの元締めとして謀略と特務工作にかかわっていた。


里見と岸の関係について,戦前,満州国政府機関紙『斯民』の編集者として二人とつきあいの深かった 福家 は,


「里見は,満州国通信社をやっていて,岸さんは満州政府の高級官僚だったから,会見やら何やらで里見とつきあうことも多く,知り合いになったんだ。 ・・・・・


さらに,里見は満鉄出身ということで,岸さんの叔父にあたる松岡洋右・満鉄総裁に非常に可愛がられてね。こちらの関係からも岸さんと親しくなったということがあった。


そのあと,私は甘粕(正彦)さんが上海につくった 『大陸新報』 の社長になり,満州から上海に移ったが,里見もアヘンの関係でその後上海に移った。上海に行ってからも,里見はときどき日本に帰ってきており,その際には日本で岸さんにもあっていたようだ。


里見は本物の中国浪人であり,国士だった。里見,甘粕,岸さん,私らは,当時みんな仲間だった」


と解説した。戦前のアヘン取引で,戦後,里見はGHQ から追われていたというが,40年3月21日,68歳で死んだ。


千葉県市川市にある里見の墓をのぞいてみた。墓石の片隅に岸の手になる「岸信介書」の文字が刻み込まれている。

【田尻の著書】
206ページ


岸当人も昨年7月,高齢を理由に政界引退を声明した。・・・・・ 国際舞台ではこれからも動くと宣言し,その後は公約どおり精力的に立ち回っているので,厳密には引退とは言い難い。しかも,年初来のグラマン・ダグラス騒動では「時の人」である。82歳にして,なおこの生臭さを持続し得ているところが,いい意味でも,悪い意味でも岸の本領なのだろう。







つづく

by yojiarata | 2014-10-15 10:49 | Comments(0)

満州の妖怪 と その末裔  安倍一族  巻の3





岸信介 日本へ帰国

【太田の著書】 421ページ

昭和14年10月中旬,岸は日本へ帰って行くことになった。


「濾過器論」 を披露したのは,その時のことである。


「政治資金は,濾過器を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起きたときには,その濾過器が事件となるので,受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから,掛かり合いにならない。」政治資金で汚職問題を起こすのは,濾過が不十分だからだ」


このとき岸は42歳だった。


内地に帰る岸は,大連の埠頭で記者団の質問に,「出来ばえの巧拙は別として,満州国の産業開発は私の描いた作品だ。だから限りない愛着があるし,生涯忘れることはない」と答えている。




日本に帰国後の 東条英機 と 岸信介




東京に帰った東条が陸軍次官,陸相,総理へと中央の階段をのぼりつめていくにつれ,今度は岸が集金力にものをいわせて,東条に莫大な政治献金をした。もちろん,東条のためなら命を投げ打つことさえいとわない甘粕も,闇の世界から金を運んでくる。


しかも岸は東条の頭脳となり,懐刀となっていく。東条内閣が発足したとき,岸は商工大臣,星野は内閣書記官長として,閣僚のポストに就くことになる。



東条,岸の喧嘩別れ




戦局は悪化の道を転がり始めていた。そして,サイパン陥落。

サイパン陥落の報に接した岸は,東条に向かって,「この戦争の状態を見ると,もう東条内閣の力ではどうにもなりませんよ。この際,総理はいさぎよく退いて,新しい挙国一致内閣を作るべきですと迫ると,東条は怒りをあらわにして「必勝の信念がない閣僚などいらない。君が辞めろ」と切り返す。


・・・・・ 岸は,「東条さん,あんたが辞めないなら,私も辞めません」とやり返した。


結局,閣内不一致を世間に印象づける,この一言が功を奏して,東条内閣 は瓦解してしまった。


このあたりの事情は,東条内閣が総辞職する前日の7月17日の 『木戸日記』 に記されている。



*




東条と喧嘩別れした岸だが,分れるべくして分れた,と言った方が当たっているようだ。満州以来の二人の関係は,刎頚の友といった関わりではなく,結局は,互いに利用し合っていただけだった。言ってみれば,政治の世界にありがちな人間関係の典型である。


つまり東条は岸の頭脳と集金力を利用し,岸は陸軍を利用しながら権力の座を目指したが,その陸軍の頂点に,権力の権化と化した東条がいたわけである。だがアメリカ軍の攻勢の前に,一緒に地獄に堕ちるのはご免である。


以上の記述に当たっては,【太田の著書】 を参照した。




極東国際軍事裁判



1946年 (昭和21年) 5月3日 から 1948年 (昭和23年)11月12日にかけて,東京,市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂で極東国際軍事裁判 (以下,東京裁判 と 略称) が「行われた。


昭和23年(1948年)12月23日,A級戦犯のうち,東条英機,土肥原賢二,広田弘毅,板垣征四郎,木村兵太郎,松井石根,武藤章が処刑された。


驚いたことに,その翌日,12月24日の昼ごろ,岸信介は,不起訴となり,巣鴨プリズンから釈放された。


A級戦犯と言ってもあくまで容疑者で,結果的には不起訴処分で放免になったのだから,正確には戦犯ではない。それでも政界に復帰すると,意地悪い記者連中から「”A級戦犯復活”の声が上がっていますが,感想は如何ですか」なんてやられる。


そんなとき岸は,


「君たちは戦犯,戦犯て騒ぐがね,東京裁判なんてナニだよ,所詮は茶番劇じゃないかね」と皮肉って,ニヤニヤしたものだった。

【太田の著書】 
454-455 ページ


・・・・・


支那事変から太平洋戦争へ突入すると,岸は軍需産業の要として,辣腕を振るうことになる。まこと岸の行くところ戦争のきな臭い匂いが付きまとったのは,宿命だったとはいえ,不思議な現象である。


・・・・・


東京裁判で,キーナン主席検事が元皇帝溥儀に「あなたは,日本人によって作られた専売法によって規制された,日用必需品の品目を挙げることができますか」と尋ねると,「専売された主な物は阿片でした。そのほかには,綿花,食糧,ほかにもほんどの物資が,彼らによって統制されていました。そのため,冬になっても綿布も手に入らず,凍死した者も少なくありません」と答える。


・・・・・


ここで 阿片が東京裁判の法廷に登場してくるが,これこそ岸が作った満州国の専売法の,最たる物品だったのである。


以上,【太田の著書】による。






つづく

by yojiarata | 2014-10-15 10:48 | Comments(0)

満州の妖怪 と その末裔  安倍一族  巻の4




岸信介 巣鴨釈放 不起訴の謎




岸は53歳にして,再復活した。

岸が戦争犯罪人をまぬかれた経緯については,いまにいたってもナゾ解きが出来ていない。

当時,誰もが岸は有罪とみていた。戦時日本の寵児だった岸を,戦勝国が犯罪者リストからはずはずはない。岸もそれを覚悟していた。少なくとも周囲にはそう映ったのである。岸の一人娘,洋子(49歳,安倍官房長官夫人)も,

「巣鴨に行くときには,私どもはもう帰ってこないもしれないと思っておりました。父もその覚悟で行ったようでした。」

と20年9月15日,山口県熊毛郡田布施村(現田布施町)の実家から父親が連行された日を回想した。

【田尻の著書】
117ページ-118ページ,52ページ



荒田注 ここに登場する安倍官房長官は,当時の岸内閣の官房長官を務めた,岸の女婿・安倍晋太郎氏である。



満州問題では22年暮れ,満州で岸に仕えた椎名悦三郎(78歳,元満州国政府産業部鉱工司長,現自民党衆議院議員)も,東京・市ヶ谷の米検事局に8回も呼び出しを受け,岸の容疑について尋問を受けている。


・・・・・


帰国後の岸は,商工次官に栄進し,16年10月には東条内閣の商工大臣,商工省が軍需省に改変されたあとは国務大臣・軍需次官(軍需大臣は東条首相の兼務)のポストにあった。満州時代を含めて岸が戦争遂行の中枢にいたことは疑いようがない。


にもかかわらず不起訴になったのはなぜなのか。井野の見解はこうである。


「米国が岸だけを特にどうこうしようとしたのではない。米国は天皇を戦犯にしたくなかった。そのためにトルーマン(大統領)は苦心した。東京裁判のキーナン検事に相談して,キーナンの 『戦争を指導した人は戦争犯罪人だが,単に戦争に賛成したにすぎない人は戦犯にならない。国際法上そうなっている』 という意見をいれた。


戦前,農商務省で岸の4年先輩だった井野碩哉(86歳,第二次岸改造内閣の法務大臣,現新宿ステーションビル会長)は,・・・・・ 東条内閣では農林大臣をつとめ,岸と一緒に逮捕されていた。井野は巣鴨拘置所を21年秋に出ている。


井野の証言 ― 


「ほかのひとたちにくらべてあまり出所が早かったので,私は間違って出されたのではないかと思ったほどだ。・・・・・岸の釈放が私より2年おくれたのは,戦争責任の問題だけでなく,満州の問題と捕虜虐待の疑いを持たれていたからだ,という話を聞いたことがある」



岸は関東軍と深く結びつき,軍部との人脈を広げることに熱心だったが,満州の土地にも人にもほとんど愛着を示さなかった。岸にとって,満州は経営と統治の対象であり,次のステップへの足場であっても,なじむ場所ではなく,いわんや骨を埋める気などなかった。




岸信介の 超人的なタフネス,計算しつくされた処世術




【太田の著書】
443ページ


サイパン島の守備隊全員が玉砕した昭和19年初夏,東条内閣は瓦解した。


打倒東条という「国家のためという大義名分」を掲げた岸は,戦犯逃れることはできないまでも,連合軍から大きなポイントを稼ぐため,走り回った。


その結果,東京裁判において,「東条内閣をつぶした岸信介」は,不起訴となった。一方,星野直樹には終身禁固刑が言い渡され,巣鴨プリズンにおいて服役した。


半世紀に及ぶ政治歴の中で,岸が幾度かの危ない橋を渡りぬけ,東条戦時内閣の商工大臣,軍需次官をつとめながら,戦争犯罪人の重罪をまぬがれることに成功し,今日でもなお政治的影響力を保持している超人的なタフネス,計算しつくされた処世術。

【田尻の著書】
12ページ



東京裁判でも検事がさんざん調べたが,あるときを境にピタッと止んでしまった。大陸の阿片を調べれば調べるほど,英国が深く絡んでることが白日の下に晒されてくることに,アメリカ側が危惧したからである。実際,阿片戦争(1840)以来,今次大戦まで,中国人を阿片漬けにして,骨とカサカサの皮膚だけにしてしまうイギリス国家挙げての謀略を,表に出すわけにはいかない。裁判で標的にするのはアメ リカ の 国益上,得策でないという判断があった。

【太田の著書】
328ページ




つづく

by yojiarata | 2014-10-15 10:47 | Comments(0)

満州の妖怪 と その末裔  安倍一族  巻の5






その後の日本




その後の日本については,現在,すべての日本国民が,世代に応じて,各人各様の経験と考えをもっているよ。例えば,君には君の考えがあるでしょう。だけど,過去百年の時の流れについては,ここで改めて,知識を整理しておかなければね。使い古された詞だけど,温故知新というでしょう。


満州における関東軍の独走から,日中戦争,そして太平洋戦争にいたる時代の流れについては,

加藤陽子『シリーズ日本現代史⑤ 満州事変から日中戦争へ』(岩波新書,2007)

加藤陽子『それでも,日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社,2009)

で,明快に語られているよ。




私の太平洋戦争 


戦争が始まった昭和16年12月8日,私は小学校の2年生。その頃の記憶は,ほとんどないよ。かすかに,たぶんラジオから聞こえてきた「軍艦マーチ」が耳に残っているだけです。

その後は,大変だったよ。恐ろしかったよ。

1) 昭和20年6月29日,私の町・岡山は,たった一度の空襲で全焼。

2) B29から雨あられと落とされた無数の焼夷弾,落ちる音が恐ろしいんだ。バケツの水を一度のひっくり返したような,大量を大豆を行李の中に流し込んだような,ザーという音だった。

3) 岡山市が全焼した後,集団疎開。弟・5年生,妹・1年生,そして私6年生だった。まだ1年生の妹は毎日悲しがっていました。親元を離れるなんて,もちろん初めてだしね。

4) それに,毎日,お腹が空いて,空いて。夢に見るのは,「父母」と「ごはん」。情けなかったね。

5) 8月15日に,天皇陛下の敗戦の詔勅を聴きました。悲しそうな声で,何でも,「堪えがたきを堪え・・・・・」とか言っておられるような気がしました。そもそも,天皇陛下の声を聞くことなど,それまで,普通の国民にはなかったからね。

6) 先生は,「神国・日本は負けたんだ」と号泣。後で知ったんだけど,陸軍大臣・阿南惟幾は,遺書を残して自決。

遺書には、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」 と書いてあったそうだよ。

角田房子さんの著書に詳しく書かれています。

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新潮社,1980



7) その後しばらくは,どうにも大変だったよ。停電ばかり,ガスを灯りにするためのヘンテコリンな道具を使ってみたけど,ほとんど役に立たなかった。

書いているときりがないので止めます。

若し興味がおありなら,拙書 荒田洋治『昭和一桁最終便覚え書』(アドア出版,1995)を御覧ください。ただし,この本,売れた気配は全くなく,出版社も敢え無く倒産しました。





つづく

by yojiarata | 2014-10-15 10:46 | Comments(0)

満州の妖怪 と その末裔  安倍一族  巻の6






60年安保闘争



1960年5月,安保改定阻止国民会議が「非常事態宣言」を発し,国会周辺はにわかに緊張の度が高まったんだ。デモ隊と警官隊の衝突で,東大生の樺美智子さんが命を落とし,ほかに多数の負傷者が出たんだ。



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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/09/05 14:46 UTC 版)
1960年6月18日撮影



6月18日,新安保自然成立の日がやってきた。採決の行なわれるこの日,33万人(主催者発表),13万人(警視庁発表)の大デモ隊が国会議事堂を取り囲んだよ。


安保改定が国会で承認され,6月23日,批准書交換の日に岸は正式に退陣を声明した。


当時の雰囲気を今に伝える唄が残されているよ。君も知っている唄だよ。



西田佐知子「アカシアの雨がやむとき」

作詞:水木かおる
作曲:藤原秀行





アカシアの雨にうたれて
このまま死んでしまいたい
夜が明ける 日がのぼる
朝の光りのその中で
冷たくなった私を見つけて
あのひとは
涙を流して くれるでしょうか

・・・・・






この唄は,法案採決の日より以前の1960年4月にリリースされているんだけど,後になって,この日の情景をテレビなどで再現する場合,あの場の雰囲気にあっているため,今でもバックに流されることが多いよ。



坂本九「上を向いて歩こう」

作詞:永六輔
作曲:中村八大





上を向いて 歩こう
涙が こぼれないように
思い出す 春の日
一人ぼっちの 夜

・・・・・





「上を向いて歩こう」 は,あの日,デモの参加し,国会周辺で,座り込み,帰途についた時の怒りの心情を,永六輔が詩に綴った唄だということだよ。レコードの発売が安保闘争直後の61年です。



*



永六輔は1958年には,石原慎太郎,江藤淳,谷川俊太郎,寺山修司,浅利慶太,黛敏郎,福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し,60年安保に反対したんだ。なお,江藤,寺山,黛の三氏は,その後,鬼籍に入られたね。それに,残りの人たちは,今でも,あの頃の思いは変わってないんだろうか。






つづく

by yojiarata | 2014-10-15 10:45 | Comments(0)

満州の妖怪 と その末裔  安倍一族  巻の7





暴漢に刺された岸信介



昭和35年7月14日,首相官邸で開かれていた自民党新総裁,池田勇人の就任祝賀会の会場で岸は暴漢に刺された。翌日の正式退陣を,岸は病院のベッドで迎えなければならなかった。


*



岸に襲いかかった男,荒牧退助,すでに名前を記憶する人が少ない。荒牧の 「その後」 はどうなのか。行方を尋ねた。

・・・・・

荒牧は東京都下,小平市の公団住宅の一室で,老婆とひっそり隠れるように暮らしていた。

・・・・・

「岸のことか。それじゃこれを読みなさい。これを読んだあとの方が,話がしやすい」


一冊の本をポンと畳の上へ投げ出した。 『日本暗殺百選』 という 題名。

・・・・・

荒牧はまず刺したときの状況をきのうのことのようにしゃべった。

・・・・・

「あの日,やろうと決めていたから,登山ナイフの皮ケースに入れて,ズボンのベルトにつり下げたんだ。

・・・・・

官邸に行くとパーティーが始まっていた。岸はビールを飲んでいたので,ワシもビールを飲んで。寿司をつまんだ。


荒田注  この後,会場に入るための党員バッジを,荒牧が如何にして手に入れたかなど,詳細な説明あり


・・・・・

「ビールを飲んだりしていると池田の挨拶が始まった。早くやらなければと狙っているうち,岸はだれかワシの知らない人を話を交わし始めた。チャンスと思い,その時やった。そのとき岸は,『刺された』とひとこといっていた。

― 殺すつもりだったのか。

「殺すつもりだったら殺していたよ。最初から殺すつもりはなかった」

・・・・・

― それなのに刺すのは納得できないが。

「樺美智子だって死んだろう。あのままじゃ区切りがつかんよ」

・・・・・

【田尻の著書】
212-216ページ




覆水盆に返らず



岸信介は1985年,フジテレビで逸見正孝(故人)との対談で,

“その当時の世界の状況,考え方というものを背景として考慮しなければいけない” としたうえで,


あれは「侵略戦争」だった


と発言しているよ。岸はこの時,85歳。岸が他界したのは,その5年後のことです。




日米安全保障条約とその後の日本



日米安全保障条約のおかげで,日本は,情けない国 になってしまったよ。日本の空で,オスプレーがジャンジャン飛んでも,望遠鏡で眺め,今どこどこを飛んでいますと実況することしかできないんだよ。



「25年後には,60年の安保改定が,日本にとってきわめて意義のあるものだったことが分るよ」


と岸は嘯いたという。ところが,トンデモナイ。50年後の日本は,風雲急を告げる事態になってきたよ。


2014年の現在,憂慮すべきことばかりだよ。衆参両院で過半数を握る現政権のやっていることは,急速に悪いほうに進んでいるよ。これまで,このブログに散々書いたよ。例えば,より美しい 誇りのある国 を読んでみてよ。



先日の新聞に,日米両政府がまとめた「日米防衛協力のための指針「ガイドライン」見直しの中間報告がまとまったとあるよ。


見直しというけれど,読んでみると,日本にとっては,より危険な方向に進むということだよ。今後の日本の命運は,現在の安倍晋三政権に握られているからね。


今日(10月15日)の朝刊一面のトップには,


特定秘密法12月10日施行 閣議決定


とあるよ。このままでは,あの恐ろしい時代が,また,戻ってくるよ。




安倍一族



安倍 晋太郎(あべ しんたろう,1924年(大正13年)4月29日 - 1991年(平成3年)5月15日)。


戦前から戦中にかけて衆議院議員をつとめた安倍寛の長男。1957年(昭和32年)から3年半内閣総理大臣を務めた岸信介の長女・洋子と結婚,つまり,岸信介の女婿にあたる。岸の後を継ぐ総理大臣の最有力候補と,自他ともに認めていたが,ゴールを目前にして無念の病死。亡くなったのは,小生の記憶によると,順天堂大学病院。度の強い,縁の太い眼鏡の人だった以外に,同氏の政治の実績については,知らない。


安倍晋三は,当時毎日新聞記者だった安倍晋太郎と妻・洋子の次男として,1954年(昭和29年)9月21日,東京都で生まれる。


父方の祖父の安倍寛(元衆議院議員),母方の祖父の岸信介(第56・57代内閣総理大臣),大叔父の佐藤栄作(第61-63 代内閣総理大臣),父の安倍晋太郎(元外務大臣),弟の岸信夫(衆議院議員)などがいる。妻は森永製菓第5代社長・松崎昭雄の長女・昭恵。





岸信介

1896年(明治29年)11月13日―1987年(昭和62年)8月7日 (享年90) 





未完



付記1

日米の関係は,1951年(昭和26年)の9月8日,アメリカ・サンフランシスコで,日本とアメリカとの間で,サンフランシスコ平和条約が締結され,【安全保障条約】 に日本が署名したこと,要するに,太平洋戦争の敗戦に端を発するよ。この時,日本全権大使として,演説,議定書に署名したのが,当時の内閣総理大臣・吉田茂です。

この時,吉田茂は,私の記憶が間違っていなけれは,全ての責任は,私がとると仰いました。即ち,今日の日米関係の源流は,ここにあるんだ。そのあと,内閣支持率は戦後最大の58%に達したそうだよ。言ってみれば,日米関係を巡って今日まで続いている問題は,あの時多くの国民が吉田茂を支持したあの時点に戻って考えなければならないんだ。

吉田茂は,第45,48,49,50,51代の内閣総理大臣を務めていて,これも戦後の記録です。

ちなみに,吉田茂は,大久保利通-その三男・牧野仲顕(岳父)と続く家系で,現役の麻生太郎は,茂の孫に当たります。




付記2

このブログで紹介したもののほか,私の手元には,次の2点の著作があるよ。色々と面白いことが書いてあるよ。


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汐文社 (1980)




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ちくま文庫 (2008)

by yojiarata | 2014-10-15 10:44 | Comments(0)

ベストジーニスト賞  と  田中将大投手




ご隠居さん ジーンズにも興味があるの。


***



そうゆう訳ではないんだ。ちょっと,昔のことを思い出しただけです。

ベストジーニスト賞2014 なるものがあり,特別賞に田中将大投手が選ばれたという記事が新聞に載っていたよ。



*



20年以上も前になるんだけど,当時,浅野温子さんの颯爽としたジーンズ姿が多くの人の話題になっていたんだよ。

その時,記者か誰かに,


何故,そんなにジーパンがぴったり合うのか,ジーパンを選ぶコツはいったい何かと問われて,浅野温子さんが

「私に合ったジーパンなどこの世にない。はいているうちに,私の方がジーパンに合ってくるんだ」

と答えたんだ。


可笑しかったね。浅野さんのユーモアのセンスにすっかり感心しました。

浅野さんのこの問答はアメリカ人にもおもしろかったとみえ, (当時存在した) ニューズウィーク 誌 にも 紹介されたよ。





おしまい

by yojiarata | 2014-10-11 15:02 | Comments(0)